2020年3月29日日曜日

2020年3月29日(日)説教

「一粒の麦が地に落ちなければ」
『ヨハネによる福音書』12章20~26節
説教:稲山聖修牧師
『ヨハネによる福音書』には他の福音書では描かれない登場人物や群衆の様子が記されているという意味で多くの目覚めを与えられる。実に印象深いのは、この物語ではマルタとマリアという二人の姉妹にラザロという兄弟が加わり、このラザロがイエス・キリストの復活の出来事を先取りするかのような重要な役割を担っているというところだ。イエス・キリストがエルサレムに入城するという物語の場合でも『ヨハネによる福音書』の書き手はラザロに触れる。12章17節には「イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせた時一緒にいた群衆は、その証しをしていた」。さらにはエルサレムに入城してきたイエス・キリストを群衆が出迎えた理由にも「ラザロの復活」の話の広がりがあったからだ、と書き手は理由づける。イエス・キリストを迎える群衆を目の当たりにして、律法学者は徹底的に打ちのめされる。

 今朝の箇所ではイスラエルの民の奴隷解放を祝う「過越の祭」にギリシア人も加わっていたという話が記される。このギリシア人も群衆に紛れてエルサレムでの礼拝の列に加わろうとしていた。ガリラヤのベトサイダという、他の福音書では「災いだ、コラジンよ、災いだ、ベトサイダよ」と、ソドムの町よりも罪深いとして𠮟られた町から出てきたギリシア人は、キリストの弟子の一人フィリポに願い出る。「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」。
 フィリポとアンデレを経てイエス・キリストはこの知らせを聞く。別の福音書ではティルスやシドンといった様々な異邦人、ユダヤ人からすれば異国の民でごった返し享楽と商売で賑わう町や、創世記で神を顧みなかった町として滅ぼされたソドムの町よりも罪深いと扱われたベトサイダから使者として派遣されてきたかもしれないギリシア人の話を聞いてキリストが語ったのは「人の子が栄光を受けるときが来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎むものは、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる」。叱りつけたはずの町から救いを求める使者が訪れる。聖書の世界では救いを伝える使者は多く描かれるが、救いを求める使者は稀だ。それではイエス・キリストが担ったのは何か。それはティルスやシドンといった経済的な楽しみに現をぬかす街々、またソドムもほうが軽い罰で住むと言われたコラジンの町に暮らす人々への執成しに留まらず、ファリサイ派の一部や祭司長たち、長老といった人々の歯ぎしりに満ちた憎悪である。これら全てを一粒の麦が受けとめて、いのちを失った後に授けられる多くの収穫が、いのちの希望として記されている。「キリストに従う」「キリストに仕える」という言葉が抽象的にではなく、具体的にどのような道筋となるのかを考えさせられる。


 COVID-19が猛威を振っており、日本もその例に漏れない。買い占めやマスクの転売を戒めるだけでなく、泉北ニュータウン教会では礼拝を休止しないのかという問いを抱く方もいるかもしれない。けれども同時に、礼拝に平安を見出す人がいるとするならば、牧師としては一人になっても続けなければと思っている。そんな折、イタリアはロンバルディアのベルガモで働くジュゼッペ・ベラルデッリ神父が、自分より若い患者にと人工呼吸器を譲って召されたという話を聞いた。これは美談では済まないぞと生き方を突きつけられている。神父は教会員を神に祝福され、キリストに赦された人として生涯を全うしたと気づかせるべく「病者の塗油」というわざを行い看取りをする。その際に感染する者も多く、医療従事者に劣らない数の司祭がイタリアでは逝去している。

 召された聖職者も自ら望んでいたとは考えづらい。神から委託された働きに懸命に励んだに過ぎない。けれどもそのような生き方が、COVID-19でも奪えないいのちの希望を灯しているように思えてならない。「這ってでも礼拝に」という囚われから解放され、まことの平安を今・ここで味わうことのできる喜びに感謝したい。みなさま自身がキリストの豊かな実りとなるためにも、くれぐれもご体調を優先されて礼拝に出席されますよう。

2020年3月22日日曜日

2020年3月22日(日) 説教


「復活の光の中での葬りの準備」
『ヨハネによる福音書』12章1~8節
説教:稲山聖修牧師

 今朝の箇所と重なる物語は『マルコによる福音書』14章3節に記される。キリストが招かれた場所は「重い皮膚病」に罹患していたシモンの家。その病はかつて「らい病」と訳された「レプラ」であるが、その時代には治療法が不明である。本来ならば彼は徹底的に隔離されるだけでなく、道行くときにその病名を叫ばなくてはならなかった。病がもたらす苦しみと、病が社会にもたらす混乱という二重の苦しみの中にシモンはいた。家族も同様の扱いを受けただろう。そのシモンの家に入り食卓をともにされたのがイエス・キリストであった。マルコの物語はこの出来事から始まる。
 他方『ヨハネによる福音書』の場合、この食事の場面ではある家族が描かれる。それはイエス・キリスト自らがラザロとその姉妹のマルタ。マリアはその家族として描かれる。場所はベタニア。ラザロの故郷は同じくベタニアだから彼の家での食卓だったろう。ベタニアという場所はイエスとその弟子にはどのような場所だったか。
 『ヨハネによる福音書』11章では、ベタニアに入るにあたり弟子がイエスに上申する。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか」。古代ユダヤ教の最高刑の待ち受ける場所がベタニア。それを承知の上でラザロを死の床から癒すためにイエスはその地に赴いた。弟子のトマスは、絶望的な心境から絞り出すように「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言うほどであった。
キリストを狙う祭司長とファリサイ派は最高法院、すなわちその時代のユダヤの最高議決機関を招集して審議する。「この男は多くのしるしを行なっているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」。キリストを信じるとは、ローマ帝国の支配原理とは異なる考えに人々が導かれることを意味する。ローマ帝国の支配原理について大祭司カイアファは語る。「あなたがたは何も分かってはいない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済むほうが、あなた方には好都合だとは考えないのか」。この発言を、わたしたちはいかに受けとめるのだろうか。人間をそのかけがえの無さにではなく、数として考えた場合、カイアファの発言は俄然説得力を帯びる。少数が多数のために犠牲になる。国全体が滅びないで済む方が好都合だ。自分が安全圏にあるとの思い込みにある者の発言。しかしその思い込みは往々にして脆かったり、錯覚であったりするというものだ。
全てを知った上で食卓に座るイエス・キリストのもとにマリアが香油を持参する。『マルコによる福音書』では無名の女性だったが、この箇所ではマルタとラザロとの了解を得ている。この振る舞いを叱る声はマルコの物語と変わらない。「なぜこの香油を売って、貧しい人に施さなかったのか」。イエス・キリストが語るには「この人のするままにしておきなさい。わたしの葬りの日のために、それをとって置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない」。キリストの苦難の出来事、十字架の出来事、埋葬の出来事、そして復活の出来事は全て一度きり。そしてそのかけがえのなさは、復活の光の中で確かめられる。その宣言の証し人が食卓にいる人々となる。同時に「貧しい人々はいつもあなたがたとともにいる」とは、イエス・キリストの教えと生きざまを宣べ伝える教会に委託された務めである。それはキリストを通して注がれる神の愛の力であるところの聖霊なしにはできない。人の力にのみ依り頼むのならば、たちまち争いが生まれて歴史に消えていったはずだ。この委託が何とイスカリオテのユダに向けて語られ弟子たちに及ぶ。

 イエス・キリストの葬りの備えとなる香油。これはわたしたちが日々身にまとっていくところの香りであり、葬りを超えたところの復活のイエス・キリストの香りでもある。その香りに包まれるためには、自己責任の枠でその力を授かることは不可能だ。絶えずイエス・キリストの名前を心に刻んで神との関わりを忘れないところから全ては始まる。自分ではなくイエス・キリストを自らの中心に据える。「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます」(『ヨハネの手紙Ⅰ』16節)。ため息をつく時から招かれる時へと、わたしたちは絶えず呼びかけられている。移ろう人々の姿を超えて、キリストの姿を見つめよう。

2020年3月15日日曜日

2020年3月15日(日) 説教


「あなたがたも離れていきたいか」
『ヨハネによる福音書』6章66~71節
説教:稲山聖修牧師


「礼拝には這ってでもいくべし」。ある世代の牧師や教会員には信仰生活の規範として響いたこの言葉も、コロナウイルス感染症流行の前には無力なように思える。今朝の箇所では「あなたがたも離れていきたいか」とイエス・キリストは弟子達に語りかける。イエスが単なる精神論を振りかざした結果招いた事態だとは考えづらい。

 思えばイエス・キリストが、ある少年の五つのパンと二匹の魚を分けて、五千人の飢えを満たす出来事に物語の源がある。物語ではその後、湖の対岸にイエス・キリストとその弟子が舟で渡り、群衆も小舟で追ってくる。到着した後にイエスは群衆に語りかける。「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためにではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命にいたる食べ物のために働きなさい」。対して「神のわざを行うためには、何をしたらよいでしょうか」と問えば「神がお遣わしになった者を信じること、それが神のわざである」とキリストはさらに応じる。このやりとりの中でイエスは「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに食べさせたのではなく、わたしの父が天からまことのパンをお与えになる」と解き明かす。この中で「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」との声があり、そこでイエス・キリストは「わたしがいのちのパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことはない」との言葉が刻まれる。これが律法学者の物議を醸すのだ。「わたしはいのちのパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降ってきたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉の事である」。このメッセージの中では「あなたがたの先祖は荒れ野でマナを食べたが死んでしまった」と『出エジプト記』の凝り固まった解釈が批判され、救い主のわざは「復活」という死に勝利する「いのちの出来事」と不可分だとイエス・キリストは語る。

しかしながら、この言葉に応じた弟子は数としては多くはなかった。むしろ「実にひどい話だ。だれがこんな話を聞いておられようか」と吐き捨てるように呟いては去っていった。おそらくその理由は救い主の訪れと旧約聖書、とりわけ『律法(トーラー)』にあるモーセの物語とが対比されたところに批判が及んだのではないか。去っていった弟子も癒しの奇跡を目の当たりにはしただろう。しかしイエス・キリスト自らが救い主であり、旧約聖書に記された神の約束の完成者であることには背を向けた。イエス・キリストの『出エジプト記』解釈は彼らには冒涜なのだ。では「あなたがたも離れていきたいか」と問われた12人の弟子の態度はいかがであったか。
 12弟子の実質上の指導的な立場にあるシモン・ペトロ、そしてペトロとは対極にあるかのように描かれるイスカリオテのユダが描かれる。『ヨハネによる福音書』では悪魔呼ばわりされているユダではあるが、あらためて思い起こすのはペトロとユダの違いがどこにあったのだろうかという問いだ。ペトロはイエスが身柄を不当に拘束される中、大祭司の屋敷の中庭で鶏が三度鳴く前にキリストとの出会いを否定する。「三度わたしを知らないと言うだろう」というイエス・キリストの言葉を身を震わせて受けとめるのはイエス・キリストから離反してからであった。また、悪魔呼ばわりされるイスカリオテのユダは『マタイによる福音書』27章4節では弟子の中で真っ先にイエス・キリストの無罪を公けにする。そして二人ともキリストを軸にした聖晩餐をともに囲んでいる。
イエス・キリストの福音を宣べ伝え、主を讃えるために礼拝に集う。それは精神主義的な頑張りの彼岸にある。弟子たちによる承認願望に満ちた頑張りの一切が裏目に出たところにキリストの苦難と十字架への道が浮かびあがる。ペトロもユダも罪人として同じ地平に立つ。それは日々の暮らしに必ず犠牲が伴っていることを忘れがちなわたしたちにも言える。「あなたがたも離れていきたいか」とキリストはわたしたちに日々問いかける。これは「わたしに従いなさい」という呼びかけの裏返しでもある。主に従おうとする者であれば誰もが、キリストの十字架への道から目を背けるわけにはいかない。不穏なうわさに惑わされず、主に招かれている厳粛さを味わおう。

2020年3月8日日曜日

2020年3月8日(日) 説教

「キリストを凝視する人の歩み」
『ヨハネによる福音書』9章27~34節
説教:稲山聖修牧師

「罪」という語で失楽園の物語を思い起こしがちなわたしたちだが、実のところ『創世記』で初めて登場するのはカインとアベルの物語。それは「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」との一節に使われている。罪には「罪を犯す」「的を外す」「目的を見失う」を示す語と、「罪を犯す、有罪となる、刑罰を受ける」を意味する語がある。いずれも現行罪に関するものであり、本来は因果応報や遺伝によるところの生得的気質や傾向を示すのではない。あくまでも当事者の責任に関わっている。
 ただし新約聖書で描かれる世界では罪概念と穢れの規定との区分が曖昧になり、身体に障がいがあったり、病を患っていたりする場合、それは因果応報の結果として理解されていく誤解が生じる。当事者は生まれながらの特性だけでなく、その特性を人格的に否定されるという重い軛に責め苛まれ続ける。しかし、イエス・キリストはこの因果応報論から盲人を解き放つ。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。イエス・キリストは個人の自助努力ではどうすることもできない因果応報の闇から、先天的に目の見えない人を苦しみから解放し、同時に旧約聖書の誤解をも修正している。物乞いするほか生きる術のなかった男性の目に自らの唾で捏ねられた泥を塗る。イエス・キリストはその上で「シロアム(遣わされた者)の池」に行って洗うように命じ、そのようにしたところ、男性は見えるようになる。
 それでは男性の家族はこの出来事を喜んだのだろうか。男性の目が啓かれたのは安息日。病の癒しを公に認める役目は祭司あるいはユダヤ教の法学者にある。そこでは激しい議論が巻き起こされる。「安息日に癒しのわざを行うなど神のもとから来たのではない」。やがて質問は癒されたところの、かの男性に向けられる。「お前は一体、あの人をどのように思うのか」。
 調査はさらに続く。「本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう」と両親は自分たちとその出来事とは無関係だと言わんばかりに男性を遠ざけていく。因果応報の軛から解放されながらも、男性は孤立を深めていく。家族までを責め苛む大勢の人々は、それが罪ある行為であるとは気づかない。確信犯的な悪意の中でなく、正義感や善良さの中で人が罪を犯すという地獄絵図が記される。「我々はモーセの弟子だ」と自称して憚らない人々は、自らの癒しの出来事を証しするにいたった男性を「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と責め立て追い出す。遣わされた者の孤独と戸惑い、そして苦しみが描かれる。
 とはいえこの癒された男性の歩みは、悲劇に留まったのだろうか。かつて見えなかったという男性は、イエス・キリストとの出会いによって問い質しを受け故郷を追い出されるが、実はこれこそが男性の新しい旅路の始まりではなかったか。この人はイエス・キリストを凝視する歩みを始めた。それは避けることのできない心細さと孤独とがついて回る歩み。けれどもその心細さと孤独はイエス・キリストの救いの確信と新しい交わりの形成へと変容していく。イエスは男性が追放されたことを聞き届け「あなたは人の子を信じるか」と問う。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが」。イエス・キリストは語る。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」。男性が「遣わされた者」となったことを悟った瞬間だ。
 わたしたちは年齢や未熟さを言い訳に、教会の交わりでも人と比べて自分を卑下する場合がある。しかし最大の問題は年齢を問わずイエス・キリストの出来事に「馴れてしまう」ことなのだ。誰もが無力な盲人を尋問し責め立てた挙句、交わりから追い出すという危うさを、その「馴れ馴れしさ」の中で抱えている。それこそ自覚なき現行罪だといえるだろう。イエス・キリストはそのような馴れ馴れしさの中で、浅薄な正義感と善良さとが引き起こした無数の過ちによって十字架への道を歩むにいたる。しかしその歩みは同時に復活の光によって照らし出されている道でもある。イエス・キリストを凝視するとき、全ての恐れから解放され平安を授かる。病の罹患はその人の罪科によるのではない。神から授かる平安と「落ち着き」を今こそわたしたちは必要としているのだ。

2020年3月1日日曜日

2020年3月1日(日) 説教

泉北ニュータウン教会では、
日本基督教団による
新型コロナウィルス感染症に伴う注意喚起についての声明」を踏まえながら
礼拝と平日定例集会を行っています。
お越しくださる方々にはご理解とご協力をお願い申しあげます。

「主なる神を讃え、主に仕えなさい」
『マタイによる福音書』4章1~6節
説教:稲山聖修牧師

聖書は処世術を記した書物でも自己啓発本でもない。とりわけ福音書が示すのはイエス・キリストの復活にいたるまでの生涯、そして「キリストに従う」道である。だから時として読み手の理想や思い込みを粉々に打ち砕き、偽りの平和の正体を暴く。仮に政治家がその演説で聖書を戦争や搾取、差別を正当化するために用いるのであれば、それは果たしてイエス・キリストに従う態度に裏打ちされたメッセージとなるのだろうか。
今朝の「荒れ野の試み」として知られる物語で注目するべきは、悪魔自体が何者かというよりも、悪魔として描かれる誘惑者の言葉そのものだ。第一には「神の子なら、これらのパンが石になるよう命じたらどうだ」とある。これは単なる食の誘惑には留まらない。救い主のみがもつ力を、自分のために用いてみろという自己救済の誘惑でもある。イエス・キリストが十字架の苦しみにある時、人々は「神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りてこい」と罵り、その場にいた祭司長や律法学者や長老も「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがよい。そうすれば信じてやろう」と侮辱する。イエス・キリストのわざは、徹頭徹尾他者のためにある。決して自分を救うためにではない。「自分さえよければそれでよい」という身勝手さは神の御旨とは相いれないと、はっきり記されている。
そして第二の誘惑「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちはあなたを支える』と書いてある」との言葉。この箇所で誘惑者は『詩編91編』12節を引用する。「彼らはあなたをその手に運び、足が石に当たらないように守る」。誘惑者は聖書を引用してイエス・キリストを翻弄する。そしてその誘惑の実とは、神の愛を試すということだ。「試す」とは疑いや不信でもある。聖書を引用して神を疑わせるというテクニックに、わたしたちは幻惑される。イエス・キリストは『申命記』6章16節を引用して「試してはならない」と首の皮一枚の差でこの誘惑に打ち勝つ。
第三の誘惑は「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」。誘惑者は単なる偶像崇拝を形式的に勧めているのではない。「非常に高い山」「世の全ての国々とその繁栄ぶり」に暗示される名誉と権威、そして富が礼拝そのものの対象である。高台に暮らす人々には下町の暮らしは隠されている。世の全ての国々の繁栄は必ず誰かの犠牲に成り立っているのに、苦しむ仲間の姿が見えていない。旧約聖書では孤児と寡婦、そして寄留者を軽んじるありかたは厳しく戒められているのに拘わらず、その誘惑に抗えなかった人々は少なくはなかった。『マタイによる福音書』では「誘惑の物語」がイエス・キリストの洗礼者ヨハネに水による清めの洗礼の記事の直後に記される。イエスが救い主としての生涯を始める初めての出会いが、実は誘惑者なのだ。なぜこのような物語の構造になっているのだろうか。思うにそれは初代教会にこのような「独り占めの誘惑」がはびこっていたからではなかったか。まさにその只中で、福音書を書き記した人々は、その試みを神がもたらした試練としての確信に立って描く。だからこそ、イエス・キリストは救い主になる修行のためにではなく、「霊」、則ち神の力に導かれて誘惑を受けたと記す。そして諸般の誘惑をそれとして見究めて、打ち克つために「あなたの神である主を礼拝し、ただ主に仕えなさい」と『申命記』6章13節を引用する。シンプルかつ決定的な矢をキリストは放っている。『マタイによる福音書』で主イエスが用いている旧約聖書の言葉は、全てが『律法(トーラー)』の中に収められている。イエス・キリストは単に聖書を振りかざすのではない。また世の倣いを聖書で正当化するのでもない。あくまでも聖霊の力に背中を押され、わたしたち人間が陥る誘惑をことごとく見極め、そして自らその誘惑の只中でご自身を神の言葉とし、勝利される。キリストは独占や自己救済の誘惑に勝利し、分かち合いのもつ豊かさと、他者へ痛みを伴う愛を示す。
新型感染症の対応をめぐって、身のまわりではただならない混乱が起きているように思える。礼拝ですら閉鎖した教会もある。だからこそわたしたちはイエス・キリストに根ざし、神を讃える交わりに支えられ、主なる神の賜わる落ち着きと冷静さ、平安を授かる。受難節の第一主日礼拝。主がともにいるとの確信に立って歩もう。