2021年8月25日水曜日

2021年8月29日(日) 説教(在宅礼拝用です。当日の礼拝配信についてもお知らせしています。)

緊急事態宣言が大阪府下に発令されています。
教会員のみなさまにおかれましては、在宅礼拝をお願いします。
(ページの下に、礼拝配信のリンクを掲載しています。)
 
説教:「あなたは気高い真珠」
稲山聖修牧師

聖書:『マタイによる福音書』13章44~50節
讃美歌:24. 494. 543.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
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「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】

 ガラスパール、あるいはイミテーションパールという製品をお聞きになった方はおられるでしょうか。乳白色のガラス玉に魚から抽出したカルシウム等を吹きつけもので、大正時代以降に仕あがりとともに経済性を兼ねた商品として南大阪地方の産業を担っていたと申します。当時の庶民からすれば汗がつけば光沢が失われてしまう天然の真珠よりも扱いやすかったのかもしれません。実用性を重んじる気風が窺えるというものです。

 しかし逆に言えばそれは真珠の扱いがどれほど難しいかを物語ってもいます。「宝石」という名で呼ばれながら、入り込んだ異物から身を守るためにアコヤガイが自らの貝殻の成分でもって身を守るために包み込むというわざの中でもたらされる「生体鉱物(バイオミネラル)」と申します。養殖の真珠の場合、アコヤガイは身体の中に人工的に異物を入れることになり、その結果多くの貝が死んでしまうという現状があります。その中で残った貝の中から取り出されるのがいわゆる「真珠」となります。結晶ができてもできなくても貝が自らのいのちと引き換えにして一粒の真珠を送り出すのには変わりありません。

 本日の聖書の箇所では「天の国」すなわち「神の愛がわたしたちの世を支配するとき」を次のように譬えます。宝が畑に隠されているとき、見つけた人はそのまま隠しておき、財産をすべて売り払い畑ごと買っていくというあり方。一見ずる賢くも思えるし、実に聡明な、クレバーなあり方としても受けとめられます。しかし自分の財産をすべて売り払うわけですから「あれもこれも」ではなく「のるかそるか」の覚悟が求められます。一度交わした契約は元に戻すことはできないからです。そして先ほどお話しした真珠のお話です。真珠の養殖は明治期に日本人が世界で始めて成功したものですから、この時代の真珠とはこれすべてみな天然。アコヤガイを見つけること自体とても難しく、その中でも品質がデリケートであるところの高価な真珠は手に入れるだけでなく、その後の手入れもまた重要になってまいります。そしてお話のまとめとしては漁師の譬え。様子を見るとどうやら地引き網のようです。網の中にいる獲物の中でよいものは器の中に、そして悪いものは仕分けされていきます。おそらく毒性があったり傷みやすく口にできない生きものもその中にはいたはずです。そしてこの三つの譬えを経た上で、世の終わりに天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃えさかる炉の中に投げ込むというわけです。

 ただわたしたちが注意しなくてはならないのは、先週お話しした「毒麦の譬え」と併せて本日の箇所に耳を傾けるべきであります。繰り返しますが、世にある人間の正義とは人の数ほど、星の数ほどあります。その正義をぶつけ合わせることを、イエス・キリストはけしかけてはいません。ある信仰共同体、ある教会に属する者が全て網の中にいたよい魚であるはずがありません。そこには毒針をもっていたり鋭い歯をもっていたりする魚もいるかもしれません。しかしそれは決して焼かれていく毒麦ではなく調理の仕方によっては実に豊かな滋養を病床にある者にもたらすかもしれないのです。また目利きの商人の見つけた高価な真珠一粒よりもさらに気品漂う真珠が別のところにあるかも知れません。隠しておいた宝も、値打ちの分からない人に掘り返されて何日も宝を見つけた人は泥まみれになって探し続けなくてはなりません。どこにあるのか。これはわたしたちには隠されています。けれどもそれは必ず見つかるものであり、探し続けるその最中にあって当事者一人ひとりの希望にすらなり得ます。決してそれは高尚な理想というものではなくて、この世の欲とない交ぜになっているものかもしれません。しかし、それは探し続ける者の志を決して曲げるものではありません。畑に隠された宝も、気高く値の高い真珠も、選りすぐりの魚も、わたしたちのいのちと不可分ではないからです。決していのちを粗末にするものではないからです。

 わたしたちは神の前にあっては、むしろわたしたち自らが泥まみれでありながらもイエス・キリストが汗だくになって探してくださる宝であり、アコヤガイが自分のいのちと引き換えにもたらす繊細な真珠であり、見た目には確かに癖があるかもしれないけれども、重篤な病の床にある人の養いとなる魚になり得る尊さを秘めているのではないのでしょうか。その尊さを大切にしながら、わたしたちの隣にいる人のいのちの輝きに感じ入るとするならば、それは他ならないイエス・キリストのわざであります。偏った政治の中で見失いがちないのちの主キリストの手に包まれたとき、わたしたちはどのようなところにあったとしても気高い輝きを放ち始めるのであります。祈りましょう。


2021年8月19日木曜日

2021年8月22日(日) 説教(在宅礼拝用です。当日の礼拝配信についてもお知らせしています。)

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説教:「すべてを主なる神に委ねよ」
稲山聖修牧師

聖書:『マタイによる福音書』13章24〜43節

讃美歌:291, 392, 545.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】

 最近は「わだかまり」という言葉をあまり使わなくなったように思います。このわだかまりに代わって使われるのが「もやもや」。自然界の音や声、物事の状態や動きなどを音で象徴的に表した語ですが、ひょっとしたら今の時代に似合うのはこの「もやもや」ではないかと考えます。政府のコロナウイルス感染対策を聞いては「もやもや」し、豪雨に対する対策を耳にすればやはり「もやもや」する。何ともやるせない思いに駆られたときにこの「もやもや」にわたしたちは包まれます。今の時代、この「もやもや」には「憤懣やるかたなさ」も入りますから、琉球の言葉の「わじわじ」(いらいらする)に近いかも知れません。

 わたしたちは世にある限り、祈りつつこの「もやもや」の中にも何か神が備えられた道があるはずだと目を凝らそうとするのですが、わたしたちが関わる人、出会う人すべてが必ずしも同じ道をたどっているようには思えない場合があります。教会の交わりとは異なる社会で暮らす方々には、そのような苛立ちが多いかもしれません。地球規模の問題かも知れない、福祉のありかたをめぐる心無い発言かもしれない、在宅療養をめぐる発言かもしれない、子育てや教育をめぐる発言かもしれない、平和と戦争をめぐる発言かも知れない。手当や暮らしを巡るやりとりかもしれない。この「もやもや」に押し潰されそうになったとき、わたしたちはどうすればよい、というのでしょうか。

 本日の聖書の箇所で主イエスは次のような譬えをお話しになります。「ある人が良い種を畑にまいた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を撒いて行った」。ここで話に不自然さを感じたのであればそれはまっとうなご理解かと思います。これは戦、合戦の話としても読み取れます。兵糧を絶つのはこの時代の常套手段でした。当然ながら「芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた」。毒麦とは、苗の頃には小麦とよく似てはいるものの、麦の中に特種な菌類が入り込み、脳神経と疼痛、幻覚をもたらす毒物をもたらします。当時の医療では治療不可能です。ですから苗のころは見かけ上、小麦と毒麦とは分別が難しいところ。これを夜半に忍び込んできた者が撒き散らしていったという訳です。今でいうバイオテロです。とうとう毒麦が姿を表したとき、僕は慌てふためいて報せに走ります。「だんなさま、畑には良い種をお撒きになったのではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう」。この箇所で主人ははっきり申します。「敵の仕業だ」。教会の内部の問題として考えれば、まさしく教会の実りを駄目にしてしまうどころか、関わる者の生き方やいのちすら損なう可能性さえある混乱が生じていたとも言えます。僕たちは当然といえば当然の対応を考えます。「では、行ってかき集めておきましょうか」。しかし、主人は別の発想をいたします。「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい』と刈り取る者に言いつけよう」。つまりそのように命令しようと主人は言うのです。焦ってはいけない、時を待てと言うのです。

災いや混乱をもたらす者を力尽くで排除する。世のあり方や政治の世界では当たり前かも知れませんが、聖書はそのような発想には決して立ちません。世にある正しさと申しますものは人の数ほどあります。それぞれが相手の言葉に耳を傾けず、根こそぎにしようとしたとき、本来は人を養うに足る「良い麦」も「毒麦」と同じになるかもしれません。SNSであれ会議の言葉であれそれは変わりません。思えば『使徒言行録』5章で、使徒の殺害にはやる民衆を諫めるため、パウロの師匠でもあったとされるファリサイ派の学者ガマリエルは次のように語りかけます。「あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らうかもしれないのだ」。「もやもや」を不満として人にぶつける石のように扱うならば、話はそこで終わってしまいます。それは結局自滅を意味します。実にもったいない、刹那的なあり方です。それよりも各々が抱えた「もやもや」や「わじわじ」を、わたしたちは主なる神に委ねましょう。ガマリエルの教えは、イエス・キリストが自らの憤りや不安、悲しみや喜びをすべて神に委ねていく姿に重なります。そしてその態度は、使徒たちの働きを通して、わたしたちに開かれています。無理に不安に打ち克つ必要も、悲しみを鎮める必要もありません。そのような気持ちを、十字架で苦しまれたイエス・キリストを通して、神に委ねてみてはいかがでしょうか。悲しみや憤りが全く別の輝きを放ち始めます。祈りましょう。


2021年8月12日木曜日

2021年8月15日(日) 説教(在宅礼拝用です。当日の礼拝配信についてもお知らせしています。)

聖霊降臨節第13主日礼拝

緊急事態宣言が大阪府下に発令されています。
教会員のみなさまにおかれましては
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説教:「神の家族とは何か」 
稲山聖修牧師

聖書:『マタイによる福音書』12章46-50節
(新約聖書23頁)

讃美歌: 239, 348, 545.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ中継を致します。


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【説教要旨】

毎年八月になりますと、敗戦を記念したドラマやドキュメンタリー番組がメディアで盛んに放映されます。今年はオリンピックの影響もあってか例年ほどではないにせよ、それでも何かしら特別企画として制作される番組があります。撮りだめ・書きだめであるにせよ、一年にひと月近く喪に服するという倣いは、戦前にはありませんでした。

けれどもその時代を生き抜かれた当事者におかれましては、放映されるドラマやドキュメンタリーの構成に違和感を覚える方々もおられるのではないでしょうか。ドラマでは太平洋戦争が始まり、刻々と戦況の悪化が第三者の視点で語られ、そして度重なる大規模な空襲と敗色濃厚な南方の戦況、連合艦隊の壊滅と特別攻撃、そして広島・長崎、敗戦という一定の筋書きがあります。しかし実際にその時代に生きていた方のお話を聞いておりますと、そのような筋書きは全く意識してはいなかった、というのが正直なところだった模様です。すでに太平洋戦争に突入する10年前から満州事変が始まり、日本は中国との戦争に突入しておりました。1937年、日本軍が南京を占領した際には提灯行列が組まれ「戦争が終わる」という気持ちに溢れていたとのことですが、1939年には二度にわたるソ連を相手にしたノモンハン事件、そして太平洋戦争ですから、戦争が日常化してしまっていると申しあげるほかはありません。当時のメディアでは戦勝報告しかいたしませんので「そのようなものだろう」と一般的な人々はそのように思うほかはありません。日常として戦争があり、それがまさか負けるとは思わなかったという仕方で、突然世の中のしくみから価値観まですべて変わってしまうというありさま。その中で親御さんを戦争で亡くし戦時中は「戦死したお父さんは立派だった」と言われて家族の死を受容してきたこどもたちが、今度は戦災孤児として何の支えもなく市井に放り出されるという筆舌に尽くしがたい苦しみを味わってきたのが高度経済成長期の影の部分でもあったと言えるでしょう。飢えや疫病、過酷な生活環境だけでなく、家族の死の意味まで奪い取られてしまうという、これほど残酷な話はありません。

今日の聖書の箇所では人の子イエスが群衆に話しておられる最中、肉親であるところの母親と兄弟が外で待っているという場面から始まります。しかし人の子イエスは群衆を見つめ弟子を指してこのように答えます。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか」。そして「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」。生みの親と肉親を差し置いて、このように語るイエス・キリストに神の子らしからぬ違和感や冷たさを感じられる方々も多いのではないでしょうか。しかし問題は、人の子イエスが誰に向けて話をしている最中の「ご覧なさい」との声。この声はキリストに何を示そうとしていたのでしょうか。

イエス・キリストが語りかけていたのはまずは「群衆」です。つまり名もない、明日のいのちも定まらない、今日を生きるのが精一杯という人々ばかりです。家族という言葉すら「群衆」には当てはまらなかったもしれません。人の子イエスはそのような人々も含めて、弟子たちに「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」。キリストと出会う前、互いに一切関わりのなかった群衆や弟子たちに向けられたこの言葉を通して、必ずしも血のつながりにはよらない家族としてのつながりが育まれていくことになります。血のつながりだけが家族の絶対条件ではないという先進的な見方をイエス・キリストはこの箇所で語っているのであり、その言葉を実の母や兄弟たちは決して否定してはいません。

 新しい生活様式という言葉に基づいて「ステイホーム」「リモートワーク」が官民挙げて推奨されてまいりました。しかしその陰で、深刻な家庭内暴力が起きたり、幼児・児童虐待が起きたり、育児放棄が生じるという闇もまたあるのだと知る必要があります。そのような家庭を孤立化させないという意味でも「こひつじこども園」や「放課後等デイサービスこひつじ」の働きは大きいところです。在宅礼拝を中心にして礼拝を献げている現在の教会ではありますが、時代の風を読みながら「天の父の御心を行う人」に届いた知らせをもとに相応しく祈り、心身のケアーを怠らず、神の家族としての支え合いを進めていきたいと願う者であります。今こそ聖書の言葉を前にし、各々の器に相応しい仕方で何ができるのかを祈り求めてまいりましょう。


2021年8月5日木曜日

2021年8月8日(日) 説教(在宅礼拝用です。当日の礼拝配信についてもお知らせしています。)

「死線をこえる神の愛」 

説教:稲山聖修牧師

聖書:『マタイによる福音書』10章16~23節

(新約聖書18頁)

讃美歌 300.519.545.

可能な方は讃美歌をご用意ください。
ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


説教動画はこちら←です。

なお、当日午前10時半からの礼拝配信につきましては、

こちらのページ←に掲載しておりますので、

よろしくお願いいたします。


【説教要旨】

自分のことは誰よりも自分がよく分かっている。なんと幼い意識でしょうか。しかし、あらためて何と浅はかな意識に囚われていたものだとと痛感した、この半月あまりの出来事でした。救急搬送の後に、気づけば一般病棟で寝巻きになっていて、この間の記憶は曖昧もしくは跳んでしまっているとの体験は、みなさまの祈りとお支えがなければ、この場にいなかっただろうという事実の裏返しでもありました。そして不思議なことに、本日の聖書の中で際立つのは「蛇のようにさとく、鳩のように素直」に示される、一見矛盾するような人のあり方が、冒頭の「わたしはあなたがたを遣わす」という派遣の言葉と「人の子はくる」との結びの予告にあって、すべてにわたり肯定されるところに、本日のメッセージでは注目していきたいと思います。

「わたしはあなたがたを遣わす」との言葉は礼拝の祝祷で刻まれる祈りであり、わたしたちは各々の暮らしの現場にキリストが介入される前触れとして受けとめることができます。ただしその「介入」は、決して各々の暮らしのタイミングに合わせて、都合のよいところに起こるのではありません。予定通りの仕方で訪れるのではありません。むしろ、わたしたちが定めたと思い込んでいる仕事の見通しや、うまくいっていると調子にのる浅はかさを打ち砕くような仕方で、まことに想定の右斜め上から訪れます。その出来事はわたしたたちの暮らしや心の隙を突いて訪れます。なぜでしょうか。それは神はその人の「強さ」ではなく、隠しておきたいとさえ願う「弱さ」を用い、ご自身の似姿としての人間の姿へと立返らせていくのです。しかもこれは必ずしもわたしたちの日常では望ましいタイミングで起きるものではありません。「弱さ」を用いてくださることは、各々の仕事を中断するという仕方で、わたしたちを神の前に絶えず「引き渡す」「引き出す」ところにまで行きつきます。Παραδουναιパラドゥーナイ)という言葉は、自分の本意とは異なる仕方で引き渡されるという意味で、イスカリオテのユダが祭司長たちの下役に主イエス引き渡し、イエス・キリストを裏切る場面でも用いられ、または使徒パウロがファリサイ派の律法学者サウロであったころ、イエス・キリストに従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに「連行する」という言葉としても用いられます。もちろんその最中にサウロは自らキリストに捕らわれて使徒として神の前に引き渡されていきます。

青年期のわたしたちには 教会とは友と会える場であり 他の何かと比較し選んで出かけていける、選択可能な交わりでした。その折には、自由という言葉はわたしたちには自己実現とよく似た響きをもっていました。けれどもわたしたちは時を経るごとに、自分の意思で選べる自由が 結果として思いもよらない痛みや責任とともにあることを知り、 選んだり選ばなかったりする権限がこちら側にではなくて もっと大きなところにあると痛感するほかありませんでした。時を重ねる中で知恵もついたかもしれません。頑固さと引換に表向きには忍耐つよくなったかもしれません。素直さに憧れるようになったのかもしれません。けれどもわたしたちは個別にみれば「鼻で息をする者」でしかありません。ですから、わたしたちは神の前に鳩のように素直でなければ、神からいのちに関わる知恵を授かることはありません。この箇所で登場する蛇とは、当時のローマ帝国が崩れてなおも医療を司る知恵の象徴でもありました。そのような技術を享受し、長く生きるほど、わたしたちはあっという間に過ぎさった時を思い出します。そんなときに「人の子」はやってくるのです。そのような思い煩いをすべてわたしに献げなさい。すべてわたしに委ねなさい、わたしに任せなさい、との力強い声のうちにであります。

自分には不安にしか思えないところで、わたしたちは死という制約をも突破していくイエス・キリストに出会います。そしてイエス・キリストは、わたしたちの未来を思いもよらないところから「引き出し」てくださります。主イエスがきてくださったから、わたしたちの今があります。「人の子の訪れ」は、わたしたちが選ぶのはありません。神がわたしたちを選んでくださった証しです。あらゆる死線をこえて神の愛は迫ります。本日は8月の8日です。広島があり、長崎があり、引き揚げがあり、ポツダム宣言の受託があり。あと三十分早ければ、遅ければといった状況の中で、人命が損なわれ、人命が助けられたという異様な体験を経て死線を彷徨ったひと月でもありました。励ます声は御使いの声、ささえる手があればそれは主の御手。わたしたちの背中を押してくださるのは主なる神であり、神の力と働きかけが、神の愛の力である聖霊の力。病床にあっても主にある平安のうちに癒しが臨むよう祈ります。