2022年4月29日金曜日

2022年5月1日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です)

 ―復活節第3主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂


説教=「イエスはよい羊飼い」
稲山聖修牧師

聖書=ヨハネによる福音書 10 章 7~11 節. 
(新約聖書186 頁). 

讃美= 154,354(1.3.4),542.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 福音書の世界では田畑を耕し、種を蒔く農夫、ぶどう畑で働く労働者、また湖に網を投げて魚を漁る漁師、そして羊を養い育む羊飼いの姿が多く描かれます。この他にも税金を集める徴税人や、小麦やオリーブオイルを販売する問屋業などがあり、パウロは焼き物をつくる陶工職人に神の姿を重ねていますが、福音書で人の子イエスの譬えの中に描かれる頻度からして実に多いのが農業や牧畜に従事する人々です。日々刻々と時間に追われる暮らしにあるわたしたちからすれば「牧歌的」という言葉にあるように、都会人が憧れる田舎暮らしのような世界が広がっているとのイメージが先行しがちですが、実のところは一日中働きずくめで、時には現在でさえいのちを危険にさらすような場にも出くわすまことに過酷な仕事です。
 例えば大雨が降ったり、台風が来たりしますと、今ではありがたいことに天気予報が警戒を呼びかけてくれます。けれどもその警戒警報を知りながらも、よく聞く事故として、田圃の様子を見に行く、または用水路の水を確かめにいったお年寄りが流されて行方不明になり、悲しい結果となるという話です。「そんなことをわざわざしなければよいのに」と事情を知らない人は無責任に呟きもするのですが、農業に従事する方々の殆どが高齢化を迎え、農協からお金を借りて高額な機械を購入した上で田を耕し水を入れ、苗を植えて世話をするという途方もない労の中で、一年の労力が一夜にして水泡に帰するなどとは許容しがたく、死活問題にも関わります。その結果、水田の水量の調整を行うために用水路へと足を滑らせてしまうという事故の原因を探れば、当人だけに留まる問題ではないと分かります。先ほども申しましたように後継者がいない中、食糧自給という国の存亡にも関わる働きが、高度経済成長期を経て今日にいたるまで軽視されてきたのは否めません。秋の実りがあったとしても、その労力に見合った手当が出るかは分からず、またそうであるならば株の売買や投資に金銭を充てた方が儲けも大かろうとの雰囲気がこの30年、人々の心を蝕んできたようにも思います。
 そんな中で泉北ニュータウン教会にまいりますと、嗅覚が繊細な方であればまずお感じになるのが家畜小屋の匂いです。山羊のユキちゃんの匂いですが、それはいきものとして当然の匂いです。食べ物を食べて反芻をし、そして排泄をします。汚れた床の掃除も含めて、こども園の職員さんが対応しておりますが、羊飼いの役目はそれに輪を掛けて労を要する仕事であったはずです。労多くして実り少なし、というわけではないけれども、どのような特性をもった羊が生まれてくるのかは分かりませんし、生体によっても性格も気性もさまざまで決して一括りにはできません。だからこそ羊飼いたちは羊一匹いっぴきに名をつけて、顔立ちや体つき、年齢をもとに、相応しい養いをしていました。羊が各々その声を覚えるのも当然というものです。
 今日の『聖書』の箇所では、自らを怪しむ人々に対して、人の子イエスが自らを「羊の門」、また「よい羊飼い」と語るというよく知られた場面が描かれます。生きものと関わる働きはとかく不確定な要素が多く、人間の思惑では捉えがたいところが出てまいります。いのちに触れる。子育ても介護も教育も、人の思惑では捉えがたいところにぶつかり、一人背負い込んで誰かの助けや支えを借りようとせず無理をして、養う側の枠組みに合わせようとした途端うまくいかなくなります。以前バーゼルという街郊外の研修施設を訪ねて帰国の途に就く中、思い出づくりに大衆食堂に立ち寄った際、壁いっぱいに毒々しい絵が描かれていました。それは肉づきをよくするために、本来は干し草を飼料とするはずの肉牛に、羊の肉や骨粉を混ぜた結果流行したクロイツェル・ヤコブ病、すなわち「狂牛病」という、人にも感染する病気を風刺した絵画でした。おそらく食の環境に熱心なお店だったのでしょう。本日の箇所にある「盗人」「強盗」とは、そのような振る舞いに及んだ、羊のいのちも牛のいのちも、口にする人のいのちをも何とも思わず、ただただ生産性ばかりに気をとられた人々だとの解き明かしもできるのではないでしょうか。「よい羊飼い」イエス・キリストは、わたしたちを一箇所に閉じ込め、特定のあり方を強いる牧者であるとは、到底考えられません。なぜなら、本日の箇所に重ねられる詩編23編には「主は羊飼い、わたしには何もかけることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる」とあるからです。群れから離れてわれ知らず危い状況に踏み入れた羊のためには、自分のいのちをも顧みません。便利な暮らしに慣れて、統計上の数字にのみ囚われるわたしたちには滑稽に映ります。しかしそこにこそ、神の真理が宿っています。よい羊飼いは、決して格好のよい羊飼い、ええ格好しいの羊飼いではありません。わたしたちの臭いにまみれ、汗にまみれ、排泄物の具合さえ観察しながら、「大丈夫だ、心配ない」と仰せになってくださる羊飼いです。そのような羊飼いに導かれる交わりは、決して見栄えのよい羊ばかりが集っているわけでもありません。それぞれの至らなさを見つめるほどに、わたしたちを導いてくださっているのはイエス・キリストなのだという信頼と確信を新たにしてまいりましょう。

2022年4月22日金曜日

2022年4月24日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です)

―復活節第2主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂


説教=「あなたがたに平和があるように」
稲山聖修牧師

聖書=ヨハネによる福音書 20 章 24~29 節.
(新約聖書210頁). 

讃美= 243(1.2.4),151,540.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
  25年ほど前に世の中を席巻した音源媒体にコンパクトディスクがありました。レーザー光で金属箔につけられたデジタル信号を読み込んで音を再生するというもので、発売された当時は劣化もしない理想的な録音媒体としてPRされました。カセットテープが販売されたときも、オープンリール形式の磁気テープ式録音に較べてその手軽さがもてはやされましたが、保存する温度や湿度でテープが伸びてしまったり絡まったりすることもありましたので、次第に磁気媒体から光学媒体に代わってまいりました。
 ただコンパクトディスクも問題がなかったかといえばそうではありませんでした。理論的には半永久的に音源が記録できるはずでしたが、実際にデジタル信号を記録した金属箔は殆どがアルミニウム。つまり30年ほど絶ちますとアルミニウムが錆びて音飛びが激しくなって音源が再生できなくなります。ゴールドでは永久保存が出来ますがそれはあまりにも高価です。その後デジタル方面へ進化する音源もないわけではありませんが、時代の変化の中で変わらない音源があります。それはレコード。今でもレコード針を販売し続けている会社は倒産せずに残っています。レコードの音は生演奏を正確に記録したデジタル音源とは異なった趣があります。柔らかな響きがあり、とげとげしいところがありません。レコード盤に刻まれた傷をなぞり、針はその凹凸を受けとめながら音を紡いでいきます。
 傷をなぞってさまざまな名曲が再生されていく。アナログという点では一歩遅れています。そしてそれは本日の聖書の箇所の人の子イエスの弟子トマスにも重なります。なぜならトマスは甦られたイエス・キリストとの弟子たちの交わりに一人出遅れてしまったからです。トマスは決してイエス・キリストを信頼しなかったからかような所作に及んだのではありません。十字架に掛けられる前、イエスが重い病に罹っているラザロに出会うためにエルサレムの近くの村ベタニアを訪ねようとするときには、身の危険を感じて尻込みする他の弟子たちを差し置いて「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」とまで語った人ではあります。しかしそこまで情熱的であったが故にこそ、人の子イエスが十字架につけられて殺害されてしまったという報せに深い絶望と幻滅を覚えるほかなかったことでしょう。
 「神様っているんでしょうかね」と問われる機会が増えました。30年前の湾岸戦争ではテレビで戦争が中継されました。ウクライナ戦争ではデジタル技術の結晶であるスマートフォンで戦争が中継されています。カメラが切り替われば次から次へと悲惨な画面が映ります。そのせいで気持ちがくたびれて、罪責感から身動きがとれなくなってしまう人も増えています。けれどもよく見れば同じ画像が何度も用いられ、別の場所の出来事とないまぜになっている報道にも気づかされます。戦争に情報戦はつきものですが、特に日本の大手マスメディアによる動画の使い回しには注意が必要です。しかし。それでも「神様っているんでしょうかね」という問いそのものの重さは変わりません。この問いかけは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と語ったトマスの問いかけにも、度重なる悲惨な報道により「神様っているんでしょうかね」「復活なんてあるんでしょうかね」と問わずにはおれない言葉は重なります。
 そのようなトマスの態度をイエス・キリストは否定されませんでした。八日後にトマスと出会うイエス・キリスト。イエスはトマスを拒絶するどころかその指をご自身の傷に重ね、その手を脇腹の槍に刺された傷跡に押し込もうといたします。目の前の主イエスは、トマスのために誰かが編集したり作り出したりしたものではありません。文字通りトマスがその傷をなぞることによって、復活という出来事が何度も何度も轟いていくのです。それが集う弟子たちの間で響き渡る「あなたたちに平和があるように」との宣言に繋がっていきます。
 トマスのように、自らが疑ってかかる課題に正面切って臨む人はまれです。しかしわたしたちはさらに、わたしたちの身近なところで傷つき悲しんでいるこどもたちや家族、友人を知っています。その中に戦火を逃れてきた難民の方々がいればなおのことです。肌や瞳の色を問わず、言葉を問わず、身体の特性を問わずに、できる限りで構いませんから、手を差し伸べて触れてみてはいかがでしょうか。それはとりもなおさず、復活されたイエス・キリストの傷に触れるわざに繋がり、ひいては霧のような憂いと疑いを晴らす交わりへと繋がります。復活のイエスはトマスに、神自らの誠実さをお示しになりました。その神の誠実さに、わたしたちもキリストを通して触れているのです。




2022年4月15日金曜日

2022年4月17日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です)

  ―復活節第1主日礼拝― 

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂


説教=「主の復活はすべてのいのちの希望」 
稲山聖修牧師

聖書=ヨハネによる福音書 20 章 11~18 節.
(新約聖書 209 頁). 

讃美= 155(1.2.4),148,540. 
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 初代教会の時代、教会の象徴として用いられたのは十字架ではありませんでした。むしろ好んで用いられたのは羊飼いに重ねられた救い主の姿であり、「イエス・キリスト・神の・息子・救い主」とギリシア語で綴った場合の頭文字をまとめた単語である魚の図案であり、または苦しみの多い困難な世の波風の中で逃れの交わりが備えられ、なおかつ『旧約聖書』のノアの物語と重なる舟が用いられてまいりました。なぜ十字架が用いられなかったのかと言えば、端的に申しあげてそれは処刑の道具であり、しかもそれは日本でいう磔刑に匹敵するほど目を背けられるほどのもので、ローマ帝国の内部ですらその是非の論議が停まらなかったと申します。日本の磔刑と異なるのは用いられる材木が人間の背丈程度のもので、その刑によって息絶えた亡骸は晒されたまま禽獣の餌食となるところにあります。「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」と刻まれた板を打ち込まれた柱で絶望の叫びをあげて事切れた救い主イエスの亡骸。本来ならばさらしものとされるところでしたが『ヨハネによる福音書』では「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを怖れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフ」がピラトのもとに遺体の引き取りを願い出たとあります。このヨセフは「議員」であったと記されているところを考えますと、エルサレムの神殿中枢に出入り出来るだけの立場にあった模様ですが、死刑囚の関係者であると公にし、ローマ帝国の総督に申し出るだけでも、清水の舞台から飛び降りるほどの勇気が要ったことでしょう。またこの福音書3章で夜分に人の子イエスを訪ねて「神の愛による統治」「新しく生まれるという出来事」について語らったニコデモもともにいて、イエス・キリストのご遺体を引き取り墓地に納めたとあります。二人はイエスに心を寄せていたファリサイ派の人物であったと申しますから、言葉にならぬ心痛を抱えていたことでしょう。
 その心痛を表わすかのように本日の箇所で記されるのが、マグダラのマリアの涙です。鞭打たれた亡骸でもありますから傷みは激しかったことでしょう。マグダラのマリアが誰であったのかをはっきりと示す箇所は実のところ『福音書』の物語にはありません。しかし『ヨハネによる福音書』の場合では、ベタニアで主イエスの足に香油を注いだ女性がマグダラのマリアであるとの理解もできます。となれば彼女はイエスに復活させられたラザロの妹にあたります。不治の病を癒してもらった恩人でもある人が葬られたところへやってきたのはよいものの、墓から石が取り除けられ、弟子たちも首を傾げる始末。途方に暮れるほかないマリアは涙ぐむほかありません。彼女は十字架の出来事の傍観者ではなく当事者でした。目の前に白い衣を着た人々が二人、一人は遺体が置かれた頭、もう一人は足の方に座っていたと申します。この二人が訪ねるには「どうして泣いているのか」との問いです。マリアは「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか分かりません」と答えるほかありません。愛する人を失うことは痛ましいことですが、その遺体が見つからないとはさらにその傷をえぐるような傷みが伴います。その傷みの中で響く声がします。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれをさがしているのか」。この声にマリアは応えます。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」。一介の女性が「わたしが、あの方を引きとろう」という絶望を突き抜けた申し出。絶望は復活の光に刺し貫かれています。この申し出の中で、イエス・キリストは自らを証しされるのです。その生々しさは、思わずヘブライ語で「ラボニ」と口走ったマリアの態度に示されています。しかしまだ時は来てはおりません。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」。マグダラのマリアが聞いた復活の主の委託が、マリア自らの新しい希望となって今なお恐怖に震える弟子たちへと希望を伝えるのです。
 理不尽に奪われていくこどもたちを含めた民間人の報に取り囲まれながら、わたしたちはなおも新しい年度を復活の主に定めます。祈って何になる、との声の中で、わたしたちはなおも弟子のもとに走りに走るマグダラのマリアの姿を仰ぎます。片や世の絶望と不安をもたらす報、片やキリストによるいのちの希望。どちらに信頼を置くべきか。わたしたちにはもう答えが出ているはずです。従来の経験の通じない、グレートリセットの声高まる今、福音を伝え、神の愛を証しせずして何といたしましょう。事の大小ではなく、今すでに主に用いられていることを喜びたいのです。

2022年4月8日金曜日

2022年4月10日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です)

―受難節第6主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂

説教=「わたしではなく、あなたのあゆみ」 
稲山聖修牧師

聖書=マルコによる福音書 14 章 32~42 節. 
(新約聖書 92 頁). 

讃美= 136(1.2.4),301(1.4),544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 長らく暮らした街を木っ端微塵に破壊され、難民となった人の群れがいれば、指導者に幻滅し外国に逃れる人もいます。仮埋葬された家族の埋葬地を前に嘆く女性もいれば、親を失った戦災孤児もカメラのフレームの外にはいるはずです。イエス・キリストが「わたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と語った群れの中には、そのような人々もいたかも知れません。身寄りのないこどもたちは、次々と斃れていくはずでありましたが、平時であればいらぬお節介焼きの人々が、血の繋がらないこどもから「お母さん」と呼ばれた、ただそれだけの理由で、生涯をかけてその子を育んでいくという話があります。しかしその子とともに生きる道を選んだことにより、見知らぬ国へとたどり着き、理解なき伴侶と別れ、公園を寝場所としながら昼間は働き、図書館で暖ををとる。学校に行くようになったこどもはその異様な姿から毎日いじめを受け、自死を考えるまでに追い詰められていく。そのような時に母親が「もう疲れた」と呟き泣き崩れる。その姿にこどもは同じく思い詰めたかといえばそうではなくて「お母さんも苦しんでいたんだ、わたしも無理しなくていいんだ」と、ともに抱き合って涙したという人の話を聞きました。わたしたちであれば「もう疲れた」という言葉に自分を責めてしまうはずです。しかしその人は「わたしも無理しなくていい」と不思議な安堵を覚えたというのです。
 目の前に迫る人々の憎悪。これから受けるであろう暴力と処刑を予期しながら、ただ祈りによってのみ正気と平静さを保ち続ける救い主。『マルコによる福音書』が描くキリストの姿は、誰にも顧みられない、見捨てられた人として描かれます。過酷な道に毅然として身を委ねていくのではなくて、その道を見通せるからこそ弟子たちに傍にいるようにと語り、「わたしは死ぬばかりに悲しい。離れずに、目を覚ましていなさい」と呟きます。そして「父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください」と祈ります。この祈りからは、人の子イエスが心身ともに恐怖によって引き裂かれていく、そのさまがわたしたちにも痛みをもって伝わるところです。棕櫚の主日を迎えています。キリストに従う者は、時にキリストと同じように故なく嘲りを受け、キリストと同じように故なく自分の望む道を絶たれ、濡れ衣を着せられながら引き渡されます。そして謂れのない裁判を受け、そして一人孤独のうちに「わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫び、命を絶たれていく。世にある人の想像を超えた苦難と嘆きが、人の子イエスの姿に凝縮されます。まさに「キリストと同じように」と呟くほかはありません。
 しかしこの「キリストと同じように」というところに、わたしたちの希望と平安、そして死にすら勝利する神の愛を確信する道が拓かれてまいります。わたしたちが礼拝を献げるその度に「キリストに根を下ろそう」と確かめ合うのはそのためでもあります。いったい、わたしたちは追い詰められるほど、力に頼り、道に立ち塞がる問題を排除しようと必死になり、足掻いてまいります。「目には目を、歯には歯を」に象徴される法典も、本来は憤りのあまり生じる過剰な報復を押さえ、弱者とされる人々を守るために定められました。しかし実際には「やられたらやり返せ」という報復原理にしかなり得ませんでした。イエス・キリストもまた「この杯をわたしから取りのけてください」と祈られたという意味では、わたしたちと寸分違わない弱さを恥じることなく身に宿しておられる様子を意味しています。しかし続く祈りからは、人間イエス自らの力ではなく、まさにキリストとして変えられていくさまが明らかになってまいります。それは「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」との言葉です。「わたしのあゆみではなく、あなたのあゆみが全うされますように」との祈りです。毅然とした姿ではないからこそ、わたしたちもまた「無理しなくていいんだ」と、キリストと交わりをともにする者として、弱さの淵にあってなお、神の愛を証しする器として用いられてまいります。キリストとつながっている者の特権は弱さの中にあります。
 本日は中高生進級祝福式を行います。不器用なわたしたちからすれば「大きくなったね」という言葉しか見つからないかもしれません。こどもたちも、もはやこどもではありません。だからこそ、大人の言葉や態度をこれまでとは異なる気持ちで感じていることでしょう。その目には強さだけでなく弱さも映っていることでしょう。だからこそわたしたち自ら、イエス・キリストがゲツセマネの祈りから立ちあがるその先を見つめたいと願うのです。十字架での死に勝利したイエス・キリストと、わたしたちのつながりは、世代を超えて神の愛の証しをそこかしこで輝かせます。





2022年4月1日金曜日

2022年4月3日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です。当日はリモート礼拝となり、礼拝堂での対面礼拝はございません)

―受難節第5主日礼拝―

時間:10時30分~

リモート礼拝となります。

説教=「闇の中を進む光、救い主キリスト」
稲山聖修牧師

聖書=マルコによる福音書 10 章 32~38 節.
(新約聖書 82 頁).

讃美= 142(1.3.5),467(1.2),540. 
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 力ある者が力ない者を踏みにじる報せを毎日のように耳にするこのひと月。コロナ禍をきっかけにものづくりや人々の暮らしを支えてきた商店街が後を継ぐ者もなくシャッターを閉めていく。おそらくはひたむきに勤めてきたところの仕事に将来性を見出せず店や会社を閉じるところが、日毎に音を立てて崩れるこれまでの倣いの中で激増しています。その代わりに増えているのが株の投資やレアメタルの先物買取引。ある種のギャンブル性も伴うところもあってか、安易に手を出しては財産を失う人もいるとのこと。身から出た錆だと言ってしまえばそれまでですが、巻き込まれた家族親族にとっては本当に辛いことで、明日のことを思い煩うどころか今日一日をどうしようかと悩む人が粛々と増えています。核戦争の恐怖に人類をさらす指導者の采配一つで故郷を追われた人々の痛みを、今、路頭に迷う人々も、わたしたちも、ともに分かちあえるのならばまだしも、この場この時にあってなお憎しみが絶えないという話には立ち直れなくなるような悲しみを覚えます。同じ難民であったとしても人々から歓迎される人もいれば、国境に壁が設けられ決して受け入れられない民もいます。神の愛との関わりなしには人はどこまでも堕ちていく可能性をはらんでいる、罪ある者なのだとの言葉を、この混乱期に噛みしめます。
 おそらくそのような、どうしようもない人間の醜悪な部分を本日の聖書の箇所は、はっきり描きます。『マルコによる福音書』で、明らかにいのちが危ぶまれる、聖なる都エルサレムへと先頭に立って進むイエス・キリスト。これまで二度も自らの死を語り、それがどのような経緯でもたらされるのかを聞かされてきた弟子には恐怖以外の何もなかったことでしょう。「今わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する」。人の子イエスが世を歩まれた時代のイスラエルの民には、復活という救い主のあり方は、全てにわたって共有される考えでも、ありようでもありませんでした。例えば「サドカイ派」と呼ばれる、エルサレムの祭司を頂点とする、力ある人々には『創世記』から『申命記』までにいたる五つの書物、『律法(トーラー)』と呼ばれる書物がよりどころではありました。この五つの書物で描かれる物語では、復活はそのものとしては描かれてまいりません。アダムは長命を記されながらも死に、アブラハムも伴侶サライに先立たれながら葬られ、イサクも弔われ、ヤコブとヨセフはエジプトのしきたりに従って葬られます。イスラエルの民を奴隷の家から解放したモーセは後に続く世代のあゆみを見守りながら道半ばにして息をひきとってまいります。預言者の教えとして死者の復活は論じられますが、それを見た者は誰もおらず、従って弟子たちが、どこまで人の子イエスの語る復活を正面切って受けとめられたかは謎です。しかしそれでも恩師であるイエスが自らの死を予告するという尋常ならざる状況には震えが止まらなかったと思うのです。
 しかしその状況の中で弟子の醜悪さが際立つ箇所があります。それはゼベダイの子ヤコブとヨハネのやりとりです。メシアとして「栄光を受けるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と、あたかも遺産や遺品の整理で有利になる品物を得ようとするかのように、兄弟で、復活の後のキリストの身近に寄せてくれとすがります。「あなたがたは自分が何を願っているのか、分かっていない」と言われるのは、福音書の読み手であるわたしたちからすれば当然です。人の子イエスはこの問いに「わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない」ときっぱり返します。さらにこの自分勝手な申し出に弟子の間には憎しみが生まれます。その騒ぎを制するかのようにイエス・キリストは自らが十字架で処刑され、復活され、そして天に昇られた後に生まれるであろう交わりの根本原則を語ります。それは「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆で仕える者となり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」との教えです。そしてなおかつ「人の子は仕えられるためにではなく仕えるために、また多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」との、最底辺の奴隷の姿に身をやつすキリストに従う道を示しています。身を挺してキリストに従う道を示す姿をメディアで見聞きする時代となりました。いのちの勝利への確信なしにはこのような証しは不可能です。わたしたちも無関係で居られないからこそ、キリストに希望を仰ぎましょう。わたしたちはキリストに示されたいのちの輝きによって新たな道を備えられているのです。