2024年3月14日木曜日

2024年 3月17日(日) 礼拝 説教

     ー受難節第5主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「一粒の麦が地に落ちるとき」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』12章20~26節
(新約聖書  192頁).

讃美=  243,21-466,21-27.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

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方法は、こちらのページをご覧ください。
 
【説教要旨】
 『旧約聖書』が成立する遙か前、紀元前ではおよそ一万年新石器時代、人類に贈られた穀物は野生の麦であったと申します。最初はその麦を採取し、石ですり潰して種のないパンを作っては食していましたが、次第に畑を耕しそこに水をひき、農耕という仕方で麦の栽培を人工的に行なうようになりました。貨幣のない時代、収穫された穀物の量によって都市の力は決定づけられました。羊などの家畜と異なり、穀物は長期の保存と備蓄に耐えたからです。そこではどれほどの麦が収穫できるかという「量」を競い合うこととなり、歳代で一粒の麦から七十粒近くが収穫できたとのこと。ローマ帝国の世では一粒あたり五粒の収穫だったことを考えると驚異的でした。人の子イエスの時代に近づくにあたり一粒あたりの収穫は低下し、身近ながらも貴重な食糧として扱われました。

 そのように殆どの人々が「量」に注目するところの穀物のはずですが、『ヨハネによる福音書』のイエス・キリストの眼差しは異なります。収穫量に嬉々とする人々の中、他ならぬ「一粒の麦」の行方に目を注ぎながら、ギリシア人に福音の教えを説くのです。ギリシア人でもユダヤ人でもその日の食糧を確保するためには相応しい汗を流す、または時間を献げなくてはなりません。民の文化の垣根を超える対話の土台として「一粒の麦」を用いた譬え話は、人の子イエスに会いたいと切に願うギリシア人にも深く響いたことでしょう。

 すでにイエスはエルサレムの城壁の外で暮らす人々に迎えられ、聖なる都と謳われる都市へと入りました。暮らす人々は城壁の外の村人たちとは暮らしの水準は全く異なります。一粒の麦の行く末を凝視するのは貧しさに喘ぐ貧農であったことでしょう。袋に入った麦は備蓄できますが、一度蒔いてしまえば元には戻せません。その先がどうなるかは神に委ねる他はなく、未来にどのような収穫が待つのかは誰にも分からないのです。後もう少しというところで日照りに見舞われたり、病害虫におかされたりというリスクは変わりません。イエス・キリストは神に委ねて歩むその生き方を、一粒の麦に重ねます。

 近現代の日本では、人生はその人個人の自己責任のもと、その人自らに「所有」され、そして死によって完結するものだと見なされてきました。「その人がどのように生きようとそれはその人の自由だ」との言葉は現在七十歳代を超える人々の間でも一定の共通認識となっています。しかしそのような理解は本当のところ正しいのでしょうか。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」とは、より具体的に言えば「一粒の麦は蒔かなければそのまま、しかしもしあなたの手元を離れて蒔かれたのであれば多くの実りを授かる」とも解釈できます。そうなると25節以下の「自分のいのちを愛する者」とは「自分のいのちに執着する者」となり、「自分のいのちを憎む者」とは「自らの執着を一旦放念し、主なる神に委ねられる者」という理解も可能です。同じような譬え話は「タラントンの譬え話」としても描かれますが、要するに人生の自己決定権を表向き制約することにより「誰がために用いられたのか」という道筋へとわたしたちを招き、人生の質をより豊かなものとする道を、イエス・キリストは説いていることにもなります。

 イエス・キリストの十字架への苦難の道は、そのような「誰がために用いられたのか」という道筋の中で、最も人々から遠ざけられる生き方でもあります。人の子イエス自ら「苦い杯をとりのけてください」と呼んだ生涯です。しかしそのゲツセマネでの祈りの中で、その葛藤の中から「御心に適うことが行なわれますように」と委ねきれた人でもありました。イエス・キリストの人生は、わたしたちが目指すところの「自己実現」からは最も遠いところにあります。

 「どのように生きようとそれはその人の自由」という考え方が行き先を見失った結果、わたしたちは仕えるべき人々やテーマといったものを見失うにいたりました。その結果、外見上は豊かであっても行なわれる育児放棄や介護放棄、さらには自己自身の生き方の放棄といった事態が生じるにいたりました。そのような事件を「よくあることとして受けとめる」のか、それとも「深く胸を痛める」のかという分岐点にわたしたちは常に立たされています。イエス・キリストはどのような土地であっても種籾としての麦を撒くことを呼びかけ続けます。いのちを物心両面にわたって支えるいのちの結晶としての麦。その麦をどのように用いるのかによって、わたしたちの交わりの行方が定まります。復活によって裏づけられる、決して無駄には終らない生き方がそこにあるように思えてなりません。一粒の麦を粗末にせず、主なる神に委ねていくあゆみを、キリストの苦難は切り拓きます。

2024年3月7日木曜日

2024年 3月10日(日) 礼拝 説教

      ー受難節第4主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「非効率の中に潜むいのちの希望の光」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』12章1~8節
(新約聖書  191頁).

讃美=  511,21-309,21-27.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

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【説教要旨】
  コロナ禍以降に急速に進んだIT社会。今や国際会議ですらリモート技術で行なわれ、電子通貨も普及を見せ、スマートフォンと銀行の口座が直結されて買い物もできるようになりました。天井からぶら下げたザルにあるお金で会計を済ませた時代とは全く異なり、実にスマートな精算システムが導入されて久しいところ。20世紀なら宇宙船に搭載するレベルのIT技術が、名刺入れほどの大きさの「携帯電話」には凝縮されています。仮想現実システムも生成型AI(人工知能)も身近になりました。

 しかしIT技術がどのように発達したとしても再現も通信もできない感覚があります。それは触覚と味覚と嗅覚です。五感のうち視聴覚はデジタル化できても、それ以外の感覚は再現できないままです。

 本日の場面では人の子イエスがマルタとマリアの姉妹のうち、妹マリアからナルドの香油で足を拭われるという場面です。『マルコによる福音書』と『マタイによる福音書』では頭であり、香油を注ぐ女性の振る舞いに憤慨するのは『マルコによる福音書』の場合は「そこにいた人の何人か」、『マタイによる福音書』では「弟子たち」となります。いずれにしても人の子イエスに近しい人物がそこにおり女性に憤慨したとの理解は変わりません。『ヨハネによる福音書』でこの場面は口を挟む人物が「イスカリオテのユダ」とされるところにその重点もまた置かれています。

 この箇所でイスカリオテのユダは目利きとしての才能を発揮しています。それは注がれたこの香油の値打ちを「三百デナリオン」と瞬時に見抜いている態度から分かります。しかし人の子イエスは「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それをとって置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない」。最初に記されたとされる『マルコによる福音書』では「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか」との呟きさえ聞こえます。しかし果たして、イエス・キリストとの関わりの中で無駄なものなどあるというのでしょうか。わたしたちは神から様々な賜物をイエス・キリストとの関わりの中で発見します。そのどれ一つとして「無駄なもの」などありません。人の子イエスはすでに十字架への歩みを始めています。十字架刑で処刑された者は一般には弔われず、野晒しにされました。処刑場は鳥獣の餌としてあたりに骨が転がっていたところから「ゴルゴダ(されこうべ:元来は仏教でお骨を『舎利』と呼んだ語から『舎利頭』と記される)」と呼ばれていました。しかしそのような人々のただ中から、自らの社会的立場をなげうちその遺体をひきとったアリマタヤのヨセフが描かれます。救い主イエス・キリストのドラマは死によって決して終りません。

 思うにイスカリオテのユダは今を生きるわたしたちと同じ課題を抱えていたのではないでしょうか。それはすべてを効率的に考え、無駄なく対応するという姿勢です。ひょっとしたら注がれた香油に表現される経済価値を、イエス・キリストの道とはかけ離れた自分本位の善意で用いようとしたのかも知れません。しかしこの姿勢にイスカリオテのユダの課題があったのであり、わたしたちの課題も重なります。それはわたしたちが神なき善意の中で争い、神なき善意の中で人を苦しめ、神なき善意の中で傲慢になるというあり方です。世にあるあらゆる差別や排除も戦争も殆どが善意の名の下で行なわれます。それが神のもとから略奪された善悪の知識の実であることに誰も気づかないのです。便利さの美名に隠れる効率性に選別と排除が隠されている現実を、わたしたちはそのようなものだと知りつつ、神との関わりの中で受けとめなくてはなりません。あくまでもすべては授かるものであって、わが意のままに操作できるものではないのです。

 イエス・キリストはゲツセマネという場所で身柄を拘束される前に苦しみの中で祈りを献げました。それは『マルコによる福音書』では「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取除けてください」との祈りでした。しかしそのような苦しみの中で「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行なわれますように」と続けます。イエス・キリストを包んだナルドの香油は、暗闇の中でそのような苦しみに喘ぐ人の子イエスの姿を、いのちの光のなかでわたしたちに示します。わたしたちの味わう不条理さがあるとするならば、イエス・キリストがすでにわたしたちに成り代わって神のご計画のもとにわたしたちを引き戻してくださります。それは冷たい運命などという歯車ではなく、どのようないのちにも分かちあわれ、備えられる希望の光でもあります。わたしのものは「わたしのもの」、あなたの時間も「わたしのもの」という独占欲で占められているのではなく、わたしのもの・わたしたちのものはすでに主なる神に献げられている世界でもあります。

2024年3月1日金曜日

2024年 3月3日(日) 礼拝 説教

     ー受難節第3主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「一二人の弟子の一人であるユダ」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』6章60~71節
(新約聖書  177頁).

讃美=  258,21-575,21-27.
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【説教要旨】
 多くの弟子が離れ去る中で「あなたがたも離れて行きたいか」と問われる中、人の子イエスのもとに残ったのは一二人の弟子でした。『使徒言行録』を参考にいたしますと、この時点で一二弟子とはペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダ、そしてイスカリオテのユダであるとされます。しかしとりわけイスカリオテのユダはその中でも異彩を放っています。「裏切り者」「悪魔」というラベリングが福音書の解釈に限らず『聖書』のテキスト自体にも明かだからです。教会の交わりはおろか世のキリスト教文化圏でも「あなたはユダみたいな人ですね」などと言うならばたちまち険悪な雰囲気になります。キリスト教の価値観と葛藤し続けた近代日本文学の歴史の中で太宰治は『駆込訴へ』という作品を「裏切り者イスカリオテのユダの独白」という構成で著わしています。

 しかしながら福音書を先入観に基づいてではなく、丁寧に読み解いてまいりますとまた別のユダの姿が現われます。『マタイによる福音書』27章1~5節では全ての弟子が恐怖のあまり身を隠す中「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と人の子イエスをローマ総督ピラトのもとに送った裁判の誤りと人の子イエスの無罪を証言します。また、イスカリオテのユダが自ら命を絶った態度をその罪深さに数える人もおります。『聖書』全体を見渡して自ら命を絶つ者としてはユダの他にヘブライ統一王国の初代王サウルがおります。このサウル王もユダもその死に方によって罪深さが際立たせられるところはありません。自死が罪だとは『聖書』では規定されてはいません。むしろ後の教会が世俗権力と一体化する中で過酷な労働を強いられた農奴や奴隷を確保するための「方便」としての教説に源があると理解した方がより適切かと存じます。

 それでは『聖書』はイスカリオテのユダを「裏切り」だと説く根拠は何でしょうか。これは渡辺敏雄牧師との読書会で知ったことですが「裏切る」とは本来ギリシア語では「パラドゥーナイ」とされ、「裏切る」よりもインパクトの弱い「引き渡す・委ねる」が適切な訳であるとのことでした。さらにはイスカリオテのユダには他の弟子にはない人の子イエスへの近さをもっていることが、祭司長とその下役らへの合図である「接吻」から分かります。他の弟子に人の子イエスとの挨拶で接吻を用いた人物はおりません。イスカリオテのユダの特徴を福音書の受難物語の中で整理しますと次のようになります。①人の子イエスは、弟子と使徒のうちの一人によって、使徒の中から祭司長たちに引き渡されました。これはイスカリオテのユダによる「引き渡し」に始まります。②イスカリオテのユダはイエスを祭司長たちに引き渡し、祭司長たちはイエスを総督ピラトという異邦人へと引き渡します。そしてピラトは人の子イエスを十字架へと引き渡します。③イスカリオテのユダの「引き渡し」は最初かつ最小の局面ですが、連続する「引き渡し」全体のわざの最初という意味ではユダの行為は決定的です。この三点を踏まえますと、イスカリオテのユダはイエスの十字架での死と復活にいたる道筋の途上で、たまたまそこに居合わせたような人物ではなく、神の領域に属するイエス・キリストとこの世、十二使徒とこの世との関係に深く負い目のある者とされたことが分かります。『ヨハネによる福音書』で人の子イエスから悪魔呼ばわりされたイスカリオテのユダですが、イエス・キリストの十字架と死、そして復活の道に関わる弟子としてはペトロ以上に個性的であると捉えられます。それではイスカリオテのユダもまた神の愛につつまれ、救われたのかどうか。この問いが気になりますが、それは神の国の訪れを見なければ何とも言えません。その「沈黙」が『聖書』を様々な決めつけや自分勝手な利用から遠ざけるためには重要だと言えます。しかし後の『使徒言行録』で応急措置的な対応の後に出現し、姿を消す使徒マティアに代わって活躍した使徒パウロの異邦人伝道に賭けた情熱を踏まえるならば、パウロが律法学者であったころに名乗っていたサウロという名とユダは決して無関係ではありません。律法学者サウロはユダ以上に罪深い者でした。同時に『旧約聖書』のサウル王も神の恵みのもとで神との関わりを見失い、その弱さと罪深さによって却って神の栄光を世に顕した者として名を刻まれています。

「一二使徒の一人」として他の使徒の「罪による連帯責任」を負ったイスカリオテのユダ。そこに働いた神の秘められた計画は、パウロは救い主イエス・キリストの復活を語り、それは文化の垣根を越えた異邦人伝道へとつながり、世界へと広がりました。幾度も蔑まれてきたイスカリオテのユダもまた、神に用いられた使徒の一人であった事実を深く胸に留めましょう。その記憶の反復がキリストとの関係というわたしたちの信仰を確かにします。


2024年2月22日木曜日

2024年 2月25日(日) 礼拝 説教

    ー受難節第2主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「もっと素直になれる生き方」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』9章35~41節
(新約聖書  186頁).

讃美=  90,21-463,21-29.
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【説教要旨】
 人の子イエスの生涯の描写の仕方がよく似ている『マルコによる福音書』『マタイによる福音書』『ルカによる福音書』を「共観福音書」、救い主の生涯の理解に共通点が多いことからそのように呼ばれます。「共なる理解」という意味で「観察」の「観」を用います。この三部の福音書に描かれる奇跡物語の特徴とは、病に苦しんでいる人がおり、その人を人の子イエスが癒し、癒された人はその喜びを他の人々に伝えていくという、シンプルさにあります。どうしようもない苦難にある人がおり、イエス・キリストと出会い、その苦難が癒され、喜びに溢れる、という物語の展開はもはや王道も呼ぶべき順序を備えています。たとえその場で律法学者がイエス・キリストの振る舞いを咎め立てしたところで、議論はイエスとの間で行なわれ、癒された人そのものや家族によからぬ事態が及ぶという道筋は概して浮かんでまいりません。

 しかしながら『ヨハネによる福音書』の場合、人の子イエスが癒しのわざを行ないますと、癒された人はともかく、癒された側の家族や係累にはさまざまな動揺がもたらされます。それは律法学者の追求が癒しを受けた人のみならず親族にも及ぶことに原因があり、癒された者も喜びにつつまれるというよりも深い戸惑いをくぐり抜け、ようやく病の回復を喜ぶにいたるという具合です。エルサレムにあるベトザタの池のほとりにいた三十八年もの間病に苦しんでいた人物の箇所にも言えますが、本日の『聖書』の記事はそもそも弟子が通りすがりに「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」という実に浅薄な問いかけを人の子イエスに発したところから始まりました。「神のわざがこの人に現われるためだ」と答えた後にイエスは、地面に唾をし土をこね、その人の目に塗り、盲人が「シロアムの池に行って洗いなさい」との言葉に従ったところで見えるようになったとの物語に発端があります。この癒されたはずの盲人はその後ファリサイ派のもとに連れていかれ、家族にも追及の手が及びます。両親は「本人に尋ねてくれ、もう大人だから」というばかりで、自分とは関わりのない話だと言わんばかりの態度です。目を開かれた人は、イエス・キリストとの出会いによって単純に幸せになるどころか、世の中の見なくても済んだところを見つめなくてはならなくなり、遂には「あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずだ」と答えた理由によって「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようとするのか」と会堂から追い出されます。みなさん、想像してみてください。何らかの強制力により礼拝堂から排除される身となることを。礼拝共同体からの排除は生活共同体からの排除を意味します。

 このようにして目を開かれた人は、盲人であった時に味わった様々な苦労に劣らず、様々な事柄を「見なくてはならなくなり」、追放されていくという憂き目を味わう羽目に陥りました。家族も生活のし辛さへの恐怖からこの人を見捨ててしまいました。世間的には、もともと盲人であったこの人は、イエス・キリストに目を開かれることによってすべてを失ってしまった愚かな人であるとも言えるでしょう。しかしただ一点、そのような一般論と次元を画するのは、イエス・キリストとの関わりが人々の愚かさの中で際立ち、研ぎ澄まされたところにあります。その意味では目を癒されながらも排除されたこの人は、実に素直な関わりを、多くの揺らぎと複雑な環境の中でイエス・キリストとの間に授かったと言えるでしょう。

 「そんなことを言うけれども」とわたしたちは誰かに訴えたくなるときがあります。説教に耳を傾けるときばかりではなく『聖書』を味わうときにも、日々の暮らしの中でも。けれども、そのようなこだわりの底が抜けたときに気づくイエス・キリストの出会いがあるのではないでしょうか。イエス・キリストとの出会いが、喜びどころか却ってわたしたちの足枷となる場合、わたしたちは暮らしやあり方を、わたしたちを必要とする何者かの眼差しから顧みる祈りを献げてみましょう。わたしたちがこの場に集うその背後にはさまざまな理由があるに違いありません。けれどもその理由一つひとつに神の愛が隠されていたとするならば、わたしたちは自分が駄目だ、自分はこうなのだと己を枠にはめる必要はなくなり、もっと身近なところにある課題、例えば身体の具合を確かめるといった事柄に気づかされます、それこそわたしたちが各々の重荷を主に委ねて、もっと素直になれる生き方ではないでしょうか。主なる神に素直な生き方とは、必ずイエス・キリストに繋がる生き方でもあります。

 暮らしの思い煩いの中で、キリストへの素直さを尊びつつ、新しく各々大切なライフステージを始めましょう。

2024年2月16日金曜日

2024年 2月18日(日) 礼拝 説教

    ー受難節第1主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「分かちあう生き方を授かったイエス」 
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』4 章 1 ~ 11 節
(新約聖書  4頁).

讃美=  519,21-306,21-29.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 受難節を迎えて、わたしたちが開く『聖書』は『マタイによる福音書』の「荒れ野での誘惑」での記事です。洗礼者ヨハネとともにいるなかで神の愛である聖霊を注がれたイエスは文字通りキリストとしてのあゆみを始めます。その最中、初めに出会うのは弟子でも苦しむ人々でもなく「サタナス」または「ディアボロス」と呼ばれる悪魔からの試みです。そして荒れ野であたかもイエスにつきまとう悪魔の言葉は、奇しくもわたしたちの日々の暮らしに深く根付いているところに背筋が冷たくなります。クリスマス物語に始まる福音書だけに書き記されているところからも、その時代の教会の一般的な課題として避けて通れなかった課題を見ることができるというものです。言葉によって誘惑するところからしても何ら超常的な存在では無いことが分かります。

 悪魔がイエスに向けたのは、まず「食」に関わる誘惑。極限まで空腹を覚えたイエスに悪魔は「石をパンになるよう命じたらどうか」と勧めます。翻訳の妙か「石をパンに変えてみろ」とは言わない遠回しの言葉がイエスの首をじわじわと絞めていくように映ります。人の子イエスは自らの言葉ではなく、『旧約聖書』の言葉を用いて悪魔に向きあいます。則ち『申命記』8章3節を「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つひとつの言葉で生きる」です。まだつきまといを止めない悪魔はイエスをエルサレムの神殿の屋根の端に立たせて『詩編』91編11~12節を引用して「飛び降りたらどうだ」と勧めます。悪魔は『聖書』を用いて自説の正当化だけでなく、人の子イエスに神を試させようとします。『聖書』の言葉を用いた自説の正当化はカルト宗教や国家首脳の国民向けテレビ演説にもよく見られる危険な振る舞いです。しかしわたしたちはこの「試みる」という重大性を見逃しがちです。なぜ重大なのかと言えば、それは神を疑うことを勧めており、わたしたちの日々にも充分あり得るところだからです。人の子イエスはこの試みそのものを『申命記』6章16節の引用で打ち砕きます。度重なる『聖書』の言葉の引用合戦にイエスはまさしく首の皮一枚で勝利していきます。

 そして遂に悪魔は「非常に高い山」に連れていき「世の全ての国々とその繁栄ぶり」を見せて「自分にひれ伏せ、そうすればお前はこの繁栄全てを思いのままに操り、自分の望み通りの人生を過ごすことができる」と語りかけます。『旧約聖書』ではサウル・ダビデ・ソロモンという名君をヘブライ人は王として立てたと書き記します。しかし王の晩年はいずれもこの誘惑から袂を分かつことはできませんでした。それでは人の子イエスはどのように向きあったというのでしょうか。『申命記』6章13節を引用して「ただ主に仕えよ」と語るのです。

 ところで、わたしたちはこの箇所でイエスが悪魔の誘惑一つひとつに向きあう場面ばかりに気をとられがちになるのですが、物語全体を見渡しますと、悪魔が人の子イエスに向かって囁く言葉一つひとつには、実は全く「分かちあう」「「出会う」「交わる」といった、この物語の後にイエスに出会った人々の味わう喜びが一切合切欠けている特徴に気づきます。先ほども申しましたがイエス・キリストも首の皮一枚で悪魔の誘惑に辛うじて打ち勝ちました。なぜ「辛うじて」打ち勝ったといえるのでしょうか。それは人の子イエスは、自ら決して望んでこの荒れ野の苦難を味わったわけではないからです。確かに『マタイによる福音書』では「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」とあります。しかし他方で『ルカによる福音書』では「“霊”によって引き回され」と記されています。人の子イエスは修行によって魂のステイタスをあげるために荒れ野に赴いたのでなく、神の霊に導かれ、自ら思いも寄らない仕方で荒れ野へと押し出されていく姿がそこにはあります。イエス・キリスト自らにもこの状況は人としては予測不可能であったことでしょう。そうでなければ「誘惑」など成立しないからです。しかしイエス・キリストには神の愛の力である「聖霊」がともにおり、主なる神もまたともにおられました。だからこそ、悪魔の誘惑の軸となる「独占」「独り占め」「私物化」から自由となり、世にある自らの生涯をも人々とともに分かちあう道を選んだのです。

 分刻みで進む現代では時に「不器用な生き方」「損な生き方」に映る「分かちあう生き方」。しかしイエス・キリストはその生涯を貫いて「分かちあい」をわたしたちに示し、苦しみを受ける中で神の愛が世にあってどのようなかたちをとるかをお示しになりました。わたしたちのためにその身を引き裂かれたイエス・キリストの姿を偲ぶ季節、主なる神がわたしたちと無数の誘惑との間に立ちはだかり、祝福してくださっているその愛に感謝しましょう。「分かちあう生き方」を、キリストを通して授かる態度こそ神の愛の何よりの証しです。

2024年2月8日木曜日

2024年 2月11日(日) 礼拝 説教

    ー降誕節第7主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「神の力はあなたを元気にする」 
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』 6 章 5~15 節
(新約聖書  174頁).

讃美= 191,Ⅱ-41,21-29.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

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【説教要旨】
 本日は「建国記念の日」「紀元節」「信教の自由を守る日」と様々な呼び方がされる一日となります。天皇制と向きあってきた教会では様々な集会が行なわれる日になりますが、当事者としての視点だけでなく、運動そのものを客観視する必要も、多様性を重んじる今日の観点からは求められます。激しい論争の陰で歴史に埋もれた人々の声はかすかではありますが、消えることなく今も響いています。

 かつてベストセラーとなった小説に山崎豊子の『不毛地帯』という作品がありました。文庫版冒頭の一冊は主人公のシベリア抑留をめぐるドラマでした。寒気団に覆われたシベリア地方一帯に草は殆ど生えません。針葉樹林にラーゲリがあります。重機のオイルも凍てつく中、人力で鶴嘴を振るい、鉄道敷設や炭鉱労働を強いられた人々の遺骨は返還されていません。意に反して天に召された人々は緑一面の野の中で大の字になり、さんさんと陽の光を浴び、鳥のさえずりと花の香りにつつまれる夢を幾度も見たに違いありません。
 本日わたしたちが注目するのは「イエスは、人々を『座らせなさい』と言われた。そこには草がたくさん生えていた」。との一節です。この一節がなくても物語全体の意味内容は概ね通じます。調べたところ「五千人の人々が満たされる物語」で「草」との言葉を刻むのは本日の福音書の他には『マタイによる福音書』だけでした。その点を踏まえますと「草」には人々が夢見た、また憧れた生活が示されているようです。

 福音書や『旧約聖書』の『詩編』で「草」とは特に「羊」または「羊飼い」との関わりの中で多く記されます。羊にとって一面に広がる緑。一年の中でも長くはない季節にある緑は新鮮な食料となり、流れる小川は羊たちの身も心も健やかにします。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることはない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる」とある通りです。ツンドラまではいかなくとも、砂塵舞う荒れ地を通り過ぎて、オアシスや牧草地に導かれた羊たちは、ともに喜びながら何の警戒もなく草を食みます。神の備え給う祝福と恵みの中で羊たちはいのちを存分に養い、元気になるのです。

 それだけではありません。『創世記』の「天地創造物語」で神は「地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう」とあります。「弱肉強食」の妄想に捕らわれ、食物連鎖のみを受け入れる者には意味不明に聞こえるでしょうが、この箇所で書き手は「神はもともとすべてのいのちが血を流さずに生きる世界」を創造されたとの願い、また、血の犠牲の上にいのちが成立つという世界を超越する場所を神はもともと備えていたとの理解に立っています。「殺生を遠ざける」とは仏教に限らず、時に醜悪な人間模様も隠さず描く『旧約聖書』にさえ記録されます。万物のルーツに関わる表現として「青草」が用いられるのです。

 『旧約聖書』との深い関わりを示す、緑あふれる場所に人の子イエスの声が響き、集まった人々はそこに腰を下ろします。純真無垢な思いから少年が献げた大麦のパン五つと二匹の魚は、辛うじて飢えを癒やせる焼き菓子の塊と二枚の干物に過ぎませんでした。しかし少年は持てるすべてをイエス・キリストに委ねました。自分が空腹になることを顧みずにキリストに献げたのです。キリストはその献げものを「何の役にも立たない」と蔑みあしらうのではなく、少年の眼差しの中で神に感謝の祈りを献げ、人々に分け与えた、とあります。少年が何も隠さずに献げたその態度もまたキリストに祝福され、青草の野に座る五千人の人々に広がっていきます。もはや人々は自らの食事を隠すこともなく、それまで見知らなかった人々と交わりを深め、お互いに気遣う間柄を育んでまいります。「人々が満腹したとき」とは「人々が満たされたとき」とも訳せる箇所です。たとえ病に罹患した人々や、貧困に苦しむ人々がそこにいたとしても、すぐ隣の人々から同じように食を授かったことでしょう。

 食に事欠く人々が敢えて罪を犯し、「人に関心を寄せられ、見守られている」と刑務所生活を喜んでいるとの報道に打ちのめされるわたしたちが元気を回復するのは、このような『聖書』の御言葉によるところ、またその御言葉に基づく交わりによります。それはどのような壁をも越えていきます。この交わりの前には、いかなる武装も必要ありません。人々が満ち足りるとき、そこには神の平和が訪れる、それは武器には拠らない平和であるとの中村哲医師の声を思い出します。神の力はお互いを大切にする愛です。その愛は過激派にさえ銃を降ろさせ、諍いを収めさせます。青草の原広がる、神の備え給う大地に、わたしたちは我知らずして立っていると感謝したいと願います。そして少しでも多くの人々に、その元気を分かち合いたいと祈り求めてまいりましょう。

2024年2月1日木曜日

2024年 2月4日(日) 礼拝 説教

    ー降誕節第6主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「主イエスはあなたの逃れの場」 
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』 5章1~14節
(新約聖書  171頁).

讃美= 122,21-508,21-29.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 
【説教要旨】
 自分や家族が重篤な疾病に罹患いたしますと、多額の金銭を集めてでも高額治療さえ受けたいとわたしたちは願います。それはわたしたちのいのちが自分だけのものではないと知っているからです。一般的な医療に基づく治療では困難な場合でも、漢方やその他の民間療法があれば家族のために生きる執念を燃やすというあり方もわたしたちにはあります。自らの病でなくても、わが子や家族の場合であればなおさら世界のどこへ行っても治療に専念させてあげたいと思うのが自然でありましょう。

 しかし本日描かれる箇所で登場する足の萎えた人には、そのように「何とかしたい」と願う人はいなかった模様です。まことに辛いことではありますが、この人は身体に障碍を負っているだけでなく、孤独の身でもありました。「エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で『ベトザタ』と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、身体の麻痺した人などが大勢横たわっていた」。38年もの間、この不自由な人を顧みる人はいなかったと、この人自らの言葉が示しています。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りていくのです」。この人は、単に身体が動かないだけなく、人々から忘れ去られた人でもありました。障碍を抱えているだけでなく、孤独の身でありました。ただ幸いであったのは、「良くなりたいのか」という人の子イエスの問いかけを無視しはしなかったところです。完全に諦めていたのであれば、このような問いに耳を閉ざし、心さえも閉ざしてしまうものです。ですがこの名もない男性は、イエス・キリストからの問いかけに、間接的な仕方であるせよ、意志表示をしたのです。

 「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」。すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした、とあります。実際に歩きだしたという事柄以上に、38年間の沈黙が破られ、この足萎えの人を深く顧みる人として、人の子イエスがそのそばにおられたことが何よりも嬉しかったのです。しかしその喜びは、瞬く間に周囲の人々に打ち消されます。この人が歩き出した様の喜びをともにするどころか、咎め立てをするのです。その咎め立てをする人々はこう言います。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは律法では赦されていない」。癒された人は憤りとともにこう語ります。「わたしを癒してくださった方が『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」。咎め立てる人々は口々に「それは誰だ」「それは誰だ」と問い詰めるのです。

 しばらく時が経ち、幸いにも再会した折に人の子イエスは次のように語ります。あえて感謝の言葉など求めません。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない」。この箇所で人の子イエスが指摘した「罪」とはいったい何なのでしょうか。障碍の原因を本人の罪か、または両親の罪かと弟子が問い尋ねる場面は確かに描かれましたが、イエス・キリストはそのような特性が「神のわざがその人に現われるため」であると、当時としては実に画期的な解釈を行なっています。ですからこの人の病が罪であったとは見なしていないはずです。何が罪かと言われるならば、それは癒しを受けたこの人が、安息日に癒しを受けた事実を喜ばない人々に対して論争を続けたところにあるのではないでしょうか。喜びをともにしてくれる人であればいざ知らず、咎め立てをする人々に半ば憎しみをもって論じ合うなどイエス・キリストに癒された喜びを最も損なうものです。このような交わりから離れるようにと伝えているようです。あのエデンで生きる幸せの秘密を、神では無い者にうっかりうち明けた人間のような真似はよせ、と伝えているのです。

 残念なことにこの癒された人は後に、その恐怖からか身体を癒したのはイエスだと伝え、それにより迫害を受けるにいたりました。しかしこのようなことも人の子イエスには織り込み済みであったはずです。なぜなら「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」とあるからです。イエス・キリストは、ただ神の愛をよりどころとして、どのような人もモデルとせずに黙々と癒しのわざを続けておられた様子が窺えるのが本日の箇所です。今朝の説教のタイトルは「主イエスはあなたの逃れの場」としました。それはイエス・キリストはこのような仕方でわたしたち一人ひとりを孤独にせず、過ちを問わず痛みを問いかけ、癒してくださるからです。孤独になったとき、追い詰められたとき、わたしたちはイエス・キリストの問いに答え、その懐に飛びこみましょう。この誰からも無視されていた人のように訴えを聞くキリストがそばにいる喜びがあります。