2023年1月26日木曜日

2023年1月29日(日) 礼拝 説教 (コロナ禍対策により対面式の聖日礼拝は休止させて頂きます)

―降誕節第6主日礼拝―

時間:10時30分~

※コロナ禍対策により
しばらくの間、会堂を用いずリモート中継礼拝・録画で在宅礼拝を執行します。
状況に変化があれば追って連絡網にてお伝えします。


説教=「あなたは孤独であるはずがない」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』21 章 1~9 節
(新約聖書  151 頁).

讃美=517,495,545.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 年末年始に大阪市西成区のあいりん地区では「釜ヶ崎越冬闘争」の名のもと、大がかりな炊き出しや道端に横たわる方々に毛布を配布したり、おにぎりを配布したり、具合を尋ねたりする働きがいつにも増して盛んになります。公園では暖をとるためにドラム缶に火が焚かれ、公園ではさまざまなジャンルのアーティストが歌を歌い続けます。里に帰れない人々を励ますためです。その様子は現在、SNSによって知ることができます。21世紀も4分の1にいたろうとする今も、現場で仕える若者がいるのは心強いかぎり。炊き出しに並ぶ人々には30~40代の方々もいるという厳しさの中、10年に一度のこの寒波を押して活動は続きます。

 さらにそのような事情の中で、なおも暮しを互いに支えあおうと意欲を燃やす人もいます。当事者としてそうせずにはおれないという人は、たとえ住む家がなくても、自ら炊き出しのテントで包丁を握り、寄付された野菜を刻み、肉を切り、大釜に湯を立て味噌を入れます。また手にした握り飯を「兄ちゃんもな」と若者に渡します。決して「されたがり」ではなく「したがたり」ではあるけれど、それができない辛さを知っているからこその行動。その実情が分かる現場。「上から目線」での奉仕は続きません。

 本日の『聖書』では、エルサレムの神殿の境内に備えられた献金箱になけなしのお金を献げる独り身の女性の姿が描かれます。金持ちが集まって献金箱にお金を献げる中、女性は手に握りしめた銅貨二枚、今で言えば150円程度の額を神に献げます。それを見た人の子イエスは「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちはみな、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである」と語ります。額もまた切実です。ごく短い箇所ですが、わたしたちは教会で献げる献金のモデルとしてこの女性を引用します。しかし別の見方をいたしますと、まだこの箇所では「有り余る中から献金した金持ちたち」と「乏しい中から持っている生活費を全部献金箱に入れた女性」との関わりは分断されたままのように思えます。本来ならばイスラエルの神が臨み、現にそこにいるはずの神殿では、すべての世にある分断と、その分断から生まれるところの苦しみが癒され、交わりの回復の場となるはずです。しかし本日の箇所では、却って富める者と貧しい者との差が際立ち、人の子イエス自らもその違いを弟子に示すだけで、解決する道を示しているようには見えません。

 そのわけを、続く箇所から探ってまいりましょう。「ある人たちが、神殿が見事な石と奉献物で飾られていることを話していると、「イエスは言われた。『あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る』」とあります。当時のエルサレムの神殿に惚れ惚れしてしまう人々は『ルカによる福音書』では漠然と描かれるだけですが『マルコによる福音書』13章では弟子もまた同じように我を忘れて魅入ってしまいます。それほどまでに見事な神殿は、決してイスラエルの民が自ら建てたのではなく、ローマ帝国の支配のもと、ヘロデ大王の治世に再建された神殿でした。つまりこの神殿は、ローマ帝国の支配の寛容さを顕示する目的も兼ねた建造物であり、集う人々の気持ちとは異なって、極めて政治色の濃い建物でした。そのような建造物は、移りゆく世とともに崩れ去ります。ご覧の通り、本日の箇所ではエルサレムの神殿は人の子イエスが幼かったころとは全く異なっています。そこはマリアとヨセフが幼子を連れて12年もの間、詣で続けた場ではなく、いずれは滅び去る人の世の象徴に過ぎません。そしてその特性は、やがて訪れる神の愛の統治、すなわち神の国の訪れと深く関連づけられてまいります。この神殿の存続よりも大事なのは神の愛による統治であり、その統治を前にして「人に惑わされるな」、「戦争や暴動は起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ない」、「大規模な争いがあり、自然災害があり、飢饉や疫病がある」、「あなたがたは起ころうとしているすべてから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」と人の子イエスは語ります。その後、民衆はみな話を聞こうとして、神殿の境内にいる人の子イエスのもとに朝早くから集まります。誰もが福音を求めているのです。『マタイによる福音書』24章14節では「そして御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから終わりが来る」と記します。この福音につつまれて、本日の聖書の箇所の金持ちと貧しい独り身の女性の関係も変わるに違いありません。すなわち、イエス・キリストを中心として、あの「徴税人ザアカイ」がそうであったように、金持ちは時に不正な手段によって得た全財産を用いてでもこの女性の暮らしを支え、独り身の女性は貧しい暮しの中でなお神に感謝して生きるという、金銭にはかりがたい喜びを金持ちに伝えます。イエス・キリストが伝えた福音の内容とは、すべての断絶が癒され、分かちあいが回復する「神の平和の実現」をも含みます。「神の平和」は戦争がないという状態を超えています。

 遺されたわずかな財産でさえ親族の分断をもたらす世。表向き豊かだとされてはいても、誰にも看取られずに召される人の絶えない時代。そのただ中で、あなたは独りではないと語るイエス・キリストがどこにおられるのかを見極め、祈りを重ねましょう。

2023年1月17日火曜日

2023年1月22日(日) 礼拝 説教 (コロナ禍対策により対面式の聖日礼拝は休止させて頂きます)

―降誕節第5主日礼拝―

時間:10時30分~

※コロナ禍対策により
しばらくの間、会堂を用いずリモート中継礼拝・録画で在宅礼拝を執行します。
状況に変化があれば追って連絡網にてお伝えします。


説教=「神の救いはすべての人へ」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』4 章20~30 節
(新約聖書  108頁).

讃美=399,453,545.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


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【説教要旨】
 人の子イエスが弟子とともに故郷ナザレへ戻られ、村の会堂でその時代の『聖書』の巻物を手にとって教えを語られるが、村人はイエスの智恵の由来や出自や家族構成ばかりを気にして、教えの内容には全く関心を向けないという「ナザレで受け入れられない」という物語。読みようによっては、人の子イエスの世にある家族や地域との間に抱えた摩擦や誤解といった、ローカルではあるけれどもわたしたちにも人ごとならざる課題や、イエス自らの家族構成を福音書はどのように描いていたのかという問いに迫る上では大切な箇所であるようです。それは『ヨハネによる福音書』を除くほかの福音書がすべてこの物語を欠かすことなく用いているところにも明らかです。しかし本日の『ルカによる福音書』の箇所では、人の子イエスに向けられた村人の気持ちというものが、単なる無理解に留まらず、殺意にまで膨らんでいくという、極めて異様な展開を見せているところにその特徴があります。

 イエスが会堂で『聖書』にある『イザヤ書』の「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」との言葉を朗読し、「この『聖書』の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始めたとき、会堂にいたすべての人々はイエスを褒めた、とあります。しかしその後人の子イエスは、異邦人の暮すカファルナウムで行なった癒しを里の村でもしてくれと求めるに違いないと人々を突き放します。「預言者は故郷では歓迎されない」とし、『旧約聖書』の預言者エリヤは、干ばつと大飢饉の危機に際し、イスラエルのやもめのもとにではなく、東地中海に面したシドン地方のサレプタのやもめだけに遣わされた記事、そして預言者エリシャはイスラエルの民にいる重い皮膚病に罹患した人のもとにではなく、シリア人ナアマンのみに遣わされ、この人のほかには清められなかったと語るのです。

 『旧約聖書』の物語では、サレプタのやもめに遣わされたエリヤは、干ばつと飢饉に苦しむやもめの飢えを満たし、疫病に罹患し息を引きとった息子を祈りのうちに甦らせます。このやもめは「あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です」と喜びのうちに語ります。アラム人の王の軍司令官ナアマンは、重い皮膚病を身体中に患い、イスラエルの王にその病のゆえに拒絶された後、エリシャに遣わされた使者の言うとおりにしたところその身が癒されて「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かった」と語ります。エリヤの物語にしても、エリシャの物語にしても、その時代のイスラエルの民、あるいは王と申しますものはいわば乱世で、アブラハムの神を仰ぐ者はまことに少なく、預言者もまた石を投げられ、いのちを奪われかねないという事情のもとにありました。その中で預言者の言葉を信頼とともに受けとめたのが、その時代のイスラエルの民からは程遠い、都市国家シドンに暮らすやもめと息子、そして「汚れた者」としてイスラエルの王から遠ざけられたアラム人の王の軍司令官ナアマンであったとの『聖書』の記事。これこそ主イエスが故郷の人々に向けた刺激的な言葉でした。確かに実に耳に痛い言葉だったでしょうが、『聖書』の言葉には変わりません。本日の箇所にたぎる人の子イエスへの村人の憎しみは、『聖書』の言葉に従うのではなくて、『聖書』ばかりか、人の子イエスのなさる奇跡もまた、自分の思惑通りに用いたり、わが身の正当化に用いたりと、便利な道具にしようとしたりするエゴイズムの正当化のため以上には『聖書』に触れてこなかった闇に由来します。

 『聖書』を通してイエス・キリストの言葉に出会う。これはすべての人に向けられた神の愛のメッセージとの出会いです。しかし人間は悲しいかな、その素晴しいメッセージでさえ、都合よく改ざんしたり、矮小化したりしようとします。都合よく手入れをしようと試みるのです。たとえば問題ばかりの組織や政治の正当化、自己弁護の正当化、戦争の正当化。これらがどのような結果を招くかは、わたしたちはカルト宗教や政治家の『聖書』の濫用を見るまでもなく、福音書に記される荒れ野の試みの物語の中で、悪魔が人の子イエスを『聖書』を用いて誘惑するところを見れば明らかです。神を試すことを煽る悪魔は、神への猜疑心をイエスから引き出そうとしますが、イエス・キリストはその誘惑に毅然と立ち向かいます。本日の箇所でも、会堂にいた人々は憤慨するあまり、イエスを村の外、町の外にまで追い出して、崖から突き落とすという、正式な裁判を経ないままで「石打ちの刑」に処そうとします。しかしこの殺意に満ちた村人にも神の救いのメッセージである福音は届いています。この民を神は大地に根付く野生のオリーブの根とし、すべての人々を接ぎ木とされるオリーブの枝として用います。人々はイエスを殺害できなかったのです。

  わたしたちは忙しさにかまけて『聖書』から遠ざかることがしばしばです。分かりやすさを求めて参考書を用いているうちに、『聖書』より参考書がありがたくなる場合もあります。しかし『聖書』を味わう上で、最も肝腎なのは無理矢理「分かろう」とするよりも「分からない」箇所こそがわたしたちに問いかけているメッセージです。神の救いはすべての人々に向けられています。



2023年1月10日火曜日

2023年1月15日(日) 礼拝 説教 (コロナ禍対策により対面式の聖日礼拝は休止させて頂きます)

―降誕節第4主日礼拝―

時間:10時30分~

※コロナ禍対策により
しばらくの間、会堂を用いずリモート中継礼拝・録画で在宅礼拝を執行します。
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説教=「ペトロの嘆きと喜び」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』5 章 1~11 節
(新約聖書  109頁).

讃美=247,243,545.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


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【説教要旨】
 多くの病人を癒し、古代ユダヤ教の多くの会堂で教えを語ったイエス・キリスト。そのイエスは一箇所に留まるのではなく、いろいろなところを巡り歩いていたと本日の箇所に先立って『ルカによる福音書』は語りかけます。そして今やイエス・キリストの働きの場は、イエス自らにも身近であったであろう湖の畔に移ろってまいります。わたしたちはその湖の名が「ガリラヤ湖」ではなく「ゲネサレト湖」となっているところに違和感を覚えたとしても、本日のメッセージでは敢えて重点をおきません。この呼び名は人の子イエスが向き合う、これからイエスに出会う人々がどこに暮していたのかを示すだけであります。ゲネサレトとは湖の西側にある平原地帯を指し、その地方から呼んだガリラヤ湖の別名です。同じ山であってもネパール側から見ればエベレスト、チベットの側から見ればチョモランマと呼ぶのと大差はありません。要となるのは、救い主としての働きを始めた人の子イエスに、誰が出会ったのかという事柄です。もちろん本日の箇所までイエスは癒しを必要とする多くの人々と出会ってきたのですが、この湖で出会うのは、人の子イエスの弟子となる者、すなわちシモン・ペトロを始めとしたガリラヤの漁師です。押し寄せてきた群衆に等しく教えを伝えるために、イエスは一艘の舟を借りて岸から少し漕ぎ出すよう頼んだとあります。その折漁師は何をしていたかといえば網を洗っていたとあります。これは漁師としての仕事を終えて破れた網を繕っていることでもあります。漁師の仕事の時間は夜。舟の松明に火を灯して湖へと網を投げてまいります。暗闇の中で漁師は魚を獲るべく模索いたします。幾度と網を投げても網には決して手応えがありません。手応えがあったと思い強引に引揚げれば、水底に沈んだ木っ端に網は引き破られるばかり。この上ない無力感と暮しの絶望の淵に立ち尽くす他なかった漁師の姿がありました。その漁師にイエスは語りかけます。「沖へ漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」。昼日中にいい加減にしてくれ、素人は黙ってくれとの苛立ちが察せられます。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」。「何もとれませんでした」とは、事実上の敗北宣言であり、今日からの暮らしをどうすればよいのかという嘆きです。見通しが立たないのです。だからこそその言葉に賭けるほかありません。「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」。失うものはなにもない。漁には素人の人の子の言葉に賭けるほかなかったのです。
 その結果はどうなったか。漁師の予想に反して数え切れないほどの魚が網にかかり、網が破れそうになり、もう一艘の仲間に助けを求め、舟が沈みそうになるまでの収穫を得ることができました。ただし、この箇所で物語が終われば、大漁旗の話でめでたく幕降ろしとなりますが、それにしてははじめてイエス・キリストと言葉を交わした漁師のシモン・ペトロの言動は奇妙です。素直に喜べばよいものを、イエス・キリストの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と呟くのです。ペトロだけではなく、ゼベダイの子ヤコブもヨハネも同様だったというのです。よくある解き明かしでは、イエスの教えを信じ切れていなかった、半信半疑の漁師たちの畏怖の念が描かれているともされますが、果たしてその理解に留まっていてよいのでしょうか。
 実はこの箇所にはまことに象徴的な言葉が散りばめられています。例えば「魚」。「イエス・キリスト・神の・息子・救い主」との初代教会の信仰告白の頭文字をとりますと「魚」というギリシア語に一致します。これは教会との関わりを尊ぶ人々の連なりを示しているとも読みとれます。しかしさらに問われるのは、福音書という『新約聖書』の書物が、全てイエス・キリストの苦難と十字架での死、そして復活を軸にして展開しているということです。イエス・キリストが大祭司の手下や祭司長の下役に不当に身柄を拘束された後、ペトロは鶏が鳴く前に三度人の子イエスとの関わりを否定します。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに三度わたしを知らないというだろう」。これは使徒ペトロ個人の躓きに留まらず、使徒たちが導いた教会の躓きにも及ぶ言葉です。皮肉ながら、ペトロはイエス・キリストとの関わりを否まなければ、その教えの当事者にはなれませんでした。涙をもって受けとめることができなかったのです。それでは使徒ペトロは弟子失格だったのでしょうか。破門されたのでしょうか。そうではなかったのです。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」。多くの躓きを重ねる弱さを見抜きながら、その度に「沖へ漕ぎ出して漁をしなさい」と語るイエス・キリスト。闇の中で頑なにあがき続けるのではなく、神の希望の光の中で、世の只中へと漕ぎ出していき、人々と交わりを育み、広げていく愛の力を信頼しましょう。わたしたちはイエス・キリストを前にして、ただただひれ伏すのみです。それが聖日の礼拝に備えられた「頑なさを砕く」という神の愛に活かされる者の決して軽んじられてはならない、尊い奉仕のわざです。礼拝の尊さです。奉仕が謙遜を失うのであれば、それはイエス・キリストの望まれはしないでしょう。どんなに小さくても、イエス・キリストに背中を押されて人に仕える、新しい一週間を始めましょう。

2023年1月4日水曜日

2023年1月8日(日) 礼拝 説教 (コロナ禍対策により対面式の聖日礼拝は休止させて頂きます)

  ―降誕節第3主日礼拝―

時間:10時30分~

※コロナ禍対策により
しばらくの間、会堂を用いずリモート中継礼拝・録画で在宅礼拝を執行します。
状況に変化があれば追って連絡網にてお伝えします。


説教=「聞け、わたしの愛する子に」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』3 章15~22 節
(新約聖書 106 頁).

讃美=291,461,545.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 クリスマスの出来事が人の子イエスの世に遣わされた喜びを示すのであれば、ナザレで成人にいたるまで成長したイエスがバプテスマのヨハネより洗礼を授かるという本日の箇所は、教会ではイエス・キリストの公生涯、すなわち救い主としての公の生涯の始まりとして伝えられています。つまりクリスマスの物語とはどちらかといえば神の秘義として本来は隠されているところの物語を書き記しているのに較べまして、洗礼者ヨハネとの出会い以降の物語はあまねく人々に告げ知らせられる福音を人の子イエスのあゆみを通して、わたしたちはより具体的に見聞きすることとなります。同時に「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするためにきた」とあるように、洗礼者ヨハネとの出会いによって一層輝きを増したイエス・キリストのいのちの光が照らした世にある事柄を「喜びの知らせ」である福音書はみな書き記しています。
それは「領主ヘロデが自分の兄弟の妻へロディアとのことについて、また自分の行ったあらゆる悪事」という言葉に代表されるところの、闇にうごめく人間の破れに満ちた姿です。へロディアはもともとクリスマス物語でベツレヘムの幼子を虐殺するヘロデ大王の息子フィリポと結婚した後に、異母兄弟である領主ヘロデと恋仲になり兄弟間で離婚と同時に結婚をするとの裏事情がありました。ヨハネが指摘したのは「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されてはいない」ところです。洗礼者ヨハネは領主の振る舞いに敢然と立ち向かいます。誰から支持されるのでもなく、世にある何者から「そうしろ」と言われたわけでもなく、です。これは原罪というようなぼんやりとしたものでなくて、モーセの律法に対するところの過ちです。つまり現行罪、実際に行った過ちを過ちとして誡めたその結果、ヨハネ自らが囚われの身になっていきます。しかし同時に領主ヘロデ自らはヨハネを正しい聖なる人だと知り、恐れつつ保護し、その教えに喜んで耳を傾けていたとも『マルコによる福音書』は記します。福音書に折に触れて顔を出すヘロデ大王の係累の姿は、そのような振る舞いをただただ諦めの中で黙認するほかない態度の歪みを象徴しています。
しかし人の子イエスもまた、そのような歪みに満ちた世にある人の列に加わって、ヨハネから洗礼を授かろうとします。これはキリスト教の教会で行うところの洗礼とは意味が全く異なる「清めの洗礼」、すなわち洗礼者ヨハネのもとで歪みに満ちた世に踏み出す人の子イエスが、わたしたちの味わう苦しみを全て担って、いのちの扉をこじ開ける生涯の記念とも言うべき場面です。福音書によっては、洗礼者ヨハネがこの出来事を躊躇する描写も見受けられます。しかしもし人の子イエスが歪みを抱えた人々の列に加わらなかったとするならばどのような事態となったことでしょう。わたしたちが暮らしや社会、世にある苦しみや生きづらさをいっさい顧みない、夢幻のような救い主でしかあり得なかったのではないでしょうか。逆に言えばそれは、わたしたちが妄想の中で、仮想現実の中で自己本位に抱くところの理想としての救い主、ユートピア幻想以上でも以下でもない救い主でしかありません。人の子イエスの救い主としてのあゆみは、決してそのようなお花畑の出来事ではないのです。
例えば今、わたしたちは身近にコロナ禍、電気代やガス代、農業では肥料や家畜の餌の価格と直結するウクライナ問題と関係して、さまざまな生活上の不安を抱えています。物価高で食に苦しむこどもたちの貧困の原因は地球規模の視点と地域に根ざす眼差しによって解明されます。『新約聖書』の物語ではより深刻な生活苦の中で救い主を待ち続けていた人々の声として、弟子たちはイエス・キリストに「世の終わりの徴」を問います。それは「生活につきまとう苦難の終わりの徴」とも受けとめられます。その問いにイエス・キリストが答えるには「人に惑わされるな」「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけよ、それは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない」と、戦争が起こるに決まっており、さらにそれは世の終わりではないと明言いたします。不安に覆われていた人々にこれほど冷静な見通しを語りうる救い主がイエスなのです。それは世の歪みにある人々とともにあればこそ、当事者でありながら神の智恵をもって何ら慌てふためくことなくまことの救いとは何かを、人に表面上の歪みがあろうとなかろうと問わず、神の愛の力をもって、人々を鎮め、平安へと導く道としてお示しになります。
2023年の1月も第2週を迎え、しばし忘れていた課題が目眩とともに重く立ち塞がっているような思いも抱く日もありました。しかし今日の箇所では、イエス・キリストがわたしたちの歪みを担われる徴として洗礼を受けて祈っていると、神の愛であるところの聖霊がイエスに降ったとあります。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」との言葉とともに、です。もしわたしたちが行く道に少しでも不安を覚えるのであるならば、神の愛する子イエスにどうすればよいのか、祈りつつ問い尋ねてみましょう。神は必ず道を拓いてくださります。時に待ちつつ、そして時を違うことなく歩む力を、主なる神は備え給います。