2019年8月25日日曜日

2019年8月25日(日) 説教

ルカによる福音書12章35~40節
「起きなさい、目覚めの時だ」
説教:稲山聖修牧師




 本日の聖書の箇所で問われるのは「注意深さ」という態度。「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰ってきて戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕は幸いだ。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやってくるかを知っていたら、自分の家に押し入りはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」。この箇所は人々に実に緊張に満ちた注意深さを呼びかける。『ルカによる福音書』の成立までには、すでにキリストの十字架の出来事から50年の歳月が流れていたという。その中で、神の愛の支配が訪れるという終末の意識が次第に希薄になっていく。十字架につけられたイエス・キリストの姿は、全ての人々の破れを一身に負った救い主の姿ではあった。その姿が希薄になる。そして種々の新たな課題が生まれる。今日でいう『新約聖書』をもたない初代教会は、その課題の中で押し潰されそうだったことだろう。自己救済に関心を寄せるあまり、隣人を支えたり、キリストを軸とした交わりを持続させていくのに関心すら寄せなかった集団もあった。このような群れはイエス・キリストに対しては居眠り、またはまどろんでいたと言うほかはない。

 思えば福音書や類する物語の中で「まどろみ」や「居眠り」は決して肯定的には用いられない。『マタイによる福音書』25章には「十人のおとめ」の譬え話が記される。ともし火をもち、花婿を迎えに行く女性の話。五人の若い女性が油の用意をしていたところ、他の五人はその備えがなく花婿が来るのを待ちきれず眠り込んでしまう。眠り込んだ五人は花婿の訪れに狼狽えて油を買いに行くのだが、宴の席から締め出されてしまう。また、イエス・キリストが身柄を拘束される直前、イエス・キリストが押し寄せる恐怖や不安に堪えながら祈りを献げているとき、その場にいた弟子たちは眠りこけている。聖書に記される人の多くは、肝心の事柄にぬるま湯のような態度しか持ち得ない惨めな存在だ。『ヨハネの黙示録』3章15節~16節には「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくも熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであって欲しい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている」とある。この文章は、過ちや罪を犯した人々にではなく、教会に書き送る書簡として記されている。この言葉は現代の教会にも実に辛辣な問いとなる。自分の承認願望に囚われて、キリストにつながる交わりの豊かさを次世代に渡すという務めが無視されてはいないか。主人の帰宅を待つ僕の譬え話や10人のおとめの譬え話にしても、暗闇を照らすともし火を手渡していく注意深さの促しとしての内容を充分に湛えている。聖書とは直接関係の無い、日本の社会集団が常にもつところの「マウンティング」を見直さなくてはならない。次世代に渡す以上、手放さなくてはならないバトンもあるはずだ。それだけに、教会の判断がイエス・キリストを中心にして、神の愛の力であるところの聖霊の働きのもたらす自由を証ししていくのか、それとも教会の働きにわだかまりや壁を設けてしまうのかを見極める思慮深さが必要である。最近の若者は教会に関心がないというなら、果たしてわたしたちは今の若者の課題に注意を払っているだろうか。若者に想い出話をするばかりで、若者の言葉を遮るばかりの態度は、それもまたまどろみの中にいるは言えないだろうか。



もしわたしたちが目を覚ましているのであれば、自分の情念や存念の中でまどろみさえしなければ、神の国の主人は自ら帯を締めて、僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれるのだ。わたしたちが腰に締めた帯を、自分の存念とは異なるところに導き、未来を切り拓いてくださるのは他ならぬイエス・キリストである。「腰に帯を締め、ともし灯をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、開けようと待っている人のようにしていなさい」。神に対する絶対依存の態度がそこには描かれる。イエス・キリストに示された神の愛の支配の完成は、すぐそこまで来ているのだ。

2019年8月18日日曜日

2019年8月18日(日) 説教

ルカによる福音書10章25~29節
「喜びも悲しみも分けあう生き方」
稲山聖修牧師


 72人の弟子が、神の愛の力であるところの聖霊によって癒しのわざを行い戻ってきた。その働きぶりに触れてキリストも喜びに溢れた。その喜びに満ちた交わりに水を差す声がある。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」。キリストを試す律法学者だ。キリストは問答の中で『申命記』6章4〜5節の「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」に始まる『律法(トーラー)』の教えを彼から引出そうとする。その結果、律法学者は「隣人を自分のように愛しなさい」との誡めを思い出す。キリストの答えは実に簡潔だ。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」。実のところ、律法学者の問いは認識や理解に関するものだ。他方、キリストはその認識に根ざしながらの実践を強調する。神の愛とは常に具体的でありダイナミックである。けれどもこのダイナミックさが分からないところに律法学者の哀しみがある。「わたしの隣人とは誰ですか」。彼は立場に固執するあまり、出会いのもたらすダイナミックな神の愛の中におかれていることに気づけない。キリストはそんな彼に実に具体的な話をする。有名な「善いサマリア人の譬え」。エルサレムの神殿を目指していたであろう祭司やレビ人は「屍体に触れてはならない」とする穢れの規定には忠実だった。しかし譬えに登場する行き倒れは同胞であり、かつまだ息絶えてはいない。人間社会の規定に過ぎない「立場」というものが、神の愛のダイナミズムを冷酷に拒絶する姿がよく描かれている。他方で道行く途上のサマリア人は、ユダヤ人との間に横たわる積年の分け隔てを顧みず旅人を憐れんで介抱をする。この介抱はその日だけでなく翌日にまで及ぶ。介抱の翌日、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して「この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います」とまで願う。サマリア人自らの旅の段取りは、棚上げされてしまっている。

祭司・レビ人・サマリア人。「この三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったかと思うか」、とキリストは律法学者に問いかける。注意したいのは、祭司は本来、イスラエルの民の罪の破れを全体として神の前に悔いながら告白し、和解を乞い願うという役目を託されている点、レビ人は受け継ぐ地としての財産を持たず、古くは神を礼拝する幕屋、後には神殿と寡婦や孤児、寄留者との関わりを保持する者としての役割をも託されていたという点だ。しかしキリストの譬え話では、祭司もレビ人も「立場」のもつ軛を絶つことはできていない。それは律法学者も同様である。キリストへの答えとして「サマリア人です」とは答えられず「その人を助けた人です」としか言えないのはその証しであろう。けれども「隣人とは誰か」という問いから「その人を助ける」という答えそのものによって、律法学者は自らの立場のもつ制約を絶対視しない道筋を備えられる。「行って、あなたも同じようにしなさい」。この短い一文には、譬え話の中で、祭司やレビ人が拒絶した神の愛の渦巻きに、律法学者を投げ込もうとするイエス・キリストの態度が示される。これもまた聖霊の働きとして、わたしたちは看て取ることができる。
年齢や性差、家族の内外を超えて、喜びだけでなく悲しみをも分けあう生き方がある。それは神の愛のダイナミズムあればこそ。教会もまた、キリストが示した聖霊の力がなければ時代の波の中に消えていくに違いない。組織は経年劣化を起こし、人は齢を重ねる。経験は時に人から柔軟さを奪い、頑なさをもたらす場合もある。頑なさの原因となるのは若さだけでない。老いも同様である。実際問題としてわたしも様々な現場で自分の頑なさに辟易する。若さとしての未熟さを言い訳にできなくなったときに、今度は立場という言い訳を作ろうとする。何と愚かなことだろう!

けれどもキリストに連なる出会いには、そんな意固地なありようを砕く聖霊の力が隠されている。神の恵みを徹底的に信頼して人生の旅路を進みたい。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなときにも感謝しなさい」と生き方を変えられたかつての律法学者パウロは記す。主にある喜びと祈りと感謝は、垣根や立場を超えたダイナミックさを伴う。そしてその力は、わたしたちをも絶えず新たにする。その力は老若や立場を問わないのだ。

2019年8月11日日曜日

2019年8月11日(日) 説教

ルカによる福音書9章57~62節
「そびえる壁を超えるために」
稲山聖修牧師

 キリストに従う。一口で表現しても、実はさまざまな道が備えられている。「一行が進んでいくと」と今朝の箇所では記される。ある者は「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と口にする。その言葉はキリストに思いを寄せた言葉のようではあるが、同時にそれはイエス・キリストに激しく自己承認を迫ってもいる。そんな欲求がキリストとの関わりでの壁であることに、この人は気づかない。だからキリストは「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕するところもない」とその申し出を遮ったのではなかろうか。キリストに従うことは、時にはこの世の居場所を失うこともあり得る。そしてその遮りの後に、別の人に対して「わたしに従いなさい」とキリストは語る。その人は先ほどのキリストの言葉に恐れをなしたのか、「主よ、まず父を葬りに行かせてください」と答える。これまでキリストの後についてきた人物が突然父親の弔いを口にする。本当に実父が死線を彷徨っていたのであればこの場でのキリストとの問答は不可能。だからこの言葉の虚実は分からない。その虚実にキリストは関心を寄せず「死んでいる者たちに自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい」と伝える。この箇所で注意したいのは、葬りを口にしたのは一人であるのに、キリストは複数で「死んでいる者たち」「自分たちの死者」と複数形で語りかけるところ。「父を葬りに行かせてください」との申し出が、実はキリストに従う恐れという壁を言い表す。ただしその壁は「神の国を言い広めなさい」という言葉の中で、口実としての弔いに勝る役目を与えられる。なぜならば、言い広められるところの神の国とは、神の愛が混沌とした世に勝利する出来事であり、死に対するいのちの勝利であり、死者の復活を視野に置く、終末論的展望を示しているからだ。その中で「死んでいる者たち」も「自分たちの死者」も復活の出来事の射程に入るのだ。
 そして最後にキリストの招きに対する言葉とは「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください」とある。キリストはにべもなく「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と語る。キリストに従うとき、家族はそれほど悪し様に言われなくてはならないのかとの疑問があるとすれば、それは誤解だ。「いとまごい」とは詰まるところ赦しを乞うという話。キリストに従おうとする決断の留保である。けれどもキリストは問いかける。「家族は別問題。あなたはどうするのか」。確かに厳しい問いである。イエス・キリストとの間に立ちはだかる数々の壁を前にして、わたしたちはどうすればよいのだろうか。
 その問いかけに対して響く言葉があるとするならば、わたしたちは『マタイによる福音書』7章13~14節を想起したい。すなわち「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見出す者は少ない」。「命に通じる門にいたる細い道」。実はこの細い道こそが、わたしたち各々が困難な局面に際して、何をよるべにして判断をすべきかと問われたとしても、わたしたちの歩む道として堅固に備えられている。「命に通じる門にいたる細い道」。その道に気づくのは他人に判断を阿ねったり、メディアの報せを鵜呑みにしたり、世間体に身を委ねったりしていては不可能に近い。とは言えキリストとの間にそびえる壁は、単に壊したり、よじ登ろうとしたりする道筋だけが克服の選択肢でもなさそうだ。「急がば回れ」よろしく迂回するという道もあれば、そびえる壁の地下を掘り進むという道もある。その全ての道が「命に通じる門にいたる細い道」として祝福されている。
「命に通じる門にいたる細い道」を見出すためには、誰よりもイエス・キリストに従うことなしには不可能だ。けれどもそれはわたしたちを自由にする真理を秘めた道でもあり、憎悪や争いから生じる分断の垣根を取り払う大きな力を秘めている道でもある。北米とメキシコの国境にそびえる壁には不思議にも細い隙間がある。この隙間にはピンクに塗られたシーソーが作られ、国境を越えて遊ぶこどもたちの歓声が響く。シーソーは遊ぶ二人が交互に上下になる遊具であり、その上下関係は決して固定されていない。こどもたちの笑い声は愚かな大人に神の平和を告知する。人や国の間に壁を作りたがる力もあれば、人と人と出会いや交わりをより広げようとする動きもある。わたしたちもキリストとの間をバリアフリーにし、混沌とした世にあっていのちの喜びを広めたい。

2019年8月4日日曜日

2019年8月4日(日) 説教

ルカによる福音書8章1〜3節
「神の平和を実現する者」
説教:稲山聖修牧師


 強い日射しに堪えて咲く花と同じく、福音書に登場する女性もまた、身分や経済の格差を横断する根でつながっていた。ファリサイ派の食卓に招かれ、その場で罪深いとされた女性を癒した後、キリストはただちに行動する。「すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった」。キリストは至る所に出向いて、神の愛の支配を説く伝道のわざに励んでいた。注目すべきはキリストと12人の弟子に、「悪霊を追い出して病気を癒していただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた」とある箇所。イエス・キリストと12人の弟子に限らず「多くの婦人たち」も、ともにこの旅に同行していた。どうも弟子よりも遙かに多くの女性たちがいたようだ。驚くのは名前を記された女性の多様性。「悪霊を追い出して病気を癒していただいた女性たち」には「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア」がいる。「七つの悪霊」について聖書そのものは触れない。しかしこの箇所でキリストの復活の遭遇するマグダラのマリアと、キリストとの初めての出会いが明らかになる。そして続くのは「ヘロデの家令クザの妻ヨハナ」。「家令」とは「皇族や華族の家の事務・会計を管理し、使用人の監督に当たった人」とある。洗礼者ヨハネを殺害した領主ヘロデのもとで財務管理をしていたクザという人物の伴侶がイエス・キリストと弟子に物心両面にわたって奉仕していたこととなる。これは重大な証言だ。
 群衆の中にいたこどもたちを追い払おうとしたり、キリストのもとでのポストを争うだけでなく、いよいよ十字架につけられるという場面では逃げるばかりの12弟子に較べて、女性たちは黙々とキリストと弟子の働きを支援する。『マルコによる福音書』ではサロメという女性が登場するが、斬首された洗礼者ヨハネの首を求めて舞を舞った女性としてではない。洗礼者ヨハネを首を盆にのせたサロメはオスカー・ワイルドの戯曲に描かれるだけで聖書とは関係がない。サロメとはもともとシャーローム「神の平和」に由来する。サロメにしても、マグダラのマリアにしても、そしてクザの伴侶ヨハンナにしても、キリストの地上の生涯の果てに復活の告知をその場で受ける役目を授かる。敵味方に分かれて争う男性の陰で、その線引きを超えた交わりが、キリストに仕える女性の交わりから広がっていく。そこには、争いに対する極めて醒めた視点があるとともに、キリストに向かう情熱的な眼差しがあった。

 キリストへの奉仕というわざを、名誉や見返り、あるいは自らの承認願望と取り違えてしまいがちなわたしたちは、キリストへの、12弟子を凌ぐ強力なサポーターの姿をどのように受けとめるのだろうか。

 今日は平和聖日。復活にいたるその時まで、キリストから決して離れようとしなかった交わりは、今も決してその力を失うどころか、時代の権力の手の届かないところにまで手を伸ばし、若葉を生い茂られようとしている。戦うことが求められ、生い茂った葉を無理やりむしり取ることが習い性になっている人々のありようよりも、いのちを育むことにじっくりと向き合い、そしてそのわざを誇らしげには語らない態度こそが、教会という畑が荒られて荒んだときに、諦めずにまた耕す働きの源となる。不条理に対して拳を振りあげるというより、涙を流しながら耕しに励む姿がある。
 21世紀も五分の一を迎えようとしている今、世界や、わたしたちが暮らすこの社会のさまざまなところに、分断による悲劇があり、孤立による悲しみがあり、権力の暴走による破壊がある。そのような悲劇や悲しみ、破壊を、否定や批評にではなく、それに変わるものを育むわざは、ますます大切になり、重みを増す。どのような混乱の中でも、イエス・キリストを見つめていれば生きていけると、今朝の福音書に名を刻まれた人々は時を超えて証明してくれた。「平和を実現する者は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」。『戦争は女の顔をしていない』という2015年ノーベル文学賞受賞作品もある。根を降ろすべきは時に移ろう世やわたしたちの思いにではなく、イエス・キリストその人であった。心して時代の風に向き合おう。