2019年2月10日日曜日

2019年2月10日(日) 説教「何が最も大事なのか」 稲山聖修牧師

2019年 2月10日
「何が最も大事なのか」
ルカによる福音書6章6節~11節
稲山聖修牧師

本日の箇所では律法学者やファリサイ派とイエス・キリストとの間に繰り広げられる応酬が記される。その軸をなすのは安息日のありかただ。ユダヤ教に属する人々にとって安息日とはモーセの十戒に記された、人々の暮しの中心であり、決して疎かにはできない。「安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日でもあるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起さねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである」。『申命記』5章12〜15節の一文だ。『申命記』はモーセが次の世代に申し送るという意味づけで記されている書物。この安息日をめぐる条項を注意深く読むと、ある箇所が際立っていることに気づかされる。「そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる」というところ。文末が「ねばならない」ではなく「できる」とある。男女の奴隷がイスラエルの民であるかどうかは限らず、さまざまな職種もある。しかしいずれにせよ、立場や地位、あるいは人としては扱われるのが稀な立場にいた奴隷であったとしても、日常の働きの中で消耗して、終には過労死までにいたるのではなく「休むことができる」とあるのだ。安息日の誡めは、主なる神への礼拝が、すべての人々やいのちに平安を約束するとの宣言でもあった。礼拝の責任は、他者への平安の保障でもあった。もともと安息日とは、神への感謝に伴う心からの平安とよろこびの日であった。



けれども、キリストに挑みかかる律法学者やファリサイ派の人々は、この「できる」ということを見落としている。会堂にいたところの、手を動かせない人への癒しを陥れの口実としてあげつらう。律法学者は安息日が身体に痛みや破れ、また生きづらさを抱え続けている人々にとっては癒しの日でもあるということに実に無頓着だ。この無頓着さの源は何か。思うにキリストの論争相手には、律法が神の祝福の言葉としてではなく、他人に自分のありかたが正しいと認めさせるための、承認欲求を満たす手段以上のものではなかったことを示しているのではないだろうか。ファリサイ派や律法学者は律法の遵守に関しては確かに一所懸命だった。けれどもその一所懸命は、人を活かす神の祝福の言葉としての方向では理解されなかった。
単に一生懸命であることと誠実であることとは似て非なるものだ。誠実さとは誰かとの関わりを示しており、ことわたしたちにとっては神との関わりに根ざしている。したがってそこには神による抑制と冷静さが常に伴うものだ。しかし、空回りする一所懸命さは、自分はおろか他人でさえも深く傷つけるという取り返しのつかない事態を招く。「あなたがたに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行なうことか、悪を行なうことか。命を救うことか、滅ぼすことか」。


わたしたちの交わりにとって大切なのは、礼拝が「手の萎えた人」とともに立つイエス・キリストを中心にしたものであるかどうかによって、立ちもし倒れもすることだ。厳粛であれ賑やかであれ、礼拝がいのちを活かす場ともなっているかどうか、よろこびのわざとなっているかどうかが肝心だ。家族のありかたや、人のありかたが多様化した時代、厳格さや厳粛さを堅く守り、若いころ薫陶を受けた倣いに基づく礼拝だけが全てではない。スイスの教会でさえ礼拝出席者の少なさと壮麗な教会の維持費のバランスをとるために、教区持ち回りで礼拝を行なっている。多くの名著を世に送り出した由緒あるキリスト教の出版社も倒産する。その一方で、アブラハムの神に立つ民として見た場合、イスラームの人々は一日5回の祈りを欠かさない。
わたしたちはどこにいてもイエス・キリストに根を降ろしている。これを確かめるわざこそ教会にはもっとも大事である。変わらない聖書の言葉、またその言葉を証しするわざによって、礼拝出席が講義への出席であるかのような誤解から解放される。「あなたがたに尋ねたい」と主イエスは今なおわたしたちに問いかけている。

2019年2月3日日曜日

2019年2月3日(日) 説教「新しいぶどう酒、熟したぶどう酒」 稲山聖修牧師

2019年 2月3日
「新しいぶどう酒、熟したぶどう酒」
聖書:ルカによる福音書5章33〜39節
説教:稲山聖修牧師

シンガーソングライターの中島みゆきの『時代』が、もはや懐メロになってしまうほど、時の流れや人の思いの変化は早い。その意味で主イエスが葡萄の木やオリーブの木を教会の交わりに重ねたり、本日の箇所のようにぶどう酒とその容れ物である革袋の譬えは巧みだ。農場にある葡萄の木やオリーブの木は接木によって本数を増やしていく。新しい接木が用いられ、地に深く降ろされたオリーブや葡萄の根も、結びつけられた地上の枝も、お互いがお互いを活かすという間柄となる。「だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう」。最近では値打ちあるジーンズは、新しいものよりも古着のほうだという。「新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである」。この譬えでは、新しさと古さとは対照的な関係にありながら、優劣の問題はテーマにはされていない。むしろ古いぶどう酒、つまり熟成された、ビンテージワインだけがもつ香りと味わいを、人の子イエス・キリスト自らが堪能されたかのような表現すら見受けられる。「古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない」。

ただし新しいぶどう酒の新鮮さを凌ぐ、熟成されたぶどう酒に誰もがなれるわけではない。多くのぶどう酒は、熟成の過程がうまく行かず「酸いぶどう酒」、つまりワインビネガーになってしまう。発酵が経験則のみに頼り、科学的には解明されなかった時代にはなおさらだ。新しい布地と古い布地、新しいぶどう酒と熟成したぶどう酒は各々尊い価値があるというのに、無分別につぎはぎしたり、混ぜ合わせたりすることで、それぞれの良さを失ってしまうところか、そのものとしては誰にも喜ばれない品物になってしまう。ある者は教会の伝統にこだわる、ある者は無分別に他教会の倣いを引き合いに出す、業績の欲しい研究者は最新の教会のモードはこうだからと、カタログを引き合いに出すように雑誌に文書を掲載する。試みとしては確かに大切なわざであっても、責任が伴わなければ、布地は汚れ役に徹してでも人をきれいにする台ふきにすらならず、料理に使えば喜ばれるビネガーにすらならない、どれもこれも廃棄処分にされるほかに道がないという残念な結果となる。果たして人間は、この顛末の責任をすべて担えるというのだろうか。

福音書ではイエス・キリストが受難の十字架において、酸いぶどう酒を突きつけられていた。『マルコによる福音書』では葦の棒につけた海綿に浸された酸いぶどう酒を飲まされようとする。その酸いぶどう酒は腐ったぶどう酒、要するに雑味ばかりの酢でしかない。十字架刑に処せられた者の苦しみをただただ長引かせるための工夫である。さらに『ルカによる福音書』では侮辱の意味も重ねられ、キリストは酢を飲まされようとするのだ。ついに『ヨハネによる福音書』では、この腐敗した酢を受けたとさえ記される。イエス・キリストの受難は、祈りのうちに行なわれた断食に伴う聖なる苦しみではない。救い主は侮辱を受けながら死にいたる。しかし同時にわたしたちは、イエス・キリストの葬りの後に起きる出来事もまた知っている。イエス・キリストは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」との叫びの中で、神に見捨てられたというわたしたちの絶望をさえ、分かち合ってくださった。だから、「神は死んだ」との言葉を、わたしたちは恐れることはない。その通り、イエス・キリストは十字架で死に給うたのだ。古い革袋が破れ、新しいぶどう酒があふれ出たとしても、そのぶどう酒は新しい流れとなって、神の支配の芳しい香りを運ぶ。不正な権力が栄えては滅び、常識すら流転するこの世にあって、イエス・キリストに示されたいのちのよろこびは、あまねく世に響く。世代を超え、世代をつなぐ自由でフレッシュなありかた。イエス・キリストに根を降ろした交わりが、変わらない居場所として、すべての世代に拓かれている。その居場所を、わたしたちはあなたとともにしたいのです。

2019年1月27日日曜日

2019年1月27日(日) 「飾りをすべて捨てたとき」 説教 稲山聖修牧師

2019年1月27日
「飾りをすべて捨てたとき」
聖書:ルカによる福音書4章1〜9節
説教:稲山聖修牧師


 『申命記』4章29節から31節までには、その時代の様々な世の倣いに惑わされながらも「心を尽くし、魂を尽くして求めるならば、あなたは神に出会うであろう。これらすべてのことがあなたに臨む終わりの日、苦しみの時に、あなたはあなたの神、主のもとに立ち帰り、その声に聴き従う。あなたの神、主は憐み深い神であり、あなたを見捨てることも滅ぼすことも、あなたの先祖に誓われた契約を忘れることもないからである」と、モーセの終末論的な響きを伴うメッセージが記される。終末をめぐる記述は、律法(トーラー)という「戒めの網羅」として誤解されがちな書物の中にも明確である。人の子イエス・キリストのメッセージの軸である「神の支配の訪れ」は、実は文書としては、ファリサイ派だけでなく復活の出来事を否定するサドカイ派も共有していた。
 そうであればなおのこと、新約聖書の舞台では、この重要な箇所に人々が敏感ではなかった様子が分かる。イエス・キリストの目に映ったのは、片や経済的には十二分に恵まれた人々、片や社会では決して充分な支援を受けていたとは思えない、独り身の女性の姿。富裕層の献金と、貧しく独り身の女性が献げる献金。主イエスは金額とは全く異なる視点から、この隔たった生活事情に暮らす人々の豊かさを見つめる。建造物としてはソロモン王以来とさえ見なされた、ヘロデ王が修復したエルサレムの神殿。富裕層の献金には、さまざまな思惑が込められていたのではなかったか。


 しかし独り身の女性の場合は、もとよりそのような立場にはいない。けれども主イエスはその姿を弟子に示す。1レプトンは当時の日当の標準額1デナリオンの128分の1。1デナリオンを8000円とすれば、概ね125円に過ぎない。おそらく礼拝に出席するゆとり、という言葉、すなわち礼拝は暮しにゆとりのある人々が出席する場所である、との理解に立つならば、この女性が献金を献げる態度は信じがたいものに映る。しかし主イエスはこの女性にこそ、聖書に向き合う人の真摯な姿勢を見て取り、弟子に指し示す。その後に、壮麗な神殿に心を奪われている人々にイエス・キリストは警告する。福音書の記事は、当時のエルサレムの神殿が「見事な石と奉納物で飾られていた」と記す。エルサレムの神殿は、その本質から外れた飾りを身に纏っていた。イエス・キリストは、旧約聖書の伝える姿とは異なるその神殿を、やがては廃れていくと語る。となれば、それはいつの話になるというのか。富裕層と貧困層の格差。医療・福祉の切り捨て。その解決への答えを人々は得ようと焦る。
けれども、イエス・キリストは語る。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである」。すなわち、あなたがたの望むリクエストに応えるために、終末が来るのではないという、救い主自らによる突き放しがある。しかし一方で忘れてはならないのは『ルカによる福音書』での山上の垂訓が「心の貧しい者」ではなく、もっと直截的に「貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたの者である」とあることだ。「幸いである」との祝福の言葉によって、貧しい者はキリストを中心とした交わりの中に置かれる。独り身の女性による、レプトン銅貨という生活費全額の献金。ダブルスタンダードには立たないその姿。これは、イエス・キリストの山上の垂訓が実現した姿でもある。旧約聖書にある、飾りをすべて捨てて主なる神に立ち返った民が、神を中心とした交わりを育み、ことのほか重んじていたという原風景が女性の姿に重なる。これがあればこそ、独り身の女性にイエス・キリストは眼差しを注ぎ、あふれるばかりの祝福を授けられたのだ、と言える。わたしたちは富裕層が次々と献金する中で際立つやもめの身なりに惑わされてはならない。富裕層の陰に置かれがちなやもめは決して惨めではなかった。そこには飾りをすべて捨て去った、主なる神に立ち返ろうとする民の姿がある。そしてやもめを支える交わりが、神の秘義として隠されている。変わりゆく時代の只中で、飾りを捨てた後に残る、各々の賜物を活かし、イエス・キリストの眼差しに適う、交わりのかたちを少しずつ整えていきたい。


2019年1月20日日曜日

2019年1月20日(日) 説教「崖っぷちに連れて行かれても」稲山聖修牧師

2019年 1月20日
「崖っぷちに連れて行かれても」

聖書:ルカによる福音書4章20〜30節
稲山聖修牧師


好意的なナザレの村人の態度はイエス・キリストの次の言葉とともに一変する。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』という諺を引いて、『カファルナウムでもいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うに違いない」。異邦人が多く暮す地方であるカファルナウム、しかも癒された人々は病気や先天性の特性などを理由に交わりから絶たれていた人々だった。それならばなおのこと、医者の不養生ではあるまいし、地元のわたしたちにも癒しのわざを行なってくれと言うに違いない、と主イエスは指摘する。イエス・キリストに群がった村人の関心はどこにあったのか。それはイエス・キリストがなさった奇跡のわざそのものにあったのではないか。それは今日で言うところの人の子イエスの業績である。教えも癒しのわざもみな業績として勘案できる。しかし、イエス・キリストが何人の病人を癒したところで、そのわざの指し示す事柄へと眼差しが向かわなければ何の意味も無い。さまざまな事情により疎外されていた人々が、いのちの喜びに包まれる新しい交わりへの導きを伴っていることに気づかなければ何の意味も無い。地に平和をもたらす神の支配をさきどるその交わりに気づかなければ、奇跡の意味は全て失われる。
続く「預言者は自分の故郷では歓迎されない」という言葉の事例として旧約聖書の物語が引用される。イエス・キリストは、異邦の民にあらわになるアブラハムの神の救いを指摘するだけに留まらず、絶えずわたしたちの外部から救いの出来事は及ぶのであって、あなたがたの望む通りの業績という仕方では必ずしも訪れないと村人を突き放す。
 村人の讃美の声は一転して罵声に変わり、イエス・キリストを追い出すどころか、街の外の山の崖っぷちまで連れて行き、突き落とそうとするような殺意に沸き立つ。しかしこの結果、明らかになったことがある。それは、神の救いの出来事は、わたしたちの思い通りにはならないということ、けれどもそれは神がわたしたちとの関わりを否定しているということではない、ということだ。救いの出来事は、時にわたしたちにとっては実に心外な、憤りの念すら起こさせることすらあり得る。イエス・キリスト自らもまた、自分の家族や村社会とのトラブルから無縁ではなかった。『ヨハネによる福音書』には「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」との言葉がある。まことの友はおべんちゃらばかりを言うわけではない。逆に言えば、イエス・キリストの仲立ちのもと、あえて諫めの言葉を伝えなければならない場面に出くわすこともある。けれどもそれは、相手を否定したり、追い出したりしようとするのではなく、相手を深く愛すればこそ、注意深く、時と言葉を選んで語りかけられる言葉である。そして聖書の言葉に基づくのであるならば、それはまさしく語る側も、聴く側も、連帯して責任を担うべき交わりを育む言葉となる。わたしたちはついつい、自分の現状をただちに肯定していくれる、お手軽で甘い言葉ばかりを聖書のなかに求めがちではある。しかし、果たしてそれはいかがなものだろうか。むしろ深く静かに、本当にそれでよいのかと問いかけ、わたしたちに気づきを促してくださるのが聖書を通して響く神の言葉なのではないか。祈りの中で聖書の言葉を味わうとき、わたしたちはいつのまにかイエス・キリストが露わにされた世界の中に立っている。
イエス・キリストは、崖っぷちに立たされて、なおも次のステージを切り拓く道を、わたしたちのために整えてくださった。イエス・キリストが拓く道とは、崖っぷちでも恐れずに済むような道だ。教会以外には救いはないと言ったとき、救いのわざは教会の交わりの内側に留まるが、イエス・キリスト以外に救いはないと堂々と告白するとき、限界だと思い込んでいる壁を、イエス・キリスト自ら、外側からこじ開けてくださるのである。教会が閉塞感に喘いでいるとするならば、それは誰の責任でもない。わたしたちのありかたが招いている課題である。世の倣いでなしに、神の真理に基づいて扉をノックしているのは他ならないイエス・キリストだ。扉を開き、神の真理に基づいて言葉に耳を傾け、殻を破っていく勇気にあふれて歩みたい。

2019年1月13日日曜日

2019年1月13日(日) 説教「恐れることはない」 稲山聖修牧師

2019年1月13日
「恐れることはない」
ルカによる福音書5章1節~9節
説教:稲山聖修牧師

エベレストが中国側からするとチョモランマと呼ばれるように、今朝の聖書の箇所ではガリラヤ湖はゲネサレト湖となる。ゲネサレトとは湖の西側にある平原地帯。
ゲネサレト湖はローマ帝国の時代には海運のために利用される他には重要な意味はなかったという。漁師たちは夜中に舟でかがり火を焚いては網を投げる。五千人の人々に分けた食事が肉ではなく、二匹の魚と五つのパンであったことを考えれば、人々の日常のつましい食卓が、まさに漁師の働きにかかっていたといえる。しかし、それは漁獲量がたとえ多かったとしても決して贅沢な暮らしはできないことを意味してもいた。ローマ帝国がもたらした、軍事力と経済力に基づいたグローバリズムから取り残された地域がゲネサレト湖周辺であった。
だからこそ群集は、主イエス・キリストの教えに耳を傾けるべく続々と集まった。しかしその陰で、幾分冷ややかに佇む人々の姿があった。「漁師たちは、舟からあがって網を洗っていた」。漁師たちはときおりどよめき、感銘のあまりため息をつく群衆には無関心である。イエス・キリストの言葉は漁師たちには届かない。
そのさまを知っていたのだろうか、主イエスは別段命令するわけではなく、実に腰を低くして、岸辺から少しばかり離れるようにと漁師に頼み込む。漁師の一人の名はシモン。学のある者とは程遠い一介の生活者に過ぎない。舟に乗ったイエス・キリストは群集に座ったままで話をした後に、シモンに語りかける。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」。シモンは答える。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」。「先生」とは皮肉だったのかもしれない。漁師が網を洗うとき、そこには棒切れが絡まり、網は幾重にも絡まり、糸はほつれてしまっている。すべては徒労に終わった。しかもこの「先生」は、漁の時間でもない真昼間に「沖へ漕ぎ出せ」という。これはプロフェッショナルとしての漁師の仕事を軽んじたとして響いても無理からぬことだ。けれども漁師はほん少しだけ「先生」の言葉に心を開く。「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」。その結果、網が破れそうになるほどの魚がかかった。
失意の中にあった漁師たちは、イエス・キリストの声に誘われ大漁旗を掲げることができたのだから、素直に喜んでよいことになるが、なぜかシモン・ペトロはイエス・キリストの足もとにひれ伏してしまう。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」。ペトロはこの奇跡自体に驚いたのか。もちろんそのような読み方もあろうが、今朝は別の観点で味わいたい。
『ルカによる福音書』はローマ帝国という広大な領域を展望には置きながらも、決してイエス・キリストの受難の出来事を疎かにしてはいない。キリストの十字架と復活と埋葬、そして昇天の出来事から50年あまりの歳月を始めて成立したと言われるのがこの福音書であり、イエス・キリストがいかなる最期を迎え、その際の弟子の立ち振る舞いについても書き手はすべて知っている。ペトロは12使徒の一人。ペトロが用いていた舟とは、天気晴朗といえども風強く波の高い世の只中に浮かぶ、あまりにもか弱い教会の象徴だった。他人を救うよりも自分を救えと罵倒され、せっかく編みあげた信頼関係すら立ち行かなくなり、修復のめども立たないという有様で、誰も連なろうとしない。「魚」は「イエス・キリスト・神の・息子・救い主」という語のギリシア語の頭文字をまとめた略称であり、素朴でありながらもキリスト者としての約束を意味していた。しかし「漁師」たちの交わりには、誰も連なろうとはしない。その只中にいたペトロは、かつて鶏が鳴く前に三度主イエスとの関わりを問われては否定した過去をもつ。そのペトロに主イエスの声は世の只中に出てみよ、世の荒海の中に交わりを投じよと呼びかける。あきらめてはいけない。投げやりになってはいけない、なぜなら、わたしがいるからだ。今やペトロの強さではなく、弱さが祝福されて多くの人々の特性を結びつける力を備えられ、「恐れることはない、今から後、あなたは人間をとる漁師になる」とイエス・キリストから招かれる。「すべてを捨ててイエスに従った」。「すべてを捨てて」とは弟子たちの原点だ。原点たるキリストへの立ち返りを行えるかどうかが、教会のバイタリティーの鍵となる。「恐れることはない!」。イエス・キリストの声は、今なおわたしたちに響く。

2019年1月6日日曜日

2019年1月6日(日)  説教「あなたはわたしの愛する子」 稲山聖修牧師

2019年1月6日
「あなたはわたしの愛する子」
ルカによる福音書3章15節~22節
説教:稲山聖修牧師
  イエス・キリストを指す一本の指としての役割を全うした洗礼者ヨハネ。『ルカによる福音書』ではマリアとの親戚との間柄、すなわちイエス・キリストとの親類として描かれる。『ルカによる福音書』では、洗礼者ヨハネの働きを、ローマ皇帝の支配の及ぶ全ての世界に向けて発信される神のメッセージだとして描く。だから3章15節の「民衆」とは、さまざまな仕方で、その時代に救い主を待ち望まずにはおれなかった人々全てを指している。だからこの箇所での「メシア」とは旧約聖書の文脈に立つのかどうかは曖昧なところがあるだろう。けれども確かなのは、この箇所でいうメシアとは、ローマ帝国の支配を否定したり、覆したりするという破壊行為に及ぶメシアではない。なぜならば他の福音書と異なる『ルカによる福音書』の特徴とは、物語の節目に盛んにローマ皇帝の名前を用いるからだ。その上で、異邦人とイスラエルの民との交わりを、マイナス要因にではなくてむしろ積極的に意味づけていこうとする面が強い。歪んだ、かつ偏狭な選民思想や民族思想はかけらもない。

「民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた」。洗礼者ヨハネはユダヤ教徒と異邦人の混在する「民衆」の心の声を聞き届ける。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる」。洗礼者ヨハネが授けている洗礼とは、清めを意味する水の洗礼であり、教会の聖礼典としての洗礼ではない。だからヨハネは語る。「わたしはその方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」。書き手はヨハネのメッセージを記した後、領主ヘロデによって身柄を拘束されるところで、一旦筆を置く。
とはいえ洗礼者ヨハネがこの物語で、主イエスをメシアとして確信していたかについては甚だ疑問だ。なぜなら、後に彼は囚われの身にある中で、二人の弟子を遣わして主イエスに問うからだ。「来たるべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たねばなりませんか」。つまり、『ルカによる福音書』で洗礼者ヨハネは「我知らずして」メシアであるイエス・キリストに洗礼を授けているということになる。確かに洗礼者ヨハネは目の前のイエスには気づかなかった。しかしイエス・キリストはメシアとして洗礼者ヨハネの希望になっていた。


さて、ローマ皇帝の支配を時に肯定的にさえ描くその陰で、物語の書き手は、民衆のone of themとして清めの洗礼を授かった主イエスの祈りの中での出来事を記す。その中で響く言葉はこれだ。「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降ってきた。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という言葉が天から聞こえた。「あなたはわたしの愛する子」。実はこの言葉は、キリストが自らの死と復活を予告した後、弟子たちを連れて山に登り、その姿を変えて、モーセとエリヤ、つまり、律法と預言者という、旧約聖書を代表する人々と語り合う場面で戸惑うペトロとヨハネ、ヤコブに響く「これはわたしの子、選ばれた者、これに聞け」との言葉と見事に重なる。旧約聖書の歴史の道筋をたどりながら、イエス・キリストは、救い主として全ての民を包み込むわざを貫徹する。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者はそれを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか」。「あなたはわたしの愛する子」という言葉は、人を死の闇の中からいのちの光の中へとひっぱりあげる。新たな年を明けて、兄弟姉妹を天に見送ったわたしたちではあるが、「わたしの愛する子」と呼ばれるキリストと主なる神との絆の中で、わたしたちもまた常に、神の支配への中へと、ひっぱりあげられている。その先には、決してこの世とは分断されない天の国があり、「主の祈り」には「御国を来たらせ給え」と刻まれる、神の国が整えられている。教会は烏合の衆ではない。井戸端会議の場所でもない。まさに神の国のモデルとして整えられなければならない。そのときに初めて、天に召された仲間との再会の希望を、主にある生き方の軸に据えられるのだ。


2018年12月30日日曜日

2018年12月30日(日) 説教「交わりを新たにするメシア」 稲山聖修牧師 

2018年12月30日
「交わりを新たにするメシア」
マタイによる福音書2章1節~12節
説教:稲山聖修牧師


東方の三人の博士の物語の闇。物語の書き手は、キリストの誕生を歓迎しない者からも決して目を逸らさない。「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです』」。遠くの地から三博士は、幾重もの地境や国境線を越えてエルサレムを訪れた。三人の博士の問いは、期せずしてヘロデ王の本性を暴露する。ヘロデはユダヤ人の王には見えなかったのだ。ヘロデ王はこの問いに堪えられない。「ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々もみな、同様であった」。イエス・キリストの誕生は、ヘロデ王とエルサレムの人々には暮しや考え方の土台を覆す出来事に映る。追いつめられたヘロデは権力を脅かす乳飲み子の居場所を明らかにすべく全力を尽くす。それはキリストの誕生を始めから無かったことにしようとする謀だ。その手先となるのが民の祭司長や律法学者だ。律法学者は預言者の書物を引用する。「ユダの地・ベツレヘムよ。お前はユダの指導者たちの中で、決して一番小さなものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者であるからである」。『マタイによる福音書』で引用されるのは旧約聖書の『ミカ書』5章1節。「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために、イスラエルを治める者が出る。彼の出世は古く、永遠の昔にさかのぼる」。おや、と読み手は考え込む。ヘブライ語のテキストとは異なる修正・加筆が福音書の引用には目につくからだ。『マタイによる福音書』では「決して一番小さいものではない」。これは実に不可思議な一文だ。ベツレヘムで起きるのは、決して喜ばしい出来事ばかりではないからだ。


ヘロデは憑かれたかのように救い主の生まれる場所を調べあげ、占星術の学者たちを非公式に呼び寄せる。そして博士の証言をもとに、その時を特定しようとする。そしてさらには「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」。詳しく調べて報告せよ。これは三人の博士を間者・工作員として抱き込もうとする画策だ。三人の博士の報告が入り次第、ただちに兵士を派遣して御子イエス・キリストをないものにしようとする魂胆。「わたしも行って拝もう」とは偽りなのだ。
しかし三人の博士は、共犯関係に陥る危機を辛うじて免れる。それは「ヘロデのところへ帰るな」とのメッセージを夢の中で受けたからだ、と物語は記す。異邦人である博士に天使の言葉が臨み、三人は新しい道を拓いて帰途についた。その後に起きた惨劇とは。「さてヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」。三人の博士を欺いたのはヘロデであるのだが、その怒りは全く的外れである。そしていわゆるベツレヘムの嬰児虐殺。しかしわたしたちは知っている。すでに『出エジプト記』では、モーセの誕生物語の前触れとして、ファラオのヘブライ人の嬰児虐殺命令があることを。忘却の穴に投げ込まれるはずの事件が、救い主の誕生の光の中で描かれる。だからこそ人々は救い主を待ち望んでいたのだ。


三人の博士、そしてヨセフとマリアはヘロデとは真逆の道を歩んだ。救い主のいのちのために全てを投げ打って歩むという生き方。これは人の弱さを深く感じる繊細さの中で苦しむことも多い道。けれどもそのような者の夢に、天使の声は響く。「ガリラヤ人よ、汝は勝てり」。教会を迫害したローマ皇帝ユリアヌスは、そのように呟いた。皇帝ユリアヌスには、不思議とヘロデ王の姿が重なる。そして、殺害されたベツレヘムのこどもたちは、神の国の実現、神の支配の訪れととも全てが新しくされたときに、キリストと深くつながって復活するのである。クリスマス物語には、すでに終末論的な救済の調べが静かに響く。メシアはこのように、わたしたちの交わりを恐怖から解放し、いのちの光で包み、新たにしてくださる。ベツレヘムはキリストによる救いの始まりの場として「決して小さな者ではない」。破れに満ちた世の交わりを新たにするメシアはこうして生まれたのだった。