2018年9月23日日曜日

2018年9月23日(日) 説教「永遠のいのちのきざし」稲山聖修牧師

2018年9月23日
「永遠のいのちのきざし」
マルコによる福音書14章26節~31節

説教:稲山聖修牧師
 「イエスは弟子たちに言われた。『あなたがたは皆わたしに躓く。<わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう>と書いてあるからだ』。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」。弟子の弱さを見極めたイエス・キリストが語る、自らの復活の出来事を経て、新たに福音の原点であるガリラヤから働きを始めるとの言葉。主イエスは、弟子の絆が弟子自らの躓きによって壊されると分析した後、救い主の復活の出来事が弟子各々の交わりを新たに創造するとのメッセージを語る。けれども今日の箇所では復活の出来事はペトロには隠されたままである。ペトロが語るには「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」。他の者はさておき、わたしだけは違うという思い込み。主イエスを目の前にしながら、なおも神を見ない者の態度が記される。それはあくまで他者との比較にもとづいた自己主張以上のものではなく、ひるがえって隣人を貶める。ペトロはこの問題に気づいていない。
 わたしたちは、ときに教会の奉仕に臨んでも、われ先にと先陣を争う場合がある。奉仕のわざが先陣争いのもと、激しく他者に自己承認を迫るところで終わるならば、それはやがて教会に疲れをもたらし、交わりの解体につながってしまう。初代教会の指導者でもあったペトロに、物語の書き手がこのような問題のある言葉を語らせている背景には、そもそも教会の交わりや奉仕というものが、まず相手あってのわざであることに鈍感な態度があったのかもしれない。『コリントの信徒の手紙Ⅰ』1章で、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」といった争いが起こり、その現状を前にしてパウロが「勝手なことを言わず、仲たがいをせず、心を一つにし思いを一つにし、固く結びあいなさい」と「主イエス・キリストの名によって」強く勧める箇所がある。全てのわざに先んじて求められるべきは「主イエス・キリストの名によって」「心を一つに思いを一つにし、固く結び合い」、隣人愛を祈りのもとに行うことにある。けれどもペトロはあまりにも頑固だ。これでは諸事情により奉仕のできない身に置かれた人々は、教会から一人また一人と去っていくことだろう。ペトロの頑なさはキリストが「あなたは今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしを知らないと言うだろう」と諫めても決して砕かれることはない。
 主イエスとの世の訣別を前にした晩餐の席でさえ、言い争って止まない弟子の頑なさ。この頑固さが砕かれる決定的な契機は、イエス・キリストのいのちが十字架で絶たれる出来事より他にはなかった。けれどもそれは同時に永遠のいのちにいたる道が示され、開かれることでもあった。パウロは『ローマの信徒の手紙』11章2節で旧約聖書のエリヤ物語を引用しつつ語る。経済の発展ばかりに心を奪われ、神の言葉を蔑ろにし、神を無視した繁栄と権力を求め続けたアハブ王。この王に追いつめられ、いのちを狙われた預言者エリヤには、弱者に寄り添うアブラハムの神との関わりを重んじた七千人の民の姿は隠されたままだった。十字架で息絶えたキリストが、葬りの後に復活するという出来事も今朝の箇所では隠されたままだ。しかしその出来事を讃える歌が今日の箇所にはかすかに響く。主の晩餐の後、「一同は讃美の歌を歌った」と記されている。この讃美に包まれながら、わたしたちは相手が今何を求めているのか、祈りの中で待ちながら聴く力を与えられる。早さや要領といった効率ばかりが求められる現代では、待つ姿勢は時に勇気の要るあり方だ。しかしその中でわたしたちは隠された時を見極め、神の国の訪れを待つ。時の流れに介入する永遠のいのちの主なるイエス・キリストを見つめ、祈りに包まれた奉仕のよりどころを確かめたい。



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2018年9月16日日曜日

2018年9月16日(日) 説教「先立って道を整えるイエス・キリスト」 稲山聖修牧師

2018年9月16日 長寿感謝の日礼拝
「先立って道を整えるイエス・キリスト」
マルコによる福音書14章12節~16節

稲山聖修牧師
  イエス・キリストが何かを備えよと弟子に語る時。それは某かの仕方でイエス・キリストの受難の歩みを暗示する。都エルサレムに入城される場合には「誰も乗ったことのないこどものロバ」を備えるようにと弟子に命じる。メシアはローマ帝国を力で打ち負かすような王の姿を身に纏うのではないという無言のメッセージ。苦役を担うこどものロバがむしろメシアにはふさわしい。小さなロバもまた弟子たちの知らないところで備えられた。弟子にそのわけは隠されたままで。
 今朝の箇所ではいわゆる「主の晩餐」の整えが記される。弟子には、まさか主イエスから「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」と聞くとは予想だにしなかった。晩餐を囲む過越の祭がエジプト脱出の祝いであることは弟子の群れも知っている。しかしその席で代わるがわる「まさかわたしではないでしょう」と言い始めることになるとは。弟子の交わりは、主イエスを囲む過越の祝いの席で疑心暗鬼に襲われ、バラバラにされるという痛ましい事態を迎える。「まさかわたしではないでしょう」、逆にいえば「誰かが主イエスを裏切ろうとしている」という告発のもと、信頼が猜疑の念に呑まれるという、無残な場面への前奏曲が静かに響く。
しかし、である。この交わりの解体という、現代人のあり方にも重なる事態に、もしイエス・キリストの道備えが隠されているならば、わたしたちは何とするのか。一般には隠されているが、わたしたちには備えがあるとの物語が始まる。「除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、『過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意をいたしましょうか』と言った。そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。『都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。<先生が、弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか、と言っています>。すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい』。弟子たちが都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した」。確かに弟子にはまさか互いに「別の者が主イエスを裏切ろうとしている」言い争うとは夢にも思わなかった。これにはわたしたちも、深い悲しみに満ちた破れとして嘆かずにはおれない。人は齢を重ねるほどに、このような悲しみもまた日常の事柄だと受けとめずにはおれない。けれどもその道もまた、キリストの道備えによるものであったと理解するのならば、実はイエス・キリストには、弟子の裏切りは想定内であったばかりか、裏切りを凌ぐいのちの光をもって、新しい信頼関係を再び構築してくださるという確信を授かる。イエス・キリストの十字架の出来事によって、弟子は万能感や誇らしげな思いを砕かれ、その浅はかさから解放される。弟子の絆の解体という悲しみを吹き飛ばす十字架での出来事、そしてバラバラになった弟子を再び集める、葬りを貫いた復活の出来事。パウロが『ローマの信徒の手紙』10章21節で「わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた、と言っています」と語るとおり、弟子に先立って道を整えるイエス・キリストのわざは、十字架を前に絶望せずにはおれなかった民をやわらかく、あたたかく包み込む。どれだけ齢を重ねたかというデータより、主イエスの愛に包まれる喜びを経てきた証しを言祝ぎたい。長寿感謝の礼拝を迎えた。手に刻まれた皺は、数値でははかれないキリストの愛に支えられて歩んできたしるしである。そのしるしの示す喜びを、わたしたちもともにしたい。


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2018年9月9日日曜日

2018年9月9日(日) 説教「語る者と聴く者の信頼あふれる交わり」 稲山聖修牧師

2018年9月9日
説教「語る者と聴く者の信頼あふれる交わり」
マルコによる福音書14章3節~9節
稲山聖修牧師


 「イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席についておられたとき、一人の女性が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた」。この箇所からすると、この女性はさぞや裕福な階層に属しているように思い込みがちだ。けれども福音書の書き手はこの女性の出身には関心を抱かない。女性が富裕層に属するのか、それとも果たして女性の奴隷であり、たまたま主人の言いつけで買い求めた品を主イエスに献げたのかは分からない。しかしこの女性に何らかのわけがあり、主イエスのもとを訪ねていたのは疑いがない。なぜならば舞台は「重い皮膚病の人シモン」の家だからだ。
 かつての聖書では「重い皮膚病」は「らい病」として訳されていた。議論はあろうが、あらゆる交わりから絶たれてなお、福音書のイエス・キリストの癒しの物語に、実際に「らい病」であるハンセン病に罹患した方々が深く感銘を受けて光を見出した事実は色褪せない。家族からも「初めから存在しなかった人」として交わりを絶たれていたシモン。この場でなぜ女性がイエス・キリストを訪ねたのだろう。イエス・キリストとの交わりはシモンとの交わりを包む。単なる気まぐれや興味本位だけでは、この交わりに加わるにはあまりにも生活に抱え込むリスクが大きい。世にある交わりを捨てる覚悟でこの女性は主イエスを訪ねた。尋常でない決意と勇気がその態度にはある。
  しかし、である。その場にいた人々は、女性のわざを讃えるどころか、こぞって憤慨し、非難し始める。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は300デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに」。日当にあたる1デナリオンを8,000円換算すると香油の見積もりは240万円にはなる。興味深いのは、シモンの家に集っていた者の中には、当時の香油相場でのナルドの香油の価格を知っている者がいたことだ。そう考えれば、咎め立ては香油そのものの値打ちを評価しているように思えるが、実際は大問題を抱えている。
 それは、香油の値打ちを値踏みしてはいても、イエス・キリストとそれまで排除の苦しみにあったシモンとの出会いと交わり、そしてキリスト御自身の苦難の歩みを心に刻むわざには無関心な態度だ。香油を注いだ女性の想定外のわざは、救い主が十字架にかけられるという、これもまた当時としてはメシアの想定外の歩みと深くつながるしるしになっている。「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときによいことをしてやれる」。この役目は香油を注いだ女性にではなく、そのわざに憤慨するその場に居合わせた人々に向けられる。もちろん、弟子達もそこにいる。女性の振る舞いを激しく咎め立てをする以上、貧しい人への支援は「あなたがた」に託された当然の役目となる。これはイエス・キリストの事実上の命令だ。

 初代教会の人々でさえ、教会が立ちもし倒れもする軸が何なのか、そしてどこに根を降ろすべきなのかを、香油の金額に象徴される事柄に囚われて見失うこともあった。『ローマの信徒への手紙』10章17節でパウロは「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まります」と語る。まことの信頼は、御言葉にしっかりと根を下ろした交わりから始まる。その礎は教会にあっては端的に「礼拝」となる。生きるほろ苦さはイエス・キリストを道とする神との出会いへとつながる。繰り返しその源を確かめながらいのちの喜びを一層深く噛みしめるわざ。たとえこの世の嵐、暮しの嵐の只中にあったとしても、なおもわたしたちは、あのシモンの家にあふれた、キリストの香り、ナルドの香油の香りを身にまとって、暮しの場へと遣わされるのである。

説教要旨中に掲載した植物の写真は、
教会がある「こひつじ保育園」で撮影したものです。

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2018年9月2日日曜日

2018年9月2日(日) 説教「献げて授かるわざに導かれて」 稲山聖修牧師

2018年9月2日
「献げて授かるわざに導かれて」
ローマの信徒への手紙10章14~15節
マルコによる福音書12章38節~54節
稲山聖修牧師


本日の聖書の箇所で、イエス・キリストが群衆に語る言葉としては、まずは次のようなものがある。「律法学者に気をつけなさい」。よくよく考えると不思議な言葉だ。なぜならば、律法学者とはその時代の名のある人々からは広く尊敬を集めていたからだ。なぜ主イエスはかように語ったのか。博識な学者たちに欠けがあるのだとすれば、誰のために学んでいるのかという使命感だったのかもしれない。使命感を忘れた学識は、いきおい権力欲や名誉欲と深く結びつく。イエスの分析は律法学者が置かれた経済状況にまで及ぶ。「やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする」。貧しい寡婦から献げられた糧に感謝もせず、その痛みに寄り添おうともしないという鋭い指摘。人々はこの教えにより、律法学者を個人崇拝のように敬う態度から、アブラハムの神そのものへと頭(こうべ)をあげる信仰へと導かれたのではなかったか。
この箇所の後にイエス・キリストが示すのは、今度は律法学者に食い物にされていたはずの「やもめ」だ。その姿は大勢の経済的に満たされた人々とは対照的に描かれる。神殿に寄進する富裕層の中、ひとり献げものをするやもめ。「ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨2枚、すなわち1クァドランスを入れた」と記される。1クァドランスは125円ほどの金額だ。なぜ主イエスはこの女性に注目するのか。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余っているものの中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである」。すなわち、額としては僅かであるにも拘らず、やもめは財産だけではなく、自分の暮らしを全てアブラハムの神に献げたのだというところに、主イエスの言葉の鋭さがある。支払ったのでも、納めたのでもなく、献げたのである。どのような動機があったのか。どのような負い目がやもめにそうさせたのか。その理由はだれにも分からない。あくまでもやもめだけが知る秘密である。けれどもそのわざにより,貧困層のやもめは、主なる神との関わりの中で自らのいのちを受け取り直したのだ。そのことを主イエスは見逃さなかった。
『マタイによる福音書』の16章26節に記された主イエスの教えには「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」とある。「手に入れる」ということと「授かる」ということは、似ているようで実は全く異なる。「手に入れる」ことは自分のものにすることだが、「授かる」とは贈ってくださった相手との畏敬に満ちた関係が鮮やかに映し出されているからだ。何よりも大切なのはこの命綱なのだと、イエス・キリストは語る。「信じたことのない方を、どうして呼び求められよう」とパウロは語る。この命綱に目覚めたとき、人はあらゆる欠けや破れや思い遺しを抱きながらも、その破れもまた授かりものとして受けとめることができるようになる。イエス・キリストが十字架の上でわたしたちの受けるべき審判を受けてくださったからこそ、そして復活のいのちの力の中へと巻き込んでくださったからこそ、わたしたちは神の国の何たるかをおぼろげながらに、キリストの復活を通して、そして神の愛の力である聖霊の働きにより確かめられる。その交わりをどのように育んでいくのかが、今、問われている課題でもある。主なる神に献げて授かるわざに導かれて、わたしたちも全てをキリストに委ね、新しい道を授かる者でありたい。


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2018年8月26日日曜日

2018年8月26日(日) 説教「和解の道にいのちの光あふれて」 稲山聖修牧師

2018年8月26日
「和解の道にいのちの光あふれて」
ローマの信徒への手紙10章10~13節
マルコによる福音書12章28節~34節

稲山聖修牧師
エルサレム入城後の、とある律法学者とイエス・キリストとの対話。そこには論争や主イエスの揚げ足取りの雰囲気を微塵も感じない。サドカイ派との論争を聞いた律法学者がイエスの前に立つ。「彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。『あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか』」。「立派にお答えになったのを見て」。これは充分かつ明瞭な答えを聞いたということだ。サドカイ派に反しファリサイ派の律法学者は死人の復活の教えを尊んだ。律法学者の問いかけにイエス・キリストは答える。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である』」。「イスラエルよ、聞け」。ヘブライ語では「シェマー・イスラエル!」。イスラエルの預言者、そしてアブラハムの神の呼びかけが響く。この言葉は、ユダヤ教の民が現在にいたるまで、時と場所を問わず用いてきた言葉だ。そして主イエスが用いるのは『申命記』6章4〜5節。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」。続いて「第二の掟はこれである。『隣人を自分のように愛しなさい』」。これは『レビ記』19章17‐18節。万一わたしたちがこの言葉を軽んじるなら教会はどうなるというのか。おそらく世と時代状況におもねるばかりのあり方しか残らないだろう。要は人を相対化できないあり方しか、教会には残されてはいないこととなる。
 それでは「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉を真摯に受けとめるならば、教会はどうなるのか。隣人を自分のように愛するわざとは、交わりにおける他者への奉仕という具体的なわざも含む。しかし一歩踏み込むと、どのような出来事があったとしてもお互いに相手への恨みつらみを遺さないという態度も伴うのである。仮にどれほど激しい言葉が交わされたとしても、その日が終われば「ノーサイド」。試合を終えたラグビーの選手がそうするように、激しさを翌日には持ち込まない。そのような態度もまた、隣人を愛するわざに入るだろう。それはやがて和解の道へとつながり、わが身を顧みての悔い改めの展望として広がっていく。
「あなたの神である主を愛しなさい」。「隣人を自分のように愛しなさい」。この教えを前にして、律法学者はどのように応えたのか。「律法学者はイエスに言った。『先生、おっしゃる通りです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは本当です。そして、『心を尽くして、知恵を尽くして、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げものやいけにえよりも優れています』」。律法学者はなぜこのように応えることができたのか。『詩編』51編には「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」とある。ユダヤ教の礼拝堂であるシナゴーグで用いられる交読文としても詩編は用いられていた。律法学者はこのように主イエスを讃えたのだった。
この祝福に満ちた関わりをもたらすため、イエス・キリストは和解の主として数多の対立の只中に立ち、わたしたちの交わりに連なるそれぞれの暮らしの中にも立つ。それはキリストの受難と復活、そして続くパウロのわざを包む神の愛の力である聖霊の力により明らかとなる。パウロの語る「すべての人」にはユダヤ人、ギリシア人に留まることのない、底知れない福音のスケールがある。その大きさと深さは、暮らしをキリストに根を下ろすことによってのみ知らされる。わたしたちも、そのようないのちの光にのみこまれているのだ。この確信を大切にし、日毎に養っていきたい。


2018年8月19日日曜日

2018年8月19日(日) 説教「神の平和は時にかなった実を結ぶ」稲山聖修牧師

2018年8月19日
「神の平和は時にかなった実を結ぶ」
ローマの信徒への手紙10章5~8節
マルコによる福音書12章1節~12節

稲山聖修牧師

「ぶどうの木」は聖書の中では様々なたとえに用いられる。それは神の恵みにあふれた果実であるとともに、神との絆を絶たれた人々には欲望の対象ともなった。それは『列王記』21章にある「ナボトのぶどう畑」の箇所にもあるように、旧約聖書では実に多く描かれる。福音書の書き手は、このような物語を決して軽んじることなく、しっかりとイエス・キリストの教えと関連づける。

 「イエスは、たとえで彼らに話し始められた。『ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を得るために、僕を農夫たちのもとに送った』」。主イエスの語ったぶどう園のオーナーのたとえ話。この主人、ぶどう園を開拓する上では実に緻密にプランを築く。
 しかしながらこの主人は、ぶどう園を貸し与えた農夫たちに対して過剰な信頼を寄せているように見える。人事の面ではあまりにも無防備で、ぶどう園の個々の働きだけでなく、運営権まで農夫に委ね旅に出てしまう。その後を辿ると、主人不在の所での農夫たちの貪欲さが細かく描かれる。「収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫のところに送った」。第一の僕は捕まえられて袋叩きにされ、何も持たせられないで帰される。第二の僕は顔を殴られ侮辱される。第三の僕は殺害され、四度目には多くの僕たちを送ったが、殴られたり、殺害される。
しかしこのわきの甘いぶどう畑の主人を父なる神のたとえとして重ねると、この甘さが全く異なる意味合いを帯びる。飢えた獣のような農夫たちに対してさえ、一たび畑を委ねたならば何があっても前言を撤回しない強靭な意志。しかし農夫には、その堅忍不抜の意志の示すところが分からない。「まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った」。手塩にかけて育てた息子をあえて、農夫に遣わすのは、主人としては想像を絶する覚悟がある。農夫はどのように応じたか。「『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外に放り出してしまった」。イザヤ書2章4節には「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」と農夫を平和の象徴として用いるが、イエス・キリストはこの平和の象徴であるはずの「農夫」でさえ、ぶどう園の主人、ぶどう園のオーナーに重ねられた主なる神との関わりを見失うとするならば、暴力に及ぶ狂気を潜めているという解き証しを経て、祭司長や律法学者、長老たちに迫る。
「さて、ぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻ってきて農夫を殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない」。要となるのは、ぶどう園を「ほかの人たちに与える」という一節だ。「ほかの人たち」とは、権力者から退けられていた「その他大勢の人々」に他ならない。時代の捨て石扱いされた人々が、家を建てるにあたって不可欠な土台として用いられる。その頭となるのがイエス・キリストであることに、黙して心に刻むべきである。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」と語るパウロ。キリストと出会い、神との関わりに目覚めたところの、捨て石扱いされた方々の只中にいますキリストに牽引されてきたのが73年間の教会のあゆみ。時に適った実を結ぶ神の平和。わたしたちはそのバトンを渡されている。憂いや嘆きからは何も出てこない。イチジクのような豊かな実りであれ、からし種のような実りであれ、将来は開かれているのだ。神の国を先取る平和は、シャーロームとしてわたしたちに迫るのだ。

2018年8月12日日曜日

2018年8月12日(日) 説教「沈黙しない者の声に宿る神の力」稲山聖修牧師

2018年8月12日
ローマの信徒への手紙10章1~4節
マルコによる福音書10章46節~52節
「沈黙しない者の声に宿る神の力」 

説教:稲山聖修牧師

 身悶えするような苦しみからの叫びに蓋をする。その残酷な振る舞いは、まずは創世記のカインとアベルの物語に示される。アベルは遊牧・牧畜という、家畜の食糧を求めて絶えず移動生活を強いられる人々を象徴すると言われる。それに較べると、カインは地を耕す文明を代表しているとも考えられる。地を耕す文明は収穫物を蓄え富と繁栄を築ける。しかしアベルの場合にはそうはいかない。創世記が伝えようとする神は、虐げられた、弱い者とともにいる神である。そして自覚のない高慢な者をお喜びにはならない方でもある。だからこそ神はアベルの献げものに目を留めるものの、カインの献げものを顧みない。カインは自覚なき高慢な者ゆえにその理由が分からず激しく怒った挙げ句、アベルを殺害するにいたる。アベルの殺害後、神の問いかけにカインは答える。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」。問いかけた神に対して「知るか」と口答えをしているカインは、神の言葉に耳を傾けようとはしない人のありかたを示すようだ。神はこの口答えを受けて答える。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる」。どれほど隠蔽しようとしたところで、土の中から叫ぶ声があるのだと創世記の物語は迫る。
 今朝の福音書の箇所では、バルティマイという盲人の物乞いが描かれる。バルティマイの説明としては、ティマイの息子とあるだけだ。この説明が示すのは『マルコによる福音書』の書き手は、物語の聴き手や読み手を異邦人に絞り込んでいることが考えられる。盲人の物乞いに誰が目をかけ、注意を払うというのか。しかしバルティマイは、イエス・キリストが近づくと知るや、突如物乞いとしての希望を失ったあり方から一転して叫び始める。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」。「憐れむ」という言葉は、わたしたちが普段口にする相手への同情という意味合いを超えている。それは苦しみを分かち合う姿勢を求める叫びであった。一体誰がこの叫びに耳を傾けたというのか。「多くの人々が叱りつけて黙らせようとした」。時に暴力をも辞さず、口を塞ごうとした可能性すら考えられるだろう。けれどもバルティマイは黙らない。あらゆる妨げにも屈することなくキリストとの関わりを求める。主はこの叫びを聞き給うた。「あの男性を呼んできなさい」。喜びに満たされた物乞いは主イエスと語り合う。「何をしてほしいのか」。バルティマイは答える。「先生、目が見えるようになりたいのです」。物乞いは見えるようになり道を進まれるイエスに従った。
 それではバルティマイは何を見るというのか。その目に映るのは、イエス・キリストの受難の歩みだ。バルティマイが求めた憐れみとは、十字架の苦しみにまでいたるキリストの共苦にある。しかしキリストの苦しみは十字架での死によって終わるのではない。復活といういのちの勝利がバルティマイに迫る。「兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています」。パウロは自らのためには祈ろうとはしない。自分の義しさを求め、支配欲や権力欲の虜となった人々の救いのために神に叫ぶことを躊躇しない。御子を世に遣わした主なる神は、悲しみの中で沈黙できない声を軽んじることはない。主イエスが身代わりになって語ってくださるその声には、神自らの力が宿る。それは聖霊の力である。神の前に祈りを断念する態度は、聖書には記されてはいない。わたしたちは、神の愛の力によって背中を押されている。土の中からの叫びが、神の言葉として響くとき、神なき権力と繁栄を求める者はその力を失う。主の平和をともにしよう。