2018年9月30日日曜日

2018年9月30日(日) 説教「畏れるべきは、誰か」稲山聖修牧師

2018年9月30日
「畏れるべきは、誰か」
マルコによる福音書14章43節~52節
説教:稲山聖修牧師



イスカリオテのユダ。時に反キリストとさえ謗られてきたユダではあるが『マタイによる福音書』27章で、ユダは後悔の念に駆られ、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と告白する。「罪なき人」と不当逮捕されたイエス・キリストの真実を明言しているという点で主イエスに深い思いを抱き続けた弟子であると言える。
それではユダが問われるべき人の弱さとは何か。それは本日の箇所に即するならば、イエス・キリストを「試す」という誘惑に打ち克つことができなかったところにある。
誰かを試すわざは、疑いとほぼ同じ意味である。愛情や信頼を試すのはジョークでは済まない。それは却って相手も自分も傷つけては損なう結果をもたらす。そこには疑う必要のない相手や、畏れるべき相手を見誤っている深い裂け目が隠されている。それはユダの後を従うようにしてついてきた、剣や棒を握りしめた群衆の態度に明らかだ。キリストの愛に喜ぶのではなく、キリストの愛を恐れて武器で以てその力を封じようとする、神の愛への無理解な姿がある。
けれどもキリストはこのような手合いを相手にしない。不安や恐怖に陥れ人心を操ろうとするわざには限界がある。キリストの愛の深さに堪えられないからこそ、群衆は武器を手にしてきた。

畏れるべきは、誰か。この問いかけに堪えられないのは、キリストが見えなくなっているときではないか。例えばわたしたちは話し合いが苦手になる場合がある。その場の人間関係の力学を重んじる余り、言うべき時に語る言葉もなく、その結果黙認におよぶ。多様なものの見方を深めるのが難しい。時には、愛に満ちているはずの言葉を火の粉であると勘違いしては恐怖して口をつぐむ。教会の交わりは、その破れに始まって多くの課題を抱え込む。
『マルコによる福音書』にはクリスマス物語がない。天の軍勢はそれとして姿を見せず、キリストは受難の道を歩む他にはない。それは何よりも、畏れるべき者を見失った人々に、救い主である御自身を示すためである。わたしたちは躓きを経て、イエスが救い主であると気づかされ、恐るべき者が誰であるかを目の当たりにする。パウロは語る。「では、尋ねよう。『ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いをもたらす結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです』」とある。この箇所でいう「ねたみ」は「嫉妬」と言うよりは、熱情を伴う関心だとすべきだろう。
時にわたしたちは、畏れるべきが誰なのかを見失い、「世の尺度」と「キリストを中心にした尺度」をない交ぜにしたまま、思い煩いを抱え込んでしまう。剣や棍棒を振るう者が強いもの、貧困や暴力のもつ不安や恐怖こそが暮しを呑み込んでしまうとの恐怖がそこにある。そのようなわたしたちにイエス・キリストは聖書を通して問いかける。「本当にそうなのですか?」。この問いかけから逃れずに、むしろこの疑問符に背中を押されて、各々の持ち場へと遣わされるのが、わたしたちなのである。


教会がある「こひつじ保育園」で飼っている
ヤギの「ゆきちゃん」とアヒルの「ばぁばちゃん」です。


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2018年9月23日日曜日

2018年9月23日(日) 説教「永遠のいのちのきざし」稲山聖修牧師

2018年9月23日
「永遠のいのちのきざし」
マルコによる福音書14章26節~31節

説教:稲山聖修牧師
 「イエスは弟子たちに言われた。『あなたがたは皆わたしに躓く。<わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう>と書いてあるからだ』。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」。弟子の弱さを見極めたイエス・キリストが語る、自らの復活の出来事を経て、新たに福音の原点であるガリラヤから働きを始めるとの言葉。主イエスは、弟子の絆が弟子自らの躓きによって壊されると分析した後、救い主の復活の出来事が弟子各々の交わりを新たに創造するとのメッセージを語る。けれども今日の箇所では復活の出来事はペトロには隠されたままである。ペトロが語るには「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」。他の者はさておき、わたしだけは違うという思い込み。主イエスを目の前にしながら、なおも神を見ない者の態度が記される。それはあくまで他者との比較にもとづいた自己主張以上のものではなく、ひるがえって隣人を貶める。ペトロはこの問題に気づいていない。
 わたしたちは、ときに教会の奉仕に臨んでも、われ先にと先陣を争う場合がある。奉仕のわざが先陣争いのもと、激しく他者に自己承認を迫るところで終わるならば、それはやがて教会に疲れをもたらし、交わりの解体につながってしまう。初代教会の指導者でもあったペトロに、物語の書き手がこのような問題のある言葉を語らせている背景には、そもそも教会の交わりや奉仕というものが、まず相手あってのわざであることに鈍感な態度があったのかもしれない。『コリントの信徒の手紙Ⅰ』1章で、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」といった争いが起こり、その現状を前にしてパウロが「勝手なことを言わず、仲たがいをせず、心を一つにし思いを一つにし、固く結びあいなさい」と「主イエス・キリストの名によって」強く勧める箇所がある。全てのわざに先んじて求められるべきは「主イエス・キリストの名によって」「心を一つに思いを一つにし、固く結び合い」、隣人愛を祈りのもとに行うことにある。けれどもペトロはあまりにも頑固だ。これでは諸事情により奉仕のできない身に置かれた人々は、教会から一人また一人と去っていくことだろう。ペトロの頑なさはキリストが「あなたは今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしを知らないと言うだろう」と諫めても決して砕かれることはない。
 主イエスとの世の訣別を前にした晩餐の席でさえ、言い争って止まない弟子の頑なさ。この頑固さが砕かれる決定的な契機は、イエス・キリストのいのちが十字架で絶たれる出来事より他にはなかった。けれどもそれは同時に永遠のいのちにいたる道が示され、開かれることでもあった。パウロは『ローマの信徒の手紙』11章2節で旧約聖書のエリヤ物語を引用しつつ語る。経済の発展ばかりに心を奪われ、神の言葉を蔑ろにし、神を無視した繁栄と権力を求め続けたアハブ王。この王に追いつめられ、いのちを狙われた預言者エリヤには、弱者に寄り添うアブラハムの神との関わりを重んじた七千人の民の姿は隠されたままだった。十字架で息絶えたキリストが、葬りの後に復活するという出来事も今朝の箇所では隠されたままだ。しかしその出来事を讃える歌が今日の箇所にはかすかに響く。主の晩餐の後、「一同は讃美の歌を歌った」と記されている。この讃美に包まれながら、わたしたちは相手が今何を求めているのか、祈りの中で待ちながら聴く力を与えられる。早さや要領といった効率ばかりが求められる現代では、待つ姿勢は時に勇気の要るあり方だ。しかしその中でわたしたちは隠された時を見極め、神の国の訪れを待つ。時の流れに介入する永遠のいのちの主なるイエス・キリストを見つめ、祈りに包まれた奉仕のよりどころを確かめたい。



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2018年9月16日日曜日

2018年9月16日(日) 説教「先立って道を整えるイエス・キリスト」 稲山聖修牧師

2018年9月16日 長寿感謝の日礼拝
「先立って道を整えるイエス・キリスト」
マルコによる福音書14章12節~16節

稲山聖修牧師
  イエス・キリストが何かを備えよと弟子に語る時。それは某かの仕方でイエス・キリストの受難の歩みを暗示する。都エルサレムに入城される場合には「誰も乗ったことのないこどものロバ」を備えるようにと弟子に命じる。メシアはローマ帝国を力で打ち負かすような王の姿を身に纏うのではないという無言のメッセージ。苦役を担うこどものロバがむしろメシアにはふさわしい。小さなロバもまた弟子たちの知らないところで備えられた。弟子にそのわけは隠されたままで。
 今朝の箇所ではいわゆる「主の晩餐」の整えが記される。弟子には、まさか主イエスから「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」と聞くとは予想だにしなかった。晩餐を囲む過越の祭がエジプト脱出の祝いであることは弟子の群れも知っている。しかしその席で代わるがわる「まさかわたしではないでしょう」と言い始めることになるとは。弟子の交わりは、主イエスを囲む過越の祝いの席で疑心暗鬼に襲われ、バラバラにされるという痛ましい事態を迎える。「まさかわたしではないでしょう」、逆にいえば「誰かが主イエスを裏切ろうとしている」という告発のもと、信頼が猜疑の念に呑まれるという、無残な場面への前奏曲が静かに響く。
しかし、である。この交わりの解体という、現代人のあり方にも重なる事態に、もしイエス・キリストの道備えが隠されているならば、わたしたちは何とするのか。一般には隠されているが、わたしたちには備えがあるとの物語が始まる。「除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、『過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意をいたしましょうか』と言った。そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。『都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。<先生が、弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか、と言っています>。すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい』。弟子たちが都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した」。確かに弟子にはまさか互いに「別の者が主イエスを裏切ろうとしている」言い争うとは夢にも思わなかった。これにはわたしたちも、深い悲しみに満ちた破れとして嘆かずにはおれない。人は齢を重ねるほどに、このような悲しみもまた日常の事柄だと受けとめずにはおれない。けれどもその道もまた、キリストの道備えによるものであったと理解するのならば、実はイエス・キリストには、弟子の裏切りは想定内であったばかりか、裏切りを凌ぐいのちの光をもって、新しい信頼関係を再び構築してくださるという確信を授かる。イエス・キリストの十字架の出来事によって、弟子は万能感や誇らしげな思いを砕かれ、その浅はかさから解放される。弟子の絆の解体という悲しみを吹き飛ばす十字架での出来事、そしてバラバラになった弟子を再び集める、葬りを貫いた復活の出来事。パウロが『ローマの信徒の手紙』10章21節で「わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた、と言っています」と語るとおり、弟子に先立って道を整えるイエス・キリストのわざは、十字架を前に絶望せずにはおれなかった民をやわらかく、あたたかく包み込む。どれだけ齢を重ねたかというデータより、主イエスの愛に包まれる喜びを経てきた証しを言祝ぎたい。長寿感謝の礼拝を迎えた。手に刻まれた皺は、数値でははかれないキリストの愛に支えられて歩んできたしるしである。そのしるしの示す喜びを、わたしたちもともにしたい。


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2018年9月9日日曜日

2018年9月9日(日) 説教「語る者と聴く者の信頼あふれる交わり」 稲山聖修牧師

2018年9月9日
説教「語る者と聴く者の信頼あふれる交わり」
マルコによる福音書14章3節~9節
稲山聖修牧師


 「イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席についておられたとき、一人の女性が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた」。この箇所からすると、この女性はさぞや裕福な階層に属しているように思い込みがちだ。けれども福音書の書き手はこの女性の出身には関心を抱かない。女性が富裕層に属するのか、それとも果たして女性の奴隷であり、たまたま主人の言いつけで買い求めた品を主イエスに献げたのかは分からない。しかしこの女性に何らかのわけがあり、主イエスのもとを訪ねていたのは疑いがない。なぜならば舞台は「重い皮膚病の人シモン」の家だからだ。
 かつての聖書では「重い皮膚病」は「らい病」として訳されていた。議論はあろうが、あらゆる交わりから絶たれてなお、福音書のイエス・キリストの癒しの物語に、実際に「らい病」であるハンセン病に罹患した方々が深く感銘を受けて光を見出した事実は色褪せない。家族からも「初めから存在しなかった人」として交わりを絶たれていたシモン。この場でなぜ女性がイエス・キリストを訪ねたのだろう。イエス・キリストとの交わりはシモンとの交わりを包む。単なる気まぐれや興味本位だけでは、この交わりに加わるにはあまりにも生活に抱え込むリスクが大きい。世にある交わりを捨てる覚悟でこの女性は主イエスを訪ねた。尋常でない決意と勇気がその態度にはある。
  しかし、である。その場にいた人々は、女性のわざを讃えるどころか、こぞって憤慨し、非難し始める。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は300デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに」。日当にあたる1デナリオンを8,000円換算すると香油の見積もりは240万円にはなる。興味深いのは、シモンの家に集っていた者の中には、当時の香油相場でのナルドの香油の価格を知っている者がいたことだ。そう考えれば、咎め立ては香油そのものの値打ちを評価しているように思えるが、実際は大問題を抱えている。
 それは、香油の値打ちを値踏みしてはいても、イエス・キリストとそれまで排除の苦しみにあったシモンとの出会いと交わり、そしてキリスト御自身の苦難の歩みを心に刻むわざには無関心な態度だ。香油を注いだ女性の想定外のわざは、救い主が十字架にかけられるという、これもまた当時としてはメシアの想定外の歩みと深くつながるしるしになっている。「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときによいことをしてやれる」。この役目は香油を注いだ女性にではなく、そのわざに憤慨するその場に居合わせた人々に向けられる。もちろん、弟子達もそこにいる。女性の振る舞いを激しく咎め立てをする以上、貧しい人への支援は「あなたがた」に託された当然の役目となる。これはイエス・キリストの事実上の命令だ。

 初代教会の人々でさえ、教会が立ちもし倒れもする軸が何なのか、そしてどこに根を降ろすべきなのかを、香油の金額に象徴される事柄に囚われて見失うこともあった。『ローマの信徒への手紙』10章17節でパウロは「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まります」と語る。まことの信頼は、御言葉にしっかりと根を下ろした交わりから始まる。その礎は教会にあっては端的に「礼拝」となる。生きるほろ苦さはイエス・キリストを道とする神との出会いへとつながる。繰り返しその源を確かめながらいのちの喜びを一層深く噛みしめるわざ。たとえこの世の嵐、暮しの嵐の只中にあったとしても、なおもわたしたちは、あのシモンの家にあふれた、キリストの香り、ナルドの香油の香りを身にまとって、暮しの場へと遣わされるのである。

説教要旨中に掲載した植物の写真は、
教会がある「こひつじ保育園」で撮影したものです。

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2018年9月2日日曜日

2018年9月2日(日) 説教「献げて授かるわざに導かれて」 稲山聖修牧師

2018年9月2日
「献げて授かるわざに導かれて」
ローマの信徒への手紙10章14~15節
マルコによる福音書12章38節~54節
稲山聖修牧師


本日の聖書の箇所で、イエス・キリストが群衆に語る言葉としては、まずは次のようなものがある。「律法学者に気をつけなさい」。よくよく考えると不思議な言葉だ。なぜならば、律法学者とはその時代の名のある人々からは広く尊敬を集めていたからだ。なぜ主イエスはかように語ったのか。博識な学者たちに欠けがあるのだとすれば、誰のために学んでいるのかという使命感だったのかもしれない。使命感を忘れた学識は、いきおい権力欲や名誉欲と深く結びつく。イエスの分析は律法学者が置かれた経済状況にまで及ぶ。「やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする」。貧しい寡婦から献げられた糧に感謝もせず、その痛みに寄り添おうともしないという鋭い指摘。人々はこの教えにより、律法学者を個人崇拝のように敬う態度から、アブラハムの神そのものへと頭(こうべ)をあげる信仰へと導かれたのではなかったか。
この箇所の後にイエス・キリストが示すのは、今度は律法学者に食い物にされていたはずの「やもめ」だ。その姿は大勢の経済的に満たされた人々とは対照的に描かれる。神殿に寄進する富裕層の中、ひとり献げものをするやもめ。「ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨2枚、すなわち1クァドランスを入れた」と記される。1クァドランスは125円ほどの金額だ。なぜ主イエスはこの女性に注目するのか。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余っているものの中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである」。すなわち、額としては僅かであるにも拘らず、やもめは財産だけではなく、自分の暮らしを全てアブラハムの神に献げたのだというところに、主イエスの言葉の鋭さがある。支払ったのでも、納めたのでもなく、献げたのである。どのような動機があったのか。どのような負い目がやもめにそうさせたのか。その理由はだれにも分からない。あくまでもやもめだけが知る秘密である。けれどもそのわざにより,貧困層のやもめは、主なる神との関わりの中で自らのいのちを受け取り直したのだ。そのことを主イエスは見逃さなかった。
『マタイによる福音書』の16章26節に記された主イエスの教えには「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」とある。「手に入れる」ということと「授かる」ということは、似ているようで実は全く異なる。「手に入れる」ことは自分のものにすることだが、「授かる」とは贈ってくださった相手との畏敬に満ちた関係が鮮やかに映し出されているからだ。何よりも大切なのはこの命綱なのだと、イエス・キリストは語る。「信じたことのない方を、どうして呼び求められよう」とパウロは語る。この命綱に目覚めたとき、人はあらゆる欠けや破れや思い遺しを抱きながらも、その破れもまた授かりものとして受けとめることができるようになる。イエス・キリストが十字架の上でわたしたちの受けるべき審判を受けてくださったからこそ、そして復活のいのちの力の中へと巻き込んでくださったからこそ、わたしたちは神の国の何たるかをおぼろげながらに、キリストの復活を通して、そして神の愛の力である聖霊の働きにより確かめられる。その交わりをどのように育んでいくのかが、今、問われている課題でもある。主なる神に献げて授かるわざに導かれて、わたしたちも全てをキリストに委ね、新しい道を授かる者でありたい。


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