2023年1月17日火曜日

2023年1月22日(日) 礼拝 説教 (コロナ禍対策により対面式の聖日礼拝は休止させて頂きます)

―降誕節第5主日礼拝―

時間:10時30分~

※コロナ禍対策により
しばらくの間、会堂を用いずリモート中継礼拝・録画で在宅礼拝を執行します。
状況に変化があれば追って連絡網にてお伝えします。


説教=「神の救いはすべての人へ」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』4 章20~30 節
(新約聖書  108頁).

讃美=399,453,545.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 人の子イエスが弟子とともに故郷ナザレへ戻られ、村の会堂でその時代の『聖書』の巻物を手にとって教えを語られるが、村人はイエスの智恵の由来や出自や家族構成ばかりを気にして、教えの内容には全く関心を向けないという「ナザレで受け入れられない」という物語。読みようによっては、人の子イエスの世にある家族や地域との間に抱えた摩擦や誤解といった、ローカルではあるけれどもわたしたちにも人ごとならざる課題や、イエス自らの家族構成を福音書はどのように描いていたのかという問いに迫る上では大切な箇所であるようです。それは『ヨハネによる福音書』を除くほかの福音書がすべてこの物語を欠かすことなく用いているところにも明らかです。しかし本日の『ルカによる福音書』の箇所では、人の子イエスに向けられた村人の気持ちというものが、単なる無理解に留まらず、殺意にまで膨らんでいくという、極めて異様な展開を見せているところにその特徴があります。

 イエスが会堂で『聖書』にある『イザヤ書』の「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」との言葉を朗読し、「この『聖書』の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始めたとき、会堂にいたすべての人々はイエスを褒めた、とあります。しかしその後人の子イエスは、異邦人の暮すカファルナウムで行なった癒しを里の村でもしてくれと求めるに違いないと人々を突き放します。「預言者は故郷では歓迎されない」とし、『旧約聖書』の預言者エリヤは、干ばつと大飢饉の危機に際し、イスラエルのやもめのもとにではなく、東地中海に面したシドン地方のサレプタのやもめだけに遣わされた記事、そして預言者エリシャはイスラエルの民にいる重い皮膚病に罹患した人のもとにではなく、シリア人ナアマンのみに遣わされ、この人のほかには清められなかったと語るのです。

 『旧約聖書』の物語では、サレプタのやもめに遣わされたエリヤは、干ばつと飢饉に苦しむやもめの飢えを満たし、疫病に罹患し息を引きとった息子を祈りのうちに甦らせます。このやもめは「あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です」と喜びのうちに語ります。アラム人の王の軍司令官ナアマンは、重い皮膚病を身体中に患い、イスラエルの王にその病のゆえに拒絶された後、エリシャに遣わされた使者の言うとおりにしたところその身が癒されて「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かった」と語ります。エリヤの物語にしても、エリシャの物語にしても、その時代のイスラエルの民、あるいは王と申しますものはいわば乱世で、アブラハムの神を仰ぐ者はまことに少なく、預言者もまた石を投げられ、いのちを奪われかねないという事情のもとにありました。その中で預言者の言葉を信頼とともに受けとめたのが、その時代のイスラエルの民からは程遠い、都市国家シドンに暮らすやもめと息子、そして「汚れた者」としてイスラエルの王から遠ざけられたアラム人の王の軍司令官ナアマンであったとの『聖書』の記事。これこそ主イエスが故郷の人々に向けた刺激的な言葉でした。確かに実に耳に痛い言葉だったでしょうが、『聖書』の言葉には変わりません。本日の箇所にたぎる人の子イエスへの村人の憎しみは、『聖書』の言葉に従うのではなくて、『聖書』ばかりか、人の子イエスのなさる奇跡もまた、自分の思惑通りに用いたり、わが身の正当化に用いたりと、便利な道具にしようとしたりするエゴイズムの正当化のため以上には『聖書』に触れてこなかった闇に由来します。

 『聖書』を通してイエス・キリストの言葉に出会う。これはすべての人に向けられた神の愛のメッセージとの出会いです。しかし人間は悲しいかな、その素晴しいメッセージでさえ、都合よく改ざんしたり、矮小化したりしようとします。都合よく手入れをしようと試みるのです。たとえば問題ばかりの組織や政治の正当化、自己弁護の正当化、戦争の正当化。これらがどのような結果を招くかは、わたしたちはカルト宗教や政治家の『聖書』の濫用を見るまでもなく、福音書に記される荒れ野の試みの物語の中で、悪魔が人の子イエスを『聖書』を用いて誘惑するところを見れば明らかです。神を試すことを煽る悪魔は、神への猜疑心をイエスから引き出そうとしますが、イエス・キリストはその誘惑に毅然と立ち向かいます。本日の箇所でも、会堂にいた人々は憤慨するあまり、イエスを村の外、町の外にまで追い出して、崖から突き落とすという、正式な裁判を経ないままで「石打ちの刑」に処そうとします。しかしこの殺意に満ちた村人にも神の救いのメッセージである福音は届いています。この民を神は大地に根付く野生のオリーブの根とし、すべての人々を接ぎ木とされるオリーブの枝として用います。人々はイエスを殺害できなかったのです。

  わたしたちは忙しさにかまけて『聖書』から遠ざかることがしばしばです。分かりやすさを求めて参考書を用いているうちに、『聖書』より参考書がありがたくなる場合もあります。しかし『聖書』を味わう上で、最も肝腎なのは無理矢理「分かろう」とするよりも「分からない」箇所こそがわたしたちに問いかけているメッセージです。神の救いはすべての人々に向けられています。