2022年9月22日木曜日

2022年9月25日(日) 礼拝 説教(会堂での対面式の聖日礼拝を再開します。)

  ー聖霊降臨節第17主日礼拝 ー

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

説教=「いつまでも語り継がれる出来事」 
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』14章3~9節
(新約聖書90頁)

讃美=226,164(1,2,4),541.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
  天気予報と新型コロナ感染症関連の報道以外にはマスメディアと関わりのない暮らしをしておりましても、ここ数週間ほどはエリザベス二世が天に召されたことが話題となっているようです。女王は英国国教会、日本では日本聖公会の首長でもあるというところから、国葬という言葉も含めて耳にしました。継承者はチャールズ三世となりますが、英国では実にあけすけに王族の事情に立ち入る報道をします。曰くチャールズ三世の万年筆のインクをめぐる奇行や沿道の黒人との握手の拒否、こどもたちの仲違い、インドからは王冠にあるダイヤモンドの返還を求める声、イギリス連邦内の諸国では共和政体への移行が表明されるなど。世界で最も栄華を極めているはずの家族に際立つ仲違い。大衆メディアの騒ぎであるにせよ、ノーブレスオブリージュと言ってみても、かつてのドイツ皇帝や、ロシア皇帝との姻戚を誇る一族には「わたしのものはわたしのものだ」との声が止まないようです。
  他方で江戸時代の日本。「貧民窟」と軽蔑された長屋におきましては、井戸や調理場も共用だったことから、不衛生なのにも拘わらず相互扶助が実践されていたと申します。病気になっても医者に診せられるお金はありません。川の土手から薬草をとってきて煎じて呑む程度の養生でしたが互いに気遣い宵越しの銭は持たないという気風がありました。知的障碍のあるこどももまた「よたろう」というイメージに結晶し「わたしのものはわたしのもの」との執着に凝り固まった世のあり方を問います。もちろんそのような共同体にも一定の限界があるのは承知の上で申しあげています。
  本日の『聖書』の箇所におきましてはよく知られた「ナルドの香油」の物語が記されます。わたしたちは女性が香油をもって人の子イエスの頭に注いだり、足を拭ったりするという劇的な場面に関心を寄せがち。しかし本日はこの出来事が起きた現場から丹念に読み解いてみましょう。「イエスはベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席についておられた」とあります。本日の箇所はその始めからイエス・キリストなしにはあり得ない舞台設定となっています。そこでは重い皮膚病に罹患した人が、自ら食卓の席を設け、その席にイエスを招き入れています。社会常識からすれば隔離され、このような食卓など設けることなどできなかった人がそこいるのです。このように、神の国のモデルとなる交わりの中で、「ナルドの香油」の出来事は起きます。女性の名は『マタイによる福音書』と本日の『マルコによる福音書』では記されません。素性の分からないこの女性は、給仕役だったかも知れませんが、古代ユダヤ教の世界ではむしろ主人自ら招いた人の世話をする習慣もあります。宴席におきましては舞を舞う踊り子だった可能性もあります。いずれにしても場違いな振る舞いに、『マルコによる福音書』では「そこにいた人の何人か」、『マタイによる福音書』では「弟子たち」が憤慨します。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに」。そして女性を厳しくとがめたというのです。食事の席には瞬時に、一般の月収の額に値する香油の価格を見極める「目利き」もいたようです。一見するとこの言葉はもっともらしく読めるのですが、人々は女性の行為が彼女自らの決断であるところを見落としています。弟子の一人とも思える人物の発言には「お前のものもわたしのものだ」との傲慢さも読みとれるというもので、イエスへの献げものを「もっとましな使い方があるのだ」と呟く執着の表れにも聞こえます。
  しかし人の子イエスは語ります。「するままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない」。貧しい人はいつもあなたがたとともにいるとの言葉。これは『マルコによる福音書』が生まれた時代、そして現在の教会への誡めともなる言葉です。教会の交わりに連なる人々は貧しい人々です。それはわたしたちも変わりません。イエスが眼差しを向けるのはそのような人々です。代々に及ぶ教会に「貧しい人とともにいなさい」と人の子イエスは語ります。それは何によって可能なのでしょうか。「この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるであろう」。香油を注ぐ女性のわざを、イエスは「埋葬の準備」だと意味づけています。則ち、これから待ち受ける不当な捕縛と裁判、弟子の逃亡と十字架にいたる苦しみと死、そして埋葬と復活を通して明らかになる救い主の姿です。人の子イエスはキリストであり、救い主であるとの確信の中で、教会では「貧しい人の交わり」が「わたしのものはわたしのもの」というありかたを越えて育まれ、広まっていきます。イエス・キリストのあゆみへの眼差しと祈りなしには、教会にも格差の問題や神なき豊かさへの憧れが忍び込んできます。イエス・キリストの埋葬では葬儀は行われませんでした。しかしその悼みを越えて復活の出来事がありました。本日の箇所の宴は、主の復活を讃える、喜びを分かちあう宴となりました。この語り継がれる出来事の只中にわたしたちもいるのです。


2022年9月15日木曜日

2022年9月18日(日) 礼拝 説教 (コロナ禍対策により対面式の聖日礼拝は休止させて頂きます)

ー聖霊降臨節第16主日礼拝 ー

時間:10時30分~

※コロナ禍対策により
しばらくの間会堂を用いずリモート中継礼拝・録画で在宅礼拝を執行します。
状況に変化があれば追って連絡網にてお伝えします。
 

説教=「愛には、いつわりがない」 
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』  12章38~44節
(新約聖書88頁)

讃美=357,391,541.
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【説教要旨】
  教会で神に献げるわざとしては、祈りと交わり、教会に連なる方々の賜物に応じた奉仕と並んで献金もまた尊いものです。ひと月に額を決めて献げる月定献金、礼拝で献げる礼拝献金、そして日々の暮らしの中で記念すべき出来事や感謝の思いを表すためにささげる特別献金、イースター献金やクリスマス献金、礼拝堂改築や墓地管理などのための指定献金。このように項目を列挙してまいりますと教会とはずいぶんとお金のかかるところだ、との声があってもおかしくはないかもしれません。そもそも献金という言葉が一人歩きしますと最近では詐欺同然に暮らしを破壊させていくカルト宗教の問題などと一緒くたにされがちです。いかに人が経済と無縁ではないとしても、これは教会生活の躓きにもなり得る誤解も招きかねず、そのものとして丁寧な説明が必要です。

  しかしもっと立ち入って考えますと、献金は額の多いか少ないかというよりも、さらに尊い意味合いがあります。言葉を正しく用いると、献金とは「支払う」のではなく、税金のように「納める」のでもなく、あくまでも神の恵みへの応答として喜びの中でそして神様との関わりの中で教会を支えるべく献げ、分かちあうわざです。もちろん決して他者から強要されはいたしません。

  ヨーロッパのように王室や国家から運営費が支給される立場とは異なり、キリスト教の種が蒔かれて150年程度でしかない日本という地にある教会は、まことに逆説的ですがキリスト教文化圏にある教会よりも、使徒が活躍した時代の教会に接近しているのではないでしょうか。だからわたしたちは礼拝で「わたしはあなたがたとともにいる」とのイエス・キリストのメッセージを聴くとともに「どこにいるのか」との神の問いかけにわが身を正すのです。『フィリピの信徒への手紙』の中で使徒パウロは「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました」と論じます。その道筋にあって本日の言葉を味わいましょう。

  本日の『聖書』の箇所、則ち『マルコによる福音書』12章38節以降で、人の子イエスは神殿の境内で大勢の群衆に向けて「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」。『新共同訳聖書』には「律法学者を非難する」との小見出しがあります。しかし本日より前の箇所では、イエスは自らとの受け答えの中で一人の律法学者を論駁するどころか「あなたは神の国から遠くない」と語るところから、十把一絡げで律法学者の問題を扱ってはいません。むしろ名もない群衆が惑わされがちなところを指摘しているようです。さらには「やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする」という箇所を踏まえますと、ともすれば人々にありがたがられていた律法学者もまた、その時代の富裕層に属していたとも言えます。そうなると律法学者も42節の「大勢の金持ち」の仲間入りをします。では次にイエスが示したのは誰だったのでしょうか。人の子イエスは佇む場所を変えて、神社の賽銭箱ならぬ神殿の献金箱の向かいに座ります。「大勢の金持ちがたくさん金を入れていた」とありますが、これは暮らしの中からあり余る富を献げているのに過ぎません。見栄も虚勢もあるでしょう。しかし異彩を放ったのは、富裕層に食い物にされているはずの「一人の貧しいやもめ」でした。このやもめの眼差しはどこに向けられていたのでしょうか。群衆でしょうか。大勢の金持ちでしょうか。献げられるお金そのものでしょうか。そうではありません。眼差しはあくまで神に向けられています。やもめの献げた献金は1クァドランス。これは労働者の日当である1デナリオンの64分の1とされますから日当を8,000円とすると124円ほどとなります。124円で一日を暮らすのは常識的には不可能です。ひょっとしたらこのやもめは住まいを転々とする暮らしを続けていたのかも知れません。しかしイエスは弟子に「あの女性を見なさい、暮らしの余りを献げたのではなく、暮らしのすべてを神に委ねたのだ、それは金持ちには比較にならないほどの献げ物なのだ」と示すのです。やもめの心情は描かれず、ただその振る舞いが記されます。凄みすら覚えます。

  『旧約聖書』の世界では、神への献げものには、聖別された羊や牛が用いられましたが、福音書ではわたしたちの日常と同じく貨幣経済が力を振るっています。その現実の中で、暮らしのすべてを神に委ねたやもめが描かれます。このやもめは暮らしの中でこのように隣人を愛し、慈しんできたのでしょう。まさに貨幣では表わしきれない恵みを感じてきた女性であるとも言えます。イエス・キリストは病を癒した相手に見返りを求めたことは一度もありません。癒された人はその喜びを別の人に伝えていきます。それもまた奉仕だと言えます。献金とは困っている人のために呼びかけはしても保身のために執拗に求めるものではありません。神の国と神の義をまず求めましょう。神の愛に応えるやもめの姿に、キリストはいつわりない神への信頼を見抜き、今も示します。

2022年9月9日金曜日

2022年9月11日(日) 礼拝 説教 (コロナ禍対策により対面式の聖日礼拝は休止させて頂きます)

  ー聖霊降臨節第15主日礼拝 ー

時間:10時30分~

※コロナ禍対策により
しばらくの間会堂を用いずリモート中継礼拝・録画で在宅礼拝を執行します。
状況に変化があれば追って連絡網にてお伝えします。
 

説教=「喜びと苦しみをともにする愛」 
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』  12章28~34節
(新約聖書87頁)

讃美=298(1.2),399,541.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
  小・中学校で「運動会」が行われる季節となりました。わたしは世代として、かなり昔気質な運動会を経験しております。当日の朝は信号弾のような花火が打ちあげられます。そして会場の校庭にはロープが張られ、その外側には敷物に座って保護者がお弁当も一緒にしながら見物。今考えれば、紅白に分かれて相手を倒すという発想に、児童よりも大人が悦に入っていたようでした。それでは身体に障碍があったり、知能に障碍があったりというこどもたちがいたのか。これが記憶にありません。故郷の小学校にはそのような学級はなく、その後転居した東京でも記憶にありません。中学校では「特殊学級」というずいぶんな名称のクラスが設けられていました。その教室の生徒と関わる時間は設けられていません。家族に障碍のある生徒もいたはずなのですが、みな誰にも語りません。思えば当時の教育の現場では、多様性を尊ぶよりも、概して生徒を型にはめるのが好まれていたのかもしれません。集団行動で「勝負事」に臨ませ、それに向かない生徒は協調性がないとされ、決してよい印象をもたれません。
  そのように、何かと人を枠にはめたがる眼差しには、本日の『聖書』の箇所はかなり異様に映るのではないでしょうか。なぜなら、古代ユダヤ教での律法学者、ファリサイ派と呼ばれる人々は、イメージとしては絶えず人の子イエスに論争を挑んできたり、病を癒す行為に文句をつけたりする常習者のように受けとめられがちだからです。わたしたちの集う教会ではあまり聞かない話で幸いなのですが、「あの人はクリスチャンらしくない」「あの教会は教会らしくない」とレッテル張りばかりしている人の態度を「ファリサイ的だ」と呼ぶ場合があります。けれども実際のファリサイ派、律法学者は今でいう『旧約聖書』のテクストを徹底的に読み込み、その解釈が妥当かどうかを論じあい、その態度から民衆からも尊敬されていたと申します。もし問題があるならば、やはりどれほど研鑽を積んだと申しても、人は誰であれ他人を型にはめなければ安心できないという呪縛が露わになった時です。そこには排除があり、虐げがあり、蔑みがあり、傲慢さがあります。それは破れに満ちた人間であれば誰にでもおきることです。
  本日の箇所で描かれる律法学者は、復活をめぐる問答で示された鮮やかな『律法』の解釈に感じ入り、人の子イエスに敬意をもって問い尋ねます。「あらゆる掟の中でどれが第一でしょうか」。イエスが応えるには「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聴け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい』。この二つにまさる掟はほかにない」。『申命記』6章4~5節、『レビ記』19章18節の誡めを、主イエスは活きいきと語るのです。人を貶めるための誡めではなくて、いのちを活かすための誡めをイエスは語ります。第一の誡めは、いわば垂直線。神と人との関係です。第二の誡めは、自らを受け入れるように、隣人を受け入れたことで広がる、水平線のありかた。この垂直線と水平線の重なるところに、イエス・キリストは立っておられます。そしてその言葉は、イエスに尊敬の眼差しを向ける律法学者にも向けられています。イエスやその弟子と律法学者は論争ばかりしていたとの先入観に惑わされるわたしたちの心の壁が崩れ落ちる瞬間であり、なおかつ律法学者に向けては、十字架の苦難の兆しの中で、神の愛を自ら証しされた瞬間でもあります。律法学者は答えます。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています」。イエスはこの律法学者に答えます。「あなたは、神の国から遠くない」。人間が自分の経験を通さなくては理解できない「隣人」という言葉を突破するのが神への愛だとするならば、この律法学者もまた、自分の抱えていた様々な壁や型というものをイエス・キリストによって突破されたといえるでしょう。古代ユダヤ教が定める「隣人」から、それが誰であれ、神の愛が備えた「隣人」へとその意味合いは移ろいます。この変化の中で初めて神が備えたいのちが脈打ち、また「神の国から遠くない」という言葉の中で、この律法学者にもイエス・キリストは同伴者としてともにあゆんでくださるという、全く予想しなかった展望が拓かれます。何が壁だというのでしょうか。何が障碍だというのでしょうか。障碍とは、神を知らない世が定めるところの型を基準としたものであり、神との関わりの中では、前人未踏の可能性が秘められている「いのちの秘義」なのです。
  先日9月6日(火)、泉北ニュータウン教会にも特別伝道集会を始めし、様々な関わりのある「(福)汀会 止揚学園」の創設者・福井達雨先生が、90年のご生涯を全うされました。福井達雨先生の生涯は、自らもまた「あの人は気が変になっている」と呼ばれるのを臆さず、知能に障碍をもったこどもたちを「仲間」と呼び続け、支え続けたその一点に要があります。わたしたちもぜひとも、さまざまな先入観や、弱さへの蔑みから解放されたいと願います。弱さを聖なるものとして神が祝福されているからです。

2022年9月2日金曜日

2022年9月4日(日) 礼拝 説教 (コロナ禍対策により対面式の聖日礼拝は休止させて頂きます)

  ー聖霊降臨節第14主日礼拝 ー

時間:10時30分~

※コロナ禍対策により
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説教=「見捨てられた者が暮らしの中心に」 
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』  12章1~12節
(新約聖書85頁)

讃美=519,522,541.
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【説教要旨】
  ウクライナ戦争が始まる前の話。欧州をはじめ世界各国で盛りあがったのは「脱・炭素運動」でした。その動きは徐々に具体性を帯び、地球温暖化につながるとされる大気中の二酸化炭素削減のためだとして、2030年代には日本でもガソリン燃料の自動車の新車販売が禁止され、その後に販売される自動車は水素や電気などクリーンエネルギーを燃料とする長期計画が立案されました。この計画はすでに動き出しています。日常で感じている環境の激変や温暖化の原因を化石燃料の消費に求めた上での構想。水素電池を用いれば、あるいは高性能のバッテリーを用いれば安らかに暮らせるというPRがなされています。
  しかしそのPRとは裏腹に、北半球での脱炭素社会を目指す運動が進むほど、環境破壊が酷くなる地域があることも忘れられません。高度なクリーンエネルギーの実現には、レアメタル、特殊で貴重な鉱物資源が不可欠です。その結果、南米であればブラジルやベネズエラ、アフリカであればコンゴといった地域の地下資源が採掘されます。南米の場合は森林を伐採し先住民の暮らしを犠牲にして、コンゴであれば内戦に乗じて、という具合です。その被害は焼畑農業のダメージを凌ぎます。今やアマゾン川はレアメタルの精錬に伴う重金属で汚染され、沿岸で水産資源を用いて暮らす人々が水俣病やイタイイタイ病の害を受けています。地球環境を救うといいながら、開発途上国にしわ寄せがいくというしくみ。このしくみをすべて変えるためには、わたしたちも某かの不便さを分かちあう覚悟が求められます。しかし人間は、なぜか常に楽園を自分の手で作れるものだという錯覚に陥りがちです。
  本日の『聖書』の箇所で記される譬え話では、ぶどう園の自作農が登場します。福音書に限らず『旧約聖書』の物語でも、ぶどうは農作物としては麦に劣らぬ収穫物として尊ばれます。そのまま食べてよし、ドライフルーツにしてよし、果汁を発酵させればぶどう酒となり、それを蒸留させれば香水にすらなり得ます。お酢も作れます。また生い茂るその葉はキャベツのように用いられ、無駄が一切ありません。第一次産業が暮らしのほぼすべてを占めていた時代には加工の仕方によっては巨額の富すら手に入れられるのです。そしてこの自作農である主人は雇用する農夫を全面的に信頼し旅に出ました。時が経ち収穫を得るために第一の僕(しもべ)を遣わしますが、残念ながら農夫はこの僕を袋叩きにし、何も持たせずに帰します。次に遣わされた僕は頭を殴られ侮辱される目に遭わされます。ついには多くの僕が遣わされますが、狼藉を受け、殺害されます。豊かなぶどう園を委ねられた農夫は主人からの信頼に応えるどころか徹底的に反故にするのです。この僕たちの姿には『旧約聖書』の預言者、農夫にはイスラエルの民と連なる諸国の民が重なります。ぶどう畑の主人に遺されたのはたった一人の愛する息子。「わたしの息子ならば敬ってくれるだろう」と主人はわが子をぶどう園に遣わします。しかし農夫は謀をめぐらします。もはやその内容は農夫のそれではなく、犯罪組織の打ち合わせのようにも響きます。「跡取りを殺害しよう。そうすれば相続財産はわれわれのものだ」。物語ではこの息子は殺害されて遺体はぶどう園の外に遺棄されます。何と恐ろしい譬えでしょうか。そしてこの物語は何を示しているというのでしょうか。
  「さて、このぶどう園の主人はどうするだろうか。戻ってきて農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。その時代のユダヤ教の正典であるところの『聖書』にはこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の棄てた石、これが隅の親石となった。これは主がなさったことで、わたしの目には不思議に見える』」。イエスはこの恐ろしい譬え話をこのように結びますが、正直にいえば、この話を聞かされた、祭司長や律法学者、長老以上に、わたしたちは戸惑います。いったいこのまとめは何を意味するのか。大きな飛躍がそこには隠されています。それは、殺害され捨てられたはずの救い主が復活し、新しい交わりの基となるということです。さらには仲間はずれにされ、闇に埋もれ、不条理に苦しみ、そして消されていった人々もまた、キリストを軸とした交わりにつらなり息を吹き返すのです。その枝には、わたしたちの暮らしもつながっています。
  『ヨハネによる福音書』15章5節にはこうあります。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」。イエス・キリストにつらなる者は、時には社会や暮らしの中で無視され、黙殺され、見捨てられた痛みを知る者です。しかしその痛みや弱さを知るからこそ、自らの力に溺れ、幸せを独占しようとするのではなく、絶えず誰かと分けあおうとするのです。もしぶどう園の農夫がこの「分けあう喜び」を知っていたというのであれば、悪政を行った王の手下やマフィアのようにはならなかったことでしょう。そしてそこにわたしたちの希望もまた隠されています。まだまだコロナ禍明けぬ9月。それでもわたしたちは、キリストに連なり、豊かな実りを楽しみ、新たな歩みを起こす、あふれる希望の光の中にいます。わたしたちが忙しさを始め様々な理由を重ねてなかなか顧みようとしないところに、キリストは立っておられます。

2022年8月25日木曜日

2022年8月28日(日) 礼拝 説教 (コロナ禍対策により対面式の聖日礼拝は休止させて頂きます)

 ー聖霊降臨節第13主日礼拝 ー

時間:10時30分~

※コロナ禍対策により
しばらくの間会堂を用いずリモート中継礼拝・録画で在宅礼拝を執行します。
状況に変化があれば追って連絡網にてお伝えします。
 

説教=「あなたの祈りは必ず聴かれる」 
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』  10章46~52節
(新約聖書83頁)

讃美=39,234,544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


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【説教要旨】
 現在、会議で話し合われた議案なりテーマなりを、組織として意志決定する際に用いるのは「多数決」原理です。概して議会の多数決は、全会一致を理想として議案をはかります。その際には、少数意見が顧みられることは殆どありません。
 それではイエスの時代のエルサレムにあった「最高法院」では事情はいかがなものだったでしょうか。この最高法院は71人の長老から構成され、一人は議長、もう一人は副議長、69人が議員。サンヘドリンとも呼ばれるこの会議体は、ローマ帝国の支配下、ユダヤ教の教えと政治的な判断が同一視されていた時代の組織でしたが、同一視されているからこそ、現在の会議体のあり方を問う場合忘れられがちな視点を含んでいます。それは、最高法院で全会一致の議決となった場合、再び議題を差し戻して審議し直さなくてはならないという手続きです。サンヘドリンが定める全会一致制の問題は、人は神の前に過ちを犯す罪人であるとの理解に根拠があります。罪人が集り全会一致の結論を出せば、その判断はどこか歪みがある。従って審議差し戻しとなります。ですから、議案の審議に際し、少数の意見が結論を点検するという視点があって、初めて決議が定まります。わたしたちが見落としがちな少数意見の尊重という考えが、ローマ帝国の支配下のエルサレムの神殿では具体化されておりました。
 さて本日の『聖書』の箇所をたどりますと、人の子イエスが弟子そして群衆とともに古代都市エリコを出て行こうとしたときに「ティマイの子バルティマイ」という盲人の物乞いが道端に座っていた、とあります。バルティマイのそれまでの日々は人々から蔑まれるのを承知で物乞いを続けるほかない暮らしでした。道端に転がる骸となったところで誰も悲しまないだろうという身の上。絶望的な闇の中にバルティマイは佇んでいたのかもしれません。その彼が、ナザレのイエスの名を聞くと、人が変わったように叫び始めます。悪霊に取り憑かれた男のように「わたしから離れてくれ」というのではなく、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と堂々と叫び始めたというのです。バルティマイにとって人の子イエスは唯一の希望でした。身体の不自由が罪の結果だと言われたこの時代です。その中で「わたしを憐れんでください」と叫ぶバルティマイ。だからこそ多くの人々が咎め立て、黙らせようとします。「非常識だ」「静かにしろ」との罵声が一斉にバルティマイに浴びせられる様子が瞼に浮かぶようです。しかしバルティマイは屈しません。「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と、その声は止みません。この叫びもまた、イエスの名を呼ぶ祈りです。人の子イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われ、人々がバルティマイを呼んで言うには「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」と、この叫びが人々を変え、バルティマイ自らを救いの現場へと招く潮の流れを生みます。バルティマイは上着を脱ぎ捨て躍りあがるという最大限の喜びを全身で表わし、人の子イエスから「何をしてほしいのか」との言葉を引き出します。切実な声が群衆の前で遠慮なく語られます。「先生、目が見えるようになりたいのです」。バルティマイと向き合うイエスは「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と語る中、もう盲人の目は見えるようになり、道を進まれるイエスに従ったとの結びにいたるのです。そして『マルコによる福音書』では、これがエルサレムに入城される前の、イエスの最後の癒しの奇跡の物語となります。バルティマイの心の灯火の芯は燻ってはいても、神がこれを消すことはなかったのです。イエス・キリストは多数決原理に縛られて物事を考えることはありませんでしたし、自らの振る舞いをお決めにはなりませんでした。
 わたしたちの教会や(福)地球の園にも身近な、堺市東区に本部を置く(福)コスモス。7月28日(木)に、グループホームに暮らす、知能と聴覚に障碍のある女性が37,8度の熱を出し、陽性反応が出ました。しかし問い合わせた保健所からは連絡がなく、病院からも患者届が必要だと言われます。定常利用の方々を迎える準備する中でも保健所には連絡がとれず、堺市からも入院先や療養先の指示がありません。当初は一定時間に使える施設の空き部屋を一時的に利用、それ以外の時は患者と職員は車の中に閉じこもります。この酷暑の中です。第六波での療養では8,500万円の損失を抱えたコスモスさんは、自治体たる大阪府の設けた40床ある介護型ケアハウス「ほうせんか」を使えるよう、最悪の状況も想定しながら対応を進めます。障碍者の療養は後回しなのかと呟きながら対応する中、メディアが動きます。大阪府知事に質問すれば「保健所に任せている」との返事だけ。「ほうせんか」では患者を支えるだけの「マンパワーが足りない」との答え。しかし発熱から1日半後の午後9時過ぎて療養施設に入所。堺市長は「検討して実施したい」と言うばかりでしたが、コスモスさんは決して諦めずに「朝日放送」というメディアをフル活用し、時間と戦いながら病床使用に漕ぎつけました。コスモスさんは誰に何と言われようと叫び続けました。その結果、福祉の現場を正面からは見ようとしない政治家でさえも、課題を直視せずにはおれなくしたのです。「わたしを憐れんでください」と福音書の舞台に響いた叫びは、いのちを軽んじる同調圧力や空気を破る神の力に満ちています。病床に主の深い癒しと支えを祈りましょう。


2022年8月20日土曜日

2022年8月21日(日) 礼拝 説教 (コロナ禍対策により対面式の聖日礼拝は休止させて頂きます)

 ー聖霊降臨節第12主日礼拝 ー

時間:10時30分~

※コロナ禍対策により
しばらくの間会堂を用いずリモート中継礼拝・録画で在宅礼拝を執行します。
状況に変化があれば追って連絡網にてお伝えします。
 

説教=「神に育まれたこどもたち」 
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』  10章13~16節
(新約聖書81頁)

讃美=308,461,544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 旭川というと、『塩狩峠』や『氷点』で知られる作家・三浦綾子さんを連想します。しかし今、旭川の町は三浦綾子さんとはまた異なる苦難を生き延びてきた人々を迎えています。その一人、降旗英捷(ふりはたひでかつ)さん。3月19日に成田空港に降り立ったこの方は78歳。心臓を悪くされており薬が欠かせません。南樺太にお生まれになりましたが、ソ連軍が進駐してきたとき内地へ帰国できず家族で抑留を味わい、東欧に育つこととなります。ポーランドでご伴侶と知り合い結婚。西部ウクライナの工業都市ジトーミルに暮らしたことで生活の状況が急変します。郊外の集落は3月4日、ロシア軍の攻撃で破壊され避難、その結果、ワルシャワ経由で来日。きょうだいのいる日本に逃れ、現在はお孫さんとともに旭川の道営住宅で生活されています。生まれ故郷を仰ぐため、かつて稚内と樺太を結んだ連絡船の記念碑の鐘を鳴らし、海峡の向こうに見える生誕の地を眺め「ボージェ・モイ(ああ、神さま)」と呟くことば。英捷さんは日本語を忘れてしまい、今はウクライナ語が生活のことば。「ボージェ・モイ」に78年の生涯が凝縮されます。
 本日の『聖書』の箇所は「イエスに触れていただくために、人々がこどもたちを連れてきた」と始まる、よく知られた箇所です。弟子たちはこの人々を叱ったが、主イエスはこの様子を見て憤り「こどもたちをわたしのところへ連れてきなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」と語り、こどもたちを抱き上げ、手を置いて祝福されたという物語です。しかし何度味わっても胸を震わせられるのは、このこどもたちがどのような育ちや環境、また身体の特性やどのようなことばを話していたのかが一切記されてはいない、というところです。人間扱いされないこどももいたことでしょう。「イエスに触れていただくために」と記されているところを踏まえますと「癒し」を示します。このこどもたちは、何らかの事情を抱えていたようです。つまり「イエスに触れていただく」とは、福音書の文脈では、人々がイエスにこどもたちへの癒しを求めているのではないかとも考えられるのです。病の癒しや、何らかの生きづらさを抱えているこどもたち。幼子は栄養失調や病気にも罹患しやすく、すぐに亡くなったと引揚の経験者は語りました。親御さんの保護があればまだしも、混乱の中で家族とはぐれたこども、親を失ったこどもたちの行方がまだ分からないと嘆く声、逆に親を探すこどもの声が、かの地だけではなくわたしたちの地域でも響いています。たとえ血がつながっていたとしても、虐待されるこどもがいます。その子にとって、無言の家庭は警戒サイレンの鳴る町と同じくらい恐ろしい場所です。見かねた大人に連れてこられたこどもたちが、イエスを囲む群れの中にいたとしてもおかしくありません。弟子のことばはこどもたちを人の子イエスから遠ざけようと強いる暴力となっています。そのような態度を主イエスは一蹴いたします。
 『コリントの信徒への手紙Ⅰ』で使徒パウロは次のように語ります。「幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを捨てた」。確かにわたしたちは、すでに幼子ではありません。だからこそ、どのような拒絶にあってもイエス・キリストの祝福を求めて、こどもたちを連れてくる大人になりたいのです。多くの人生の場数を踏んだところで見えてくる展望は、いつしか智恵となってこどもたちのいのちをイエス・キリストに結んでまいります。わたしたちは幼子ではありません。だからこそ「こどもたちをわたしのところへ連れてきなさい」との招きに応じていくのです。自分のところではなくキリストのところ。それは幼子がやがて味わう困難を耐え忍び、その中から神の智恵を授かり、神の希望に授かるところでもあります。その場こそイエス・キリストに根ざす交わり。神に育まれたこどもたちが招かれる交わりです。
 現在ウクライナでは総動員令が発令され、青壮年期の男性は、原則国外脱出が困難です。ですから降旗さんのようなご高齢の方や女性だけが、状況と事情さえ整えば、国外へと逃れることもあります。降旗さんと孫のウラジスラワさんは旭川市民となり、ともに渡航してきた家族は再び彼の地へと戻っていきました。樺太からおそらくはシベリア経由でウクライナまでたどり着き、抑留生活の中でご両親に育てられ、今はお孫さんに支えられ、よくぞこの逃避行を続けられたものだと溜息をつくほかありません。戦災孤児となるそのギリギリのところで抑留の地が実質的にはウクライナとなり、動乱の中で辛くも生きる道を備えられた人です。「ボージェ・モイ(ああ、神さま)」は決して単なる詠嘆ではなかったはずです。孫のウラジスラワさんは語ります。「戦争は初めてでそれは最も恐ろしいものです。でもおじいさんはさらにひどい状況を生き延びました。おじいさんはわたしたちと自分のために苦境を生き抜き、今回もそうするでしょう。おじいさんはわたしたちを愛してくれています。わたしたちもおじいさんを愛しているのです」。『マタイによる福音書』にあるクリスマス物語では、イエス誕生の物語とともに、ベツレヘムで起きたヘロデ王によるこどもたちの殺害の記事を掲載します。その中でなお、いのちを繋いでいった人々が神の愛を証ししていきます。「こどもたちをわたしのところへ連れてきなさい」。キリストとの交わりの中でいのちそのものが輝く瞬間を尊び、また喜びたいと切に願います。



2022年8月12日金曜日

2022年8月14日(日) 礼拝 説教 (コロナ禍対策により対面式の聖日礼拝は休止させて頂きます)

ー聖霊降臨節第11主日礼拝 ー

時間:10時30分~

※コロナ禍対策により
しばらくの間会堂を用いずリモート中継礼拝・録画で在宅礼拝を執行します。
状況に変化があれば追って連絡網にてお伝えします。
 

説教=「神の愛は涼やかな風となって」 
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』  9章42~50節
(新約聖書80頁)

讃美=301,532,544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 本日の福音書の記事で人の子イエスが語る救い主への信頼、神への信頼をつまずかせる者は、「大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、斬り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、斬り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩をもちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい」と語ります。教えの最後に「そして、互いに平和に過ごしなさい」とある割には、本日の箇所ではなかなか物騒な、心穏やかにならない、激しい言葉が延々と続きます。さらには死後の世界に属するはずの、地獄の存在にすら言及します。これはもともと古代ギリシアの世界観であり、ヘブライの民の理解には見いだせない考えです。このように、身体の切除を伴う刑罰をイメージさせる言葉を用いながら、「人は皆、火で塩味をつけられる。塩はよいものである」と語りかけ、「互いに平和に過ごしなさい」と語るところの、脅迫じみて響くこの教えは、どのような態度をわたしたちに示しているのでしょうか。実にこの箇所では、字義通りに正典を受けとめる宗教原理主義の国家で執行される刑罰も含みますので、丁寧に解き明さなくてはなりません。
 この箇所の第一の関心事は「つまずき」です。とりわけ、「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者」に始まり、「つまずき」の原因そのもの、または意識してきっかけをもたらす者へ向けられた警告が記されます。人々の不信仰や、単なる特定の行為や人格に向けた非難に終わるのならば、人の子イエスもまた、一部のファリサイ派や律法学者と寸分違わなくなります。しかし注意してみると、人の子イエスの非難は、つまずきをもたらすわざへの激しい怒りとしても理解できます。溺死の理由は他人の信仰をつまずかせたからだ、あるいは身体の欠損や障碍はつまずきをもたらしたそのわざの報いだ、などと人の子イエスは語っていません。むしろそのような因果応報の理屈で人の心を惑わす教えそのものが「つまずき」だと言えます。
 それでは「つまずき」とは何を内容とするのでしょうか。思うにそれは「神と人に希望を置く者の信頼を台無しにする」、また、「キリストを信頼する生き方を妨げたり、嘲笑ったりする」、さらには「身命を賭してキリストに従おうとする者のあり方や生き方を挫いたり、茶化したりする」といったわざであるとも言えるでしょう。そうなりますと、『マルコによる福音書』とは異なる、『マタイによる福音書』や『ルカによる福音書』の記事で、荒れ野での四十日間、イエスを三度誘惑する悪魔の振舞いが視界に入ってまいります。すなわち、自分の飢えだけを満たすために石をパンに変え、これが人生の目的の全てだと思わせて分かちあいを否定し独り占めする態度。次には『聖書』の言葉を引用しつつ神を試す体裁をとりながら、その実態は神を疑わせる弄び。そして多くの犠牲や抑圧が隠されているのにも拘わらず、諸国の繁栄ばかりに注意を惹かせて、思うままにその富を操る中で縛りあげられる生き方。残念なことに、現代では国家も含めた公の組織でさえこのような妄想に囚われ、人の心を荒廃させ、時には『聖書』を用いて戦争さえも正当化します。「地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない」。古代のギリシア文化に根ざす地獄とは『マルコによる福音書』の場合、死後の世界ではなく、この世における現実の「焼けつくような痛みと苦しみ」に満ちています。
 ただしイエス・キリストは、そのような灼熱の世にあっても大切な塩は消えず、同時に、潤いに満ちた神の平和こそ、あらゆるつまずきに優ると語ります。そしてつまずきの実質的な内容となる妄想にとりつかれたわたしたちにとって桁違いの「つまずき」である十字架での死と復活を通して、人間が作り出す破れと限界に満ちた平和ではなく、何人にも損なわれない神の平和にあって過ごす安らぎを勧めます。そこには涼やかな風としてそよぐ神の愛の働きがあります。神の愛への信頼が世界を変えていくのです。
 核戦争の脅威がこれほど高まった時代はないと言われる今、わたしたちの暮らしにはさまざまな不安に満ちています。いつコロナの災いは収まるのか。いつ戦争は終わりを告げるのか。いつこどもたちは安心して遊びと学びに専念できるのか、と。しかしとりわけ広島や長崎で深い火傷や手や足や目を失って、なおも人として懸命に生きてこられた方々が、今、次世代に平和のバトンを渡そうとしています。非常勤先の大学での授業の最中、その浅薄な内容への学生の抗議への反省として広島を訪れ、祈念碑に水を献げた旅を思い出します。多くのこころない言葉やつまずきに勝利した人々は今、記録映像からメッセージを語りかけています。「平和を実現する人々は幸いである。その人は神のこと呼ばれる」。毀誉褒貶に囚われず、キリストとともにあゆみましょう。