2017年10月15日日曜日

2017年10月15日「いのちの根を下ろす」稲山聖修牧師

聖書箇所:ローマの信徒への手紙4章13~17節、創世記23章1~9節

アブラハム物語を辿るとき、サラの生涯が注目されるのは稀だ。「サラの生涯は127年であった。これがサラの生きた年数である。サラは、カナン地方のキルヤト・アルバ、すなわちヘブロンで死んだ。アブラハムは、サラのために胸を打ち、嘆き悲しんだ」。サラに寄せたアブラハムの悲嘆の記事はこの箇所のみ。だからこそこの悲嘆には言葉にできない思いが凝縮される。サラは名を改める前から奇異な存在であった。「サライは赴任の女で、こどもができなかった」と、必要もないのにわざわざ系図に記される通りだ。ハランの町でアブラハムは神の招きを受けたが、エジプトに入ればサラはアブラハムの保身のためにファラオの側女にさせられる。その後なおも正妻ながらこどもを授からない苦しみを味わい続け、女奴隷ハガルをアブラハムのもとに遣わすが、その後ハガルに覚えたのは喜びよりも妬みであった。御使いたちにイサク誕生の予告を受けたときも、老いたサラには自嘲するより他に道がない。その乾いた笑いがイサク誕生による喜びに包まれた後、ハガルの息子イシュマエルとの確執に襲われる。この物語では母親としてイサクを護ろうとする鬼のような姿が露わになる。イサク奉献の物語には母としてのサラの影は薄く、その出来事が終わるや、サラは静かに生涯を終える。
 それでは問う。サラは幸せな人生を辿れたのだろうか。アブラハム以上に身を挺して神の祝福に応えようと苦闘せざるを得なかったのがサラの生涯だった。それを誰より知っていたのがアブラハムであり、だからこそアブラハムは胸を打ち、嘆き、一般の遊牧民とは異なるわざにとりかかる。「アブラハムは遺体の傍らから立ち上がり、ヘトの人々に頼んだ。『わたしは、あなたがたのところに一時滞在する寄留者ですが、あなたがたが所有する墓地を譲ってくださいませんか。亡くなった妻を葬ってやりたいのです』」。アブラハムの振る舞いはサラへの哀惜の念を際立たせ、時を超えた共感をもたらす。さらにはサラの葬りの申し出が、ヘトの人々との交わりを生み出す。サラの逝去と葬りのわざはヘトの人々にも悼みを分かち合うこととなり、異邦人との交わりの種がまかれる。サラの墓前に、いのちの根を下ろした、そして民の壁を越えた交わりが生れる。
 『ローマの信徒への手紙』4章13節には「神がアブラハムやその子孫に世界を受けつがせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされた」とある。16節でパウロは「恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。彼はわたしたちすべての父です」と記す。私たちは聖書に書き記された物語を通して、聖書がそれとしては記されなかった世のアブラハムとサラの歴史を知る。聖書が信仰に不可欠なのは、かの時代の人々を包み込んだ神の恵みの力に思いを馳せ、その歴史を暮らしに刻むためだ。この力は次の言葉に収斂される。「死者にいのちを与え、存在してない者を呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となった」。この箇所にはイエス・キリストの復活を通して私たちに示された神の愛の力が示されている。イエス・キリストの甦りは、イスラエルの民とならび異邦人である私たちにも、いのちの勝利をもたらした。サラもその例外ではない。救い主が私たちの間に命の根を下してくださった出来事。深く感謝したい。

2017年10月8日日曜日

2017年10月8日「人に知られずに備えられる神の道筋」稲山聖修牧師

聖書箇所:ローマの信徒への手紙4章1~12節、創世記22章9~19節

古代ギリシアの都市国家スパルタでは肉体的な健康が何よりも尊ばれた。先天的に戦に向かない特質をもって生れたこどもは城壁の外に捨てられた。このような考えは今日も克服されていない。但し更に昔の遺跡からは、長期にわたり障がいのケアーを受けた形跡のある遺骨が発見されてもいる。今昔いずれの人の暮らしがいのちを重んじているか、あるいは進歩しているかという問いそのものが無意味になりつつある。
ではなぜ神はアブラハムに息子を献げよと命じたのだろうか。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げものはどこにありますか」と父に問うイサク。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」と答える父親。「神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物をとり、息子を屠ろうとした」。父が自分の一人息子を人身御供として神に献げるという実に不条理な場面。実はこのような箇所にこそ、創世記ならではのメッセージが隠されている。「そのとき、天から主の御使いが、『アブラハム、アブラハム』と呼びかけた。彼が『はい』と答えると、御使いは言った。『その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分ったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった』。」。 
神はアブラハムの信仰を弄んだのではない。天地創造の神は、御自身に模って創造された人間に「エデンの園の中心にある木の実は食べてはいけない。食べると死んでしまうから」と語る。「死ぬな」と人に語る神ならば、イサクを人身御供として奪うことはない。さらにイサクの奉献の仕方である「焼き尽くす献げもの」が持つ意味は、本来は神への感謝のしるしとして行われ、喜びをもたらす。イサクが献げられたところで誰が喜ぶだろうか。肝心なのはアブラハムが神以外の何者も命じることのできない命令に応え、それを気持ちの問題ではなく、黙々と態度に示した現場を神は見ていたところだ。神の隠された愛に応じる証しがそこにある。
私たちはアブラハムがイサクを受けとり直したその喜びを、イエス・キリストとの関わりの中で自己点検できているだろうか。『ローマの信徒への手紙』4章でパウロが用いる言葉に「行いによらず」という文言が再三登場するが、それは信仰を字面だけ辿ればよいと語っているわけではない。喜びを伴っているのかどうかが問われる。神の恵みに応じる喜びは、異邦人もユダヤ人も問わないばかりか、先達への敬意を伴いながら、絶えず伝統を乗り越えていく型破りな創造性をも生み出す。証しにも多様性がある。黙々と薪を割るだけでも、病床にあって呻くように祈るだけでも、そこに喜びを待ち望む希望があるならば、備えられた神の道筋がある。
神が備えた信仰の道は、時に隠されている。真っ直ぐな道ばかりではない。その道はあらゆる世界に、あらゆる交わりに開かれているとパウロは語り、それは主イエスの自由で伸びやかな歩みに重ねられる。一人子すら惜しまなかった神の愛を、私たちはそのように受けとめたい。 

2017年10月1日日曜日

2017年10月1日「キリストに委ねる平和、キリストから授かる勇気」稲山聖修牧師

聖書箇所:ローマの信徒への手紙3章27~31節、創世記22章1~8節

 「鳥居」と名乗る女性の短歌集『キリンの子』が爆発的に売れている。『サラダ記念日』とは異なり、鳥居が詠むのは地べたを這う者が陽
だまりに手を伸ばすような願い。「目を伏せて空へのびゆくキリンの子 月の光はかあさんのいろ」。この歌集の購読者の生活状況に思いを馳せる。核家族のあり方が極限まで達し、「ワンオペ育児」が増える。その中で虐待に至るというケースが後を絶たない。これに経済格差が追い討ちをかける。鳥居は児童養護施設で虐待を受け精神科病棟への入院とホームレスを経験し、義務教育も受けずに育った。新聞と辞書が短歌の世界を開いた。
 創世記の物語はそのような社会の谷間に暮らす人にどのように映るのか。「あなたの子孫を浜の砂粒のようにする」との祝福を通して授けられたのはイサクただ一人。この一人息子との関わりをめぐり、神はアブラハムに命じる。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山のひとつに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい」。
 この不条理な命令にアブラハムは黙々と従う。黙々と薪を割るアブラハム。アブラハムは狂信者ではなかった。幾たびも彼の部族は切羽詰まった中で授けられたその知恵に助けられたことだろう。しかし神はイサクを名指しにしていることから、アブラハムには身代わりになる余地は残っていない。「三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、アブラハムは若者に言った。『お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる』」この文を読むと、アブラハムは薪を割りながらも一縷の望みを抱いているようでもある。それは神がそのようなことをなさるはずがないとの信頼だ。絶望的な命令を前にしてなおもアブラハムは神の命令に対して鎬を削るような葛藤を伴う信頼を抱く。「アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いていった」。何も知らない息子は父に「わたしのお父さん」と呼びかける。アブラハムは「ここにいる。わたしの子よ」と答える。ただ一人のこどもを「わたしの子よ」と呼ぶ。この「わたしの子」という言葉に表わされる親子関係が根底から新たにされる時が近づく。アブラハムには隠されているその時。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げものにする小羊はどこにいるのですか」とのイサクの問い。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」。アブラハムは事態の瀬戸際まで神に信頼を置く。神が割って入る親子の関係にいたるまでアブラが刷新される。濃密な親子関係が陥りがちな共依存と独占の関係。イサクはアブラハムに独占されなかった。それが今後の展開となる。
パウロはモーセ五書を踏まえ、人の誇りはどこにあるのかと問う。主なる神の命令を前にしてアブラハムが誇りなど顧みなかった様子は今朝の物語からも読み取れる。続いてパウロが問うのは信仰の法則。これはイエス・キリストを通して示された神の恵みをわが身に重ねるわざである。それは必ずしもモーセ五書を拠り所とはしない異邦人にも開かれている。憂いに佇む私たちの前にはイエス・キリストによって開かれた道がある。その道は世界へと広がり、神の平和を告げ知らせるために用いられていく。経済的な問題や、家族の問題によって生まれた分断の壁をも超えていく。絶望の谷間を照らす光の中で、あらゆる世代の人々とのつながりを大切にしていきたい。『キリンの子』に心動かされる人々にこそ届く交わりを、私たちは神の光の中で祈り探し求める。

2017年9月17日日曜日

2017年9月17日「神の忍耐がもたらした恵みと知恵」稲山聖修牧師

聖書箇所:ローマの信徒への手紙3章21~26節、創世記21章9~18節

 本日の旧約聖書の箇所では、アブラハムが神から授けられた知恵によってどのように道を開き、そして神自らがハガルの前途に橋を架けたかを知る箇所。サラがイサクを授かったことにより、ハガルとイシュマエルの立場は脅かされる。イシュマエルとイサクとの無邪気な遊びでさえサラには悩みの種だ。ささいなこどものやりとりでさえ、サラには族長継承の問題を左右する出来事に映る。「あの女とあの子を追い出せ。あの女の息子は、私の子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではない」。ハガルをアブラハムに与えたのにも関わらず、正妻サラのエゴが剝き出しになる。問題はもはや話し合いで解決する域を超えていた。苦しみ悩むアブラハムは神から「すべてサラが言うことに聞き従いなさい」との言葉を授かる。アブラハムは自ら担う苦しみ悩みや思い煩いを全て神に委ねる。 この委ねにより、アブラハムはハガルやイシュマエルを手にかけるという、最悪の状況を避けることができた。「生きるに値しないいのち」などどこにもない。
その結果、ハガルはベエル・シェバの荒れ野をさまよい、皮袋の水がなくなると、彼女はこどもを一本の灌木の下に寝かせ「わたしは死ぬのを見るのは忍びない」と矢の届くほど離れ、弱り果てたイシュマエルを向いて座り、声を上げて泣く。この無力さの中で神の御使いはハガルに呼びかける。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕しっかり抱きしめてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする」。またもや「神は聞いた」というイシュマエルの名前の真意が再び確かめられ、アブラハムから出た人々としてその名が刻まれる。この物語をパウロもまたその父と母から繰り返し聴き、その中でイエス・キリストが救い主であるとの確信を得た。
 今朝の新約聖書では「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者に立証されて、神の義が示されました」とある。パウロのいう「律法」とは、613にわたるユダヤ教の誡めではなくて、かつてモーセ五書と呼ばれた、旧約聖書の最初の文書である『創世記』『出エジプト記』『レビ記』『申命記』『民数記』の五冊を示す。ユダヤ教で言う『トーラー』だ。この中には勿論ハガルとイシュマエルの物語も収められる。続く「預言者」も個々の預言者を指すのではなく、この預言者の物語を収めた『ネビイーム』を示す。つまり『トーラー』と『ネビイーム』という、パウロの時代の聖書が示されているのである。アブラハムの時代には勿論、このような書物は一切ない。『トーラー』『ネビイーム』の文言の頑なな墨守は救いの前提にはならない。けれども『トーラー』と『ネビイーム』が証しする通り、神の義が示されたのである。それは「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義」である。
 高度経済成長期には深い闇も伴っていた事実を私たちは知っている。障がい者への風当たりは今よりも厳しく、孤児院に暮らすこどもたちへの社会の目は冷たかった。ショービジネスの世界に活路を見出した人々の中には、日本国籍を持たない人もいた。父母の国籍が異なる家のこどもは「合いの子」と蔑まれもした。そのなかで行政に先んじてさまざまな福祉分野や教育の場を設け、世にある垣根を突破する交わりを育み、その受け皿となったのは教会だった。本日は長寿感謝の日礼拝。齢80歳を数える兄弟姉妹のあゆみを通して証しされた神の恵みに感謝する日。激動の世にある教会の開拓期に携わったのが長寿を迎えられた兄弟姉妹である。私たちはこの事実を感謝の念とともに神の御前に立ちつつ、深く心に刻むのである。

2017年9月10日日曜日

2017年9月10日「役に立たない者だからこそ神の恵みの器となる」稲山聖修牧師

聖書箇所:ローマの信徒への手紙3章9~22節、創世記21章1~8節

「津久井やまゆり園」で19人の知的障がいとの特性をもつ方々が殺害され、26人が重軽傷を受けた事件から一年余り。容疑者が同年2月、衆議院議長に犯行予告をしたのにも拘わらず政府は「やまゆり園」の警護を怠った。政治家に対する殺害予告とは異なる判断基準が機能したと考えずにはおれない。無自覚の全体主義。選別と排除。20世紀の負の歴史でもあるナチズムの特質は極端な成果主義にある。福祉政策が経済政策の邪魔になると見たナチは、障がい者の例外のない安楽死政策を打出すことで多くの国民の支持を得た。「生きるに値しないいのち」を人が定める恐ろしさと、神への冒涜がある。
本日の旧約聖書ではアブラハムの伴侶サラにいのちが授かり、わが子に「イサク(笑い)」と名づける場面が描かれる。族長物語の中でも喜び溢れる場面ではあるが、私たちはサラが不妊であるがゆえに味わった惨めさを忘れられない。子宝に恵まれるという神の祝福が人の世の成果主義と混同されているとの見方も可能だ。族長物語の世界にあっても「役立つかどうか」との世の尺度の問題は克服されていないのではないか。
一方福音書では、主イエスがこの荒んだ尺度を軽々と飛び越える場面が窺える。例えば『マルコによる福音書』の5章に記された、長血を患う女性。12年間出血が止まらず、多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても具合は悪くなる一方。とても子を授かるような身体ではない。彼女は社会から切り離され、治療の名のもとに搾取の対象にすらなり、経済的に追い詰められる状態が日常化している。この名もない女性が福音書で描かれる理由には、この苦しみの中でこそ味わえなかったイエス・キリストとの出会いと慰めが語り継がれなければならないという福音書記者と教会の決断があった。イエス・キリストとの関わりを軸にすることで、生き方の多様性が、ギスギスした功利主義から解放されて神さまからの恵みの器として受け入れられる。その根拠を人間の願望ではなく、神と人との救いの約束だからと聖書は書き記す。
パウロは『ローマの信徒への手紙』で「では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか」と読者に問い、そして答える。「全くありません」。なぜなら、「ユダヤ人もギリシア人もみな、罪の下にあるから」。「罪」を意味するギリシア語「ハマルティア」には、人は誰かの助けなしには必ず的外れなわざ、的外れな態度、的外れな理解に及ぶという幅の広さがある。自分の判断には狂いはないという一念は時として深く心を傷つける。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない」。パウロは自分も含めて記す。そしてこの道筋を貫いて、パウロはユダヤ教徒とそれ以外の者である異邦人の垣根を取り払う。歪んだ選民思想はそこにはない。
聖書の言葉を問い訪ねていく中で、私たちは「役立つかどうか」という尺度だけで人を見るその愚かさに気づかされる。また「役立つかどうか」との考えで傷つけられた人が、実は神の栄光を現わしていたことに深く頭を下げざるを得ない。己の痛みを誰よりも知る者を、主イエス・キリストは涙と微笑みをもって癒し給う。だからこそ私たちは、キリストが教会の頭であり交わりの基であると確信する。かくして世が荒むほどに、教会に連なる交わりは世の光として輝きを増すのである。

2017年9月3日日曜日

2017年9月3日「はかりごとを打ち砕く神の恵み」稲山聖修牧師

聖書箇所:ローマの信徒への手紙3章1~8節、創世記19章36~38節
 
非常事態に事柄の真価が問われる。ロトはそのソドムへの神の審判を前にしてツォアル(小さい)との名の町に急ぐ中、ロトの伴侶は後ろを振り向く。神の避難指示を冗談であると聞き流した婿たちも硫黄の火に包まれた。この非常事態の中でツォアルに入らず洞窟に暮らすこととなったロトとその娘は、心に深手を負っただろう。そのさまは30節~35節に記される愚かな、まことに愚かな振る舞いとして露わにされる。その結果、二人の娘にはモアブとアンモンというこどもを授かる。イスラエルの誡めが適応されるなら間違いなく石打刑だ。確かにアンモンは、この後、ダビデ王の時代にいたるまでイスラエルの民を苛む異邦人となる。モアブ人はアンモン同様イスラエルを苛みながらも、やがてダビデの祖先ルツに繋がる系譜に数えられ、主イエスの父ヨセフまでの流れに立つ子として覚えられていく。大人がどれほど堕落しようと、授かる子どもには決して罪はない。子どもたちには罪はない。もし人の思い、すなわち「はかりごと」によって救い主の訪れが実現するならば、この子たちはイスラエルの歴史から排除されていたに相違ない。キリストなしに救いがないのは、他ならないイスラエルの民であり、アブラハムの一族もまた例外ではない。
 この記事を前提しながら「ユダヤ人の優れた点は何か」「割礼の利益とは何か」と問いかけつつパウロは語る。第一に、ユダヤ人は神の言葉を委ねられたという事実がある。次に彼らの中で不実な者がいても神の誠実さは無にされない。ソドムの街にアブラハムの神は救いの言葉を投げかけ続けた。「人は全て偽りもの」でありながらも「神は真実である」。だからこそ神の真実は人の偽りに勝り、時に神の恵みは人の目には怒りと映る場合もある。だからこそ「善が生じるために悪をしよう」との考えを罰せられないはずがないとパウロは語る。
「善が生じるために悪をしよう」との言葉は、現代の私たちの心の中にも深く入り込んでいる。例えば「必要悪」との言葉。何かを犠牲にして生き残った者が思考を停止する言い訳によく用いられる。あるいは「目的は手段を正当化する」との言葉。かつては暴力革命を正当化するため、今は医療や福祉、東日本・九州・北海道の被災地を無視した経済発展を正当化するために用いられる。
私たちは目的と手段を転倒させてはならない。神の恵みを輝かせるためには、誰一人犠牲にされてはならない。パウロは『ローマの信徒への手紙』12章1節~2節で語る。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の身体を神に喜ばれる聖なるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」。注目すべきは続く2節での言葉「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が良いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」である。
もし東日本大震災の直後、全国の諸教会が「この世に倣い」、ロトのようにためらっていたとしたら、教会も保育園も保護者もこどもたちも取り返しのつかない、深い傷を負っただろう。地震・津波・水害・原発事故。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません」。この言葉を私たちは9月を始めるにあたり噛みしめていきたいと切に願う。世にはびこる人の「はかりごと」を打ち砕かれるために、自らを十字架で犠牲にされた主イエス・キリストは、自らの栄光を世に現す。その時を待ち望みながら新しい月に歩みを踏み出そう。

2017年8月20日日曜日

2017年8月20日「いのちをわけへだてしない神」稲山聖修牧師

聖書箇所:創世記39章1~6節、ローマの信徒への手紙2章17~29節

 創世記のヨセフ物語で、ヨセフは父ヤコブの寵愛を受けながら、その愛情と天賦の才としての夢の解き明かしの力が却って仇となり、兄たちに妬まれエジプトに奴隷として売られる。そしてファラオの侍従長でポティファルに買い取られる。この物語の面白さは、丸腰の奴隷としてエジプトに売られたヨセフには常に神がともにいたところ。それだけではなく、主がヨセフのなす全てをうまく計られるのを見た主人は、ヨセフに目をかけて身近に仕えさせ、家の管理やすべての財産をヨセフに任せた、との記事である。現在では非常識だが、ヨセフに対する猜疑心なしにポティファルは「任せてしまった」。主はヨセフのゆえにそのエジプト人の家を祝福され、主人は全財産をヨセフの手に委ねてしまい、自分が食べるもの以外は全く気を遣わなかった。注目すべきはポティファルがエジプト人でありアブラハムの神を知らない点。その中でヨセフは全面的に信頼され、アブラハムの神から祝福を授かる。誰が奴隷の主人を祝福しているのかは神の秘義として隠されている。この箇所では、アブラハムの神の祝福が単にイスラエルの一族だけに限定されるのではなくて、ヨセフの主人にも及ぶところにそのスケールが窺える。礼拝後に各々遣わされた場で、私たちは空気を読むのに汲々とする。KY(クウキヲヨメナイ)と呼ばれるのを恐れる。しかしその態度は聖書のメッセージからは遠く離れていると言える。礼拝に連なる私たちは「空気」という名の同調圧力を恐れるのではなくて、神の力を信頼し神の息の窓となるのが筋であり新たな空気を作る役目を担っている。ヨセフはそのよき模範ではないだろうか。
 ところで使徒パウロが『ローマの信徒への手紙』で語るメッセージには「ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています」とある。族長の世界では誡めとしての律法はないが、その物語の納められた書物は「トーラー(律法)」として重きをなす。「律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています」と記す言葉には、その時代のユダヤ教徒あるいはユダヤ教の影響を強く受けているキリスト者が、実はヨセフのように丸腰にはなれなかったと指摘される。パウロは語る。「あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。『盗むな』と説きながら、盗むのですか。『姦淫するな』と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている」。
確かに律法が自己弁護や自己正当化のために用いられるならば、神の救いへの道筋を示すどころか、正反対の結果を招く。聖書の言葉に救われて、人生の新しいライフステージに導かれる人もいれば、聖書を利用して無辜の民を殺める為政者もいるのは今も変わらない。さらには今朝の『ローマの信徒への手紙』の箇所と族長物語の接点は「割礼」にも及ぶ。割礼は族長物語の中でも重視されていた、神との契約のしるしである。しかしパウロの言葉は衝撃的だ。ユダヤ教徒ではないまま、イエス・キリストに示された神の愛を実践する無割礼の者が、割礼を受けながらも律法に従わない者に勝ると語るからだ。イエス・キリストは、いのちを分け隔てて優劣を問うことはなかった。それはヨセフ物語にあってすでに示されていた。あなたは聖書を読んでいるかとパウロは問うのだ。