2019年5月26日日曜日

2019年5月26日(日) 説教

ルカによる福音書7章4〜10節
「ローマ軍をゆさぶる神の平和」
稲山聖修牧師

 今朝の物語の中心人物は、匿名の百人隊長とその部下。百人隊長は最前線に立つ手前、兵士とは信頼関係で結ばれていなければならない。粗暴な言動が部下を虐げ、その結果不信が芽ばえるならば、後ろから槍や弓矢が飛んでくることもあり得る。今日の聖書箇所に先んじて記されるのは「ある百人隊長に重んじられていた部下が、病気で死にかかっていた」。軍隊では想定内の犠牲も勘案する。だから瀕死の兵士は楽にさせるという道もあったはずだ。けれどもこの百人隊長はそのような判断を下さなかった。
遣いに出されたユダヤ人の長老ですら次のように執り成す。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです」。福音書の書き手は、人の属する組織や家柄を重視しない。むしろ一期一会の出会いを重んじる。この出会いは再現不可能な尊さを秘めている。イエス・キリストは長老の願いを聞き入れて百人隊長のもとへと急ぐが、隊長は友人にメッセージを託す。理由は何か。「主よ、ご足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですからわたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました」。百人隊長はキリストを前にしての自分の立場というものをわきまえている。百人隊長はキリストを前にして、剣を振るう者としての負い目すら抱えている。彼は続ける。「ひと言仰ってください。そして、わたしの僕を癒してください。わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、その通りにします」。この箇所で描かれる百人隊長は、職務で服従する上官以上の権威を、イエス・キリストに見定めている。たとえローマ皇帝であろうと、病気で死にかけている部下を救うことはできない。イエス・キリストにはそれがおできになる。この絶大な信頼を、キリストの絶対的な恵みに寄せていることに、キリストは「イスラエルの中でさえ、これほどの信仰を見たことはない」と感心する。その結果、誰からもさじを投げられていた一兵卒は癒されていた。

 実のところ、新約聖書の四福音書、そして『使徒言行録』の物語の要所要所には、度々百人隊長が軍務とは別の立場でイエス・キリストの足跡に関わる。もっとも初期に記された『マルコによる福音書』では、イエス・キリストの処刑の際に、おそらくは現場監督として立ち会った百人隊長が、弟子たちに先んじて「本当に、この人は神の子だった」とつぶやく。これは信仰告白としても受けとめられるだろう。また、弟子たちのその後の歩みと教会の歴史をたどった『使徒言行録』10章では、初代教会の働きが発展していくその節目に、コルネリウスという百人隊長が描かれる。彼は「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」と記されるだけでなく、天の御使いから使徒ペトロの訪れを聞く。最前線で矢面に常に立つ百人隊長は、部下のいのちを預かるだけでなく、無駄な血を流すことは避けたいとの思いも強かったはずだ。イエス・キリストも学ばれた旧約聖書の『申命記』17章には次のように記される。「王は馬を増やしてはならない」。馬という家畜は軍事目的のために用いられる。したがってこの誡めは軍拡政策への警鐘としても理解できる。


『ルカによる福音書』と『使徒言行録』はローマ帝国の高級官僚に献呈されてもいる。その中で、前線に立つ将兵を、番号ではなく、補充の効く駒としてでもなく、かけがえのない出会いの中で、そして名前とともに書き記していこうとする。これは前例のない取り組みに違いなかったはずだ。そしていつの間にかこの物語は、ローマ帝国による迫害が徐々に強まっていくはずの状況の中で、非暴力による抵抗という性格さえも帯びてくる。イエス・キリストに示された神の愛は、やがてはローマ帝国の軍事力さえ揺り動かし、圧倒していく。これこそ福音書に記された力強い宣言だ。それは最前線の将兵を、番号や補充可能な駒という鎖から解放し、重い鎧兜からも解き放つ。わたしたちも兜を脱いでイエス・キリストの前に立ちたいと切に願う。主なる神はこのようにして、わたしたちの暮らすこの世に介入してこられるのである。わたしたちは神の平和に立ち、世の動きに関わりたい。

2019年5月19日日曜日

2019年 5月19日(日) 説教

ヨハネによる福音書15章14〜17節
「たがいに愛し合いなさい」
稲山聖修牧師


聖書は人が書いた書物だ。そうでなければ聖書に聴き、味わうこともできない。但しその解き明かしをめぐっては、聖書全体に響く神の言葉に耳を傾けて、イエス・キリストの足跡に則して味わうことなしには、その理解に歪みが生じるだけでなく、危険な剽窃も生まれかねない。
 典型的な箇所といえば今朝の箇所の直前にあたる13節。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」。合衆国大統領が開戦のテレビ演説をすれば、そのまとめにはこの聖句が用いられて将兵や国民の士気を大いに鼓舞する。しかし『ヨハネによる福音書』本文は、あくまで15章にあるところの「わたし(イエス)はまことのぶどうの木」という、キリストとの繋がりの中でのありかたを訴えているのであり、それ以外の剽窃はあってはならない。その点でこの箇所は実に厳格な排他性を帯びている。

 もちろんキリストから「友」と呼ばれるからには、キリストに従う態度が要請される。例えば15章18節。「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属してはいない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである」。「わたしがあなたがたを選び出した」。これは一体どういうことか。
 思うにイエス・キリストに根を降ろすありかたを選ぶとするならば、ときとしてわたしたちは単に労苦を重ねるというだけではなくて、いわゆる「世間」では、時にアウトサイダーの道を選ばずにはおれないことを示しているのかもしれない。21世紀を迎えて以来、世の倣いとなってきたのは「自己責任」というありかた。ダーイッシュの人質となり2015年に殺害された、日本キリスト教団田園調布教会会員の後藤健二さんの名前を、わたしたちは覚えているだろうか。自己責任という言葉は、今や教育・医療・福祉・社会保障の分野でことごとく適用され、結局は公共機関の無責任さを支えている。これがわたしたちの暮らす世間一般のありかただ。けれどもわたしたちはそんなありかたの中では実に居心地の悪さを感じる。なぜならば、わたしたちはイエス・キリストに根を降ろすことによって、社会の既定路線では進まない人生そのものに「別の可能性」を看て取っているからだ。どれほど叩かれても、変わらない問題意識を抱いていれば、それはやがて実社会で責任を伴う奉仕をも含む職務として結晶する。また、人知れない苦しみを抱えていたとしても、同じような生きづらさを抱えているいのちに共鳴する力が備えられる。そこには人心を蝕む「自己責任」ではなくて、神が備えた「連帯責任」があり、神自らが担ってくださる「共同責任」というありかたが芽ばえる。

「たがいに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」。砕けた物言いをすれば「たがいを赦し、受け入れなさい。そして大切にしなさい。これがわたしの命じるところである」。その根拠は、乾燥した土にぶどうが根を深く降ろし、蔓を伸ばし、実りひと房ひと房が、日射しの強い日も風の吹く日も決してちぎれていかないように、キリストに深く根を降ろすところにある。肩書き・業績・立場、あるいは年齢・性別・身体の特性といったものも一切問わない交わりこそ、キリストを頭とする本来の教会の姿。更に言えば、教会は組織体として完結してはいない。神の愛による支配をさきどる交わりであり、決して自己完結しない。だからもし宣教というわざを考えるのであれば、それは同時に、世が求める人のありかたに対して、イエス・キリストに由来する問いを繰り返し発する交わりでもある。「あなたがたは自己責任の名のもとに、人を決めつけたり、自分を虐めたりしてはいませんか」。自己責任という言葉では決してカバーしきれない、神の大きな御手の中に、わたしたちは霊肉ともに置かれている。他者を慈しみ、その居場所を確保するために、それぞれの賜物を用いて一身を投げ打つことができるかどうか。それは復活の光のなかにわが身を投げ込んでいくことでもある。これこそが世のありかたとは異なる、わたしたちの人生行路の指針だ。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ竜田川」。水の中でペトロを受けとめたキリストに身を委ね、各々の暮しの中で、神の愛のチャレンジャーとして歩むべく、新しい一週間を始めたい。

2019年5月12日日曜日

2019年5月12日(日) メッセージ


マタイによる福音書28章20節

「だいじょうぶ、神さまがいっしょだから」
メッセージ:大野寿子さん
(日本基督教団浦安教会員、メイク・ア・ウィッシュ・オブ・ジャパン理事)

※今回は父母の日礼拝の報告と感想になります。


 「メイク・ア・ウイッシュ」とは、もともとは1980年にアリゾナ州に住む、白血病と闘う7歳の少年が抱いていた「おまわりさんになりたい」という夢を叶えるために、州の警察官が本物そっくりの制服を準備し、名誉警察官に任命したところから始まったという。少年は警察官としてパトロールを行ない、その五日後に逝去した。少年の笑顔は「夢をもちながら病気と闘っているこどもは、他にもたくさんいるにちがいない」という想いを人々に残した。その想いを引き継いだ人々の手で「メイク・ア・ウィッシュ」は誕生したのであった。

大野寿子さんがその運営に関わっているのが「メイク・ア・ウィッシュ・オブ・ジャパン」。日本で「メイク・ア・ウイッシュ」の活動を展開しており、2018年は235名のこどもたちと関わった。1994年にこの団体の活動に出会い、職員としても働いてこられた人物である。大野さんのメッセージには次のような言葉があった。「難病を抱えているこどもたち、というと可哀想なこどもという、大人が勝手にこしらえた上から目線のイメージを抱かれがちなのですが、実際のところは、どんなこどもたちでも必死に生きようとしているのであって、そこにおかしな先入観を大人がもつのは間違っています」。司会を担当しながら、稲山は「時代は変わったのだな」という不思議な感慨を抱いた。高校生だった頃、稲山は武蔵野日本赤十字病院で実母が乳癌の手術と治療、そしてその後にボランティア活動に従事していたこともあり、何度か小児病棟で入院患者のこどもたちと遊ぶという関わりをもったことがある。ある日出かけると、随分となついてくれた男の子がどこを探しても見つからない。「どうしたのかな」と尋ねたところ「お家に帰ったの」というお話だった。男の子は急激に病状が悪化して逝去されたのだと、後日知ることとなった。今から30年以上も前のことである。

それはメディアでの扱いも似たところがあった。テレビドラマでも小児病棟が舞台となっていた番組があったように思う。看護師を務める桃井かおり演じる女性が多くのこどもたちの生き死に、また家族の葛藤や悲しみや医療組織の無理解と向き合う内容で、入院前の母が観ては涙していたのを思い出す。いわゆる「難病もの」の作風ではあるのだが、そのようにして刷り込まれたイメージから、わたしたちはなかなか自由にはなれない。
礼拝後の親睦会で、そのような高度成長期の病児へのイメージが定着してしまった理由と「可哀想なこども」という先入観の由来、そして「メイク・ア・ウイッシュ・オブ・ジャパン」で語られたり、映像資料に登場したりするこどもたちの笑顔とのギャップについて、大野さんはこうお答えになったと記憶する。「高度経済成長期には、世の中がどんどん好景気になっていくその陰で、おとながどんなに努力しても手の施しようがないこどもたちがいたのは確かだったが、日陰に置かれたままだったのは確か。それは決して充分はなかった福祉事業に対する後ろめたさにも言えるだろう。また、小児病棟にかつてあったような『可哀想なこども』という先入観には、告知の問題も深く絡んでいたように思う。現在では、こどもたちへの病気の告知は積極的に行なわれているはずだ」。やはり30年間で社会の常識が大きく変わったことを感じずにはおれなかった。

もちろん「メイク・ア・ウィッシュ・オブ・ジャパン」の働きが、今もなお必要とされている背景には、既成社会のもつさまざまな予断や先入観から、難病のこどもたちだけでなく、むしろその保護者の方々が解放されてはいないという現実があるに違いない。いわゆる「逆縁」の苦しみが、どれほど遺族に腸を断つような痛みをもたらすのかは想像もつかない。そして現に、公害や原子力災害などの後遺症に苦しむこどもたちも後を絶たない。けれども、そのような種々の壁を、単に崩そうとするだけでなく、どんなときにもこどもたちの笑顔を育むために関わりを大切にする大野さんは、父母の日礼拝に集ったわたしたちををいつのまにか笑顔の当事者にしてしまった。生涯を笑顔で全うするその支えに従事される大野寿子さん。「だいじょうぶ」との声には突き抜けた明るさがあった。大野寿子様、またスタッフのみなさま、お越しくださったことに心から感謝申しあげます。

2019年5月5日日曜日

2019年5月5日(日) 説教

ルカによる福音書24章36〜43節
「復活の光につつまれるワンピース」
稲山聖修牧師

復活を想うとき、わたしたちは否応なしに死に向き合わずにはおれない。日本ではこの世と死後の世界との間に川が流れているという表現からも、生死の境にははっきりと一線が画されていることが分かる。他方で聖書の場合には、神が直接見える仕方でこの世に介入するとの理解がある。そのときには逝去された方々は全てよみがえり、ともに神を讃える日が来るという確信がある。さらに聖書独自の使信とは、教えの正邪をめぐる論争に先んじて、わたしたちが、復活の喜びについて、神の愛の力である聖霊の働きのもとで証しを立てる多様な道筋を決して否定しないというところだ。折伏(しゃくふく)のようなやりとりは聖書にはない。むしろキリストの愛の証しを暮しの中で立てる中で、当事者すら気づかないとままに教会の交わりとイエス・キリストとの出会いへと導かれていくという出来事が起きると、福音書の書き手となった人々も、そしてわたしたちも確信している。
復活の出来事の翌日、イエス・キリストがエルサレムにいた弟子の間に姿を現わす。「こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」。先週の箇所では32節の「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」との弟子の言葉があった。「燃える」という言葉には「炎」がイメージされる。このイメージには聖霊降臨の出来事が先取りされている。聖霊降臨の出来事の物語とは、イエス・キリストに派遣された者として弟子が初代教会の使徒として、そのわざに励む始まりを示す。しかしながら、たとえ「あなたがたに平和があるように」と言われたところで、弟子はただちに復活の出来事を受け入れることはなかった。37節には「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」とある。この箇所でいうところの「霊」とは、肉体とは切り離された霊魂だと受けとめても差し支えはない。肉体は腐敗し滅びるけれども霊魂は不滅だという考え方のほうが、復活という聖書のメッセージよりもわたしたちには耳障りがよい。しかし身体を肉体と霊魂とに分離する理解は、別段キリスト教の世界に限らず、諸宗教や種々の神話に見られる。とはいえ身体を肉体と霊魂とにセパレーツにして理解する場合、この考え方には少なからず危さが潜んでいる。例えば肉体はこの世の暮しと結びついている。身体性を否定的に捉える考え方にあって、そのセパレーツな理解はこの世を否定的に眺めるということにも繋がる。自分の身体性だけにではなく、社会へとその否定が向けば、肉体という牢獄から不滅の魂を解放するという理由でのテロリズムの温床にもなりかねない。オウム真理教が求心力を持ち得た理由には、実社会で覚える不条理から自由になりたいという願望が、バブルの爛熟期からその崩壊期にかけて顕著になったこととは切り離せない。福音書の記された時代でも「グノーシス」という集まりが教会にそのような考え方を持ち込んでいた。これを考えると弟子の仰天と恐怖により深く立ち入ることができよう。そのような弟子に、イエス・キリストは語りかける。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」。
いのちの理解をめぐって復活のキリストとの出会いは、弟子に混乱と疑いをもたらす。しかしその上で、キリストは、わたしに触れてみなさいと語りかける。霊魂不滅の思想に依拠するならば復活を受け入れるのは難しい。イエス・キリストは霊肉ともにワンピースで復活された。だからこそ、イエス・キリストはわたしたちの心の内にも、身体にあっても、暮しにあっても、社会にあっても、そして暮しにあっても、わたしたちに深く関わってくださる。そしてむしゃむしゃとおもむろに切り身の焼き魚を食べるその姿には、イエス・キリストの復活が決して絵空事ではなく、死に対するいのちの勝利であるという本質的な事柄を生々しく、しかも鮮やかに描こうとしている書き手の信仰がある。復活したキリストは身体の養いを必要とする。それはわたしたちの暮しや社会、世代に引き継がれていく歴史の新たな始まりでもある。いのちは決して霊魂と身体とに引き裂くことはできない。復活の出来事は、わたしたちの身体全体をいのちの力で癒し、世を活きる希望を備え、新しい交わりを築いていく原動力につながるのであり、それは神の愛の支配を待ち望むという救いの歴史と不可分でもあるのだ。