2020年10月30日金曜日

2020年11月1日(日) 永眠者記念礼拝 説教

「神の愛を証しした群れの軌跡」
『マタイによる福音書』23章25~36節   

説教:稲山聖修牧師

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 わたしたちの手元にある、永眠者名簿を開き、天に召されている教会員ならびに教会関係者の人数を数えましたところ、95名の方々のお名前を確認いたしました。実際の教会員を示す現住陪餐会員数が現時点67名ですから、天に召されている兄弟姉妹の方が多いということになります。この事実を聞いて、この場に集められた方々は果たしてお嘆きになるでしょうか。それとも組織としての教会の将来を憂いて、マイペースに見える牧師に違和感を感じられるでしょうか。

 確かに世に遺されて、わたしたちは時折深い寂しさや悲しみに塞ぎこむことはないと言えば嘘でしょうし、わけもなく流れる涙にいったいどうしたことかと途方に暮れたり、いつの間にか時間が経つ早さに驚かずにはおれない時があります。けれども牧師個人の所感としてではなく、聖書の言葉がわたしたちに語りかけるメッセージに基づきますと、わたしたちが献げているこの礼拝は、永眠者記念礼拝に限らず、一年間全てに及んで天に召されたわたしたちの大切な方々とともに献げている感謝に満ちた交わりでもあると申せましょう。仏教の法事では初七日、四十九日といった七の倍数の日に法要あるいは法事が行われますが、わたしたちにとりましてはそのようなわざは意味合いが異なるだけでなく、何もとりたてて特別でもありません。一週間に一度必ず聖日礼拝を献げて、召された兄弟姉妹との交わりを一層重ねていくこととなります。ともにおられる神、そして神の子イエス・キリストがおられる以上、わたしたちは必ずこの礼拝で召された方々を思い出し、交わりを重ねているのであります。

 思い起せば今年度はその始めから、例年とは異なる仕方で礼拝を捧げる期間が続きました。新型コロナウイルス感染症拡大への対策としてほぼひと月にわたり、在宅礼拝という仕方で献げる礼拝を第一として、礼拝堂に集まる必要はないとの立場を表明いたしました。四月下旬からほぼひと月、主たる礼拝の場は各々のご家庭といたしましたが、他方でそれでは礼拝堂には誰もいなくてよいのだろうか、との煩悶がありました。礼拝は単なるこの世の集まりには留まらないとの声なき声を聴きながら、結果としては復活節にあって、たとえそこに目に見える仕方で誰もいなくても、必ず誰かがそこにいる、誰かがともにいるとの心情を捨てきれず、たとえ牧師だけであっても、各々の在宅礼拝を支えたいとの願いもあり、円形に椅子を並べてメッセージを整え、召された兄弟姉妹に語りかけながら強く励まされた者でありました。その体験は今やかけがえのない財産となって聖書の言葉のとりつぎに活かされています。

 本日の聖書の箇所は、イエス・キリストがその時代のユダヤ教の律法学者、つまり旧約聖書を徹底的に読みぬきながら人々にその教えを宣べ伝える役目を担っているはずの人々への批判が記されています。その内容は、杯や皿の外側はきれいにするが内側は強欲と放縦で満ちているという、形ばかりとなった、今日で言えばファッションに過ぎなくなった立ち振る舞いとしての信仰のあり方、そして外側は美しく装いながらも、内側は死者の骨とあらゆる汚れ、すなわち聖書からいのちの希望を汲みだして人々に分かち合うというあり方ができなくなっているあり方、さらには、隣にいる神の人の言葉、御使いの言葉、神から託された言葉を語る人々には耳を塞ぎながら、時を置けばその人々を崇め奉るという、神との関わりを忘れてしまったあり方への指摘があります。鼻から息をする者に拠り頼んでも、人を活かし、そして死の淵より復活させる神のわざが見えないとの怠慢さを「不幸である」と断言するのです。

 それでは反対に、イエス・キリストが幸いであると語るのはどのような人々を指しているのでしょうか。それは「心の貧しい人々」「悲しむ人々」「柔和な人々」「神の義に飢え渇く人々」「心の清い人々」「平和を実現する人々」「神の正義のために迫害される人々」「キリストのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる人々」です。「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある」とイエス・キリストは語ります。幸いな人々が何人いるのか、具体的には誰なのかということについては、イエス・キリストは直接には語りません。けれども「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある」とされる人々の中に、先に述べた95名の方々は含まれているのです。これほど心強いことはないと思うのです。

 今年度の主題聖句は「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる」という『ヨハネの黙示録』の言葉です。いずれわたしたちも眠りにつくときが訪れます。汝の死を覚えよとの言葉の通りですが、神の愛は、その死を呑み込む力があります。召された人々にいつお会いしても恥ずかしくない生き方をしてまいりましょう。95名の方々は確かな足跡を遺されました。キリストに従う道。今もわたしたちを勇気づけ励ましています。

2020年10月22日木曜日

2020年10月25日(日) 説教(自宅・在宅礼拝用です。当日、礼拝堂での礼拝も行われます。)

「恐れるな!」 
『マタイによる福音書』10章26~33節     
説教:稲山聖修牧師

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 今朝わたしたちは2020年10月最後の聖日礼拝を献げます。1517年10月31日にルターがその時代のローマ・カトリック教会の教えに抗議したことから「宗教改革記念」として尊ぶ教会もあります。その時代のローマ・カトリック教会の教えでは、各々の指導者の主張はともかく、全体としては行為義認という考えが一般的でした。すなわち、誰の目にも分かりやすい道徳的な振る舞いが神の御旨に適った行為として認められ、そのわざによって神に受け入れられる、つまり教会があらかじめ設けた枠の中での証しのわざを積み重ねることで、亡くなった後に一旦は赴かなくてはいけない煉獄という、この世で犯した罪を浄化する場所にいる時間を短くできるという考えです。もちろん人間は自らその罪を償うわけにはまいりませんから、教会に特別献金を献げ、その代わりに罪を贖う贖宥状をもらうことで、天国にいる諸聖人の徳を分けてもらうというしくみがあったのです。分かりやすく言えば天国へのクーポン券のようなものです。マルチン・ルターはもともと修道士ですから、師匠の教えに忠実に従っていたのですが、聖書を何度も開いてもそのような教えはどこにもありません。悩んだ挙句、95の問いかけが記された公開質問状をその時代の一般の人々が決して用いないラテン語で書き記します。しかしながらこの質問状の影響は次第に大きくなり、とうとうその時代の教会の収入源の是非にも及ぶ話になってまいりましたので、単なる修道士の問いかけでは済まなくなってまいりました。すでにルターの働いたおよそ100年前、今のチェコにいる人物がルターと同じ説を唱えて火炙りにされたこともあり、危うさを感じたルターはその身を隠しましたが破門にされ、あらためてその時代の最高の権能をもつ議会に招かれ、考えの撤回を求められた時には「聖書に書かれていないことを認めるわけにはいかない。わたしはここに立っている。それ以上のことはできない。神よ、助け給え」という他にありませんでした。

 ルターをそこまで追い詰めたのは果たして何であったのでしょうか。火炙りを極刑とする異端審問でしょうか。それともすでに破門に処せられているのにも拘らず家族にまで及ぶ様々な圧力でしょうか。確かに各々の事情はあったでしょうが、つまるところは「聖書に書かれていないことを認めるわけにはいかない」と言わなくてはならないほど、その時代の教会が聖書から遠く隔たり、読み書きのできる人でさえ聖書よりも教会の慣わしを重んじてきたのは見逃せません。それは500年の時を得た今でも変わらないのではないでしょうか。聖書を糧として、また聖書を軸にした教会の交わりを糧として育ってきた方々には、今の世と申しますのは甚だ生き辛い場でもあり、時代でもあります。繊細であるほどに過剰に反応しては人間関係に倦み疲れてしまうのです。しかし「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」。このように迫られますとそんなことができるのかと自信を失うわたしたちではありますが、少なくともわたしたちは次の事実は知っています。それは人間は誰もが一度は生涯の終焉を迎えるということです。その場で殺されようと、畳の上で息を引き取ろうと、病院であろうとその現場では具体的には異なるケースでありながらも、その事実は変わりません。NHKでは作曲家の故・古関裕而さんをモデルにしたドラマ『エール』が放送されていますが、戦場でこと切れていく主要人物の姿が描かれていることが話題となりました。ではどのような方を恐れるべきなのかという話になりますが「魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」とあります。「魂も体も地獄で滅ぼす」とは何を意味するかというと「初めからいなかったことにする」、すなわちその人がいたという痕跡を歴史から消し去ってしまうということです。これは極論すれば核兵器でも不可能であり、あらゆる世の人には不可能な行為であります。ここには暴力に基づく恐怖の底打ちが隠されています。暴力による恐怖には必ず限界があります。

 生存の恐怖に絶えず脅かされている人々。そのような人々は、海外だけなく、今やわたしたちの隣に数知れずおられます。未だに治療の先の見えない病に罹患した方々。絶えず借入金の督促の電話が鳴りやまない家。日常的なDVの中で言葉の乱暴さが当たり前となり、それが普通の言葉として習い性になっているこどもたち。けれどもそのような境遇にいる人々に、イエス・キリストは売られている雀を示します。そして「だがその一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」と天を指さします。頭を抱え込む気持ちを十全に分かち合ったうえで、イエス・キリストは父なる神が畏れなけれならない方だけではなく、わたしたちを愛してくださっていると語ります。だから頭をあげなさいと語るのです。ルターもその神の愛に触れたのでしょう。日々新たにされるという聖書の言葉は時に慣わしにしがみつくわたしたちを不安にさせます、しかしその囚われから解放されて新たな扉を開きましょう。



2020年10月16日金曜日

2020年10月18日(日) 説教(自宅・在宅礼拝用です。当日、礼拝堂での礼拝も行われます。)

「わたしたちを悪よりお救いください」  
『ヨハネによる福音書』17章13~26節
説教:稲山聖修牧師

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『ヨハネによる福音書』を、他の福音書から際立たせる特徴として、イエス・キリストが祭司長たちの下役に身柄を拘束されるその前の「ゲツセマネの祈り」とは異なる祈りを献げており、しかもその内容が十字架刑を目前にしての恐怖と苦しみを神に訴えるというよりは、ご自身に従ってきた、世に遺される人々をとりなす遺言のようであるところに見出せます。この箇所で記されるのは「時が満ちた」という意味で、十字架での処刑と復活を通して神の栄光がいよいよ実現するとの確信です。17章11節には「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」。実に粛々と父なる神に、とりなしの祈りを献げているのが分かります。

 しかしその理由はいったい何だというのでしょうか。それは次の箇所に立ち入ることで明らかにされます。「しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです」。「彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです」。この言葉には、敵対関係にある者に対して剣を振うのは言うに及ばず、神から授かったいのちを徒に無駄にするような意味での殉教に焦るありかたを堅く誡めながら、諸々の誘惑から守るようにとの、初代教会で受けいられていくイエス・キリストの教えが記されています。

 史実性には乏しいとされる『ヨハネによる福音書』は、他の福音書と較べて最も後の世に成立している分、初代教会の内外にうごめく様々な誘惑や混乱を見つめていたはずです。その中で献げられる「彼らを悪い者から守ってくださるように」とのイエス・キリストの祈りは切実です。その背景には「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」という主の祈りに連なる『マタイによる福音書』6章13節だけに限りません。中でもいわゆる「荒れ野の誘惑」として名高い、マタイ伝とルカ伝にある誘惑の物語にも詳しいところです。『マタイによる福音書』と『ルカによる福音書』では、洗礼者ヨハネから水による洗礼を授かり、救い主としての歩みを始めるにあたり真っ先に出会う存在が、重い病に罹患した人でも心身に某かの障碍を抱えていた人でも、また異邦の民でもなくて、「誘惑する者」であったところからも窺えます。そこには石をパンに代えてみよとの誘惑、つまり養いや教会のわざを支える糧をめぐる誘惑や「神の子なら飛び降りてみろ」という、直接には神を試す誘惑、立ち入って表現すると神との関わりや隣人との関わりを「試す」ことによって事実上「疑う」という誘惑、そして「世の国々とその繁栄ぶり」を見せつけてキリストへの眼差しや交わりから引き離そうとする誘惑が記されており、以上の誘惑からイエスもまた決して縁なき者ではなかったことが記されています。イエス・キリストは悪に翻弄されるわたしたちに絶えず寄りそってくださるのです。

 それだけではありません。わたしたちが最も「悪い者」の甘い言葉に弄ばれるのは、万事が首尾よくうまく運ぶという場合だけに限らず、むしろ万事休すといった場面で祈りを忘れてしまったときではないでしょうか。『マタイによる福音書』で幸いをめぐる言葉が山上の説教として記されますが、その中には「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい、大いに喜びなさい。天には大きな報いがある」とあります。この言葉は当時のユダヤ教やローマ帝国といった外部からの迫害に限らず、実は教会内部にも巣くっていた争いをも暗示していると思われます。それは初代教会内部の派閥争いについてパウロが『コリントの信徒への手紙Ⅰ』で書き記し、諫めるとおりです。キリストに眼差しを向けるよりも、人の立ち振る舞いに気をとられ足下をすくわれていく混乱があります。けれども『ヨハネによる福音書』でイエス・キリストは、これから自ら味わう苦難への恐れよりも、遺される人々のために懸命になってとりなしの祈りを献げてくださっています。救い主自らの苦しみに代わって人々が、聖書の言葉の正しさによって大いに祝福されるために、です。

 わたしたちが主の祈りをはじめとして、食前の祈りも含めてあらゆる祈りを献げるときには、イエス・キリストがわたしたちのためにとりなし続け、神の愛の力を注いでくださっている事実を深く胸に刻みたいと願います。

2020年10月8日木曜日

2020年10月11日(日) 説教メッセージ(自宅・在宅礼拝用です。当日、礼拝堂での礼拝も行われます。)

「眠れる人を起こされるキリスト」
『ヨハネによる福音書』11章1~11節
説教:稲山聖修牧師

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 Amazonや楽天といった流通業界の革命の中、出版業界の不況が叫ばれて久しくなりました。しかしその中で着実に売り上げを伸ばしている分野があります。ひとつにはコミック、そして小説です。貧困と格差社会の問題が深刻になるところでは小林多喜二の『蟹工船』、感染症の爆発的流行の中ではカミュの『ペスト』が青年層の中で出版部数を上げるという現象が見受けられます。そして仮に最近の10〜20代の若者の間で読まれるところの小説が実はドストエフスキーだとするなら、きっとみなさんは驚かれることでしょう。

ドストエフスキーの代表作のひとつとして知られた作品に『罪と罰』があります。主人公はかつては苦学生であり、貧しさ故に学業を続けられなくなった青年ラスコーリニコフ。「一つの小さな罪悪は百の善行により償われる」。その考えのもと彼は高利貸しの老婆を殺害し、その場に居合わせた老婆の妹のいのちまで奪うこととなり、激しい罪の意識に苛まれます。ラスコーリニコフはその殺人以外には貧困層の家族に施しをしたり、かつては火事の中からこどもを助け出していることから、小説の上では単純に悪人であるとは決めつけられない設定になっています。そのようなラスコーリニコフが出会うのがソーネチカという、酒飲みの父のせいで夜の街に立つこととなった女性。ラスコーリニコフはこの女性と知り合ううちに極めて気高い、そして毅然とした言葉をかけられます。「立ちなさい!今すぐ、これからすぐに行って身を屈め、あなたが汚した大地に口づけをするのです。あなたは大地に対しても罪を犯したのですから」。この女性がラスコーリニコフの改心にあたって読み聞かせる聖書が、本日お読みしたところに重なります。

 ラスコーリニコフが犯した罪とは一体何か。もちろん老婆とその妹を殺害した罪であることは言うを待ちません。しかしその罪の源には正義は一つであるとの思いと過剰なまでの自意識があったのではないでしょうか。自分が正しという思い、あるいは自意識に囚われたままの私たちという意味では、たとえ貧困の最中にあったとしてもその罪を逃れられないという厳粛さが突き詰められるとともに、その囚われからの解放というテーマも同時に扱っているように思えてなりません。時代は帝政ロシアの末期であり、街の規模が大きくなるほど貧困層の人々が増えてまいります。その中で己の境遇に憤りを覚えたラスコーリニコフは、自分の正義の中に囚われて、遂には殺人を犯します。「自分の正義に囚われる」という意味では、わたしたちも同じまどろみの中を彷徨っているのではないでしょうか。追いつめられるほど、わたしたちは一生懸命になりますが、同時にその一方でその一生懸命さがもたらす結果だけが全てであると思いたいとの衝動に駆られることはないでしょうか。人の世では決して正義も、結果もひとつではありません。

『ヨハネによる福音書』で描かれるラザロは、この物語の中では病に罹患し瀕死の状態でした。関わる者全てがラザロの病に胸を痛めながらも諦めの中に立っていたとしてもおかしくないほど重篤でした。しかしイエス・キリストは「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と開いた口が塞がらないような言葉を語るのです。「この病気は死で終わるものではない」。「病気では死なない」と言っているのではありません。重篤な病によってラザロが心ならずも生涯を終えてしまうことを見据えながら、イエス・キリストはラザロが「眠っている」と語ります。だからこそキリストは「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」と言うのです。「起こしに行く」と言うのです。決してラザロの家族の住まう場所は弟子を安心させるところではありませんでした。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行くというのですか」。弟子には思いもよらないイエス・キリストの勢いの理由は「マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」に尽きます。実にシンプルな理由。神の愛はときに人の目にはあまりにも愚かなまでに単純に映ります。この救い主の勢いによって、死に至ったラザロはイエスに手をとられ甦りの道へと引き出されます。

 わたしたちは果たして目覚めているのでしょうか。それとも見えても見えず、聞こえても聞こえないという意味でのまどろみの中にあるのでしょうか。しかし自分の境遇を棚上げしてでもとりくまなければならない事柄、支えなければならない人がいるというのであれば、わたしたちは決して自分の想念のなかだけに落ち込んでいくことはありません。ラスコーリニコフはソーネチカの力によって罪を認めてシベリアへと流されますが、ソーネチカも彼を追って流刑地にやってきます。己の想念の中に囚われ、死に至る病に憑りつかれているわたしたちをイエスは起こしに来られます。自分を差し置いて取り組まねばならない事柄、愛すべき隣人のある人。それだけでその人は幸いです。


2020年10月1日木曜日

2020年10月4日(日) 説教 (自宅・在宅礼拝用です。当日、礼拝堂での礼拝もございます。)

「川の流れは激しくとも」 
『ヨハネによる福音書』10章40~42節 
説教:稲山聖修牧師

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『ヨハネによる福音書』の冒頭では「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光はまことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」とある通り、洗礼者ヨハネは『ヨハネによる福音書』ではイエス・キリストを指し示す一本の指として重要な役割を担っています。それはこの福音書の冒頭1章1~42節までに筆が及んでいるところからも分かるとおりであります。本日、わたしたちが心に留めたいのはこのような『ヨハネによる福音書』の書き手の集団と、本日の聖書の箇所で描かれる人々の言わば「温度差」です。洗礼者ヨハネはイエス・キリストを見事に指し示しました。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその方の履物のひもを解く資格もない。」1章33節にはこう記されます。「わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである」。洗礼者ヨハネは、イエス・キリストを証しするという一大事業をやってのけたのであります。旧約聖書と新約聖書を繋ぐ最後の預言者とさえ呼ばれる理由がそこにあります。しかし本日の箇所ではどうだというのでしょうか。洗礼者ヨハネが最初に洗礼を授けていた所にイエスが滞在されたと記した後に描かれる人々の言葉は「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった」。「ヨハネは何のしるしも行わなかった」とのワンフレーズで、果たして洗礼者ヨハネの働きは総括されるというのでしょうか。そしてイエス・キリストと対比されるべきだというのでしょうか。この温度差にわたしたちは戸惑うのです。

「ヨハネは何のしるしも行なわなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった」。イエス・キリストが聞いた言葉はこのようなものでした。しるしと証し。わたしたちが聖書を読むうえで混乱するこの二つの言葉ですが、福音書でははっきりとした区別があります。しるしの場合は様々な使い方があります。それは決してよい意味ばかりではない場合もあります。『マタイによる福音書』16章1~4節で、イエス・キリストを試そうとして天からのしるしを見せて欲しいと願うファリサイ派やサドカイ派に対し、キリストは次のように答えます。「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが・・・」と語ります。イエス・キリストとわたしたちという、わたしたちが全幅の信頼を置くべき相手に対して、救い主としての証拠を求めるという態度が「しるし」という言葉には見え隠れします。それは場合によっては病人への癒しであったり、5000人もの人々へ食を分かち合うわざとして表現されますが、このような「しるし」というものは、場合によっては求める者の関心や興味、必要を満たすだけのものに留まる場合もあります。今でいう福祉法人の運営であっても、人々の満足度の追求以上にイエス・キリストの宣教のわざの道を整えなければ、到底証しにはなりません。証しと申します言葉は、本来は殉教すら意味する全身全霊を賭したわざである以上に、イエス・キリストに従う喜びに満ちた働きです。そして証しに触れた人々に某かのお土産としての問いかけを残すものでもあります。

 洗礼者ヨハネが水による洗礼を授けたヨルダン川。確かにヨルダン川はところによっては川幅も10メートル足らずという、決して大河とは言いがたい川です。けれども新約聖書の世界では、川に堤防が築かれて治水に万全の体制は取られてはいません。「しるし」と「証し」の間には、時折濁流押し寄せるまことに激しい川の流れがあって、それが人々とイエス・キリストの間を遮るという事態もあり得ます。わたしたちの人間関係にも時としてそれは言えます。相手に対して激しく証拠を求めるとき、そのわざは相手に対する不信が前提になっています。いくら証拠が出てきても、相手を信頼しなければ意味がないのです。けれどもイエス・キリストは、川の流れが激しくとも、ヨルダン川で洗礼者ヨハネが救い主の証しを立てた場所に来られるのです。多くの人が破れを抱えながらもイエスを信じたとあります。洗礼者ヨハネのいのちがけの証しはこのように人々の道しるべとなっていくのです。そのような証しを立てるなら、困難な時代を迎えるほどに、主の交わりは垣根を越えて広がっていくこととなります。祈りましょう。