2017年7月23日日曜日

2017年7月23日「二人の主人に仕えられないわたしたち」稲山聖修牧師

聖書箇所:『創世記』18章20~33節、ローマの信徒への手紙1章18~24節

 高度経済成長期、飢えの記憶を忘れようとするかのように日本は戦後の復興を急いだ。他方で教会は別の尺度を掲げてきた。「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらからである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(マタイによる福音書6章24節)。かの時代に教会には多くの女性・こどもたち・社会が求めるのとは異なる特性をもつ人々が集まり「人はパンだけで生きるのではない」との言葉を味わった。「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」との言葉で「富」と訳されるのは「経済的な豊かさ」というよりも「富を司る偶像・マモーンの神」。マモーンにひれ伏して幸せになれるとの考えが新約聖書の記された時代にはあった。
 旧約聖書にある族長アブラムと甥のロトと物語。豊かになった争いを調停するために、アブラムとロトは別の道を行く。ロトが選んだのは見渡す限り潤っていたヨルダン川流域の低地一帯の都市国家ソドム。
 ソドムは豊かさが却って災いし、ヨルダン川流域の都市国家同士の略奪戦争に絶えず晒される。人心も荒廃し、人々は刹那的な享楽の虜となる。まさに「神ではなく、マモーンにひれ伏す町」。宇宙万物の創造主であるアブラハムの神はどのように向き合ったのか。
 「主はいわれた。ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。わたしは降っていき、彼らの行跡が、果たして私に届いた叫びの通りかどうかを見て確かめよう」。宇宙万物の創造主はソドムを直ちに裁くこともできたはずだ。けれども神が完全であるほど、軽々しくその裁きのわざを振るわない。神は暴君ではない。自然災害や天変地異も神の裁きであると理解された時代、アブラハムは根本的な問いを発する。アブラハムはソドムにマモーンを拝む者がいたとしても、正しい者がいたとするならどうするのか、神に仕える者がいたとするならばどうするのかと迫る。繰り返される問答の中、10人しか正しい者がいなかったならと問い、主なる神は「その10人のために私は滅ぼさない」と応じる。
 『ローマの信徒への手紙』の今朝の箇所では「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現わされます。なぜなら、神について知り得る事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現われており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地はありません」と厳しくパウロが神の審判について語るとき、私たちはこの手紙がローマのキリスト教徒に向けられており、神との関わりに開かれてなおも、どっちつかずの態度に揺れ動いている者がいるのを前提にしている。なぜこのような諫めをパウロは語るのか。「そこで神は、彼らの心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました」。人の身体を、神の御霊の宿る神殿としてパウロは理解する。マモーンとの関わりの中で神殿を汚すのは、神の冒涜に留まらず、人の在り方や教会の交わりを歪めることをパウロは知っていた。
「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらからである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」。神の賜物としての富に関わるならば、それは神に仕えるため、証しするためのもの。私たちはもはや二人の主人には仕えられない。だから安心して誘惑に満ちた世に漕ぎ出そう。「われらを試みに遭わせず悪より救い出し給え」との祈りはすでに聞かれている。

2017年7月16日日曜日

2017年7月16日「わたしは福音を恥とはしない」稲山聖修牧師

聖書箇所:創世記16章1~14節、ローマの信徒への手紙1章16~17節

私たちが公には語りづらい物語を旧約聖書は堂々と書き記す。旧・新約聖書の物語を一貫するのは天地の造り主である神であり、その神が世に遣わした救い主が軸となる点。だから聖書は時に私たちの道徳観を突き破るように、理想化された人間像をたたき壊すようなドラマすら描く。
今朝のアブラムとサライ、そしてハガルの物語もそのひとつかもしれない。族長アブラムへの祝福の約束にも拘わらず妻のサライは不妊の女性とされた。神の約束の成就の道筋は秘義に属する場合もある。そして人はその成就を待ちきれずにあらぬ行いへと及ぶ。サライはハガルというエジプトで得た女奴隷をアブラムに遣わす。これはハガルにもサライにも辛い判断だ。「主はわたしに子供を授けてはくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかも知れません」。このサライの思いつめた申し出は、アブラムがカナン地方に住んでから十年後であった。人生が今よりも儚い時代の十年。どれほど長く辛かったことか。
しかしこの憂いを意に介さずハガルはいのちを授かる。世継ぎを授かったことは喜びではあるが、サライにはわが子ではない。張り裂けんばかりの思いは、まずは夫のアブラムに向けられる。「わたしが不当な目に遭ったのは、あなたのせいです。女奴隷をあなたのふところに与えたのはわたしなのに、彼女は自分が身籠ったのを知ると、わたしを軽んじるようになりました。主がわたしとあなたとの間を裁かれますように」。この言葉には、ある鍵が隠されている。サライが思いの丈をぶつけるのは夫のアブラムだ。次いでサライは「主がわたしとあなたとの間を裁かれますように」と叫ぶ。サライは側女ハガルに直接思いをぶつけはしない。裁くのは人ではなく、主なる神。思い乱れてもサライはこの一点を外さない。アブラムの答えは「あなたの女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがよい」。アブラムが正妻と側女の問題に立ち入ることになれば、問題は余計に複雑になる。アブラムは黙することで問題の源は私にあると語る。
その後サライはハガルを虐める。サライのもとから逃げるハガルは、未来に開かれた主の御使いとの出会いを経る。御使いが問うには「サライの女奴隷ハガルよ、あなたはどこから来て、どこへ行こうとするのか」。「女主人サライのもとから逃げているところです」とハガルが答えると、御使いは女主人のもとに戻れと命じた後に「わたしは、あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす」と約束する。これはかつて主なる神がアブラムに交わした祝福の約束と内容上同一のものだ。神の祝福の前には性差や階級のような一切の生活状況が問われない。続いて身籠ったいのちの名前が刻まれる。「イシュマー・エル」。「エル」とは神を意味する。「イシュマー」とは聞く、あるいは聞いた、を意味するヘブライ語。神がこのとき何を聞いたのか。最も運命に翻弄された、女奴隷ハガルの苦しみであり悩み。旧約聖書の神は最も虐げられた者の悩み、苦しみ、悲しみに耳を塞ぐことなく、そして何らかのわざを行わずにはおれない。それが新しいいのちの名前となる。
この物語をイエス・キリストは幼い時から味わった。そして使徒パウロもこの物語を踏まえ、次のように書き記す。「わたしは福音を恥とはしない」。要となる言葉は「恥」。「私は福音を恥とはしない、それは信じる者すべてに救いをもたらす神の力だ」。パウロは様々な辱めを身に負ったが、それを全て十字架のキリストの苦しみに重ねた。ハガルが受けた辱めと悩み。神の力は他者には語りきれない痛みを通しても私たちの身に及ぶ。この痛みを祈りのうちに分かち合える交わりは、キリストを中心に広がるのだ。

2017年7月9日日曜日

2017年7月9日「神から託された、果たすべき責任」稲山聖修牧師

聖書箇所:創世記13章1~13節、ローマの信徒への手紙1章8~15節

アブラムは親族間の争いにあって乾坤一擲の手を打つ。それはロトに和解の提言を族長自ら行い、族長の権利である部族の進む道を選ぶ決断もロトに委任する。争いは貧しさからだけでなく過剰な豊かさからも生まれる。しかもそれは豊かさでは克服できない質の悪いものである。神に選ばれたアブラムはその問題を見抜いていた。その結果、ロトは肥沃なヨルダン川の低地一帯を選び、アブラムはロトの進む先に比べれば荒れ地の多いカナン地方に進んだ。ロトの選んだ豊かな土地は多くの罪に溢れていたというから、その判断は浅はかだったのかも知れない。
ところで『ローマの信徒への手紙』が執筆された頃の教会には福音書も何もない。有名な使徒だけではなく、名もない多くの伝道者たちがイエス・キリストの教えを伝えている。文字通り散らされているような具合ではあるが、一見すればバラバラな集いの間に網の目状の交わりがもたられる。神が備えたもう、交わりのネットワークがあるからこそ、パウロは神への感謝を書き記す。「まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてわたしの神に感謝します。あなたがたの信仰が全世界に伝えられているからです」。族長物語の上を行く広がりが記される。「全世界」と訳される「コスモス」とは秩序づけられた宇宙全体をも示す言葉。「わたしは、御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています。その神が明かししてくださることですが、わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし、何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています」。パウロは実に情熱的にローマ訪問の願いを語る。この願いは実際にはローマへの護送で実現する。けれどもそれはパウロには喜びだ。なぜパウロはローマへの訪問を、我が身の安全に代えてでも望むのか。「わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります」。この責任は誰から託されたものなのか。それはアブラムに働きかけたのと同じ神。そしてアブラムの世には現れてはいない救い主・イエス・キリストによる。「ギリシア人にも未開の人にも」。聡明なギリシア人とは異なり、一方で未開の人々とはその時代では「バルバロイ」(言葉の乱れた人々)と蔑まれた、さまざまな迷信に囚われ、文字すら知ることのなかった、おそらくは地中海を囲む地域の先住民族であろう。一口に異邦人と称しても実態は分断と諍いがそこかしこにある。その後には続くのは「知恵のある人にもない人にも」。「知恵のない人」とは英語ではfoolishとなる。単に知恵がないだけでなくて、品がなく、善悪の判断基準やタイミングを見極める力、あるいは事柄の重さ軽さの見極めが立たない愚かな人々。パウロの目指した異邦人伝道で出会う人々には、愚かさをもとに分断されがちな人々が大勢いた。けれどもパウロは特定の相手にだけ責任があるとは言わない。なぜならこの全ての人々には、物理的・文化的にはどれほど距離や反目があろうとも、イエス・キリストに示された和解と交わりが成り立っているからだ。
この世の交わりにあって肩を落とすことがあっても、神さまから託された責任に私たちは背中を押されている。この責任は裏を返せば、主イエスにあって備えられた聖霊の追い風である。だから私たちは、往生際悪く、神の愚かさに徹することができる。『ローマの信徒への手紙』に前後して記された『コリントの信徒への手紙Ⅰ』には「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」とある。族長アブラムは浅はかなロトを決して見捨てずにいのちを救うべく力を尽くした。イエス・キリストにあって与えられる聖霊は実に力強く、不撓不屈の力となってくださる。臆せず新たな課題に常に挑む者でありたい。

2017年7月2日日曜日

2017年7月2日「神の恵みの選びは全てを包む」稲山聖修牧師

聖書箇所:創世記11章31~12章4節、ローマの信徒への手紙1章1~7節
 
「神の選び」との言葉は様々な誤解を重ねられた。この言葉が語る者や教会組織そのものの自己礼賛に用いられるならば、知らずしらず教会は深い堀や壁をめぐらし、他者に仕える力を失う。聖書のメッセージは、その壁を破り、誰かとの関わりを想起させ、感謝すべき関わりに目覚めさせ、私たちを謙遜に導く。
 創世記の12章には、信仰の父と仰がれるアブラハムが「アブラム」として登場する。その名が現れるのが、11章のノアの息子セムの系図、そしてアブラムの父であるテラに始まる系図だ。ところで、信仰の父と仰がれるのはアブラムであるにも拘らず、その父テラから物語が始まるのは何故か。
 実はアブラムにもまた、当人の自覚としては神の招きを受ける前の時期があった。同時に、神自らはアブラムを招きに応じる前からその祖先の時代から知っていた。なぜならば、旧約聖書に記される神は、宇宙・万物の創造主でもあるからだ。その中で描かれるアブラムの父テラ。創世記の11章31節では、「テラは、息子アブラムと、ハランの息子で自分の孫であるロト、および息子アブラムの妻で自分の嫁であるサライを連れて、カルデアのウルを出発し、カナン地方に向かった。彼らはハランまで来ると、そこにとどまった。テラは二〇五年の生涯を終えて、ハランで死んだ」とある。都市国家ウルにまず注目したい。
 都市国家ウルは実はチグリス・ユーフラテス川流域でも繁栄を極めた。その土地で農業を営むには灌漑農法が必要だった。その結果、一時期には一粒の麦から76,1倍もの収穫が得られるまでになる。但し水が蒸発する場合、土の中に含まれる塩が引き出される。この塩害によって麦の栽培が困難になり、国力を失ったウルは滅亡する。テラの旅の始まりはこの出来事と決して無関係ではなかったことだろう。かりそめの安定から身を起こし立ち上がり、羊などを追いながら旅を続けるという厳しい生活環境に身を投じる道を踏み出したのがアブラムの父テラ。テラ自らは神の招きを自覚することもなくハランの地で生涯を終えた。彼はアブラムが宇宙・万物の主なる神に出会う道筋を整えた点では重大な役割を成し遂げた異邦人であり、アブラムとの関わりの中で神に祝福されていた。
 この話に立つと、仮に私たちが、家族の中で一人教会に足を運ぶという身にあったとしても、あるいは人には話すのが困難な事情を抱えながらこの場に集い得たという身にあったとしても、聖書に記され、アブラハムを選んだ神の愛は、その方をも包んでおられるとの理解が拓かれる。他に選びようのない道を歩む人に先立って困難な道を開拓してくださるのが、主イエスがメシアとして証しし、パウロが繰り返し噛みしめた神の恵みの選びの出来事である。
 『ローマの信徒への手紙』冒頭には、「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選びだされ、召されて使徒となったパウロから」とある。救い主はただ一人、まことの人の姿となったイエスである。そして「神の福音のために選びだされ」と続く。パウロ最大の関心事は、「わたしたちの主イエス・キリスト」にある。そしてこのメッセージは、その時代としては、直接にはこれは、パウロの導いた教会のあったシリアからも、歴史的にイエスのわざを知っていた使徒の拠点であったエルサレムからも遠いローマに向けられている。その一方で、時を超えてこの場に集う私たちにもまた向けられている。「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」。このパウロの挨拶は、私たちを全て神の恵みの選びの出来事の中に包み込むのだ。

2017年6月25日日曜日

2017年6月25日「祝福された最後の働き」稲山聖修牧師

聖書箇所:使徒言行録28章23~31節

 トルソーという彫刻の類型。完全体ではなく腕や頭部を欠損した作品を意味する。しかしそのような欠けがあるからこそ、ダイナミックな動きに思いを馳せることができる。
 パウロの伝道も様々な欠けに満ちていた。パウロは元来ユダヤ教ファリサイ派の律法学者で教会を迫害していた。また異邦人伝道はエルサレムの使徒から警戒されていた。そのような傍流のパウロがなぜ今日に至るまで一定の名を留め、その書物がルターやバルトの目覚めに繋がったのか。パウロは一貫して世界伝道者であった。多くの言語に通じ、ローマ帝国の市民権があり、そして旧約聖書の解釈に通じていた。一切の名声を投げ打ち傍流に留まったパウロだからこそ異邦人からの支えは思わぬ所から訪れた。遺された多くの文書との対話を経て今日の新約聖書が完成したとも言える。『ローマの信徒への手紙』11章にはイスラエルと異邦人の関わりの喩えとしてオリーブの接木を語る。根を下ろした野生のオリーブはイスラエル、接木されたのは異邦人キリスト者。そして『コリントの信徒への手紙Ⅰ』3章によれば「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし成長させてくださったのは神」。パウロのこのようなメッセージから拓かれる展望とは何か。
 第一にはかつてイスラエルに敵対した部族もキリストの福音に包まれることだ。『出エジプト記』でヘブライ人を虐げたファラオも異邦人。また、イスラエルの民と争うアマレクやペリシテの民、アモリ人、ヘト人、ペリジ人、エブス人、アッシリア人、バビロニア人もまた異邦人。これらの異邦人にもキリストの福音の力が及び、全ての民を包む。第二には「時」を超えた福音の広がりがある。パウロの記したテキストは地球規模で世界を覆うことになった。中東から遠く離れた極東の地で福音が宣べ伝えられると誰が想像しただろうか。このように、旧約聖書を縦横無尽に解き明かしたパウロとその影響を受けた人々のわざは、世のいたるところへと広がった。本日の箇所ではパウロは宿舎にやって来た大勢のユダヤ教徒相手に朝から晩まで力強く証しを立てたとある。旧約聖書を用いて語りかけた結果、ある者はパウロの言うことを聞き入れ、イエスが救い主であると認めた。パウロはイザヤ書の6章9節から10節を引用し、異邦人に向けられた救いを語る。
 使徒言行録の書き手は次のように記して筆を置く。「パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」。それではその二年を経てパウロはどうなったのか。殉教したとの話が有力だ。
 この証しの群れに泉北ニュータウン教会も立つ。かつてドイツ語圏の教会関係者や神学研究者と語らった際、「日本の教会員は質実ともに実によく教会を支えている」と感嘆された。また同時に、日本の心ある教会は、かつて私たちがナチスの時代に迫害したユダヤ教と同じ状況に置かれているとの言葉も頂いた。これは私たちの信仰生活が絶えず地域の文化や人間関係との間にある葛藤を踏まえての話。その葛藤こそ教会の力の源だとの言葉に感じ入った。私たちの信仰はそのものとしてはまさにトルソー。私たち一人ひとりのアイデンティティーが教会に深く根を下ろしているかどうかは、絶えずアブラハムの神が吟味されている。『ガラテヤの信徒への手紙』でパウロが記すとおり、イエスの焼き印を私たちが身に帯びていることは、同時に私たちがアブラハムの神のものであることを示す。私たちがキリスト教という宗教を選んだのではなく、神が私たちを招いてくださった。パウロの最後の働きを祝福していた神の愛に包まれ、ひらすら歩んでまいりましょう!

2017年6月18日日曜日

2017年6月18日「思いがけない助けと勇気の中に」稲山聖修牧師

聖書箇所:使徒言行録27章17~22節

使徒パウロの手紙の中には、思わず頷いてしまうような人間臭さを赤裸々に記した箇所が登場する。『コリントの信徒への手紙Ⅱ』11章23節でパウロは自らの労苦を切切と訴える。「苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から四十に一足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度、一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟達からの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります」。但しパウロの場合、このような労苦を次のように締めくくることにより、彼ならではの意味づけを行う。「だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくならば、私は心を燃やさないでいられるでしょうか」。パウロの労苦には「誰かのために」との視点が色濃く反映される。
パウロはエルサレムでの宣教活動の最中、エルサレム神殿境内での逮捕が不当であったと皇帝に直訴し護送され、困難を極めた旅路の果てにローマに入る。使徒言行録でパウロは雄弁に逮捕の不当性をローマのユダヤ教徒の代表者に訴える。かつてパウロはサウロとの名前の下、ユダヤ教の律法学者として教会を迫害する立場にいた。しかし復活したキリストの声を聴く出来事の中で、律法学者として得られた特権を何もかも投げ打ち、先ほど申しあげた労苦を経て、ローマに到着した。「石を投げつけられたことが一度」とは石打刑で処刑されかかった可能性も暗示する。
しかしローマで出会ったこのユダヤ教徒の反応はパウロの予想を裏切った。「あなたの考えておられることを、直接お聞きしたい」。この反応は実に誠実だ。使徒言行録の物語の流れで言えば、キリストにおける神の愛の力である聖霊の働きが隠されている。パウロはこの出会いの前には相応の覚悟をしていただろう。その予想は良い方向で裏切られる。
こうした出会いの連続の中、パウロは「思わぬ助けと勇気」を感じてきたに違いない。そして深い感謝の念に満たされていただろう。『ローマの信徒への手紙』には、次のように記される。「まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてわたしの神に感謝します。あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです」。冒頭にあるのは何かの指南ではなく、すでに神の恵みの中に道が備えられていることへの感謝。パウロより前に道を整えていた無名の人々がいたからこそ、まずはパウロの考えていることを直接聞きたいとの声が、本来は敵対するはずのユダヤ教徒の側からあがる。何の小細工も駆け引きもない。
教会の歴史には様々な破れや紆余曲折がある。泉北ニュータウン教会の牧師も教会員を傷つけているかも知れない。また時には私たちの間に騒々しい混乱が起きるかも知れない。礼拝の後に遣わされる各々の場にあっても同様だ。しかし「あなたの考えていることを直接聞きたい」との誠実な声があるならば、私たちは神の愛に裏づけられた勇気を新たに備えられる。「誰かのために」という生き方は、完結することなく、絶えず誰かに伝えられ、水面に広がる波紋のように広がっていく。キリストにあって備えられる、思わぬ勇気と助けを信頼し、新しい一週間を始めよう。

2017年6月11日日曜日

2017年6月11日 こどもの日(花の日)礼拝「どんなときでも」稲山聖修牧師

聖書箇所:マルコによる福音書5章38~41節.稲山聖修
 
 今日のお話の題は、この後歌う讃美歌の題と重なります。この讃美歌の歌詞を作ったのは高橋順子さんです。今から58年前に生まれて、ちょうど50年前に神さまのもとに逝かれました。7歳と聞きましたから、保育園を卒園して小学校に入学したころに神さまのもとに召されたこととなります。大人の目から見れば短い一生だったと可哀想になるかもしれませんが、順子さんが7年間を一生懸命生き抜いたことを考えれば可哀想などと簡単にはいえません。全国の教会には教会学校や日曜学校といった集まりがあります。順子さんは福島市・福島新町教会の教会こども会に出席していました。元気なお友だちだったそうですが、ある日大きな病気に罹っていることが分かりました。骨の癌。今の時代では治せない病気ではなくなりつつありますが、今から50年前では治療といえば悪くなったところを骨ごと切りとるほかありません。手にできれば手を失い、足にできれば足を失うという病気です。手術の日が近くなったとき、順子さんは強い痛みと恐怖の中で必死に祈り、その祈りを詩にしていきました。それが「どんなときでも」という讃美歌になり、順子さんが神さまのもとに旅立たれた後も、入院したり、病気になったりして悲しい思いをしているお友だちを励ましています。
 今日の聖書の箇所では、病気で死にそうだ、といわれていた女の子を助けにイエス様がお弟子さんと一緒に旅をしたというお話が記されます。イエス様はわたしたち一人ひとりを大切にしてくださいます。けれども、実際に女の子のおうちについてみたら、大人たちは泣きわめいています。大騒ぎです。「女の子が死んでしまった」「もうおしまいだ」と嘆くばかりです。そんな中で、イエス様は「あなたがたはどうして騒いでいるのか。この女の子は眠っているだけだ」といって、「さあ、起きてごらんなさい」、いや、イエス様は地域の言葉を用いましたから「起きや」と、女の子の手をとって語りかけました。周りの大人はだめだ、だめだと騒いでばかりでしたが、イエス様は最後まで神さまとともにいました。女の子は立ちあがったのです。
 このように、こどもたちの病気を治しながら旅したイエス様でしたが、女の子のいのちと引き換えになるかのように、イエス様は十字架におかかりになって殺されてしまいました。骨の癌は身体の奥からの痛みで苦しくて仕方がないと申しますが、十字架の苦しみはそれ以上の痛みです。誰も助けようとはしてくれないからです。けれども十字架で死んでしまった後、イエス様が大好きだった人たちの間に、イエス様が甦った、復活したというお話が広まりました。聖書には、お墓の中から出てきたイエス様が初めてあった人に挨拶する様子が記されています。「おはよう」って挨拶してくださるのです。そしてイエス様を失って悲しんでいた人々を40日にわたって慰め、励ました後に、天に昇られました。今度は弟子たちの番。弟子たちに神さまの力がそそがれて、イエス様を慕う人々を集めて教会をつくり、今日まで続いているのです。
 今日は順子さんの作った讃美歌を歌った後、風船で遊びます。稲山先生はこの遊びがとても好きです。高校生だったころ、病院で風船を使って遊んだことを思い出すからです。世界にはつらい思いや苦しい思いをしているお友だちは少なくありません。けれども風船が空高く飛んでお友だちのところに届くように、私たちのつながりもいろいろなお友だちにつながって苦しみや悲しみを分け合い、喜びや楽しみに変えていくことができます。神さまの愛は、私たちにそんな素敵な力を備えてくださるのです。私たちの見えないところにいるお友だちのために祈りましょう。