2021年12月30日木曜日

2022年1月2日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝もございます。)

-降誕節第2主日礼拝-
時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂

説教=「神の御子の親離れ」
稲山聖修牧師

聖書=「ルカによる福音書」2章41~52節
(新約聖書104ページ)

讃美=121, 122, 544.

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 今年は泉北ニュータウン教会から牧師がお招きを受けて7年を全うする年。7年とは子育ての最中にある保護者の方々からすればまことに濃密な時です。生まれたばかりの赤ちゃんは誰もが生きるか死ぬかの瀬戸際。そんな嬰児がやがてしっかりと自己表現をするようになります。さて出迎えの必要な、ランドセルを背負ったお子さんが、7年経てば今度はぐっとしっかりしたように見えてまいります。自分の世界をもってきたかなと思う反面、その振る舞いに戸惑いもいたします。本日の聖書の箇所は、波乱に満ちたその誕生から12年を経た、イエス・キリストをめぐる物語。今朝の箇所は、その時代には半ば大人と見なされる年齢に達した息子、もう若くはなくなった母マリア、そして息子とは血が繋がらないながら、神の導きに従いを流してきた父ヨセフ、家族の肖像を描いた最後の物語です。
 家族は毎年ナザレから、過越祭の折にはエルサレムに上り、神殿での祈りを決して忘れませんでした。先祖が味わったエジプトでの奴隷解放の物語に耳を傾け、アブラハムの神に祈りを献げ、献げものを納めて過ごしてまいりました。祭りの期間が終わって帰路についたときにハプニングが起きます。それは息子がエルサレムに留まる一方で、父母はそれに気づかず一日分の道を行ってしまったのです。確かにイエスはわたしたちと一緒だったはずだとの騒ぎと、あらぬ事に巻き込まれてはいないかとの不安が両親の胸に湧いてまいります。過越祭への参加は家族単位に留まらず、一族総出で行うものでした。探し回る両親。しかし息子は見つからない。マリアとヨセフでさえ、息子の姿を見失う時がまさに訪れたのです。息子の居場所を尋ねながら、一族を先に家路へと急がせ、エルサレムへと戻ってきた両親。三日を経てその両親の眼に飛びこんできたのは、境内で居並ぶ学者たちの真ん中に座り、話に耳を傾けながら問いを発する息子イエスの姿です。まるで教員からの質疑に決して動じない学生のように、律法学者の問いに対して平然と受け答えするその姿は、これまでこどもだと思ってきた有様とは全く異なっていました。イエス・キリストは大工の子であって、聖職者の子でも学者の子でもないはずです。「聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた」。この三日間、少年イエスはどこで寝泊まりしていたのでしょうか。ひょっとしたらこの学者たちが宿を貸していたのかも知れません。空白の三日間を経て、マリアとヨセフは息子の姿の変貌に向き合わずにはおれませんでした。
 「なぜこんなことを。見なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」。思わず口を突いて出た、母マリアの言葉は、いわゆる聖母マリアのそれとは全く異なります。お集まりのみなさまも、関わっているところのお子さんが突然姿を消したとなれば、それはただ事では済まされなくなります。警察に捜索願を出すかもしれません。三日間行方不明ですからメディアでも大々的に報道されるかも知れません。いずれにしてもこれは家族には大事件。しかしイエスは飄々と答えます。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」。この返事の中でいう「父」とは、もはやヨセフその人から離れて、父なる神を示しています。確かに両親にはこの言葉の意味は分からなかったものの、母親の胸には深く残ってまいります。神の御子の親離れが始まったときであり、わたしたちもまたそのような体験をいずれは味わいます。親の思惑通りにはいかない子の振る舞いや生き方は、時に親たるその人に大きな戸惑いを引き起こします。しかし本日の箇所はこう結ぶのです。「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」。少年イエスを愛するのはもはや係累だけには留まりません。神と人、すなわちイエス・キリストは神とどのような立場の人からも愛を注がれ続けたこととなります。
 『マルコによる福音書』3章では、大勢の人が、イエスの周りに座る中、イエスの母と兄弟たちが外に立ち、人をやってイエスを呼ばせ「ご覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らせるや、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、人々を見回しながら「見なさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と答えるイエス・キリストの姿が描かれます。教会もまた、アブラハムの神への深い信頼をともにしながら、子離れ・親離れが成長の鍵となる時がまいります。歳月とはカレンダーで数える数ばかりを意味しません。まさに「この瞬間」という時が訪れます。2022年。泉北ニュータウン教会に神の愛の介入であるところの瞬間が訪れるときだと確信します。失敗を許さないというのではなく、失敗を互いに赦しあい、養いとなる経験へと高めていくありかたが求められます。新たな年に主の豊かな祝福を祈ります。

2021年12月23日木曜日

2021年12月26日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝もございます。)

-降誕節第1主日礼拝-

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂

 

説教=「真理はあなたたちを自由にする」
稲山聖修牧師

聖書=「マタイによる福音書」2章1~12節
(新約聖書2ページ)

讃美=119, 111(1,3,4), 545.

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
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【説教要旨】
 ローマ帝国の支配のもと、ヘロデ王が事実上は委任統治という仕方で力を振るったユダヤの地。自らの伴侶と母、その息子たちを殺害しながらこの地位に上り詰めたのがこの人物でした。自分がその立場に就くためには、家族すら信頼しない猜疑心の強い男であると同時に、その子孫はことあるごとに福音書、そして『使徒言行録』の中に姿を見せては消えていきます。例えば。ヘロデ大王の死後ユダヤを支配した『マタイによる福音書』2章22節に登場するアルケラオス、またその兄弟にして洗礼者ヨハネの首を刎ねたアンティパス、『使徒言行録』12章で教会の迫害に手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺害し、ペトロの生命にまで手をつけようとした孫のヘロデ・アグリッパ1世。そしてさらにその息子ヘロデ・アグリッパ2世は『使徒言行録』26章でパウロの弁明を聞くこととなります。日本的な物言いをすれば、浅からぬ繋がりがイエス・キリストとヘロデ一族にはありますが、そのような身内さえも陥れて痛みを感じない野心のもと、東の方から訪れた三人の博士による問い、すなわち「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」との言葉は、ヘロデ王に唯々諾々として従う者として描かれるエルサレムの人々を不安に陥れるには充分な力を秘めていました。内輪であれば暴力と抑圧により反対勢力の封じ込めは容易かったことでしょう。しかし東方から星の光に導かれて訪れた三人の博士たちはいわば外部の者・部外者・よそ者であり、そして三人という人数からすれば、その眼にはヘロデ王のとりまきとは異なる客観的な視点が授けられ、輝いています。権謀術策を弄して手に入れた地位の虚しさと申しますものは、内部の者にはなかなかに指摘しづらくはありますが、三人の博士からすれば、大王と称する者の地位の偽りは明らか。澄み渡る眼を心に宿した三人の博士たちにはこう映ったことでしょう。則ち「かのものはユダヤ人の王ではない」という歴然とした事実であり、その言葉はヘロデ大王には耳を塞ぎたくなる、戦慄が走る響きとなった、ということです。であるからには次に打つ手とは、王位を脅かすその者をどのように捕らえるかという手はずを整えるほかありません。「王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれるかを問い質した」。東方の博士の指摘が、このように聖書の箇所に裏付けられた結果として、ヘロデ王は表立ってではなく、ひそかに東方の博士を集めて星の現われた時期を確かめさせ「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と欺き、いわばヘロデ大王の「工作員」として利用しようと試みます。自分の野心と権力を守るためには何でも利用してきた生き方がこの箇所では明らかになります。
 しかしこのような謀略によってイエス・キリストの誕生が踏みにじられるはずもありません。黄金・乳香・没薬を手にした博士たちは、おそらくは祖国での全てのポストを擲ち、そして家財一切をこの旅とこの宝へと変えて、飼い葉桶の主であるイエス・キリストのもとに参じたはずです。そして神はそのような三人の博士たちをヘロデ王に利用させないために「ヘロデのところへ帰るな」、つまり「もうヘロデ王と関わりを持たなくてよろしい」と宣言され、困難ではありながら、喜びに満ちた道筋を開拓するにいたりました。来る道が輝く星に導かれた道であるならば、帰る道は飼い葉桶のキリストの示された、神の愛に導かれた道です。いわばこれは最も初期に描かれたところの、キリスト者の自由を描いた物語です。それはヘロデ大王のように、自ら好き放題に振る舞おうとするあまり、却って猜疑心の沼へとはまり込み、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下のこどもたちを虐殺していく狂気へと囚われるような人間性を放棄し、関係性を全て絶っていく孤独な歩みとは全く異なる次元の道です。たとえ聖書に姿をしばしば現したとしても、ヘロデ王の係累の振る舞いはまことにおどろおどろしくあります。三人の博士の道は全くの別物です。まさにキリストにあって自由であり、やがて救い主として目覚めた主イエスに出会った人々、癒やされた人々、そしてその罪を贖われた人々の喜びと軽やかさにあふれています。虐殺されたこどもたちを悲しむ母親の叫び声すらも神の愛に触れ、十字架の苦難を示す真理へと変えられてまいります。その尊いいのち一つひとつを、主なる神はすべてにわたり存じておられます。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」。『ヨハネによる福音書』8章32節の言葉です。東方の博士の触れた真理は、今なおわたしたちのそばにあると、2021年最後の礼拝にあって確めてまいりましょう。

2021年12月14日火曜日

2021年12月19日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝もございます。)

降誕前第1主日礼拝
-クリスマス礼拝-

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂

 

説教=「いのちの光輝くクリスマス」
稲山聖修牧師

聖書=ルカによる福音書 1章39~56節
(新共同訳 新約100ページ)

讃美=103, 107, 109.

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


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【説教要旨】
 聖書の言葉は、記された時代から残る公文書上の記録ではなく、公文書には記録されるはずもなかった人々の眼差しに則して、救い主の誕生を描いてまいります。聖書はわたしたちの手元にありますから、神の言葉はわたしたちの近くにあると申せましょう。普段、わたしたちはその言葉にどれほど真摯に向き合っていることでしょうか。
 本日のテキストは、マリアが天使ガブリエルから祝福され、御子イエス・キリストを身に宿すことを知り、男性と関係せずに身ごもることに戸惑いながらも、その出来事を受け入れていく経緯を描いてまいります。その出来事は、もし人生設計という考えがあったとするならば、その計画そのものを放棄させるほかないものです。もしも今の時代、わたしたちの親しいところの女性が同じ事情のもとに置かれたとするならば、祝福など到底できはしないでしょう。社会や人間の常識は、たとえいのちを宿すという崇高な出来事であったとしても、一定の秩序を踏まえなくては、たちまち排除の対象となります。いのちよりも秩序が優先され、規格の外にはみ出す事態があれば眉をひそめ、非常識であるとの罵声を浴びせて排除します。しかしマリアは天使ガブリエルの祝福を決して拒否しませんでした。他の誰に認められようとそうでなかろうと、マリアは厳かに、そして堂々と「お言葉どおり、この身になりますように」と応えます。その告白自体が神への深い信頼に基づいています。それは揺るぎのないものです。その後マリアは親類のエリサベトのもとを訪れユダの町へとまいります。胎に宿ったいのちがおどる中、聖霊、すなわち神の愛の力によってエリサベトは「あなたは女性の中で祝福された人。授かったいのちも祝福されている。主が仰せになったことは必ず実現する。これを信じた人は何と幸いなことか」と声高らかに伝えます。排除されるはずのいのちが神の豊かな祝福にあるという、クリスマスの原点がこの福音書の序章には流れています。『ルカによる福音書』は、イエス・キリストの系図に先んじ、規格外の事情でいのちを授かった女性が社会全般から排除されていった中で、世に言えばエリサベトの高齢の妊娠、そしてマリアの許嫁ヨセフとは異なるところでの身ごもりをまことに豊かに祝福します。イエス・キリストがわたしたちにもたらす平安を先駆けて書き記すのです。そして続くマリアの賛歌では、主の祝福につつまれた女性の大胆で力強い歌が献げらます。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜び讃えます」。マリアは祭司ではありません。しかし本来はエルサレムの大祭司が献げてもおかしくない言葉でもって主なる神を讃美します。「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者というでしょう」。マリアの暮らした時代、古代ユダヤ教の世界では法廷での発言権は女性には一切与えられていませんでした。「身分の低いはしため」とは、字面通りにとれば女奴隷を示しますのでなおさらです。この一節をマリアの謙遜の表現と見なすのは後の世、教会がローマ帝国に認められてからとなりますからマリアの歌はそれまで人々を縛ってきた世の縄目から解き放つという意味でも、存分に大胆かつ過激です。なぜか。それは、身分・経済の格差が大きく転換する時が神の力により、まさに訪れると説くからです。この繰り返しが「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ…」と続く歌に連なります。54節から56節ではイスラエルの民に根ざしたイエス・キリストの救いが異邦人に及ぶと強調されて終わります。
 この一大事件の報せを前にして『ルカによる福音書』が献呈された役人テオフィロは何を感じたことでしょう。そして人生設計を幾度もいくたびも練り直しながら生きるわたしたちは、その節目をどのように迎えることでしょう。わたしたちはその度ごとに、宿に泊まる人々が遠ざけたであろう家畜小屋で初声をあげ、そして飼葉桶で眠る御子イエス・キリストの前に跪きたいのです。地球規模の大転換が今まさに起ころうとしています。しかしその巨大な渦巻きの中にいるわたしたちは、果たして何が起こるというのか知るよしもなく、全体像を推し量ることさえできません。さまざまな心配事や思惑の中でわたしたちの心の眼は霞んでいるのです。だからこそ、わたしたちはマリアの賛歌、マグニフィカトを何度も口ずさみたいのであり、口ずさめる場所を整えていきたいのです。それはイエス・キリストの飼い葉桶を整えるわざに重なります。そして今・この時代に世に遣わされたいのちの光、イエス・キリストの光につつまれる喜びをともしましょう。そしてその交わりを広める証しのわざの原点に立ちましょう。キリスト教の、そして教会の基本は、苦難と復活のキリストの誕生を祝うところに根ざします。メリークリスマス!

2021年12月9日木曜日

2021年12月12日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝もございます。)

降誕前第2主日礼拝
ー待降節(アドベント)第3主日礼拝ー

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂

 

説教=「隠された神の愛が花咲くとき」
稲山聖修牧師

聖書=「マルコによる福音書」1章1~8節

讃美=讃美歌第二編112,96,545.

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 「神の子イエス・キリストの福音の初め(Αρκη του ευαγγελιου Ιησου Χριστου)。わたしたちは、この短い一文を聴き、深い地響きを感じずにはおれません。歴史的にいえば、そして人の目からすれば僅か30年の生涯を全うしたと呼ばれる男。かつて『イエスという男』また『わたしのイエス』という著作がベストセラーとなりました。
 しかし『イエスという男』また『わたしのイエス』というタイトルで主イエスの理解が留まるのだとするならば、わたしたちは毎年にわたりイエス・キリストの誕生をクリスマスとして祝う必要はありません。せいぜいエアーメールの記念切手や紙幣の肖像として採用されるに留まるだけになることでしょう。
 わたしたちが待降節におきましてクリスマスの出来事をなにゆえに待ち望むのかと申しあげれば、それは一重に人の子イエスが神の子であり救い主であるところのキリストだからであります。だからこそ、『マタイによる福音書』ではアブラハム以降の系図の果てに主イエスの誕生が描かれますが、その系図には多くの重荷を抱えた人々の姿が描かれてまいります。タマルはユダと結ばれるために遊女に身をやつさなくてはなりませんでしたし、ルツはイスラエルの民と幾度も干戈を交えたモアブ人の末裔でした。そしてダビデ王の伴侶はバト・シェバとの名があるのにも拘わらず、ウリヤの妻という表記によってダビデ王の不倫の犠牲者としてごまかされずに記録されます。そして『マタイによる福音書』の系図は主イエスの父ヨセフにまでいたりますが、福音書の理解ではマリアは聖霊によって身籠もったとの理解に立つため、ヨセフとイエスの間には血のつながりはないとの立場をはっきり示します。しかしそれでもヨセフは姦通罪の疑惑を受けるマリアを受け入れ、ヘロデ王の追っ手から逃れるために一家まるごと難民となってエジプトへと逃れ、そしてナザレへと住まいを定める中で姿を消していきます。その只中で、系図に記された人々もマリアもヨセフも、イエス・キリストに救いを仰ぎ見、その実現を体験した人々でした。アブラハムの裔、『旧約聖書』との関わり、イスラエルの民の時間軸を中心にして描かれます。
 そして『ルカによる福音書』では本日描かれる箇所でイエスに水による洗礼を授けるところの洗礼者ヨハネの誕生が並行して描かれます。驚くべきことにヨハネの母エリザベトはマリアの親戚だという設定です。そして聖霊の姿が天使ガブリエルの姿となります。ガブリエルの祝福に応じるマリアの賛歌は「マグニフィカト」と呼ばれ、「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の高い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める物を空腹のまま追い返されます」と時に圧制を敷く者には激しく響きます。この福音書の宛先は「テオフィロ閣下」という、ローマ帝国の身分の高い役人とされる人物ですが、救い主はどこに生まれたのか、というところで、ローマ皇帝の勅令のもと住民登録をしに故郷へと慌ただしく旅する夫婦、しかもその身にいのちを宿しながらも旅をせざるを得ないところにまで追い詰められた母親。嬰児は飼葉桶を寝床とします。さらにローマ帝国からは人の数に入れられなかった羊飼いに始まり、漁師や徴税人、病人や身分の低い女性たちとの豊かな交わりを描きます。ローマ帝国全土に響き渡る神の救いの出来事の震源地はベツレヘムの飼葉桶であったという物語となってまいります。全世界的な広がりをもつ救い主の誕生が描かれ、その働きはやがて使徒たちへと受け継がれます。
 このようなマルコ、マタイ、ルカによる福音書の記事を踏まえて、わたしたちは『ヨハネによる福音書』へと進むのです。すなわち「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た」。この「わたしたちの間に宿られた」という言葉は『旧約聖書』でアブラハムやモーセが用いる天幕が張られる様をイメージしています。天幕とはテント。テントは堀を巡らせ、高い壁を幾重にも設けた外敵への構えを見せる城のようなものではありません。遊牧民には暮らしの場であり、訪れる旅人をもてなし、粗末ながらも温かな汁物や粥、質素な寝床を提供するところです。かつて天幕で家族を授かり、暮らしに明け暮らしていたところのアブラハムの裔が、客向けに整えられた宿屋ではなくベツレヘムの飼葉桶に寝かされたのは決して偶然ではありませんでした。隠された神の愛が花咲き交わりが育まれるのは、そのような場所でした。今年のアドベントとクリスマスの街は、コロナ禍の小休止に伴って、予想に反して賑わい豊かになるかもしれません。しかし群衆は、喧噪では満たされない分断の悲しみや寂しさに溢れているようです。祝祭の度に起きる事件がその証しです。隠された神の愛の香りを身にまといつつ過ごしましょう。

2021年12月1日水曜日

2021年12月5日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝もございます。)

降誕前第3主日礼拝
-待降節(アドベント)第2主日礼拝-

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂


説教=「神の福音と人の戒め」
稲山聖修牧師

聖書=「マルコによる福音書」7章1~13節
(新共同訳 新約聖書74ページ)

讃美=95(1,4,5), 98, 545.

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


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【説教要旨】
 待降節第2主日にあたり、わたしたちは改めて世のただ中で主イエスの誕生を待ち望む暮らしの大切さを身につまされています。新型コロナウイルスの新たな株が国内に入ってくる中で準警戒態勢に各々の暮らしが沿おうとするところ、かつて味わった福音書の同じ箇所も異なった響きをもって迫ります。2021年度で本日の箇所を扱うのは二度目。かつて歴史上何度も悪疫が流行する中でユダヤ教徒たちがその疫病を乗り切ってきた知恵というものが本日の箇所には記されていると申しました。キリスト教の修道会と並んでユダヤ教徒が生き延びてきた背景には「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからではないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることはたくさんある」という十戒を始めとした613の誡めを習慣とする知恵があります。そして今日の聖書箇所では、ファリサイ派の人々がイエスの弟子の中に、手を洗わずに食事をする者の姿を見つけて「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」と問う者がいたという場面が描かれます。もちろんわたしたちも今・この時代に手を洗わずに食事をする人の姿を見たらぎょっとするかもしれません。それは科学的知見に基づいて感染リスクが高まるという意識が共有されているからです。しかし福音書の世界では、人々の前で手を洗うというわざは、そのものとしては科学的知見以上に人間の本質を規定してしまうような意味合いをもっていました。それは親御さんが出先から帰宅したお子さんに「手を洗いなさい」というのとは訳が違います。手を洗うわざは律法に定めらている誡めですから、人によれば人格の否定や肯定につながる大きな意味合いをもってまいります。深く立ち入るならば、他の聖書の箇所におきましても、イエス・キリストの目の前で手を洗った人物がいます。『マタイによる福音書』27章24節では、ユダヤ地方を皇帝の代官として治めていた総督ピラトが、十字架刑をイエスにするかバラバにするかとの民衆の騒ぎを前にして、手を洗うという態度に出ています。ピラトはユダヤ人ではありません。ただこの所作は明らかに、これら一連の事態とは、わたしは無関係だとの意志表示です。ファリサイ派の手洗いも、確かに感染症から彼らを守ったという副産物はもたらしてはいますが、当時としては伝承されていたところの人格の規定です。手を洗わなければ病気になるから注意しなさいという善意ではなくて、わたしとあなたとは関わりのない間柄ですよ、なぜならあなたは性根から汚れているからです、という態度。だから主イエスは次のように「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている』。あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」。このイエス・キリストの言葉の前に、わたしたちは立っています。コロナ禍の中で迎える二年目のアドベントとクリスマス。この期間わたしたちは物心両面にわたり大きく影響を受け、混乱と失望の社会に佇んでいます。感染症対策そのものへの経験値はあがったかもしれません。しかし教会がこれまでよってきたところの倣いやわざといったものには、多かれ少なかれ変更を余儀なくされました。いつになったらマスクなしで讃美ができるのか、いつになったらかつての集会ができるのか、それは神のみがご存じではありますが、この新型感染症の騒動そのものもまた神の御旨の中で起きているのであれば、わたしたちは多くの事柄に気づかされています。教会では12月25日には失業され、住む家を失くした方々への配食を予定しています。その場合、炊き出しに並ぶ失業者の方々の姿を思い浮かべます。けれども同時に、本来は権利であるはずの生活保護の受給が「施し」だというのマスメディアによる刷り込みの結果、貧しさのゆえに心を病み、列をなすことすら能わずという方々もこの堺市の南区にもおられるのです。わたしたちは呼び鈴を押し、白米をそのような方々にお届けできるでしょうか。そのように問いかけられた収穫感謝の日でもありました。飼葉桶に生まれたイエス・キリストの周りには、そのような人々が喜びにつつまれてその誕生を祝っています。宴たけなわなピラトやヘロデとは対極的な世界が開かれています。生き方の価値のありなしを決めつけない交わりが育まれています。戒めは人ではなく神のもの。神の戒めは神の福音の器。神の福音は神の戒めを満たす全ての内容だとの言葉が浮かびます。神の福音は言い伝えと化した倣いを新たにします。イエス・キリストは世の闇に勝利したのです。




2021年11月25日木曜日

2021年11月28日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝もございます。)

待降節第1主日礼拝

-アドベント第1主日礼拝-

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂



説教=「神の言葉はとこしえに立つ」
稲山聖修牧師

聖書=「マルコによる福音書」13章 21~37節

讃美=174(1,2), 94, 540.

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


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【説教要旨】
 待降節第1主日を迎えるにあたり、福音書の言葉に耳を傾けるとき、わたしたちは折に触れて聖書の言葉は何と難しいことだろうと溜息をつくかもしれません。辛いとき、苦しいときに励ましてくれる言葉がそこにあればまだしも、字義通りにいうとどうしてこんなに難しいのか、または却って塞ぎこんでしまうような言葉に戸惑うばかりという場合もあります。聖書を「分かろう」とするほど、込み入った内容にうろたえるばかりで、聖書の扉を閉めてしまうのです。そんなときにわたしたちに求められるのは、聖書の分かる箇所を読んだり聴いたりするだけでなく、聖書で分からない箇所とはいったいどこなのかを確かめ、その箇所を大切にしながら祈るというものです。
 本日の聖書の箇所にしても、いったいどのようなわけで待降節の始まりがこの箇所になったのか分からないと仰せになる方がいてもおかしくはありません。「偽メシアに気をつけるように」との箇所に始まり、その時代のキリスト教徒が待望していた、世の諸々の力に対する神の愛の勝利、そしていちじくの木のたとえに始まり、世の終わりの訪れ、すなわち神の愛によるこの世の支配に絶えず目を覚ましているようにとの言葉。わたしたちにはどうにも分かりづらいと考え込んでしまいます。そんなにクリスマスは受け入れ難い出来事だったのだろうかと。
 少なくとも、救い主の誕生の時を古代ユダヤ教の人々は待ち焦がれ、そして初代教会の人々は神の愛の勝利としての世の終わりを待ち望んでいたのは確かでした。その時代の支配者の圧制からの解放、そして教会が生まれてなお続く迫害と世の不平等による苦しみ。人々が破滅的な世の終わりではなく神の愛につつまれてそのような世が平安につつまれるという発想は、今なお画期的であり、驚くべき出来事だと言えるでしょう。救い主の誕生により、人々にはどれほど世が混沌としたとしても人としてあゆむ道筋が見えてきた。そしてそのゴールを通して、また新しい歴史が始まる。その全てはイエス・キリストにかかっているという柱が、組織としての教会だけでなく、教会に連なる全ての人々を支えてきたと言えます。始まりがあるから終わりがある。天地の創造があり、イエス・キリストの誕生があり、その生涯があり、十字架と復活があり、そして神の愛が全世界に平安をもたらすときに、先だってわたしたちのもとに来られるという理解。「選ばれた人たち」と呼ばれる人々は、決して何かの条件を満たしたことでそうなるというのではありません。むしろ神以外の何者にも選ばれなかった人々だと解釈してよいでしょう。それはイエス・キリストがどのような人々と出会い、クリスマスの夜、家畜小屋にどのような人々が集まったかを思い浮かべればお分かりかと存じます。だからこそわたしたちは、救い主の訪れを「焦って手元に引き寄せよう」とするのではなく「仰ぎつつ待ち望む」のです。
 しかしながらいつの世にも人はそのような焦りを抱くあまり、人は時代の英雄や著名な教育者、教会の指導者や高名な作家を救い主のように奉ってきました。そんな馬鹿なと後の世には思えたとしても、時代によって特別な人物をただただ素晴しいと礼賛する場合があります。時には巧みな話術や独特な雰囲気で熱狂的に尊敬される牧師、福祉に理解のある政治家。確かに無理からぬことかもしれません。しかしイエス・キリストなしのキリスト教とは、たとえ諸国の民がその基にしようと試みても、もはやキリスト教とは呼べないカルト宗教と化してしまいます。
 「神の言葉はとこしえに立つ」とは、旧約聖書『イザヤ書』40章8節に記されますが、新約聖書『ペトロの手紙Ⅰ』1章24~25節にも記されるだけでなく、わが世の春を謳歌しようとしていた、ヘロデ王を始めとしたエルサレムの富裕層の動揺の震源地となった幼子イエス・キリストの誕生によって響き渡る言葉であり、わたしたちが憧れたりしがみついたりする世の力のメッキを剥がす言葉です。わたしたちとともにいてくださるのは、そのような「ともにいてくださるクリスマスの主」です。世の闇のなかで独りマリアが身籠もったクリスマスの主、ローマ皇帝が引き起こした世界規模の混乱の中で故郷の誰からも顧みられず、宿を閉め出されたクリスマスの主、ヘロデ王の嫉妬が引き起こした幼児たちの虐殺の中から救い出され、逃れていったクリスマスの主、聖職者の息子としてではなく大工の息子として育ったクリスマスの主です。聖書の物語の中でモーセとイエスが決定的に異なるのはこの一点です。飼葉桶の嬰児は、神の前に本来メッキを剥がされる人々が味わうはずの苦しみを受けながら世に救いをもたらしました。
コロナ禍という混乱の中だからこそ、わたしたちはベツレヘムへと導く光に導かれて待降節を過ごしたく存じます。





2021年11月18日木曜日

2021年11月21日(日) 収穫感謝日・謝恩日礼拝 説教(自宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝もございます。)

-収穫感謝日・謝恩日礼拝-

降誕前第5主日礼拝

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂

説教=「今・この時、天に宝を積む」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』10章17~22節

讃美=503(1,3節), 391(1,3節), 540.

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
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「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
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【説教要旨】

 世界の企業のトップランキングの会社名が日本の会社で占められ、世の景気が爛熟期を迎えたバブル時代といえば、何を思い起こされるでしょうか。いずれにせよ浮かれた雰囲気に満ちていたような気がします。この雰囲気に矛盾を感じた若者は、禁欲的な修行で知られる新宗教に居場所を見つけようとします。その中で有名になったものにオウム真理教がありました。高学歴で生真面目な若者がこぞって教祖の話に耳を傾け、出家という名の家出をし、富士山麓の村に設けた施設に身を委ねるにいたりました。ことの次第はあえて申しませんが、数多の犠牲者をもたらした地下鉄サリン事件の実行犯として処刑された者の中には、わたしの五年上の高校の先輩も含まれていました。

 あらためてこのような影をも併せもつところの物質的な豊かさの中で世を敵視して大きな罪を犯して逮捕され、処刑されていった者たちは本来は何をすべきであったのかと、今なお犠牲者がおられる中で考えずにはおれません。

 本日の箇所では「たくさんの財産をもっていた」ところの人物が描かれてまいります。初対面のイエス・キリストに唐突に走り寄り、ひざまずいて尋ねるところを観ますと、人の子イエスにそれなりの敬意を払っていたことでしょう。しかしその質問は内容の割にはあまりにも唐突です。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。財産をもっていたこの人は「何を悟ればよいか」とは言っておりません。「何をすればよいのか」と、なすべき行ないや立ち振る舞いについて問うています。返す人の子イエスの答えとは、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟を、あなたは知っているはずだ」というもの。主イエスの答えは「モーセの十戒」であり、その時代のユダヤ教徒であれば常識として誰もが知っている掟です。この答えに「たくさんの財産をもっている」この人はこう答えます。「先生、そういうことはみな、こどもの時から守ってきました」。初対面の人物、しかも尊敬する相手への言葉としては、少し幼い気がいたします。モーセの「十戒」の誡めのもつ重さと難しさを視野に入れずに素朴に答えられるのであれば、さほど人生経験を積んできたとは思えません。その意味で「富める若者」との理解が定着したのでしょう。主イエスは資産家の若者に「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それからわたしに従いなさい」。イエス・キリストのこの言葉から、若者はただの資産家であったとは断定できないと考えられます。「たくさんの財産」。金銀だけでなく家もあり土地もあり、その時代のことですからたくさんの使用人がおり、奴隷もあり、ローマ帝国の人々とのつながりもあり、家族に恵まれていたかもしれません。福音書の中で主イエスに救いを求めに来た徴税人や病人とは全く異質の世界に暮らしていたことでしょう。このような経緯を踏まえるならば、主イエスは財産を売り払っての出家を決して促してはいません。むしろ「あなたが今、独り占めしているその豊かさは、本当のところ誰のために用いるのか」との覚悟を求めているように思えるのです。あなたのもつ豊かさを、あなた以上に必要としている人には、その豊かさはまさしく天に積まれた宝として計り知れないほどの値打ちをもつから、まずそれを献げてきなさいと語っているように思えます。そしてそれは献げる者自らには字義通り天に積まれた宝となります。現代ですら、小腹を満たすためのおにぎり一つが、ある人には一日の食事となる場合すらあります。それが深い関わりを互いにもたらします。そのような分かちあいへと踏み出す勇気を持てなかった若者は、悲しみながら立ち去ったとありますが、イエス・キリストは「慈しんで」とあるように、決して彼を見捨てておりません。若者が肩を落とし見捨てられたと思い込んでいたとしても、主イエスの愛なる眼差しは、絶えずその人に注がれています。

 経済バブルの崩壊から三十年。幾度もの経済的な危機を経て暮らしは「専業主婦・終身雇用制」から「共働き・ダブルインカム」が主流となりました。多くの試練を経て、障碍をも含めた多様性・こどもたちの多様性が少しずつ理解され、受け入れらていく途上にあります。社会も教会に集う人も五十年前とは確実に変化しています。かつて豊かさを楽しんだ若者たちは責任世代となり、物質的な豊かさに代わる人生の実りを見出そうとしています。そのような中で授けられた日ごとの実りを神に献げ、隣人と分かちあい、キリストの愛のうちに喜び過ごす日々をわたしたちは今・この時に与えられています。上辺の豊かさではごまかせなかった貧しささえも、わたしたちは分かちあい、新しい多様性と豊かさへとつなぐ祈りがあります。その実りを収穫感謝の祈りとして、神に献げていきたいと願います。


2021年11月10日水曜日

2021年11月14日(日) 幼児祝福式礼拝 説教(自宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝もございます。)

-降誕前第6主日礼拝-

時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
 

説教=「破壊に打ち克ついのちの声」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』13章3~11節
(新約聖書88ページ)

讃美=171(1,3節), 465(1,3節), 467, 540.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


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【説教要旨】
 理由は充分に解明されないながらも、感染爆発という状況から次第に遠のいていく中で、現在問われているのは、医療従事者のバーンアウト、燃え尽き症候群の問題だと言われます。新型感染症罹患者とウイルスに感染はしないものの、救急搬送を受けて運び込まれてくる患者との板挟みになって苦しみ、離職していく看護師の姿。労働対価という仕方でその仕事が評価を受けたとしても、仕事そのものへの充実感や使命感というよりは虚脱感や無力感に苛まれていく若者たちは後を絶ちません。患者さんを懸命になって支えた方々が、今度は新たな別の病に罹患するさまを、なぜ世の人は顧みようとしないのかとある種の謎すら覚えます。おそらくは周囲の評価とは別に深く自尊心が損なわれていくような場面、例えばあの人を支えられなかった、この人を支えられなかったという悲しみが慢性化してしまったのかもしれません。その悲しみは深く自らを傷つけるという行為にすら及ぶ場合もあります。
 『マルコによる福音書』の舞台となったユダヤもまた、様々な悲しみに満ちていました。ローマ帝国という世界帝国の支配のもとで、数百年にわたり異邦人の支配を受けてきたイスラエルの民には、自らへの絶望が深まるほど、今置かれているこの惨めな状況、つまり絶えず支配される側にあるという悲しみに向き合うために、世の終わりという思いを抱くにいたります。イエス・キリストが説いた神の国とは似て非なる世の終わりの理解がそこにはあります。すなわちアブラハムの神が先祖たちにそうしたように、自分たちをも解放してくださるとの願いです。ときにその願いは支配者への抵抗という実力行使を伴なって受け入れられましたが、イエス・キリストが説いた終末とはそのような暴力を越えていくものでした。支配者を打ち倒すという破壊衝動を超えて、すべての被造物が神の愛に包まれ、そこにはイスラエルの民もそれ以外の民をも問わないというありようでした。人の子イエスの癒しのわざも交わりの豊かさもその確信に由来していたと言えるでしょう。もちろん弟子もまたそのような解放を切実に願っていました。だからこそ次のように問うたのでしょう。「そのことはいつ起こるのか、その実現の徴はどのようなものか」と。返すイエス・キリストの言葉は実に冷静です。「人に惑わされないように気をつけなさい」「戦争の騒ぎや噂を聞いても慌てるな。そういうことは起こるに決まっているが世の終わりではない」「地震があり飢饉がある。それらは生みの苦しみの始まりだ」。イエス・キリストはその時代のみならず、今を生きるわたしたちの動揺の源を見抜いています。その上で「それらは生みの苦しみの始まりだ」と滅びの苦しみとは対極にある、新しいいのちとの出会いに重ねて世の混乱を受けとめようとします。もちろん、その時代のみならず、わたしたちもその混乱のただ中に置かれます。「地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれ、わたしのために総督や王の前に立たされて証しをするにいたる」。つまり、少し前で言うところの現世利益、ただちに結果を求める成果主義を中心にする人々からは決して理解されないありかたの中で、神の愛の証しは立てられるということとなります。冒頭の話で言えば、医療従事者を使い捨てていく側に立つのではなく、その生きづらさを分かち合っていく立場に身を置くこととなります。家族を施設に預けたまま悲しみに暮れる人とともに歩むこととなります。それが苦しみを伴いながらも新しく広がる神様の地平に立つということにつながっていくのです。その生きづらさの中で紡がれる言葉、こぼされる涙といったものを、神が忘れるはずがない、なぜならそれは神の愛、すなわち聖霊によるものだからだという理解はまさしく画期的であります。コロナ禍の中にあって新しいいのちを授かり抱きしめた母親がいます。滋賀県の社会福祉施設では「仲間たち」と呼び合う、障がいを抱えた当事者の方々を怖がらせないようにワクチン接種を行ったとのことです。それは決してメディアや週刊誌が報道する出来事ではありませんが、暮らしをめぐる様々な不安を抱えたわたしたちを十全に癒し、励ます報せです。まさにそれは福音です。神の愛を先取りしています。
 「まず福音が宣べ伝えられなければならない」。そのような混沌とした世にあっても、神の愛による証しはいのちの希望を指し示します。わたしたちは真っ暗闇の中で右も左も分からないようなところに置かれているのはありません。それは何よりも、本日祝福を授けられるこどもたちの名前に明らかです。どの名前にもいのちの希望が輝いています。どの瞳にもいのちの光が輝いています。親御さんもお子さんも、今日この日の祝福を決して忘れることはないでしょう。神の前に立つとき、わたしたちは将来を悲観するというあり方から解放されます。それこそ福音の始まりです。

2021年11月4日木曜日

2021年11月7日(日) 説教(自宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝もございます。)

降誕節前第7主日礼拝

-永眠者記念礼拝-

時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂

 

説教=「キリストとともに、天使たちとともに」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』12章18~27節

讃美=310(1,3), 496(1,2), 540.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 泉北ニュータウン教会の名簿によりますと、42名の永眠者がおられます。さらに98名の関係者がその名を連ねておられます。コロナ禍の中にあるわたしたちは、2020年は5名、2021年を迎えて2名の兄弟姉妹ならびに1名の牧者を天に送りました。永眠者記念礼拝と呼ばれるこの日、わたしたちはともに確かめたい事柄があります。それは、今日招かれたわたしたちには死が終わりではないという聖書の言葉とともに、わたしたちの生涯は出会いから成り立つ、ということです。出会いとは人の目からすれば偶発的な事件として起きます。誰もが自分の思い通りに人生を設計するなどできず、絶えず道を逸れていく苦みを味わいます。けれどもたまたま起こりうる出会いが神の招きによるものであり、神の愛のわざによるものだとすれば、わたしたちはどうすればよいのでしょうか。
 実はこのような出会いは、聖書の物語の根幹をなすといってよいものです。『旧約聖書』は死後の世界については殆ど描かず、逝去した人の身体またはしるしは神の国が訪れるまで眠っているという理解に立ちます。ギリシア文化の影響を受けたキリスト教の世界では、確かに死後の世界が描かれますが、あくまでそれはこの世で絶対的な尺度となりがちな富や権力を、人が囚われる必要のない「変わりゆくもの」として論じるために用います。世に生きていたときの悪事を償うために苦しみを受ける場所、また邪悪な魂を封印するための場所としては描かれません。そのような死後の描写は聖書には一切ありません。むしろ聖書にあって天の国、すなわち神の国は先ほど申しましたようにわたしたちの世に訪れるのであり、そのときにはわたしたちの心根から嘆きや悲しみが全て取り除かれ、破れを抱えたわたしたち自らも召された方々ともども新たにされて復活するとのメッセージがあります。十字架での苦しみと死に勝利し復活したイエス・キリストの姿には、天の国が訪れたときのわたしたちの姿もまた重ねられるのです。
 このような理解を踏まえて本日の聖書の箇所に触れますと、古代ユダヤ教の中には復活を否定する者もいたと記されているのには興味深いところがあります。この時代は一口にユダヤ教と申しましても多様な流れがあり、ことサドカイ派と呼ばれていた人々には『旧約聖書』の始めの五つの書物、『律法』のみが依るべき教えの源でした。そこでは復活はそのものとしては描かれず、登場人物は生涯を全うした後に全て葬られていき、物語の幕が下りるという構成になっています。ですからサドカイ派の人々には「復活」が分かっておらず、受け入れる気持ちもありません。なるほどだから、イエス・キリストにこのようなデリカシーを欠いた問い尋ねができるというものです。ある人が結ばれ伴侶となる。その伴侶が夫と死別する。そこには言い尽くし難い慟哭と心痛があるはず。しかしサドカイ派の人々にとってこの話はイエス・キリストをやり込めるための屁理屈でしかありません。イエス・キリストはそのような詭弁を弄する人々にこう答えます。「あなたがたは聖書も神の力も知らないから思い違いをしているのではないか」。そして『出エジプト記』の中で、羊飼いとなったモーセが燃え尽きない柴に導かれて当初予定の道から逸れ、とある山へと分け入り、神と出会う場面に触れて、アブラハムも、イサクも、ヤコブも、世にあって生涯を全うしてなお神とともにおり、生きているのだと語ります。その箇所にあるのが「復活にあってはめとりも嫁ぎもせず、天使のようになる」との教えです。
 泉北ニュータウン教会での礼拝の締めくくりには祝福の祈りを牧師が献げます。そこでは召された兄弟姉妹たちにも重ねて祝福を祈ります。それはわたしたちの礼拝が、すでに逝去され主のもとにおられる方々も、同時にわたしたちとともに礼拝を喜んでくださっていることを確かめるためです。10年前の東日本大震災の折には、被災地で逝去されたはずの方々との再会を証言する方々がいました。また著名なドイツ語文化圏の神学者は、アウシュヴィッツ跡を訪問の折、誰かに語りかけられている気がしてならないと語っています。それらをオカルトの話としてではなく、主の愛の中でなおわたしたちに語りかけ、関わろうとする天使となった人々との対話であり、歴史の息吹として受けとめ直すことはできないでしょうか。出会いは再現不可能な出来事。ですから科学的だとは言えません。けれどもまことに身近なところにあります。それは究極には主のもとで憩う人々との、キリストによる交わりという礼拝のわざに重なります。「死んだ者の神でなく、生きている者の神」。聖書が世の交わりの中で出来事となる今を喜びましょう。


2021年10月27日水曜日

2021年10月31日(日) 説教(自宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝もございます。)

 降誕節前第8主日礼拝

-宗教改革記念日礼拝-

時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
 

説教:「わたしたちを養い育む神の愛」
稲山聖修牧師

聖書:「マルコによる福音書」7章14~23節
(新共同訳聖書 新約74ページ)

讃美:85(1,2), 267(1,4), 543.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


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【説教要旨】
 新型感染症と一口に申しましても、常に新しい病はそのように呼ばれてまいりました。その中でユダヤの民を感染症から守った倣いがあります。中には今日わたしたちには常識でもある習慣も含みますが、それは「念入りに手を洗ってから食事をする」「市場から帰ってきたときには、身を清めてから食事をする」「杯、鉢、銅の器や寝台を洗う」などによって、その時代の感染症から身を守ってきたこととなります。『旧約聖書』『レビ記』20章7節「自らを清く保ち、聖なる者となりなさい。わたしはあなたたちの神、主だからである」という誡め、そしてそれに準ずる誡めを徹底して守ることで、中世ヨーロッパでは人口を激減させたペストを始めとした流行病を遠ざけることが可能となったのでした。その対応自体は極めて先進的であり、誰からも指を差されるような暮らしではありません。
 しかしこの誡めに課題があるとすれば、それは科学的な根拠に基づき、異邦の民にもぜひ伝えられるべき教えとして勧められたのではなくて、汚れと清めとが神の前に立つその人の本質を決定するものとして理解された点です。同じ倣いに立たない者は単に不衛生だというのではなく、人間として心底から汚れている者だと見なされ、交わりから排除されていくのが当たり前でした。また異邦人の汚れや病人の汚れも、このような倣いを守らないところにあるとされました。つまり病とは宗教上の因果応報の論理で理解されてまいります。本来ならば人間本来の健康を保ち、神の愛の交わりを広めていくはずの『律法』が「道具」と化したときに、その本来果たす目的を失い、分断を正当化する剣となるのは何とも歯がゆいところです。7章6節でイエス・キリストが語るには「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。』あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている」。イエス・キリストは人間の言い伝えよりも、わたしたちがいうところの教会の伝統よりも「神の掟」すなわち『聖書』を上位に置いた上で、群衆を自ら呼び寄せて語ります。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」。これは科学的な根拠に基づいた衛生管理について語っているのではありません。もっと本質的でもっと人の心根に巣喰う課題を指摘しています。薬用石けんで洗っても洗っても決して落ちることのない問題、アルコール消毒をしても決して殺菌できない問題について語っています。弟子たちにはさらに語ります。「すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる」。そして「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い行いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである」。以上の事柄は『律法』の戒めに反する人の思いやわざだけではなく、罪という悲しみに満ちた言葉としてでもなく、「悪」さらには「邪悪さ」だと語っています。そのようなものは深くわたしたちから出て来るもので、自らだけでなく人をも傷つけるものです。今お話をお聞きのみなさまもまた、このような中で深く傷つけられた覚えがあるのではないでしょうか。しかしそれは人間から出てきたものであるがゆえに、全て限界があり長続きせず、時の流れの中で沈没し朽ち果てていくものです。ではそれらの人間から出た悪はわたしたちには何になるというのでしょうか。
 それらの邪悪なものでさえ、すべて悲しみ涙を流す人には「すべて外から人に入るもの」となり、清められて養いとなるというように、イエス・キリストは語っているように思います。どれほど辛い思い出でさえ、同じ思いを人にさせたくないとわたしたちが決意したそのときに、あるいは苦しむ人のために人知れず道備えをし、見守るその中で、キリストに示された神の愛により、わたしたちを深く養うにいたるのです。確かに時の流れは必要です。相応しい支援もまた必要でしょう。けれどもこれらの見守りや支えが、教会に連なる交わりの中で醸されるときに、先ほどイエス・キリストの教えの中で触れた「邪悪なるもの」、本質的な意味での「死に至る病」を癒し、わたしたちを養っていくとは言えないでしょうか。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つひとつの言葉で生きる」。今日は宗教改革記念の日でもあります。あらためてわたしたちの養いがどこにあるのか、『聖書』に祈り求めましょう。

2021年10月20日水曜日

2021年10月24日(日) 説教(自宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝もございます。)

 -降誕節前第9主日礼拝-

時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
 

説教=「破れを伴う家族だからこそ」
稲山聖修牧師

聖書=マルコによる福音書10章2~12節

讃美=333(1,3), 332(1,3), 461(1,4), 543.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


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【説教要旨】
 わたしたちは、神さまの招きを受けて、日曜日ごとに主を讃える聖日礼拝を献げています。コロナ禍であろうとさまざまな工夫を凝らしてともに祈りを重ねています。けれども同時にわたしたちがこころすべきことは、教会で互いに育まれている交わりの中にあっても、わたしたちはお互いを全て知っているわけではないということです。家に帰れば家族に向ける顔があり、職場へと行けば、職場に収まる顔がある。施設を用いていたとしても、訪ねる者がいれば、独りたたずむ時とは異なる表情となります。いずれにいたしましても、わたしたちはたとえ親子・夫婦であったとしても、鼻で息をする者、すなわち人の世の目からすれば全てを知り尽くすなどあり得ません。これは老若を問わず言えることであり、だからこそ使徒パウロは「わたしたちは日々新たにされている」と語るのかもしれません。
 しかしそれにしても、本日の聖書の箇所でイエスを試そうと目論む一部のファリサイ派の律法学者が発した問いとはどのようなものだったでしょうか。主イエスは群衆が集まってきたので、再びいつものように教えていたと書き手は記します。ファリサイ派の人々は近寄るなり「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と問います。「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問われると『申命記』24章1~4節「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見出し、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。その女が家を出て行き、別の人の妻となり、次の夫も彼女を嫌って離縁状を書き、それを手に渡して家を去らせるか、あるいは彼女をめとって妻とした次の夫が死んだならば、彼女は汚されているのだから、彼女を去らせた最初の夫は、彼女を再び妻にすることはできない。これは主の御前にいとうべきことである。あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を罪で汚してはならない」を引用して応じます。なぜこの箇所でファリサイ派の人々がかような問い質しをしたのかは分かりませんが、質問の内容もその仕方も実に稚拙です。当時の人々や私たちの暮らしは何かのマニュアルに従って他律的に営まれているわけではなく、だからこそ法律の世界でも判例に則して法を解釈し議論を進めます。そこには想像を超える数のケースがあるのですが、ファリサイ派はそのような個別のケースについては言及しません。
 これに対して主イエスは次のように答えます。「あなたがたの心が頑ななので、このような掟をモーセは書いた。しかし天地創造の始めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」。弟子たちには「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる」。もとより離婚という事態は決して誰も望んではいません。もちろん古代社会ならではの事情もあることでしょう。しかしわたしたちの誰もが当事者になり得ることであり、主の大きな御心のうちにそのような道を拓かれた方々も世にはおられます。主イエスがファリサイ派に対してより重要だと語る事柄は、家族の最も基本となる関係とは血の繋がりだけとは離れたところにあるのだというところです。祖先崇拝の倣いの強かった時代や地域におきましては、これは画期的な発想です。そして弟子たちに語る教えとファリサイ派と考えとの異なる特徴は、離婚をめぐっては男性も女性も対等の立場で対等の傷みを担うということです。女性の生き方だけが、男性目線で問われているのではありません。これもまた男女のあり方を問う上で画期的です。女性ばかりが非難のやり玉に挙げられるというのではないのです。それではこどもたちはどうなるのだとの声があるかもしれません。そのような問いがわたしたちには芽生えてくるのですが、実は今日の箇所の直後に、主イエスが「こどもを祝福する」箇所が描かれるのであります。ファリサイ派の理解を超えた父と母とこどもたちとの関わりが描かれます。血縁があろうとなかろうとそこにはこどもたちがいます。主イエスはこどもたちを祝福されました。破れを抱えた家族をつつむ神の愛とは赦しです。
 わたしたちが本日覚えるのは長寿感謝の日礼拝です。齢80を重ねた方がこの祝福の列に加わります。そのご長寿をお祝いするとともに、わたしたちには存じあげないところにある様々な労苦や喜びの中に、神さまの働きがあればこその祝福です。ときに自らのご家族に様々な破れを見ながら、そして傷みながらもそのただ中で、イエス・キリストとの出会いを重ねてこられた方々です。世に生を授かる場所も時もわたしたちは選べません。だからこそ神さまに備えられた伸び代は限りなく広がっています。齢を重ねた方々に、さらなる祝福をと願わずにはおれません。

2021年10月13日水曜日

2021年10月17日(日) 説教(自宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝もございます。)

-聖霊降臨節第22主日礼拝-

信徒伝道週間

時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂

説教「愚かなおとめに向けられる救い」
稲山聖修牧師

聖書 『マタイによる福音書』25章1~13節
(新約聖書49ページ)

讃美 174(1,2), 
512, 543.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
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「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 新型感染症が社会に及ぼした影響は計り知れませんが、その中でも特筆すべきはわたしたちの働き方、就労形態や動機づけを変容させてしまったところにあります。従来では勤務先で残業をすること自体に特別手当が出て、暮らしの支えにもなりましたが、現代ではむしろ残業は当番制にはなってはいるものの、なるべくしないほうが望ましいと見なされます。すでに感染症の流行以前に「働き方改革」として知られる前提があったのですが、コロナ禍によってこの変化にさらに拍車がかかります。すなわちリモートワークという働き方です。組織そのものには最小限必要な人員は配置されます。しかしそれ以外はコンピューターを通して行われる業務形態です。会議があっても、よほど外部に漏洩してはいけない秘密事項の場合を除いて、義業セミナーや打ち合わせは出張しなくてもモニター越しに行われ、会社としても出張費を節約できます。祈祷会でも『教団新報』やその他の情報を見ますと、礼拝だけでなく祈祷会や聖書研究会をズームというソフトを用いて行う教会も増えてきました。事の是非はさておき、そのような仕方でコロナ禍の集会を継続しているという話も耳にいたします。
 そのように就労形態や就労モチベーションが流動化してきた現代におきまして、本日の10人のおとめの譬え話には考えさせられます。はす読みいたしますと眼差しは小見出しの影響受けて女性の立ち振る舞いに向きがちです。10人のうちの5人は愚かで5人は賢かったというわけです。婚宴を控えて訪れる花婿を迎えるためです。花婿の到着が遅れて10人はみな眠ってしまったところ、あろうことか真夜中に花婿は到着し、おとめたちは起きて油を整えようとします。油を充分にもっていた、賢いと形容されるおとめたちは婚宴の席に招かれ、愚かとされたおとめたちは油を分けてもらえず「わたしはお前たちを知らない」とまで言われる始末です。そして「だから目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」と譬え話は終わるのですが、この箇所は実にミステリアスです。というのも、眠り込んでしまったのは10人のおとめのうち愚かな5人だけでなく、賢いとされる5人も等しく眠り込んでいるからです。そして問題の諸元は、油を用意していたかどうかではなくて、花婿の到着が遅れた、分かりやすくいえば花婿の遅刻に問題があるのです。本来ならば花婿が被るべき痛みというものを、5人のおとめたちがとばっちりとして食らってしまっているようにも思えます。愚かなおとめではなく、賢いおとめのようになりましょうというメッセージになりがちですが、果たしてそれは正しかったかと問い返さずにはおれません。
 注意したいのは事前の言いつけに従っていたのは「愚かなおとめ」たちの方だったということ。当時油は貴重ですから必要以上の分量を持ち歩くのは本来なら御法度で非常識。その意味でいえば「愚かなおとめ」のほうが命じた通りに役目を果たすという点で模範的であり、「愚か」か「賢い」かという評価はあくまで結果論に過ぎません。むしろ「賢い」とされたおとめたちは、真夜中のハプニングが起きる前には好奇の目に晒されたのではないでしょうか。「そこまでしなくてもよい」と主人に言われたかも知れません。けれども少しばかりの油を余分に手元に置いていました。何かあったときのためにという備えは周囲には理解されませんでしたが、この油は彼女たちには何かあったときに自由を保障するための「宝物」であったのです。油を余分に手元においていたおとめたちは誰に言われるまでもなく神さまとの関わりの中で授かった自らのセンスや判断を大事にしました。それが後に柔軟性となり花開いたと言えます。
 それでは主人の言いつけを頑なに守ったものの、花婿が遅れてくるというハプニングに対応しきれなかったおとめたちは婚礼の席から閉め出された後どのような扱いを受けたというのでしょうか。もちろんこの箇所には神の備え給う終末の時が人間の願い通りには訪れなかったという終末遅延の問題が隠されていると考えられますが、それ以上にわたしたちは婚宴の席から閉め出された女性に、あのゲツセマネの園でキリストが苦しみもだえながら祈りを献げていたときに眠り込んでしまったペトロとゼベダイの子の二人の弟子を重ねます。今日の聖書の箇所で肝心なのは「明かりをつけていなさい」「油を備えておきなさい」ではなく「目を覚ましていなさい」との言葉です。もし弟子に神の力が及ぶならば、愚かなおとめに神の力が及ばないと誰が断言できるでしょうか。「わたしは愚かなおとめだから」と自分を勝手に決めつけず、主イエスにすべてを委ねてまいりましょう。閉ざされた扉を主は開けてくださります。

2021年10月6日水曜日

2021年10月10日(日) 説教(自宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝もございます。)

-聖霊降臨節第21主日礼拝-
神学校日礼拝

時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
 
説教:「神のものをを神に献げる生き方」

聖書:マタイによる福音書22章15~22節
(新約聖書:43ページ)

讃美:532(1,3), 194(1,3), 543.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
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方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 新型感染症が病として人命に脅威をもたらしているだけでなく、観光業・外食産業だけでなく第一次産業、そして海外から部品を輸入する第三次産業、すなわち製造業にすら深刻な影響を及ぼしていることは説教壇で分かち合うまでもありません。あらゆる面で景気が停滞する中で、とりわけWebの世界ではホームページを開きますと、様々なコマーシャルが乱舞いたします。その中でも「人工知能が株価を予想してあなたに変わって投資してくれる」という冷静に考えれば虫のよすぎる、しかし経済的に追い詰められ、金融関係に何の知識もないごく普通の人々であれば、思わず飛びついていくであろうその作りには巧妙なところがあります。逆に言えばわたしたちの暮らしは、たとえコンピューターが駆使できるようになったとしても決して楽観視できないところにあるといえます。
 本日の『マタイによる福音書』の箇所はローマ帝国の支配に伴って今日に劣らず社会に大変化が生じていた背景の中、凝り固まった一部のファリサイ派・古代ユダヤ教の律法学者が、行政での実権をもっているヘロデ派の者ともに人の子イエスに問い尋ねるという場面です。「ところで、どう思いでしょうか。お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか。適っていないでしょうか」。主イエスを陥れようとの悪意に満ちたこの質問。内容は二者択一の仕組み。「皇帝に税金を納めるのは律法に適っているか」。ここでいう『律法』とはまさしくその時代の『聖書』の一部を示します。『律法』に適うといえば、意地の悪い問いを発する悪意に満ちた人々のあり方を認めることになり、律法に適っていないといえば、ローマ帝国への謀反の心と帝国の庇護を受けているその時代のユダヤ教の否定へとつながる、すなわち逃げ場のない質問だと思ったからこそ、ヘロデ党の人々をも同伴させたのでしょう。
 イエス・キリストはこの質問に次のように答えます。「税金に納めるお金を見せなさい」。実はこの場面で主イエスを陥れようと企んだ人々が持っていたお金は「デナリオン銀貨」であって、エルサレムの神殿に献げる金銭ではありせんでした。デナリオン銀貨にはローマ皇帝とその名前が刻まれているのですが、これは偶像であるとしてエルサレムの神殿に納める場合には一度同額の納税用の貨幣に両替しなくてはならないのです。謀には手抜かりがありました。主イエスはこの事実を踏まえて「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返せ」と切り返します。このように人の子イエスはその時代のお金の問題にも実に聡明であったのですが、さらに聖書の言葉に聴いてまいりますと当時の人々の苦しみが聞こえるようです。すなわちイエス・キリストを問い詰めようとした人々のとりだした通貨はデナリオン銀貨でした。つまりユダヤの民独自の通貨はもはや力を失い、その地域の経済はローマ帝国の「胸三寸」やその行く末と一蓮托生だと言うほかなかった、ということです。これは各々の地域がそれぞれの持ち味を発揮するというのではなく、ローマ帝国の経済が倒れれば世界も崩壊することを意味しています。その中で「神のものは神に返せ」というわざは何を示しているというのでしょうか。聖書に聴き従うならば次のように言えるのではないでしょうか。
 どのような世にあってもお金では何ともできないものがあります。それはわたしたちのいのちであり身体です。暮らしの中にもお金ではどうにもならないものがあります。大切な人との関わりや時間です。人生そのものです。わたちたちの暮らしを囲む自然、いきもののいのち、水や空気。そのような被造物のわざを讃える歌や藝術、そして文化。いのちの基盤となるものはお金では代えられません。『ルカによる福音書』21章には居並ぶ金持ちたちが献金する中で、貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を献げる場面が描かれます。1レプトンは1デナリオンの128分の1。その時代の額としては金持ちには及ぶべくもないのですが、イエス・キリストはこの女性をして「この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである」と表しており、そのように訳されています。もっといえば、生活全てを献げたのだとも言えます。すなわち私心なく暮らし全てを神の愛に委ね、神の公共性に招かれ応えたこととなります。その先には神の愛による、誰もこの女性を蔑まない交わりが備えられています。大切ないのちがお金の査定を受ける世の中は歪んでいます。まさに罪深い。けれども神に献げる生き方は、すべてを神の恵みとして授かり続ける歩みだとも言えるのです。わたしたちのいのちも神の公共性とともにあります。「人は独りでいるのはよくない」との言葉は「神ともにいます」の真実を逆説的に示します。神からの賜物としていのちを尊ぶことは、他人の人生をともに喜ぶことです。


2021年9月29日水曜日

2021年10月3日(日) 説教(この日より、対面礼拝を再開します。自宅礼拝用の要旨・動画等も掲載しています。)

 ー聖霊降臨節第20主日礼拝ー


時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂

  

説教:「いちじくの実りを待つ」
稲山聖修牧師

聖書:『マタイによる福音書』21章18~32節

讃美歌:312(1.2), 234A(1.3), 543.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


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方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】

 最近ではカーナビゲーションはおろか、スマートフォンさえあれば、目的地への道のりを人工衛星との関わりで人工知能が行き先まで導いてくれます。地図を事前に調べてから訪ねるよりも、はるかに便利になりました。もちろん、その分わたしたちが頭を使わなくなっているのには注意しなくてはなりません。それでは「全ての道はローマに通ず」と言われるほど占領下に道路が整備されたローマ帝国の場合は、果たしていかがなものだったでしょうか。
 確かに「全ての道はローマに通ず」との言葉はそのものとしては偽りではなかったことでしょう。しかしローマから離れるほど石造りの堅牢な道は少なくなり、狭い路地に入ればいつの間にかその路地すらも見えなくなってしまう。またはうっかり道を間違えた旅人は深い森に入り込むや、地図のない道をあてどもなくさまようほかなかったでしょう。転じて新約聖書に描かれる世界には「カイザリア」という町が一箇所ならず登場してまいります。カイザリアには治安維持のために駐留するローマ帝国の軍隊の宿舎が設営されて事実上の基地となり、時に総督も宿をとりました。
 土木建築に優れた手腕を発揮し、物流を進めたローマ帝国の働きは、結果として地域共同体の自給体制を破壊し、ローマ帝国に流通する貨幣を用いなければ暮らしていけないしくみを造りあげてまいります。道行く貧しい旅人に加え、それまでの暮らしの基盤を失い住まいを失った人々が求めたのは何だったというのでしょうか。
 端的にいえばそれは食糧です。飢えに苛まれれば鈍するという単なる暮らしの問題には留まらず、栄養状態のよい状態の場合には罹患しない病にも冒されます。衛生面の問題だけでなく、追い詰められた人々はローマ帝国に抗議し、絶望的な反乱活動に及びます。それはローマ帝国の支配からの独立運動にもつながりかねません。イエス・キリストの時代が決して穏やかな時代ではなかったことは、『使徒言行録』で、後の使徒パウロの師匠にあたるユダヤ教の律法学者ガマリエルが証言する通りです。「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。以前にもテウダが、自分が何か偉い者のように言って立ち上がり、その数400人くらいの男が彼に従ったことがあった。彼は殺され、従っていた者は皆散らされて、跡形もなくなった。その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、彼も滅び、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた」。「住民登録の時」とは、マリアとヨセフがベツレヘムを目指して旅を続けていたその時と重なります。
 そのような諍いを宥めるかのように街道筋に植えられていったのがいちじくでした。その広い葉は強い日差しに体力を奪われた旅人や家を失った人が安らぎを得る木陰を作り、その実は応急措置として栄養価のある実を提供します。少なくともローマ帝国は、このいちじくの木を象徴的に用いて、貧しさに苦しむ人々を忘れてはいないとメッセージを発信しようとしたのです。
 本日の箇所で人の子イエスは「空腹を覚えられた」とあります。自らを貧困層に重ねるのです。そしていちじくの木を見て近寄りますが葉のほかには何もありませんでした。「今から後いつまでも、お前には実がならないように」。ローマ帝国の貧困救済の象徴を根底から否定してしまいます。しかしそれは単なる否定や抗議には留まりません。戸惑う弟子への答えには「あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起きたことができるばかりではなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛びこめ』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」。これは単に信じる者は救われるというような安直な言葉ではなくて、食うに事欠く人々と同じところに身を置いたイエス・キリストが、人々が本当のところ何を求めているのかを語る中で用いられています。わたしたちはこの「いちじくの物語」がローマ帝国の物語ではなく、福音書の物語として編まれているところを心に刻みましょう。「天地創造の物語」では、人はいちじくの葉でもって自らの最も弱いところを隠し、守るために用いました。『新約聖書』では社会の最底辺で生きる人々を守るために用います。その実は食うや食わずの人々に手をさしのべる教会の働きをも示しています。教会はどのような時と場所にあっても「交わり」、則ち、人とのつながりを神への祈りに重ねる役割を担っています。イエス・キリストを通して授けられた信仰の実りとしてのいちじくは世の混乱を養いとして必ず実ります。それを分かちあい、楽しむ時を待ちつつ、キリストに示された道を今・この時代にあってともに歩んでまいりましょう。対面式礼拝再開の喜びを味わいながら。

2021年9月22日水曜日

2021年9月26日(日) 説教(在宅礼拝用です。当日の礼拝配信についてもお知らせしています。)

緊急事態宣言が大阪府下に発令されています。
教会員のみなさまにおかれましては、在宅礼拝をお願いします。
(ページの下に、礼拝配信のリンクを掲載しています。)
※なお、10月3日(日)から対面式礼拝を再開します。

ー聖霊降臨節第19主日礼拝ー
説教:「人と較べずに生きていきなさい」
稲山聖修牧師

聖書:『マタイによる福音書』20章1〜16節
讃美歌:517,Ⅱ189, 544

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


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「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】

 筋萎縮性側索硬化症。運動神経が次第に衰えていく難病・ALSの患者さんが舌を動かせなくなったとき、意思疎通のために用いるツールに視線入力装置があります。日本の場合、平仮名が五十音順に並んだ透明のパネルを見つめると、その視線をコンピューターのカメラが感知し文字認識する機材です。

 しかしすでに1950年代にアナログ式でこの方法を用いて隣人との関わりを困難の中で見出し「瞬きの詩人」と呼ばれた人がいます。それは水野源三さんです。信州の佐久に暮らしていた幼い頃の遊び場といえば千曲川の畔でした。しかし9歳の頃、この地域を集団赤痢が襲い、源三さんは高熱で脳性麻痺を起こし目と耳の機能だけが残りました。献身的に支えた母の備えた聖書を読みキリスト者となり、18歳で洗礼を授かります。忘れられないのは1970年代に水野さんを特集した映像作品でした。女優の長岡輝子さんが水野さんのお宅を訪ねてお話をするという内容だったのですが、実はその懇談は伏線となっており、本来の訪問者は小学校二年生の男の子と妹さん、そしてご両親でした。男の子は虫かごをもってきて「カブトムシとったことがありますか」と言いながら無邪気に遊んでいるのですが、本来の目的は、ぜんそくの治療で服用していた吸入剤に含まれるステロイドと視力低下の副作用の因果関係がはっきりしていなかった当時、片眼を事実上失明、もう一方の眼も視力が低下していく経緯の中で、少年は正座をして水野さんに問うことにありました。「ぼくはどうすればよいですか」。おそらく事前にご両親が事情を伝えていたことなのでしょう。水野さんはしばらく考えた後に「人と較べずに生きていきなさい」と文字盤を通して笑顔で語りかけ、男の子は真剣に頷き、水野さんはウインクをするように微笑みかけるという場面。忘れられない場面です。

 「人と較べずに生きていきなさい」。モーセの十戒の最後の誡めで「妬んではならない」と記される内容を分かりやすく、かつ柔和に表現しています。わたしたちは学校教育から始まって絶えず自分と他人を較べて生きるレールを強いられます。入試や偏差値がそうでしょうし、その結果として進路が定められ、就職後の道もまた比較の中に暮らします。そこで深く傷ついてしまえば他者との関わりを拒絶して閉じこもるか、突如として起きる犯罪の温床にすらなり得ます。どのような基準であるにせよ、他者との比較があってそして自己評価を定める中に日本社会の病理があるように思います。親を選べないことが「親ガチャ」と呼ばれる中、死因の第一となるのが自死という現実があります。

 しかし聖書は全く異なる尺度をわたしたちに提示します。そのひとつが本日の「ぶどう園の労働者」の譬えです。ある家の主人がぶどう園の労働者を雇うために自ら夜明けに出かけ、一日1デナリオンの約束で人を求めます。日雇いの話です。そして9時頃でかけると何もせず広場にいる人々にも声をかけます。12時頃と午後3時頃出かけて同じようにし、夕方5時頃「だれも雇ってくれる人がいない」と意欲はあるものの無職のまま途方に暮れている人々に声をかけます。そして未明から働いた人にも、午後5時から雇用された人にも同じように1デナリオンを手間賃として支払います。手当のことですから当然日雇い労働者からは不満が出ます。しかし主人はこれは時給ではなく日当なのだ、この最後の者にもあなたと同じように支払いたい、わたしの気前の良さを妬むのか、という結びとなります。

 わたしたちがこの箇所から聴きとる事柄はあまりにも大きいのですが、ぶどう園での労働はまことに過酷な仕事です。日差しが強く乾燥していなければよいぶどうは実りませんし、たわわに実ったぶどうを傷つけずに収穫するのには手間が掛かります。ぶどうは葉もまたロールキャベツのように肉をつつむため野菜として重宝されますから決して雑には扱えません。実に手間の掛かる労働ではありますが、未明から働いた者にも、夕暮れに雇用された者にも同じ1デナリオン。「誰も雇ってくれないのです」と嘆く者をも、主人は自ら声をかけ、ブローカーを通さず呼び集めます。

 イエス・キリストのこの譬えには、効率主義を求めた結果、優生思想にたどり着いたわたしたちの社会のある人々に強烈な一撃を加えます。この箇所で言うところの1デナリオンとは、生活を保障する賃金に留まらず思い悩みも含めて「お前は今日一日よくやったのだ」という神の愛による絶対的ないのちの祝福があります。身体が思うように動かなくなったとしても、イエス・キリストは「お前には用はない」とは絶対に言いません。深い生きづらさを抱えて過ごすわたしがいたとしても、微笑みながら主イエスはその人を「人と較べないで」と抱きしめてくださるのです。


2021年9月15日水曜日

2021年9月19日(日) 説教(在宅礼拝用です。当日の礼拝配信についてもお知らせしています。)

緊急事態宣言が大阪府下に発令されています。

教会員のみなさまにおかれましては、在宅礼拝をお願いします。

(ページの下に、礼拝配信のリンクを掲載しています。)

 -聖霊降臨節第18主日礼拝-

説教:「いつくしみ深き」
稲山聖修牧師

聖書:『マルコによる福音書』10章17〜22節(新約聖書81頁)
讃美歌 :121. 312. 542.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


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「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】

 アフガニスタンのカブール空港に自衛隊機が到着したものの、現地人の関係者は全て置き去りにされて飛行機は飛び立ちました。その報せとともに思い出したのが旧外務省職員リトアニア・カウナス日本領事館領事代理の杉原千畝氏の「いのちのビザ」でした。杉原氏は当時の外交官の職務として旧ソ連やドイツ周辺国の情報収集にあたり、ソ連の動向を日本政府に連絡する諜報活動にも従事しました。しかし独ソ戦が始まり領事館にユダヤ人の難民が押しかけるようになると「夜、宵の始めに起きて叫べ。主の前にあなたの心を水のように注ぎ出せ。町のかどで、飢えて息も絶えようとする幼な子の命のために、主に向かって両手をあげよ」(口語訳『哀歌』2章19節)、そして「神は愛だからです」(新共同訳『ヨハネの手紙Ⅰ』4章8節)を思い浮かべた伴侶の幸子さんの励ましもあり、ユダヤ人難民に2139枚以上のビザを発給しました。しかし三国同盟を危うくするとの日本政府の叱責を受け、ドイツの秘密警察の監視を受けながら、何とか外交官としての職務を遂行、1947年に帰国するも外務省から退職通告書を受け退官、戦後は辛酸を舐めた人物でした。アフガニスタンといえば中村哲医師を思い出しますが、お二人に共通するのは中村哲医師の場合「困っている人を放っておくことはできません」、杉原千畝氏は「大したことをしたわけではない。当然の事をしただけです」というまことにシンプルな動機です。中村医師はバプテストの教会、杉原千畝氏はロシア正教会に連なるキリスト者でした。

 こうした言葉を踏まえながら本日の聖書を味わいますと言いようのないやるせなさを感じます。「イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。『善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。』イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』というのか。神おひとりのほかに、善い者は誰もいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたはみな知っているはずだ」。すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。イエスは彼を見つめて慈しんで言われた。『あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に宝を積むことになる。それから、わたしに従いなさい』。その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである」。礼拝を赦されているわたしたちは、コロナ禍にあり苦境に立たされていても辛うじて暮らしを持ちこたえています。さらに話を広げれば、人によれば万一、病床使用率が逼迫する中で新型感染症に罹患したとしても入院加療が可能です。他方でコロナ関連の変死事案として警察が公表した方々は少なくとも122名にのぼります。開発途上国にあっては酸素さえ届かないという状況が慢性化しています。困っている人は今の世には数え切れないほどおられます。中村医師や杉原千畝氏の言葉は痛いほど分かるのです。けれどもわたしたちはこの金持ちの男性のようにイエス・キリストに従い得ない者として嘆くほかないのでしょうか。職場から戻り一息つこうとするとき、隣家から家族の間でのただならぬ物音を聞いてしまうとするならば、わたしたちは途方にくれるほかないというのでしょうか。

 しかし、仮にそうだとしても、わたしたちは本日の聖書の箇所で主イエスが「帰りなさい」と男性にひと言も語っていないところに注目すべきです。憤ってはいないところにも目を向けましょう。むしろ「慈しんで」との言葉でもって男性を見つめているその顔を仰ぎたいのです。悲しみながら立ち去ったその人との関わりをイエス・キリストは決して否定しません。それどころか「慈しみ」すなわち「神の愛」によって自らと堅く絆を結んでおられます。「永遠の命を受け継ぐ」とは、キリストの愛を前にして死をも恐れない道筋を備えられることでもありますが、あなたはその道から決して遠くないと、本日の聖書の箇所でイエス・キリストは嘆き悲しむ人に語りかけています。

 わたしたちは神さまから異なる賜物を与えられています。それはその人の個性やコンプレックスに留まらず、どこに暮らしているのか、どのような生き方を積み重ねてきたのか、他人に語れないデリケートな事柄をも含みます。また神さまは、他人と較べながら神の愛の証しを立てなさい、キリストに従いなさいとは申しません。「困っている人を放っておくことはできません」、「大したことをしたわけではない。当然の事をしただけです」。そのように言える場所はわたしたちにも備えられています。自分探しから隣人の尊さに目覚めたとき、神の愛、即ち永遠の命を喜ぶのです。


2021年9月8日水曜日

2021年9月12日(日) 説教(在宅礼拝用です。当日の礼拝配信についてもお知らせしています。)

緊急事態宣言が大阪府下に発令されています。

教会員のみなさまにおかれましては、在宅礼拝をお願いします。
(ページの下に、礼拝配信のリンクを掲載しています。)
 
 

説教:「<倍返し>からの解放」 
稲山聖修牧師

聖書:『マタイによる福音書』18章21〜35節
讃美歌:316.  461. 540

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。
※先ほど、教会のインターネット回線が繋がらなくなり、ライブ配信が出来なくなりましたが、途中からは配信出来るようになりました。
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方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】

「やられたらやり返す。倍返しだ」との決め台詞がブームとなった番組のキャッチフレーズを今になって思い出しますと、『聖書』を知る人であれば「人間は変わらないなあ」と溜息をつくのではないでしょうか。要するに『旧約聖書』が成立する前から、その舞台でやりとりされていた「同害復讐法」の焼き直しでしかありませんし、現在なおも超大国が戦争を始める際に口実とする常套句である「報復原理」の蒸し返しに過ぎません。くすぶる様々な不満を「倍返し」で発散する。今の混沌とした時代には仕方がないのかもしれません。しかし「倍返し」に夢中な大人の背中をこどもたちは観ていたのは事実です。けれどもわたしたちは「別の生き方」を知っています。

 別の生き方。その別の生き方が本日の福音書の箇所には記されます。弟子のペトロが主イエスに問うには「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか」。ペトロのこの問いには、人の子イエスが説いた赦しの教えへの驚きが刻まれています。返す言葉には「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」。それは数としてそのように赦せというのではなく、徹底的に赦しなさいとのメッセージです。しかしまだこの教えはペトロの腑に落ちません。その態度を観てでしょうか、主イエスは次の譬えを語ります。10,000タラントンもの借金をした家来が王の前に引き出されてきます。返済ができないので王は伴侶と子、持ち物全てを売り払って借金を返すよう命じます。10,000タラントンとは概ね6,000億円ほどになります。その声に慄いた家来は「全部返しますから」と土下座をしてしきりに納期の延長を願います。その姿を憐れに感じた王はあろうことか借金を棒引きにするのです。ところがその帰り、借金を放免された家来は知人と出会います。この知り合いは100デナリオン、概ね100万円を家来から借り入れていました。しきりに返済を迫る家来に知人はやはり土下座をして赦しを乞います。しかし家来は返済を強要し、この知人を力づくで牢屋に入れてしまうのです。恐らく苦役を伴う刑罰を与えられるのでしょう。様子を見ていた仲間は心を深く痛めます。そして王に報告したところ怒りを招いて家来は知人と同じように牢屋に投げ込まれます。「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全て帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんだように、お前も仲間を憐れむべきではないか」。こう言わずにはおれなかった王の悲しみはいかばかりだったでしょうか。そして6,000億円もの借入金を棒引きにしてもらいながら100万円の貸出金を免じることができなかった家来に誰が重なるというのでしょうか。この家来には伴侶もこどもも財産もありました。実に情けない姿ではあるのですが、よく考えてみれば家来は本来、当然味わうべき辛酸を舐めているだけの話です。ではあの必死の土下座は嘘だったのか。知人への貸出金を免じられなかった度量の狭い家来。この家来は今や牢屋に閉じ込められ、青空も陽の光も自由に仰ぐことはできません。しかしこの姿が「やられたらやり返せ、倍返しだ」との言葉の行着く先、報復原理の行着く先だとするならば、わたしたちはどのような生き方を選べばよいというのでしょうか。

 マハトマ・ガンジーという人は、「非暴力不服従」というあり方で民同士の争い激しかったインドをまとめ、その独立を大英帝国から克ちとりました。そしてその生き方はキング牧師の公民権運動へとつながり、今なお暴力のあふれる街で「倍返し」の土台に立たない意志表示の力を失ってはいません。他方でわたしたちはひょっとしたらイエス・キリストの譬えでいうところの暗い牢屋に閉じ込められてはいないでしょうか。報復原理は人の器を狭くし、自由を奪い、せっかく芽生えた可能性を台無しにします。そこには相手を尊ぶあり方は見いだせません。もちろん暴力から逃れるためのあらゆる手段を放棄してはいけません。しかしながら、そうできなかった自分を責める必要もありません。わたしたちは家来の借金を棒引きにした王の振るまいを深く心に刻めばよいのです。王は自由です。それは天に宝を積むことであり、「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積む」という、パウロが「悪に屈せず、善をもって悪に勝つ」という、混沌とした世の土俵には決して立たない、万軍の主に守られたあり方でもあります。緊急事態宣言が幾度も延長され、人の心荒む世です。それでもわたしたちはイエス・キリストを通して神から赦された者としての歩みを見失わずに、絶えず喜びをもって歩みを重ねたいと願います。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。全てのことについて感謝しなさい」。素直に喜べないから、素直には祈れないから、素直に感謝できないから、ともにわたしたちはイエス・キリストに全幅の信頼をおきましょう。

2021年9月1日水曜日

2021年9月5日(日) 説教(在宅礼拝用です。当日の礼拝配信についてもお知らせしています。)

緊急事態宣言が大阪府下に発令されています。
教会員のみなさまにおかれましては、在宅礼拝をお願いします。
(ページの下に、礼拝配信のリンクを掲載しています。)
 

説教:「呼び声に従う決断」 稲山聖修牧師

聖書:『マタイによる福音書』 18章10~20節
讃美歌:294 399 542

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


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【説教要旨】

 『新約聖書』が描く世界で羊たちはどのように飼われていたか。今日のように品種改良されていない家畜は、牧童の言葉に必ずしも従順ではなかったかも知れません。けれどもいざというときには、つきっきりで世話をする羊飼いの声を聞き分け集まってくるということは充分あり得ることでした。それだけではありません。『新約聖書』の世界では今で言うところのアラビア数字はまだ発明されておりません。また実質的にはデスクワークとはほど遠いところで汗を流す羊飼いたちに数を数えるという習慣があったかどうか。もちろんそれは指折り数えてという意味ではあったかもしれませんが、緻密な計算の術を学ぶ機会があったかどうかは分かりません。そのような中で百匹の羊と関わっていたと申します。すなわち、羊一匹いっぴきの個体差を見抜いて名をつけ、そしてその名を呼ぶことで、羊を飼育していたというのです。この境地までに達しますともはや飼育するという枠を超えて「ともに暮らす」としか表現できません。一匹いっぴきの顔つきや表情、毛艶や年齢や声の調子を見極めて健康状態を確かめながら養い続けます。牧童すなわち羊飼いには一匹も九九匹も変わらない、名のある存在です。ですから迷い出た一匹がいれば他の九九匹と同じように探し求めますが、見つけ出せばやはり他の九九匹の羊と同じような喜びに包まれます。小さな者の一匹でもいなくなってしまうのを羊飼いが喜ばないのと同じように神は一人でも滅びるのをお喜びにならないという譬え話です。この譬え話を土台にして次のメッセージを主イエス・キリストは語ります。

「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」。兄弟に対する罪。これは一体何のことだというのでしょうか。具体的に福音書は語りませんが、わたしたちが『旧約聖書』の物語で思い浮かぶのは兄カインと弟アベルの争いです。これは『創世記』4章に記されます。兄カインの献げ物を神は顧みず、神は弟アベルの献げものを受け入れました。その結果カインはアベルに対して怒りを激しく燃やしついには殺害に及んでしまいます。『聖書』の物語全体で「罪」という言葉が初めて用いられますのはこの箇所。ですから『聖書』で言うところの罪とは仏教でいうところの業(ごう)や因果として直ちに翻訳はできません。それは現行罪、つまりまずは実際に犯した過ちとなります。そしてそのような過ちを犯した者には第一には当事者だけのところで忠告しなさいと語ります。どちらにも恥を欠かせないためです。それでも駄目なら二名から三名、それでも駄目なら教会と忠告が行われ、それでも駄目ならば「異邦人か徴税人と同様に扱え」というのです。

 さてこの声に疑問を覚えた方はおられないでしょうか。「異邦人か徴税人と同様に扱え」。確かに異邦人も徴税人も古代ユダヤ教ではその社会から排除されていた人々ではありましたが、その扱いがそのまま初代教会に持ち込まれるとは、結局のところ異邦人への救い、徴税人への救いの物語は意味を失ってしまうのではないだろうか、台無しにしてしまうのではないかとドキドキします。しかし職業としての徴税人の役割が『福音書』では論じられはしませんし、異邦人の説明が辞書のように記されているのでもありません。いずれもイエス・キリストと出会ったのは異邦人という、ユダヤ人ではない「人々」、徴税人という職業を生業とする「人物」であり「人格」です。異邦人にも人物像固有の掘りさげがあり、徴税人にもなまえがあります。イエス・キリストと出会うのは肩書きや職業ではなく人物なのです。この点をを踏まえますと19節以降の文が実に豊かな広がりをもつにいたります。「はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人また三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」。教会に芽生えてしまった胸痛む事柄も、心を一つにして祈るなら神はその痛みを癒やしてくださいます。コロナ禍の中でどうしてよいのか見極めがたいところに置かれるのであれば、どのように小さな交わりであったとしても、主なる神は必ず教会にいのちの力を吹き込んでくださいます。そしてどのような羊も置き去りにしない力を、交わりの特性を通して備えてくださるのです。

 本日から新しい月を迎えます。暦はすでに秋を数えます。しかしその一方で緊急事態宣言解除の見込みは相変わらず不透明ではあります。ただし、わたしたちはその不安を主なる神に委ねて、幸いにも日々の働きに向き合うことができます。主イエスはわたしたちの名を呼んでくださる。その原点から、2021年の残り三分の一を始めましょう。

2021年8月25日水曜日

2021年8月29日(日) 説教(在宅礼拝用です。当日の礼拝配信についてもお知らせしています。)

緊急事態宣言が大阪府下に発令されています。
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説教:「あなたは気高い真珠」
稲山聖修牧師

聖書:『マタイによる福音書』13章44~50節
讃美歌:24. 494. 543.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】

 ガラスパール、あるいはイミテーションパールという製品をお聞きになった方はおられるでしょうか。乳白色のガラス玉に魚から抽出したカルシウム等を吹きつけもので、大正時代以降に仕あがりとともに経済性を兼ねた商品として南大阪地方の産業を担っていたと申します。当時の庶民からすれば汗がつけば光沢が失われてしまう天然の真珠よりも扱いやすかったのかもしれません。実用性を重んじる気風が窺えるというものです。

 しかし逆に言えばそれは真珠の扱いがどれほど難しいかを物語ってもいます。「宝石」という名で呼ばれながら、入り込んだ異物から身を守るためにアコヤガイが自らの貝殻の成分でもって身を守るために包み込むというわざの中でもたらされる「生体鉱物(バイオミネラル)」と申します。養殖の真珠の場合、アコヤガイは身体の中に人工的に異物を入れることになり、その結果多くの貝が死んでしまうという現状があります。その中で残った貝の中から取り出されるのがいわゆる「真珠」となります。結晶ができてもできなくても貝が自らのいのちと引き換えにして一粒の真珠を送り出すのには変わりありません。

 本日の聖書の箇所では「天の国」すなわち「神の愛がわたしたちの世を支配するとき」を次のように譬えます。宝が畑に隠されているとき、見つけた人はそのまま隠しておき、財産をすべて売り払い畑ごと買っていくというあり方。一見ずる賢くも思えるし、実に聡明な、クレバーなあり方としても受けとめられます。しかし自分の財産をすべて売り払うわけですから「あれもこれも」ではなく「のるかそるか」の覚悟が求められます。一度交わした契約は元に戻すことはできないからです。そして先ほどお話しした真珠のお話です。真珠の養殖は明治期に日本人が世界で始めて成功したものですから、この時代の真珠とはこれすべてみな天然。アコヤガイを見つけること自体とても難しく、その中でも品質がデリケートであるところの高価な真珠は手に入れるだけでなく、その後の手入れもまた重要になってまいります。そしてお話のまとめとしては漁師の譬え。様子を見るとどうやら地引き網のようです。網の中にいる獲物の中でよいものは器の中に、そして悪いものは仕分けされていきます。おそらく毒性があったり傷みやすく口にできない生きものもその中にはいたはずです。そしてこの三つの譬えを経た上で、世の終わりに天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃えさかる炉の中に投げ込むというわけです。

 ただわたしたちが注意しなくてはならないのは、先週お話しした「毒麦の譬え」と併せて本日の箇所に耳を傾けるべきであります。繰り返しますが、世にある人間の正義とは人の数ほど、星の数ほどあります。その正義をぶつけ合わせることを、イエス・キリストはけしかけてはいません。ある信仰共同体、ある教会に属する者が全て網の中にいたよい魚であるはずがありません。そこには毒針をもっていたり鋭い歯をもっていたりする魚もいるかもしれません。しかしそれは決して焼かれていく毒麦ではなく調理の仕方によっては実に豊かな滋養を病床にある者にもたらすかもしれないのです。また目利きの商人の見つけた高価な真珠一粒よりもさらに気品漂う真珠が別のところにあるかも知れません。隠しておいた宝も、値打ちの分からない人に掘り返されて何日も宝を見つけた人は泥まみれになって探し続けなくてはなりません。どこにあるのか。これはわたしたちには隠されています。けれどもそれは必ず見つかるものであり、探し続けるその最中にあって当事者一人ひとりの希望にすらなり得ます。決してそれは高尚な理想というものではなくて、この世の欲とない交ぜになっているものかもしれません。しかし、それは探し続ける者の志を決して曲げるものではありません。畑に隠された宝も、気高く値の高い真珠も、選りすぐりの魚も、わたしたちのいのちと不可分ではないからです。決していのちを粗末にするものではないからです。

 わたしたちは神の前にあっては、むしろわたしたち自らが泥まみれでありながらもイエス・キリストが汗だくになって探してくださる宝であり、アコヤガイが自分のいのちと引き換えにもたらす繊細な真珠であり、見た目には確かに癖があるかもしれないけれども、重篤な病の床にある人の養いとなる魚になり得る尊さを秘めているのではないのでしょうか。その尊さを大切にしながら、わたしたちの隣にいる人のいのちの輝きに感じ入るとするならば、それは他ならないイエス・キリストのわざであります。偏った政治の中で見失いがちないのちの主キリストの手に包まれたとき、わたしたちはどのようなところにあったとしても気高い輝きを放ち始めるのであります。祈りましょう。