2025年7月18日金曜日

2025年 7月20日(日) 礼拝 説教

    ―聖霊降臨節 第7主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

 

 
説教=「求めは分かちあいにより満たされる」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』7 章 7~12 節
(新約11頁)

讃美=217,21-459(354),Ⅱ-171. 
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 2025年『信徒の友』8月号が出版されました。この冊子には「日毎の糧」という欄があり、日本基督教団に連なる諸教会の名前と各々の祈りの課題、そして『聖書』の箇所が掲載されます。8月号では南海地区の教会がとりあげられ「生きづらさをかかえる方々の祈りを主なる神がお聞き届けになり、イエス・キリストの豊かな祝福と深い癒しが臨みますようお祈りください」との文章を寄せました。今の時代の痛みを抱える教会内外の関係者を覚えていただきたいとの考えから文章を送信しました。期せずしてタイミングは80年目の広島原爆忌。但し、わたしは当日の担当者の聖書講解の言葉には考え込みました。「イエスさまは、わたしたちが神さまに従うには、犠牲をはらう必要があることを教えられました」。浮かんだのは、自らに従うには犠牲が必要だという条件を本当にイエス・キリストは語ったのか、という問いなのです。

 本日の『聖書』箇所では「求めなさい、そうすれば、与えられる。探しなさい、そうすれば、見つかる。門を叩きなさい、そうすれば、開かれる」とあります。何を探すのか、何のために門を叩くのかと言えば、「神の国と神の義」を求めて、です。そうすれば「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と言って思い煩うことはないとの、名も無い人々へ向けたメッセージが鮮やかになります。その内容はすでに空腹であり、すでに渇いており、すでに身なりすら衛生的に整えられなかった人々へ向けた喜びであり「身体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである」との聖句の断片的な解釈とはわけが違ってまいります。人の子イエスのもとにやってきたのは、すでに犠牲に献げるものすら持てないと失望と悲しみに暮れるほかなかった人々であり、求められるとするならば、自らのすべてを献げるほか道がなかった人々です。だからこそ本日の『聖書』箇所は次のように続きます。「あなたがたの誰が、パンを欲しがる自分のこどもに、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか」。パンも魚も福音書では、その日を暮らす必要最低限の食事として描かれます。思えば『出エジプト記』で記される奴隷でさえ、魚の干物を食事として無料で支給されていたと記載されます。人の子イエスの教えの聴き手の置かれた暮らしが推し量られるというものです。

 おそらくこの場で人の子イエスが群衆、そして群衆と深い間柄にあった弟子のすべてが、その時代には律法学者を始めとしたごく一部のユダヤ教の指導者層とは異なり、文字の読み書きに際しては、恐らくは不可能か日常生活での最低限の識字能力しか持たなかった人々が大半だったことでしょう。しかしそれでも人の子イエスは「十戒」を始めとする『旧約聖書』の誡めが全うされると伝えます。それが「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」との言葉です。『律法』と『預言者』とはその時代の『聖書』、すなわち、わたしたちのいう『旧約聖書』に該当する書名です。その誡めが日々の暮らしの中で実現するのは「わたしに従いなさい」と呼びかける救い主の声にたどたどしくも応える瞬間です。

 本日は国政選挙の投票日です。気がかりなのは小学生の給食メニューを案じる声よりも、多様性を否定し誰かを圧し除けて心を満たそうとする声が強まっているという現状です。わたしたちはそのような憎しみをぶつけられ苦悶している仲間に何らかの犠牲を払えなどと人の子イエスが伝えたとは考えられません。そうではなくて、あの五千人の人々が五つのパンと二匹の魚を祝福して分かちあうイエス・キリストの姿を見て、自らも手ずから持っていた粗末な食事を分かちあう群れが生まれた出来事を思い起こしたいのです。何の飾りもない、その素朴なわざには「神の国と神の義」が先取りされていたと言わずにはおれません。また略奪者に襲われ虫の息の旅人を支えたのは、同族の祭司やレビ人ではなく、時には憎しみの対象にすらなっていたサマリア人の旅人だったと思い起こしたいのです。かのサマリア人は虫の息の旅人に必要なその時代の緊急措置を施し宿屋に連れて介抱するだけでなく、2デナリオンを主人に渡してその後の治療を依頼しました。さてサマリア人は費やした時間や費用や薬品(油とぶどう酒)を犠牲だと思ったのでしょうか。そんなわけがないのです。略奪者に襲われた旅人がまた歩けるようになれば、やはりそれはサマリア人にも実に喜ばしい知らせです。イエス・キリストに従う道筋をその人の人生一代のみで全うするのは困難だとしても、必ず誰かの道備えとして用いられ、分かちあわれてまいります。神の国はそうした小さな、しかし決して消されない神の愛の交わりから始まると確信し、主は自らを犠牲とされた事実を胸に刻んでまいりましょう。

2025年7月11日金曜日

2025年 7月13日(日) 礼拝 説教

    ―聖霊降臨節 第6主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「心、神の愛の力にあふれて」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』6 章24~34 節
(新約10頁)

讃美=21-342(183),461,Ⅱ-171.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
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【説教要旨】
 汗水流して働く代りに、様々な投資信託のコマーシャルが次から次へと起きては消えてまいります。50歳を超えて気づいたのは「老後」という言葉が巷にいかに多いかというところです。コマーシャルでは年金を投資に回した結果不労所得が増えたという話ばかり。若者も額に汗する仕事ではなく投資で儲ける暮らしがスマートであると言わんばかりです。確かにお金は大切です。労働対価としても費用対効果としても見逃すわけはまいりません。それは社会を血液のようにめぐっていき、ある人の消費を喚起します。そしてそれはある人の所得となります。『新約聖書』の舞台もまた貨幣経済が主流をなす時代。そのような中で人の子イエスは「あなたがたは神と富とに仕えることはできない」と語り、その後には表向き実に牧歌的な「野の花・空の鳥」の教えを語ります。単純化しますと「世にあるすべての富を捨てて自然に帰ろう」という意味として受けとめがちではあります。しかしこの教えはわたしたちが考えるほどそれほど安直ではありません(近代文学の白樺派はその典型かもしれません)。6章24節にある「富」とは富や財産が偶像化された神「マモーン」を意味します。『旧約聖書』では「金の子牛」や「バアルの神」といった仕方で人々の目を眩ませてきたその神と、『旧約聖書』以来いのちを愛してやまなかった主なる神を人の子イエスは対置するのです。

 ただ悲しいかな、人は貧しくなるほど、いや、時にはどれほど富裕層に属していようともこの「マモーン」に心を奪われてしまいます。決して世の全てが富を尺度であるわけではないにも拘わらず、あたかもその数字が全てであるかのような錯覚に陥ってしまうのです。マモーンに憑依されたあまり、目に見えぬいのちの豊かさに気をとられ、そのときその瞬間でしか味わえない神の恵みに無頓着になってしまいます。

 ボンヘッファーという牧師がいました。この人は世がこぞってマモーンに惑わされ、弱い者が蝋燭の光になびく虫のように権力にすり寄るその時代に、富を「究極以前のもの」と見定めました。それは人間にとって実に大切ではありますが、それによって人命が損なわれたり戦争を始める口実になったりしてはいけないというのです。富が富本来の価値を授かるのは、究極的なお方である神に仕えてこそだ、とはっきり断言します。それによって富はマモーンとしての力を失う代わりに、富のもつ本来の役割を再発見されるというのです。その証しとして人の子イエスは実に麗しい「野の花・空の鳥」の物語を語ります。「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」。わたしたちは目の前に金貨を積まれたところで、その金貨がただちに食べ物になるなどとは考えられません。また食糧難の世には「たけのこ生活」といって上等な着物を農村で食べ物に換えてもらうという事態すら生まれました。「栄華を誇ったソロモンでさえ、この花の一輪ほどにも着かざってはいなかった」とあります。ダビデの息子のソロモン王は確かに統一王国を繁栄に導きましたが、それでも美しさは野の花一輪にも及ばないと語ります。日照りの中、暴風雨の中、散ってしまいそうな花びらが、やがて陽の光とともに、滴にきらめく様子をわたしたちは知っています。そこには底知れぬ感動があります。

 今わたしたちの周りでは参議院選に向けて街宣車が走り回っています。あるマイクでは給付金、あるマイクでは減税を叫ぶ声が聞こえます。しかしその背後には、生活保護や医療費をめぐる外国人差別があたかも当たり前であるかのように叫ばれ、暮らしの不安を抱える人々は石を投げつけるかのような言葉をまき散らしています。

 わたしたちはこのような実に危うそうに見える社会にあって、そのような憎しみに駆られそうな人々がイエス・キリストに示された神の恵みに注がれるよう、身も心も神の愛に満ちあふれてまいりたいと願います。イエス・キリストは「人々の噂に惑わされないようにしなさい」と世の終わりに何が起こるか気が気でない弟子たちを冷静に諫めました。「あなたがたは鳥よりも価値のあるものではないか」と人の子イエスが語るのは、いのちの序列を論じているのではなくて、女性であれ男性であれ、様々な多様性をもつ人々であれ、民であれ、こどもであれおとなであれ、特性をもつ人であれすべての人は老若を問わず神の似姿として創造されており、だからこそ主の御前に生きとし生けるものへの連帯責任を無条件に授かるがゆえに尊いとの証しです。マモーンへの囚われは他者への比較と見下し、またはその逆転現象としての妬みや不平しかもたらしませんが、主なる神へと眼差しを向けたとき、人の作った社会の中に暮らしながらも、その社会の枠組みを大きく超えるいのちの広がりに気づかされるのです。わたしたちはイエス・キリストに根を下ろしています。豊かな花と実りを授かりましょう。

2025年7月4日金曜日

2025年 7月6日(日) 礼拝 説教

   ―聖霊降臨節第5主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「神の言葉に打ち砕かれて」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』5章33~37節
(新約8頁)

讃美=21-436(515),522,Ⅱ-171.
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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神が自らの民と結んだ誓いとは何か。今朝の『聖書』では『レビ記』19章12節に「わたしの名を用いて偽り誓ってはならない。互いに欺いてはならない。それによってあなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である」と「昔の人の言い伝え」として伝えられる中で文言が変えられていったであろう「聖句」があります。しかしこの「誓い」を考える上で示唆に富む物語が『旧約聖書』『士師記』にあります。『士師』とは「裁き司」とも呼ばれますが「士」「師」と漢字を分け、その文字のつく職業を考えますと合点のいくところです。いずれも目に見えない特別な信頼関係を前提にしなくては成立たない、いのちに関わる職種であり、『旧約聖書』の物語ではイスラエルの民がまた国の体をなさなかったころ、パレスチナの土地の豊かさの虜となり神を見失い、異民族からの干渉を受けますと民の中から召し出されるのが士師と呼ばれる人々がいます。士師の采配によって民衆は神の約束を思い出し、群れには秩序が回復するが、またその秩序が乱れると新たな士師が現れるといった次第です。

 その中にエフタという人物がいます。エフタは遊び女のこどもでしたから、家督を継げず、その時代のならず者、イスラエルの民の部外者(アウトサイダー)とともに日々を過ごしていました。この部外者集団のもとにイスラエルの民の長老がやってきて、武力で干渉してきた異邦の民と戦って欲しいと願います。エフタは「あなたたちはわたしをのけ者にし、父の家から追い出してではありませんか」と抗議しますが、終には長老の願いを聞き入れ、異民族の中でも力のあるアンモン人と戦うと決意します。しかし相手は容易に屈しません。そこでエフタは主に誓いを立てます。「もしあなたがアンモン人をわたしの手に渡してくださるなら、わたしがアンモンとの戦いから無事帰るとき、わたしの家の戸口から迎えに出て来る者を主のものといたします。わたしはその者を焼き尽くす献げ者といたします」。果たしてアンモン人はエフタの軍門に降り、勝利の喜びに満ちた凱旋を祝いエフタの家から出て来たのは、父の勝利を祝う実の一人娘でした。エフタは衣を引き裂きながら「取り返しがつかない」と嘆きます。しかし娘はその誓いを受け入れ、友とともに二ヶ月のあいだ山々をさまよい、父の命じるままにされたとのことです。

 アブラハムが息子イサクを神に献げる物語と根本から違うのは、アブラハムの場合、主なる神の命令に従ったに過ぎず、いわゆる人身御供を望まなかったのに対して、エフタは自ら神に誓い、その悲劇を自ら招いてしまったところにあります。イスラエルの民には戦いへの勝利は喜びでしたが、エフタは人として最も尊くかつ基となる家族を勝手に担保にし、その結果に衣を引き裂き涙するばかりでした。人の子イエスがこの物語を知らないはずはありません。人の立てる誓いは完全ではなく、時に互いの都合のかけひきでもあり、その陰で涙する者が必ずいるはずだとの理解。

 だからイエス・キリストは語るのです。「『天にかけて誓うな、天は神の玉座』。『地にかけて誓うな、地は神の足台』。『エルサレムにかけて誓うな、そこは大王の都』。『頭にかけて誓うな。髪の毛一本すら白くも黒くも出来ないから』。あなたがたは『然り』には『然り』、『否』には『否』とだけ言いなさい」。

 しかしこの破れにまみれた誓いよりも、「然り」には「然り」、「否」には「否」と答えるほうが、よほど困難な時と場合があります。何らかの力関係があったときに、本来は「否」と言うべきところを「然り」と答えてしまう。また反対に「然り」と言うべきところを「否」と答えてしまう。人の子イエスが身柄を拘束され、大祭司の家でと連れていかれる夜、鶏が三度鳴く前に、ペトロはその関わりを問われましたが「然り」と言うべきところを「否」と答えてしまうのです。思えば誓いに関しても、「否」か「然り」かどうかを答える場面にしても、わたしたちは十全に向きあうことなく、自分の身にその責任を負わずに、他人のせいや諸般の事情のせいにしてはいないでしょうか。ここにわたしたちが実際に身に帯びている罪そのものがあります。それは遺伝するものでもなく、因果応報でもありませんが、わたしたちが破れを抱えた人間であるその身の程を忘れると、それこそ取り返しのつかない過ちに繋がりかねません。

 しかし人の子イエスの声は、そのようなわたしたちに「もう一度やり直してご覧なさい」と静かに語りかけます。『マタイによる福音書』では、様々な過ちの結果自らを遠ざけていった弟子に向けて「ガリラヤへ行きなさい」と語りました。それこそ、救い主を前にして粉々に打ち砕かれた人々が、新たにイエス・キリストとの再会を果たす場所です。そしてその後には、キリストが自らを通して証しされた神の愛による希望がいつまでも消えずにわたしたちを照らしています。世にある責任をそれとして尊び担う中で、神の愛は時にはさわやかな風となって、わたしたちのいのちを潤してくださいます。神がお立てになった誓いはとこしえに立ちます。その誓いは決して揺るぐことはありません。

2025年6月27日金曜日

2025年 6月29日(日) 礼拝 説教

  ―聖霊降臨節第4主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「掘り起こされた塩、闇を照らすともしび」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』5章13~16節
(新約6頁)

讃美=21-505(353),21-504(285),21-26.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


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【説教要旨】
 食塩と申しますと、(株)日本たばこ産業塩事業センターの規定では「食塩」とは塩化ナトリウムが99パーセント以上の商品を指します。ただしこれは精製の結果生じた物質を基準にして定めた数値。1997年以降、塩の販売が自由化に踏み切ってから様々な塩が販売されています。抗がん剤や透析で腎臓を患っている方には勿論厳禁ですが、他方では「塩分控え目」の調味料には添加物が含まれます。これも決して安全な食品とは言えません。天日製塩や釜焚製塩は海水を素朴な仕方で乾燥したり煮詰めたりしますので天候に左右され生産量も安定しません。だからこそ、塩=塩化ナトリウムではなく、様々な天然ミネラルも含んでの結晶こそがはじめて「塩」だと言えます。

 さて『新約聖書』の舞台では塩はどのような用途で用いられ、この塩を真っ先に手にしたのは誰でしょうか。初期の共和制ローマの中産階級や無産市民の場合、手当てとして塩があてがわれていました。貴重品でもあり、持ち運びが可能でしたのでそのように用いられていたと申します。『新約聖書』成立の時代には貨幣が流通しますが、それでも現金のない場合には塩も併せて用いられたと申します。ヨルダン川が流れ込むところには「死海」があり、そこには天然塩の塊がいたるところにありましたから、天然資源の採掘場として死海周辺はローマ帝国には貴重な場所だと言えます。逆に言えば、土地の人々は鉱山奴隷の犠牲のもと天然資源を収奪されていました。

 それでは地域の人々はどのようにして塩を手に入れたというのでしょうか。もちろんそのような事情ですから金銀の代わりにというよりは鶴嘴や鍬をもって地面から懸命に掘り出したことでしょう。木陰は涼しい土地ですが陽射しは強く身体の水分は汗としてすぐに失われてしまいます。猛暑の中身体を動かした方であればシャツに汗が含む塩分が白く残る様を御覧になったかと申します。ですから肉体労働に従事する人々にはとりわけ健康を維持するためには水だけでなく岩塩に含まれるミネラルが不可欠だったに違いありません。畑を耕しながら舐める塩の味は散漫な注意力を引き締めてくれますし、ぼんやりとした気持ちに活を入れてくれます。

 また防腐効果についても人々は経験則から学んでいたに違いありません。あらゆる保存食に必要とされたのは塩分、そしてその塩気です。山羊や羊などの家畜も健康を保つためか好んで塩を舐めようとします。どうして人の子イエスは、塩になぞらえて神のわざを伝えようとしたかと言えば、粗製な塩しか入手できない暮らしを前提とした人々がいればこそであったのではないでしょうか。神の愛のわざは人々の交わりのなかに反映されます。そのような反映がなければ、例えば『ヤコブの手紙』が指摘するように、教会の交わりの中にこの世の尺度が安易に持ち込まれ、教会ならではの味つけが失われてしまう事態を招きます。『マタイによる福音書』が成立した背景の教会の危機でもありました。わたしたちの教会では?と各々問いかけられている思いがいたします。

 さらに「ともしび」と申しますといかにも煌々と闇夜を照らすかのイメージがありますが、福音書の世界で用いられる「ともしび」の場合、今でいう蝋燭のような灯りは用いられません。皿に入れた植物油に布の切れ端を浸してつけるような辛うじて暗がりを照らすぼんやりとした灯りに過ぎませんでした。しかしだからこそ部屋の中の燭台において、その光が暗がりのなかで何とか最大の光量となるように人々は工夫したことでしょう。隙間風が吹けばすぐ消えてしまいそうになる灯り。しかしそのような灯りがあるお陰で、わたしたちは不安や恐れから解放されてまいります。さらに『マタイによる福音書』は6章22節で語ります。「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身は明るい」。「ともしび」には、照明器具としての役割だけでなく、神の力に活かされているわたしたちの喜びが重ねられます。「濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう」。わたしたち現代人はあまりにも人工的な濃い味、宇宙空間からも見える富める国の輪郭を照らすほどの強い光に縛られて、そのありがたみが分からなくなっているようです。

 イエス・キリストが語りかけたのは、その時代には決して裕福な暮らしを過ごしてはいない人々でした。そのような人々にこそイエス・キリストは「わたしを見つめていなさい」と語りかけたのだと強く思います。

 外見上どのように見えたとしても、あるいは自らの可能性を決めつけたとしても、主なる神はわたしたちの頑なさを砕いてくださいます。そしてわたしたちにある「よき塩」を掘り出し、また「ともしび」が消えないよう絶えず手をかざしてくださいます。イエス・キリストとわたしたちの絆とはそれほどまでに堅いのです。

2025年6月21日土曜日

2025年 6月22日(日) 礼拝 説教

   ―聖霊降臨節第3主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「神には決して『無駄』はない」
稲山聖修牧師

聖書=『使徒言行録』17章30~34節
(新約248頁)

讃美=21-405(225),21-516,21-26.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 今朝わたしたちは神の愛の力に押し出されてイエス・キリストの教えと生き方を伝え、種々の困難を経ながら、その困難が重なるほどに広まる交わりを描いた『使徒言行録』を開いています。とくに使徒パウロがその生涯で第二回目の宣教の旅の途中、立ち寄ったギリシアの都市アテネでの出来事が記されています。

 『使徒言行録』の眼差しは使徒の働きによる初代教会の形成とその広まりに関心を寄せてはおりますが、その背景にはその時代には教会のわざが今日のような時に大々的なものではなかったことが記されます。ウェストミンスター大聖堂やノートルダム大聖堂などこの箇所には登場しませんし、教会が地域の重要なインフラとして機能しているわけでもありません。むしろこの時代ではギリシアの哲学や思想の影響が極めて強く、文字の読み書きのできる人々の心をつかみ、その雰囲気にもなっていました。パウロはその渦巻きの中心にあたる都市アテネに飛びこみます。

 ところで古代ギリシアが民主制を敷いていたという理解がありますが、それは今日の民主制とは全く異なります。労働は奴隷に任せる一方で政は市民が話し合い重要事項を決定するというしくみ。それが古代ギリシアの民主制でした。話し合いの広場であったアレオパゴスという広場にパウロは赴くのです。場に居合わせているのはストア派やエピクロス派といった世との関わりを実に消極的に捉える人々でした。この人々には肉体は精神が乗り越えるべき欲の根源であり、その肉体を精神が自在に制して初めて魂の救済が定まるという理解に立っていました。パウロはその町で、苦難のなかで十字架刑に処された後、霊肉ともに死の闇から復活されたイエス・キリストに根を降ろして活かされる喜びを語ろうとします。しかし絶えず理解を求める多くの人々には新しいいのちへの飛躍ともいうべき復活の出来事を告げ知らせるメッセージに躓いてしまいます。

 確かに復活という出来事はわたしたちには有無を言わせず迫る出来事でもあります。しかし他方で人生のすべてに説明がつくというのもいささか浅薄な気がいたします。散々言葉を紡いだ挙句、その最後には「理屈ではない」というお話は、時に詭弁の誹りを免れませんし、人の心を激しく動かしもいたしません。『聖書』の言葉はその意味では実に丁寧で、当事者として言葉にできない出来事を後から振り返りながら物語として懸命に紡ぐという姿勢を一貫して崩しません。パウロは律法学者として『新約聖書』もなく、壮麗な大聖堂ももたなかった時代のキリスト教徒を弾圧するためシリアの都市ダマスカスに赴く途中、雷に打たれたかのように自らの名を呼ぶキリストに「目が見えなくなる」という仕方で出会い、目覚めました。その体験に根ざす喜びを何ら臆せずにアレオパゴスに響かせ語るのです。

 このアテネでの伝道を、後の世、とりわけ現代の人々のなかには「失敗した」と結論づける者がいました。「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った。それで、パウロはその場を立ち去った」。しかし『使徒言行録』はパウロの働きを「成功した」とも「失敗した」とも語りません。そのような成果主義では推し量れない時が静かに訪れていました。

 それは「パウロについて行って信仰に入ったアレオパゴスの議員ディオニシオ」「ダマリスという女性やその他の人々」がいたという事件です。ギリシアの都市は城壁がありました。そのなかで様々な市民の特権が保証されていたのです。もしこの「議員や女性、その他の人々」が心の壁を越えていったとするならば、ディオニシオもダマリスもそれまで持っていた特権をすべて投げうって、キリストに従う道を選んだこととなります。奴隷に支えられた自由な市民生活というこれまでの支えは通じない世界に飛びこみました。もはや特権階級でもなく、奴隷でもない人々。世にある人々の目からすれば得体の知れない教えに導かれていったとの誤解を多く受けたことでしょう。しかし人が売り買いされるなかで得た仮初めの自由よりも、この人はもっと広くもっと天高い世界へと羽ばたく自由を授かりました。

 わたしたちはそうとは気づかないまま自らの常識や倣いでもって『聖書』を読み込もうとします。そのときに「理解できない」「分からない」という理由でもってその扉を閉じてしまう時もあります。アテネの市民の大多数がそうでした。けれどもむしろ、わたしたちには「理解できない」「分からない」からこそ『聖書』の言葉とともにあゆみたいものです。復活の出来事が示すいのちの連なりや重さは人の理解を超えています。しかし神がなさるわざに一切の無駄はありません。若くても齢を重ねても「人生曰く不可解」だからこそ胸は高鳴ります。『聖書』の言葉を胸に秘めながら出会う日々。キリストを通した神の愛のわざのなか、人の言葉で記された『聖書』は神の言葉になるのです。

2025年6月13日金曜日

2025年 6月15日(日) 礼拝 説教

  ―聖霊降臨節 第2主日礼拝―


時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「イエスは必ず生きづらさを分かちあう」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』11 章25~30 節
(新約20頁)

讃美=21-351(66),Ⅱ.191,21-26.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 大分前、春から夏にかけての話になります。帰宅いたしますと、伴侶が韓国のチジミを夕食に出してくれました。実に瑞々しい香りがいたしました。尋ねますと、付近の公園にセリの群生地があって、そこから摘んできたとの話でした。現在、伴侶は緊張した場面では一度に二つの単語までしか話せません。何かを話してそれが誤解をもたらさないかどうかが不安で仕方がないとのことでした。けれども、それでも一人草むらや自分で手を入れたプランターで採れたハーブを用いては、黙々と家事をしながら礼拝に出席する備えをしているようです。

 伴侶に限らず、生きづらさを抱えた人は教会員の方々にもおられるでしょうし、こども園の職員や保護者にもおられることでしょう。ましてやこの物価高のなかでどのように暮らせばよいのか思案しているうちに心身のバランスを崩したり、職場の人間関係に行き詰まったりする人は後を絶ちません。なぜ電車の人身事故が絶えないのでしょうか。「人間関係を言い訳にするなど甘すぎる」との言葉も聞こえますが、果たしてそうなのかと考えます。種々の生きづらさや心の病はその人個人の問題というよりも人間関係に内在しており、個人の態度や根性といった言葉では必ずしも十分には表現しきれないように思われるからです。もしそのような言葉が用いられるとするならば、それは何らかの差別的な態度を示しているようにも思えます。

 わたしたちは聖日礼拝で『聖書』を開きます。そしてそこでイエス・キリストの生き方に触れ、またその教えに問いを投げかけられます。しかし他方でイエス・キリストの生き方に従おうとする人は世にあって何らかの生きづらさをすでに抱えている人か、またはあえてその生き方に巻きこまれた人に絞り込まれてまいります。それは何かの選民意識やエリート意識に基づくのではなく「そうせずにはおれなかった」という意味での選びに基づいています。自分で選んだとの自分を中心にした選択での生活は長続きしませんが「そうせずにはおれなかった」というあゆみの方が、周囲の交わりに支えられているだけに思いのほか主にある生涯を全うするかもしれません。

 本日の箇所で人の子イエスはまず天の父をほめたたえます。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父の他に子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」。父の他に子を知る者なく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいないと語るイエス・キリスト。『マタイによる福音書』の書き手集団が示そうとしているのは、父なる神こそがメシアを示すのであって、世にある人々にそれは隠されているという話です。平たく言えば「メシアの秘密」となるのでしょうが、この話に即するならば、どれほど教えを語ろうとも、人々を癒そうとも、神の愛を証ししようとも、時が満ちるまでは「キリストは誰か」という重大事は常に隠されているという話です。人の子イエスはこの孤独のなかで父なる神をほめたたえ、神とともに苦しみぬいたのです。そしてその孤独とは、イエスと出会い、交わりを授かった人々の苦難でもあります。「この苦しみには何の意味があるのか」。耐えがたい生きづらさを抱えて一人佇む人に向けてイエス・キリストは語りかけます。

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」。イエス・キリストはわたしたちに「疲れた者、重荷を負う者はわたしのもとに来なさい、休ませてあげよう」と語っても、全ての重荷から解放するとはひと言も申しません。そのようなインスタントな安っぽい恵みについては触れません。しかし、あなたを疲れさせ、重荷となる重圧の代わりに「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と話します。軛とは二頭の牛や馬が御者の手綱から離れないように肩にかけられる枷を示します。イエス・キリストが、わたしたちの重荷をともに担ってくださっているのです。その姿はどのようなものか。それは突如ローマ兵に無理矢理十字架の横木を担がされたキレネ人シモンのごとくであります。わたしたちは、すでに有無を言わせない仕方で、イエス・キリストの軛をともに担っています。それこそがわたしたちが生きづらさをイエスと分かちあい、生きづらさを通して新たな出会いと交わりを育む鍵となります。「それは無理だ」と怖じ惑う必要はありません。イエス・キリストが示した神の愛である聖霊のわざを通して、わたしたちは大切な人の生きづらさを排除するのではなく、そうだねと肯定できるのです。アーメンとの呟きが静かな喜びとともに湧いてまいります。

2025年6月3日火曜日

2025年 6月8日(日) 子どもの日(花の日)ペンテコステ礼拝 ライブ中継

―聖霊降臨節 第1主日礼拝―

―子どもの日(花の日)ペンテコステ礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「神様の愛に背中を押されて」 
稲山聖修牧師

聖書=『使徒言行録』2 章1~4 節 
(新約214 頁)

讃美=(改)こどもさんびか106,
「ワワワいっしょに」,21ー81,
(改)こどもさんびか114.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は、今回は「ライブ中継」
のみとなります。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。