2017年9月17日日曜日

2017年9月17日「神の忍耐がもたらした恵みと知恵」稲山聖修牧師

聖書箇所:ローマの信徒への手紙3章21~26節、創世記21章9~18節

 本日の旧約聖書の箇所では、アブラハムが神から授けられた知恵によってどのように道を開き、そして神自らがハガルの前途に橋を架けたかを知る箇所。サラがイサクを授かったことにより、ハガルとイシュマエルの立場は脅かされる。イシュマエルとイサクとの無邪気な遊びでさえサラには悩みの種だ。ささいなこどものやりとりでさえ、サラには族長継承の問題を左右する出来事に映る。「あの女とあの子を追い出せ。あの女の息子は、私の子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではない」。ハガルをアブラハムに与えたのにも関わらず、正妻サラのエゴが剝き出しになる。問題はもはや話し合いで解決する域を超えていた。苦しみ悩むアブラハムは神から「すべてサラが言うことに聞き従いなさい」との言葉を授かる。アブラハムは自ら担う苦しみ悩みや思い煩いを全て神に委ねる。 この委ねにより、アブラハムはハガルやイシュマエルを手にかけるという、最悪の状況を避けることができた。「生きるに値しないいのち」などどこにもない。
その結果、ハガルはベエル・シェバの荒れ野をさまよい、皮袋の水がなくなると、彼女はこどもを一本の灌木の下に寝かせ「わたしは死ぬのを見るのは忍びない」と矢の届くほど離れ、弱り果てたイシュマエルを向いて座り、声を上げて泣く。この無力さの中で神の御使いはハガルに呼びかける。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕しっかり抱きしめてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする」。またもや「神は聞いた」というイシュマエルの名前の真意が再び確かめられ、アブラハムから出た人々としてその名が刻まれる。この物語をパウロもまたその父と母から繰り返し聴き、その中でイエス・キリストが救い主であるとの確信を得た。
 今朝の新約聖書では「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者に立証されて、神の義が示されました」とある。パウロのいう「律法」とは、613にわたるユダヤ教の誡めではなくて、かつてモーセ五書と呼ばれた、旧約聖書の最初の文書である『創世記』『出エジプト記』『レビ記』『申命記』『民数記』の五冊を示す。ユダヤ教で言う『トーラー』だ。この中には勿論ハガルとイシュマエルの物語も収められる。続く「預言者」も個々の預言者を指すのではなく、この預言者の物語を収めた『ネビイーム』を示す。つまり『トーラー』と『ネビイーム』という、パウロの時代の聖書が示されているのである。アブラハムの時代には勿論、このような書物は一切ない。『トーラー』『ネビイーム』の文言の頑なな墨守は救いの前提にはならない。けれども『トーラー』と『ネビイーム』が証しする通り、神の義が示されたのである。それは「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義」である。
 高度経済成長期には深い闇も伴っていた事実を私たちは知っている。障がい者への風当たりは今よりも厳しく、孤児院に暮らすこどもたちへの社会の目は冷たかった。ショービジネスの世界に活路を見出した人々の中には、日本国籍を持たない人もいた。父母の国籍が異なる家のこどもは「合いの子」と蔑まれもした。そのなかで行政に先んじてさまざまな福祉分野や教育の場を設け、世にある垣根を突破する交わりを育み、その受け皿となったのは教会だった。本日は長寿感謝の日礼拝。齢80歳を数える兄弟姉妹のあゆみを通して証しされた神の恵みに感謝する日。激動の世にある教会の開拓期に携わったのが長寿を迎えられた兄弟姉妹である。私たちはこの事実を感謝の念とともに神の御前に立ちつつ、深く心に刻むのである。

2017年9月10日日曜日

2017年9月10日「役に立たない者だからこそ神の恵みの器となる」稲山聖修牧師

聖書箇所:ローマの信徒への手紙3章9~22節、創世記21章1~8節

「津久井やまゆり園」で19人の知的障がいとの特性をもつ方々が殺害され、26人が重軽傷を受けた事件から一年余り。容疑者が同年2月、衆議院議長に犯行予告をしたのにも拘わらず政府は「やまゆり園」の警護を怠った。政治家に対する殺害予告とは異なる判断基準が機能したと考えずにはおれない。無自覚の全体主義。選別と排除。20世紀の負の歴史でもあるナチズムの特質は極端な成果主義にある。福祉政策が経済政策の邪魔になると見たナチは、障がい者の例外のない安楽死政策を打出すことで多くの国民の支持を得た。「生きるに値しないいのち」を人が定める恐ろしさと、神への冒涜がある。
本日の旧約聖書ではアブラハムの伴侶サラにいのちが授かり、わが子に「イサク(笑い)」と名づける場面が描かれる。族長物語の中でも喜び溢れる場面ではあるが、私たちはサラが不妊であるがゆえに味わった惨めさを忘れられない。子宝に恵まれるという神の祝福が人の世の成果主義と混同されているとの見方も可能だ。族長物語の世界にあっても「役立つかどうか」との世の尺度の問題は克服されていないのではないか。
一方福音書では、主イエスがこの荒んだ尺度を軽々と飛び越える場面が窺える。例えば『マルコによる福音書』の5章に記された、長血を患う女性。12年間出血が止まらず、多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても具合は悪くなる一方。とても子を授かるような身体ではない。彼女は社会から切り離され、治療の名のもとに搾取の対象にすらなり、経済的に追い詰められる状態が日常化している。この名もない女性が福音書で描かれる理由には、この苦しみの中でこそ味わえなかったイエス・キリストとの出会いと慰めが語り継がれなければならないという福音書記者と教会の決断があった。イエス・キリストとの関わりを軸にすることで、生き方の多様性が、ギスギスした功利主義から解放されて神さまからの恵みの器として受け入れられる。その根拠を人間の願望ではなく、神と人との救いの約束だからと聖書は書き記す。
パウロは『ローマの信徒への手紙』で「では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか」と読者に問い、そして答える。「全くありません」。なぜなら、「ユダヤ人もギリシア人もみな、罪の下にあるから」。「罪」を意味するギリシア語「ハマルティア」には、人は誰かの助けなしには必ず的外れなわざ、的外れな態度、的外れな理解に及ぶという幅の広さがある。自分の判断には狂いはないという一念は時として深く心を傷つける。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない」。パウロは自分も含めて記す。そしてこの道筋を貫いて、パウロはユダヤ教徒とそれ以外の者である異邦人の垣根を取り払う。歪んだ選民思想はそこにはない。
聖書の言葉を問い訪ねていく中で、私たちは「役立つかどうか」という尺度だけで人を見るその愚かさに気づかされる。また「役立つかどうか」との考えで傷つけられた人が、実は神の栄光を現わしていたことに深く頭を下げざるを得ない。己の痛みを誰よりも知る者を、主イエス・キリストは涙と微笑みをもって癒し給う。だからこそ私たちは、キリストが教会の頭であり交わりの基であると確信する。かくして世が荒むほどに、教会に連なる交わりは世の光として輝きを増すのである。

2017年9月3日日曜日

2017年9月3日「はかりごとを打ち砕く神の恵み」稲山聖修牧師

聖書箇所:ローマの信徒への手紙3章1~8節、創世記19章36~38節
 
非常事態に事柄の真価が問われる。ロトはそのソドムへの神の審判を前にしてツォアル(小さい)との名の町に急ぐ中、ロトの伴侶は後ろを振り向く。神の避難指示を冗談であると聞き流した婿たちも硫黄の火に包まれた。この非常事態の中でツォアルに入らず洞窟に暮らすこととなったロトとその娘は、心に深手を負っただろう。そのさまは30節~35節に記される愚かな、まことに愚かな振る舞いとして露わにされる。その結果、二人の娘にはモアブとアンモンというこどもを授かる。イスラエルの誡めが適応されるなら間違いなく石打刑だ。確かにアンモンは、この後、ダビデ王の時代にいたるまでイスラエルの民を苛む異邦人となる。モアブ人はアンモン同様イスラエルを苛みながらも、やがてダビデの祖先ルツに繋がる系譜に数えられ、主イエスの父ヨセフまでの流れに立つ子として覚えられていく。大人がどれほど堕落しようと、授かる子どもには決して罪はない。子どもたちには罪はない。もし人の思い、すなわち「はかりごと」によって救い主の訪れが実現するならば、この子たちはイスラエルの歴史から排除されていたに相違ない。キリストなしに救いがないのは、他ならないイスラエルの民であり、アブラハムの一族もまた例外ではない。
 この記事を前提しながら「ユダヤ人の優れた点は何か」「割礼の利益とは何か」と問いかけつつパウロは語る。第一に、ユダヤ人は神の言葉を委ねられたという事実がある。次に彼らの中で不実な者がいても神の誠実さは無にされない。ソドムの街にアブラハムの神は救いの言葉を投げかけ続けた。「人は全て偽りもの」でありながらも「神は真実である」。だからこそ神の真実は人の偽りに勝り、時に神の恵みは人の目には怒りと映る場合もある。だからこそ「善が生じるために悪をしよう」との考えを罰せられないはずがないとパウロは語る。
「善が生じるために悪をしよう」との言葉は、現代の私たちの心の中にも深く入り込んでいる。例えば「必要悪」との言葉。何かを犠牲にして生き残った者が思考を停止する言い訳によく用いられる。あるいは「目的は手段を正当化する」との言葉。かつては暴力革命を正当化するため、今は医療や福祉、東日本・九州・北海道の被災地を無視した経済発展を正当化するために用いられる。
私たちは目的と手段を転倒させてはならない。神の恵みを輝かせるためには、誰一人犠牲にされてはならない。パウロは『ローマの信徒への手紙』12章1節~2節で語る。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の身体を神に喜ばれる聖なるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」。注目すべきは続く2節での言葉「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が良いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」である。
もし東日本大震災の直後、全国の諸教会が「この世に倣い」、ロトのようにためらっていたとしたら、教会も保育園も保護者もこどもたちも取り返しのつかない、深い傷を負っただろう。地震・津波・水害・原発事故。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません」。この言葉を私たちは9月を始めるにあたり噛みしめていきたいと切に願う。世にはびこる人の「はかりごと」を打ち砕かれるために、自らを十字架で犠牲にされた主イエス・キリストは、自らの栄光を世に現す。その時を待ち望みながら新しい月に歩みを踏み出そう。

2017年8月20日日曜日

2017年8月20日「いのちをわけへだてしない神」稲山聖修牧師

聖書箇所:創世記39章1~6節、ローマの信徒への手紙2章17~29節

 創世記のヨセフ物語で、ヨセフは父ヤコブの寵愛を受けながら、その愛情と天賦の才としての夢の解き明かしの力が却って仇となり、兄たちに妬まれエジプトに奴隷として売られる。そしてファラオの侍従長でポティファルに買い取られる。この物語の面白さは、丸腰の奴隷としてエジプトに売られたヨセフには常に神がともにいたところ。それだけではなく、主がヨセフのなす全てをうまく計られるのを見た主人は、ヨセフに目をかけて身近に仕えさせ、家の管理やすべての財産をヨセフに任せた、との記事である。現在では非常識だが、ヨセフに対する猜疑心なしにポティファルは「任せてしまった」。主はヨセフのゆえにそのエジプト人の家を祝福され、主人は全財産をヨセフの手に委ねてしまい、自分が食べるもの以外は全く気を遣わなかった。注目すべきはポティファルがエジプト人でありアブラハムの神を知らない点。その中でヨセフは全面的に信頼され、アブラハムの神から祝福を授かる。誰が奴隷の主人を祝福しているのかは神の秘義として隠されている。この箇所では、アブラハムの神の祝福が単にイスラエルの一族だけに限定されるのではなくて、ヨセフの主人にも及ぶところにそのスケールが窺える。礼拝後に各々遣わされた場で、私たちは空気を読むのに汲々とする。KY(クウキヲヨメナイ)と呼ばれるのを恐れる。しかしその態度は聖書のメッセージからは遠く離れていると言える。礼拝に連なる私たちは「空気」という名の同調圧力を恐れるのではなくて、神の力を信頼し神の息の窓となるのが筋であり新たな空気を作る役目を担っている。ヨセフはそのよき模範ではないだろうか。
 ところで使徒パウロが『ローマの信徒への手紙』で語るメッセージには「ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています」とある。族長の世界では誡めとしての律法はないが、その物語の納められた書物は「トーラー(律法)」として重きをなす。「律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています」と記す言葉には、その時代のユダヤ教徒あるいはユダヤ教の影響を強く受けているキリスト者が、実はヨセフのように丸腰にはなれなかったと指摘される。パウロは語る。「あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。『盗むな』と説きながら、盗むのですか。『姦淫するな』と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている」。
確かに律法が自己弁護や自己正当化のために用いられるならば、神の救いへの道筋を示すどころか、正反対の結果を招く。聖書の言葉に救われて、人生の新しいライフステージに導かれる人もいれば、聖書を利用して無辜の民を殺める為政者もいるのは今も変わらない。さらには今朝の『ローマの信徒への手紙』の箇所と族長物語の接点は「割礼」にも及ぶ。割礼は族長物語の中でも重視されていた、神との契約のしるしである。しかしパウロの言葉は衝撃的だ。ユダヤ教徒ではないまま、イエス・キリストに示された神の愛を実践する無割礼の者が、割礼を受けながらも律法に従わない者に勝ると語るからだ。イエス・キリストは、いのちを分け隔てて優劣を問うことはなかった。それはヨセフ物語にあってすでに示されていた。あなたは聖書を読んでいるかとパウロは問うのだ。

2017年8月13日日曜日

2017年8月13日「キリストが 私たちを解放される日」稲山聖修牧師

聖書箇所:創世記19章12~17節、ローマの信徒への手紙2章11~16節
 「分割して統治せよ」の原則は古代ローマ帝国が定式化したと言われる。ポツダム宣言受諾後も人々の生活は極貧と凄惨を極めたが、厚生省の記録は二年後から始まる。但しこの二年間は戦後世界が最も安定していたとされ、その後は世界の国々で緊張が高まる。核を手にした大国は小さな国に代理戦争をさせ対立の中に安定を見出そうとする。恐怖の対立構造の中で人々は委縮し身動きが取れなくなる。その手法は、今なお私たちを委縮させるに充分な力を振るう。
 アブラムのとりなしにも拘わらず滅ぼされる都市国家ソドム。その街にいるただ一人の正しい人としてアブラムの甥ロトがいた。創世記が興味深いのは、神は裁きのわざの前に、必ず兆しを備えるところ。その徴の声に耳を傾けられるかどうかが救いの鍵となる。ロトはその兆しを知るが、危機を前にして家族を一致させられない。ロトの働きかけを婿たちは「冗談」と一蹴する。聞きたい知らせにしか耳を傾けない家族。迫りくる危機を前にして解体される家族の姿。「ロトはためらっていた」。ロトのこの孤独を「主は憐れむ」。裁きを降すはずの神がロトの苦しみを分かち合う中、家族の絆が新たにされる。
 今朝の箇所でパウロは「神は人を分け隔てなさいません」と記す。これは分断統治を掲げたローマ帝国の方針とは異質の在り方だ。パウロは一般論からではなく、聖書の解き明かしを通して語る。「律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです」。ユダヤ教の影響を色濃く受けたキリスト者、あるいはユダヤ教徒の同胞に呼びかける。「たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくても、自分自身が律法なのだ」。つまり、神からの救いの道筋を備えられているという帰結になる。ロトの場合、「主は言われた。『命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはならない。低地のどこにもとどまるな。山へ逃げなさい。さもないと、滅びることになる』」となる。神はアブラムのとりなしを聞き届けたのにも拘わらず、街の人々は救いの言葉に耳を貸さなかった。残ったのは御使いに手を引かれたロトとその伴侶、二人の娘だけ。ここに聖書の解き明かしに基づいたソドム滅亡の理由が暗示される。ロトは神の命令を漠然と聞いていたのではなく、真正面から向き合い絶望する中で砕かれた後、神の憐れみにより救い出される。ユダヤ人も異邦人にも当てはまる姿。
 「神は人々の隠れた事柄を、キリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかにする」とパウロは記す。ソドムの滅亡の物語で主の御使いはロトに「山に逃れなさい」と伝えた。私たちも時折意に反して人生の危機に立たされ、数多の山を迎える。そのような山の上には何があるのか。
 『マタイによる福音書』5章では、山の上でイエス・キリストが山上の垂訓・山上の説教を語る。この教えではなぜ「幸い」との言葉が伴うのか。それはイエス・キリストを中心にした交わりには、常に新たにされる、破れのない天地の創造主の希望が据えられているからだ。聖書にある解放とは、神との絆の断絶ではなく刷新が肝心要となる。そこには孤独はない。分かれ分かれになりながらも、絶えずお互いに思いを馳せ、祈りによってつながる生死を超えた交わりがある。神は分割を喜ばず、分け隔てをされない。世に分断と争いの声が響くほど、キリストを頭とする教会の掲げる神の平和、神の希望に溢れた平和と解放の光は照り輝くのだ。

2017年8月6日日曜日

2017年8月6日「いつわりの平和、まことの平和」稲山聖修牧師

聖書箇所:エレミヤ書28章13~17節、ローマの信徒への手紙2章2~10節
 
あの日から72年目の朝。聖書で言う「平和」を意味する言葉には三つ。ギリシア語「エイレーネー」、ラテン語の「パークス」。しかしこの平和は本来戦時間平和を指す。20世紀、わたしたちの国は日露戦争、第一次世界大戦、シベリア出兵、満州事変、支那事変、アジア・太平洋戦争と六度の戦争を経た。戦争と戦争の間を指すのがエイレーネー本来の意味。破れと不安に満ちた平和だ。
 エレミヤの時代、この破れに満ちた平和を、恒久的な平和のように語る人々がユダ王国に現れる。アッシリアとエジプト、そしてバビロニアという超大国に挟まれた時代のユダ王国ではこのような人々がもて囃された。例えばエレミヤと対決したハナンヤ。彼は人々に告げる。「イスラエルの神、の主はこう言われる。わたしはバビロンの王の軛を打ち砕く」。対して、エレミヤは長い関わりをもつ大国エジプトにおもねる人々に語る。「万軍の主はこう言われる。お前たちがわたしの言葉に聴き従わなかったので、見よ、わたしはわたしの僕ネブカドレツァルに命じて、北の諸民族を動員させ、彼らのこの地を襲わせ、ことごとく滅ぼしつくさせると主は言われる」。すでに第一次バビロン捕囚が行われたにも拘わらず、エジプトにおもねり続ける人々にバビロニア王国の王は神の僕である!と説く。人々の憎悪はエレミヤに向かう。その急先鋒がハナンヤだった。イスラエルの民は、それがユダ王国という小国に衰えたとしても、神の平和にいたるには徹底的に砕かれなければならない。徹底的に砕かれるところから神の平和、シャーロームは始まるというメッセージが聞き取れる。エイレーネーが神のエイレーネーとなるためには、祖国はおろか、時には言葉も文化も民としての伝統も損なわれる中でエレミヤは語り、イスラエルの民は救い主の訪れを待つよりほかにはなかった。
旧約聖書に通暁したパウロは記す。「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身をも罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです」。人を裁くな、と主イエスの言葉にあるが、これは単に個人の間で第三者を決めつけてはいけないばかりか、「裁き」とは生殺与奪という、本来は創造主である神がなすべき事柄であり、人には属してはならない事柄であり、虐げられた者を弁護するという力を発揮するわざ・人には決して及ぶことのないわざであるとの確信がある。神の裁きは必ず神の忍耐を伴う。だからこそ、神の裁きを論じる今朝の箇所で、神の裁きが悔い改めに導く神の憐みに繋がり、慈愛と寛容と忍耐と不可分のものとされる。7節にある「忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります」とある。これは因果応報の理ではなく、主なる神が生きとし生けるものすべて、ご自身がいのちを与えた全ての被造物に心を寄せている証しである。イエス・キリストに示された神は、自らの御心を行う者には、国は言葉の隔てなく、あるいは被造物の営み、文化としての宗教の枠さえも超え出る栄光と誉と平和を備える。神の平和を体現するイエス・キリスト。戦争の記憶の継承が心配される中、私たちはイエス・キリストという道を通し、シャーロームの尊さを身体と心に刻み込む。偽りの平和の中、熱に浮かされたように声高に不安と憎悪が煽られるとき、神の愛の中でまことの平和を作り出す者は祝福され、神のこどもと呼ばれるのだ。

2017年7月30日日曜日

2017年7月30日「神の前で日毎の態度を確かめる私たち」稲山聖修牧師

聖書箇所:創世記18章1~15節、ローマの信徒への手紙1章25~32節

 「旅人をもてなしなさい」とは旧・新約聖書だけでなく、ムスリムの教えにも通じる考えだ。贅沢は必要ではないながらも、ただ一度きりの出会いのために開かれた心根をもってアブラハムは迎え入れる。「では、お言葉どおりにしましょう」との返事を受けて、三人の旅人に身をやつした御使いに、天幕に戻ったアブラハムは食事を振舞う。しかし問題は、この一連の物語の中で、サラはどのような表情をし、そしてどのような思いをしていたのか。サライは天幕の中にいる。三人はアブラハムの伴侶について尋ねる。「あなたの妻サラはどこにいますか」。御使いの一人は語る。「わたしは来年の今ごろ、必ずまたここに来ますが、そのころには、あなたの妻のサラにはこども生まれているでしょう」。サラは天幕の布越しに耳を傾けながらひそかに笑う。「自分は年をとり、もはや楽しみがあるわけでもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである」。乾いた、悲しみに満ちた笑い。自らをあざ笑う笑い。涙も枯れ果てたとしか言いようのない笑い。神の約束すら虚しく響くとき、ため息とともに内向きの笑いをサラは浮かべざるを得なかった。
 教会に連なりながらもこの悲しみに呑まれた人の姿が今朝の新約聖書の箇所で描かれている。本日の箇所の鍵となるのは1章28節。「彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました」。神を認められなくなった悲しいありようをパウロは語る。「あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無常、無慈悲です」。これらの営みに取りつかれた人々が教会にいたのだ。このようなわざもまた、人の営みとして初代教会と決して無関係ではなかった。内向きで互いの足を引っ張り合うような交わりも、教会とは無縁ではなかったからこそ、このようにパウロは諫めようした。
 サラは、このような悲しい振る舞いの一歩手前に立っていた。己をあざ笑うことは、己に連なる者、支えてくれた者をあざ笑うことであり、ひいては神をもあざ笑うことだからだ。だから御使いを通して、主はアブラハムに言う。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている」。内容は極めて具体的で、終末論的な響きを伴う。この断言にサライは恐ろしくなり、前言撤回を試みる。「サラは恐ろしくなり、打ち消して言った。『わたしは笑いませんでした。』」恐怖のあまりの虚偽答弁。しかし御使いは断言する。「いや、あなたは確かに笑った」。この恐れに満ちたやりとりの中で、サライの悲しい薄ら笑いが、主の定められた時には喜びの笑いへと変えられる。イサクとは「笑い」を意味する。神の約束への喜びと、神自らとの交わりが回復する。サラがアブラハムとの間に授かった子はイサク唯一人だが、この幼子が、老いたサラの将来を拓く。
 神なきモラルハザードが世に満ちるならば、私たちには神の前での日毎の態度を、あたかも鏡を見るかのように交わりと礼拝で確かめるわざが求められる。愚かな振る舞いに及ぶ私たちが、すでにイエス・キリストの恵みに受け入れられているとの出来事の確認。失意のサライに希望が与えられ、混乱する教会に神の祝福と未来が備えられる。世が闇に包まれるほどに、私たちは世の光として神様に用いられるからだ。