2024年2月22日木曜日

2024年 2月25日(日) 礼拝 説教

    ー受難節第2主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「もっと素直になれる生き方」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』9章35~41節
(新約聖書  186頁).

讃美=  90,21-463,21-29.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 
【説教要旨】
 人の子イエスの生涯の描写の仕方がよく似ている『マルコによる福音書』『マタイによる福音書』『ルカによる福音書』を「共観福音書」、救い主の生涯の理解に共通点が多いことからそのように呼ばれます。「共なる理解」という意味で「観察」の「観」を用います。この三部の福音書に描かれる奇跡物語の特徴とは、病に苦しんでいる人がおり、その人を人の子イエスが癒し、癒された人はその喜びを他の人々に伝えていくという、シンプルさにあります。どうしようもない苦難にある人がおり、イエス・キリストと出会い、その苦難が癒され、喜びに溢れる、という物語の展開はもはや王道も呼ぶべき順序を備えています。たとえその場で律法学者がイエス・キリストの振る舞いを咎め立てしたところで、議論はイエスとの間で行なわれ、癒された人そのものや家族によからぬ事態が及ぶという道筋は概して浮かんでまいりません。

 しかしながら『ヨハネによる福音書』の場合、人の子イエスが癒しのわざを行ないますと、癒された人はともかく、癒された側の家族や係累にはさまざまな動揺がもたらされます。それは律法学者の追求が癒しを受けた人のみならず親族にも及ぶことに原因があり、癒された者も喜びにつつまれるというよりも深い戸惑いをくぐり抜け、ようやく病の回復を喜ぶにいたるという具合です。エルサレムにあるベトザタの池のほとりにいた三十八年もの間病に苦しんでいた人物の箇所にも言えますが、本日の『聖書』の記事はそもそも弟子が通りすがりに「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」という実に浅薄な問いかけを人の子イエスに発したところから始まりました。「神のわざがこの人に現われるためだ」と答えた後にイエスは、地面に唾をし土をこね、その人の目に塗り、盲人が「シロアムの池に行って洗いなさい」との言葉に従ったところで見えるようになったとの物語に発端があります。この癒されたはずの盲人はその後ファリサイ派のもとに連れていかれ、家族にも追及の手が及びます。両親は「本人に尋ねてくれ、もう大人だから」というばかりで、自分とは関わりのない話だと言わんばかりの態度です。目を開かれた人は、イエス・キリストとの出会いによって単純に幸せになるどころか、世の中の見なくても済んだところを見つめなくてはならなくなり、遂には「あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずだ」と答えた理由によって「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようとするのか」と会堂から追い出されます。みなさん、想像してみてください。何らかの強制力により礼拝堂から排除される身となることを。礼拝共同体からの排除は生活共同体からの排除を意味します。

 このようにして目を開かれた人は、盲人であった時に味わった様々な苦労に劣らず、様々な事柄を「見なくてはならなくなり」、追放されていくという憂き目を味わう羽目に陥りました。家族も生活のし辛さへの恐怖からこの人を見捨ててしまいました。世間的には、もともと盲人であったこの人は、イエス・キリストに目を開かれることによってすべてを失ってしまった愚かな人であるとも言えるでしょう。しかしただ一点、そのような一般論と次元を画するのは、イエス・キリストとの関わりが人々の愚かさの中で際立ち、研ぎ澄まされたところにあります。その意味では目を癒されながらも排除されたこの人は、実に素直な関わりを、多くの揺らぎと複雑な環境の中でイエス・キリストとの間に授かったと言えるでしょう。

 「そんなことを言うけれども」とわたしたちは誰かに訴えたくなるときがあります。説教に耳を傾けるときばかりではなく『聖書』を味わうときにも、日々の暮らしの中でも。けれども、そのようなこだわりの底が抜けたときに気づくイエス・キリストの出会いがあるのではないでしょうか。イエス・キリストとの出会いが、喜びどころか却ってわたしたちの足枷となる場合、わたしたちは暮らしやあり方を、わたしたちを必要とする何者かの眼差しから顧みる祈りを献げてみましょう。わたしたちがこの場に集うその背後にはさまざまな理由があるに違いありません。けれどもその理由一つひとつに神の愛が隠されていたとするならば、わたしたちは自分が駄目だ、自分はこうなのだと己を枠にはめる必要はなくなり、もっと身近なところにある課題、例えば身体の具合を確かめるといった事柄に気づかされます、それこそわたしたちが各々の重荷を主に委ねて、もっと素直になれる生き方ではないでしょうか。主なる神に素直な生き方とは、必ずイエス・キリストに繋がる生き方でもあります。

 暮らしの思い煩いの中で、キリストへの素直さを尊びつつ、新しく各々大切なライフステージを始めましょう。

2024年2月16日金曜日

2024年 2月18日(日) 礼拝 説教

    ー受難節第1主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「分かちあう生き方を授かったイエス」 
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』4 章 1 ~ 11 節
(新約聖書  4頁).

讃美=  519,21-306,21-29.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 
【説教要旨】
 受難節を迎えて、わたしたちが開く『聖書』は『マタイによる福音書』の「荒れ野での誘惑」での記事です。洗礼者ヨハネとともにいるなかで神の愛である聖霊を注がれたイエスは文字通りキリストとしてのあゆみを始めます。その最中、初めに出会うのは弟子でも苦しむ人々でもなく「サタナス」または「ディアボロス」と呼ばれる悪魔からの試みです。そして荒れ野であたかもイエスにつきまとう悪魔の言葉は、奇しくもわたしたちの日々の暮らしに深く根付いているところに背筋が冷たくなります。クリスマス物語に始まる福音書だけに書き記されているところからも、その時代の教会の一般的な課題として避けて通れなかった課題を見ることができるというものです。言葉によって誘惑するところからしても何ら超常的な存在では無いことが分かります。

 悪魔がイエスに向けたのは、まず「食」に関わる誘惑。極限まで空腹を覚えたイエスに悪魔は「石をパンになるよう命じたらどうか」と勧めます。翻訳の妙か「石をパンに変えてみろ」とは言わない遠回しの言葉がイエスの首をじわじわと絞めていくように映ります。人の子イエスは自らの言葉ではなく、『旧約聖書』の言葉を用いて悪魔に向きあいます。則ち『申命記』8章3節を「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つひとつの言葉で生きる」です。まだつきまといを止めない悪魔はイエスをエルサレムの神殿の屋根の端に立たせて『詩編』91編11~12節を引用して「飛び降りたらどうだ」と勧めます。悪魔は『聖書』を用いて自説の正当化だけでなく、人の子イエスに神を試させようとします。『聖書』の言葉を用いた自説の正当化はカルト宗教や国家首脳の国民向けテレビ演説にもよく見られる危険な振る舞いです。しかしわたしたちはこの「試みる」という重大性を見逃しがちです。なぜ重大なのかと言えば、それは神を疑うことを勧めており、わたしたちの日々にも充分あり得るところだからです。人の子イエスはこの試みそのものを『申命記』6章16節の引用で打ち砕きます。度重なる『聖書』の言葉の引用合戦にイエスはまさしく首の皮一枚で勝利していきます。

 そして遂に悪魔は「非常に高い山」に連れていき「世の全ての国々とその繁栄ぶり」を見せて「自分にひれ伏せ、そうすればお前はこの繁栄全てを思いのままに操り、自分の望み通りの人生を過ごすことができる」と語りかけます。『旧約聖書』ではサウル・ダビデ・ソロモンという名君をヘブライ人は王として立てたと書き記します。しかし王の晩年はいずれもこの誘惑から袂を分かつことはできませんでした。それでは人の子イエスはどのように向きあったというのでしょうか。『申命記』6章13節を引用して「ただ主に仕えよ」と語るのです。

 ところで、わたしたちはこの箇所でイエスが悪魔の誘惑一つひとつに向きあう場面ばかりに気をとられがちになるのですが、物語全体を見渡しますと、悪魔が人の子イエスに向かって囁く言葉一つひとつには、実は全く「分かちあう」「「出会う」「交わる」といった、この物語の後にイエスに出会った人々の味わう喜びが一切合切欠けている特徴に気づきます。先ほども申しましたがイエス・キリストも首の皮一枚で悪魔の誘惑に辛うじて打ち勝ちました。なぜ「辛うじて」打ち勝ったといえるのでしょうか。それは人の子イエスは、自ら決して望んでこの荒れ野の苦難を味わったわけではないからです。確かに『マタイによる福音書』では「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」とあります。しかし他方で『ルカによる福音書』では「“霊”によって引き回され」と記されています。人の子イエスは修行によって魂のステイタスをあげるために荒れ野に赴いたのでなく、神の霊に導かれ、自ら思いも寄らない仕方で荒れ野へと押し出されていく姿がそこにはあります。イエス・キリスト自らにもこの状況は人としては予測不可能であったことでしょう。そうでなければ「誘惑」など成立しないからです。しかしイエス・キリストには神の愛の力である「聖霊」がともにおり、主なる神もまたともにおられました。だからこそ、悪魔の誘惑の軸となる「独占」「独り占め」「私物化」から自由となり、世にある自らの生涯をも人々とともに分かちあう道を選んだのです。

 分刻みで進む現代では時に「不器用な生き方」「損な生き方」に映る「分かちあう生き方」。しかしイエス・キリストはその生涯を貫いて「分かちあい」をわたしたちに示し、苦しみを受ける中で神の愛が世にあってどのようなかたちをとるかをお示しになりました。わたしたちのためにその身を引き裂かれたイエス・キリストの姿を偲ぶ季節、主なる神がわたしたちと無数の誘惑との間に立ちはだかり、祝福してくださっているその愛に感謝しましょう。「分かちあう生き方」を、キリストを通して授かる態度こそ神の愛の何よりの証しです。

2024年2月8日木曜日

2024年 2月11日(日) 礼拝 説教

    ー降誕節第7主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「神の力はあなたを元気にする」 
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』 6 章 5~15 節
(新約聖書  174頁).

讃美= 191,Ⅱ-41,21-29.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 
【説教要旨】
 本日は「建国記念の日」「紀元節」「信教の自由を守る日」と様々な呼び方がされる一日となります。天皇制と向きあってきた教会では様々な集会が行なわれる日になりますが、当事者としての視点だけでなく、運動そのものを客観視する必要も、多様性を重んじる今日の観点からは求められます。激しい論争の陰で歴史に埋もれた人々の声はかすかではありますが、消えることなく今も響いています。

 かつてベストセラーとなった小説に山崎豊子の『不毛地帯』という作品がありました。文庫版冒頭の一冊は主人公のシベリア抑留をめぐるドラマでした。寒気団に覆われたシベリア地方一帯に草は殆ど生えません。針葉樹林にラーゲリがあります。重機のオイルも凍てつく中、人力で鶴嘴を振るい、鉄道敷設や炭鉱労働を強いられた人々の遺骨は返還されていません。意に反して天に召された人々は緑一面の野の中で大の字になり、さんさんと陽の光を浴び、鳥のさえずりと花の香りにつつまれる夢を幾度も見たに違いありません。
 本日わたしたちが注目するのは「イエスは、人々を『座らせなさい』と言われた。そこには草がたくさん生えていた」。との一節です。この一節がなくても物語全体の意味内容は概ね通じます。調べたところ「五千人の人々が満たされる物語」で「草」との言葉を刻むのは本日の福音書の他には『マタイによる福音書』だけでした。その点を踏まえますと「草」には人々が夢見た、また憧れた生活が示されているようです。

 福音書や『旧約聖書』の『詩編』で「草」とは特に「羊」または「羊飼い」との関わりの中で多く記されます。羊にとって一面に広がる緑。一年の中でも長くはない季節にある緑は新鮮な食料となり、流れる小川は羊たちの身も心も健やかにします。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることはない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる」とある通りです。ツンドラまではいかなくとも、砂塵舞う荒れ地を通り過ぎて、オアシスや牧草地に導かれた羊たちは、ともに喜びながら何の警戒もなく草を食みます。神の備え給う祝福と恵みの中で羊たちはいのちを存分に養い、元気になるのです。

 それだけではありません。『創世記』の「天地創造物語」で神は「地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう」とあります。「弱肉強食」の妄想に捕らわれ、食物連鎖のみを受け入れる者には意味不明に聞こえるでしょうが、この箇所で書き手は「神はもともとすべてのいのちが血を流さずに生きる世界」を創造されたとの願い、また、血の犠牲の上にいのちが成立つという世界を超越する場所を神はもともと備えていたとの理解に立っています。「殺生を遠ざける」とは仏教に限らず、時に醜悪な人間模様も隠さず描く『旧約聖書』にさえ記録されます。万物のルーツに関わる表現として「青草」が用いられるのです。

 『旧約聖書』との深い関わりを示す、緑あふれる場所に人の子イエスの声が響き、集まった人々はそこに腰を下ろします。純真無垢な思いから少年が献げた大麦のパン五つと二匹の魚は、辛うじて飢えを癒やせる焼き菓子の塊と二枚の干物に過ぎませんでした。しかし少年は持てるすべてをイエス・キリストに委ねました。自分が空腹になることを顧みずにキリストに献げたのです。キリストはその献げものを「何の役にも立たない」と蔑みあしらうのではなく、少年の眼差しの中で神に感謝の祈りを献げ、人々に分け与えた、とあります。少年が何も隠さずに献げたその態度もまたキリストに祝福され、青草の野に座る五千人の人々に広がっていきます。もはや人々は自らの食事を隠すこともなく、それまで見知らなかった人々と交わりを深め、お互いに気遣う間柄を育んでまいります。「人々が満腹したとき」とは「人々が満たされたとき」とも訳せる箇所です。たとえ病に罹患した人々や、貧困に苦しむ人々がそこにいたとしても、すぐ隣の人々から同じように食を授かったことでしょう。

 食に事欠く人々が敢えて罪を犯し、「人に関心を寄せられ、見守られている」と刑務所生活を喜んでいるとの報道に打ちのめされるわたしたちが元気を回復するのは、このような『聖書』の御言葉によるところ、またその御言葉に基づく交わりによります。それはどのような壁をも越えていきます。この交わりの前には、いかなる武装も必要ありません。人々が満ち足りるとき、そこには神の平和が訪れる、それは武器には拠らない平和であるとの中村哲医師の声を思い出します。神の力はお互いを大切にする愛です。その愛は過激派にさえ銃を降ろさせ、諍いを収めさせます。青草の原広がる、神の備え給う大地に、わたしたちは我知らずして立っていると感謝したいと願います。そして少しでも多くの人々に、その元気を分かち合いたいと祈り求めてまいりましょう。

2024年2月1日木曜日

2024年 2月4日(日) 礼拝 説教

    ー降誕節第6主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「主イエスはあなたの逃れの場」 
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』 5章1~14節
(新約聖書  171頁).

讃美= 122,21-508,21-29.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 
【説教要旨】
 自分や家族が重篤な疾病に罹患いたしますと、多額の金銭を集めてでも高額治療さえ受けたいとわたしたちは願います。それはわたしたちのいのちが自分だけのものではないと知っているからです。一般的な医療に基づく治療では困難な場合でも、漢方やその他の民間療法があれば家族のために生きる執念を燃やすというあり方もわたしたちにはあります。自らの病でなくても、わが子や家族の場合であればなおさら世界のどこへ行っても治療に専念させてあげたいと思うのが自然でありましょう。

 しかし本日描かれる箇所で登場する足の萎えた人には、そのように「何とかしたい」と願う人はいなかった模様です。まことに辛いことではありますが、この人は身体に障碍を負っているだけでなく、孤独の身でもありました。「エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で『ベトザタ』と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、身体の麻痺した人などが大勢横たわっていた」。38年もの間、この不自由な人を顧みる人はいなかったと、この人自らの言葉が示しています。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りていくのです」。この人は、単に身体が動かないだけなく、人々から忘れ去られた人でもありました。障碍を抱えているだけでなく、孤独の身でありました。ただ幸いであったのは、「良くなりたいのか」という人の子イエスの問いかけを無視しはしなかったところです。完全に諦めていたのであれば、このような問いに耳を閉ざし、心さえも閉ざしてしまうものです。ですがこの名もない男性は、イエス・キリストからの問いかけに、間接的な仕方であるせよ、意志表示をしたのです。

 「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」。すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした、とあります。実際に歩きだしたという事柄以上に、38年間の沈黙が破られ、この足萎えの人を深く顧みる人として、人の子イエスがそのそばにおられたことが何よりも嬉しかったのです。しかしその喜びは、瞬く間に周囲の人々に打ち消されます。この人が歩き出した様の喜びをともにするどころか、咎め立てをするのです。その咎め立てをする人々はこう言います。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは律法では赦されていない」。癒された人は憤りとともにこう語ります。「わたしを癒してくださった方が『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」。咎め立てる人々は口々に「それは誰だ」「それは誰だ」と問い詰めるのです。

 しばらく時が経ち、幸いにも再会した折に人の子イエスは次のように語ります。あえて感謝の言葉など求めません。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない」。この箇所で人の子イエスが指摘した「罪」とはいったい何なのでしょうか。障碍の原因を本人の罪か、または両親の罪かと弟子が問い尋ねる場面は確かに描かれましたが、イエス・キリストはそのような特性が「神のわざがその人に現われるため」であると、当時としては実に画期的な解釈を行なっています。ですからこの人の病が罪であったとは見なしていないはずです。何が罪かと言われるならば、それは癒しを受けたこの人が、安息日に癒しを受けた事実を喜ばない人々に対して論争を続けたところにあるのではないでしょうか。喜びをともにしてくれる人であればいざ知らず、咎め立てをする人々に半ば憎しみをもって論じ合うなどイエス・キリストに癒された喜びを最も損なうものです。このような交わりから離れるようにと伝えているようです。あのエデンで生きる幸せの秘密を、神では無い者にうっかりうち明けた人間のような真似はよせ、と伝えているのです。

 残念なことにこの癒された人は後に、その恐怖からか身体を癒したのはイエスだと伝え、それにより迫害を受けるにいたりました。しかしこのようなことも人の子イエスには織り込み済みであったはずです。なぜなら「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」とあるからです。イエス・キリストは、ただ神の愛をよりどころとして、どのような人もモデルとせずに黙々と癒しのわざを続けておられた様子が窺えるのが本日の箇所です。今朝の説教のタイトルは「主イエスはあなたの逃れの場」としました。それはイエス・キリストはこのような仕方でわたしたち一人ひとりを孤独にせず、過ちを問わず痛みを問いかけ、癒してくださるからです。孤独になったとき、追い詰められたとき、わたしたちはイエス・キリストの問いに答え、その懐に飛びこみましょう。この誰からも無視されていた人のように訴えを聞くキリストがそばにいる喜びがあります。