2018年11月18日日曜日

2018年11月18日(日) 説教「後ろをふりかえらずにあゆむ道」稲山聖修牧師

2018年11月18日
説教「後ろをふりかえらずにあゆむ道」
ルカによる福音書9章57節~62節

稲山聖修牧師

都市国家ソドム滅亡の物語は、旧約聖書の中でもよく知られている。物語の軸は族長アブラムと甥のロト。家畜が殖えすぎた結果生じた親族間の紛争を避けるため、アブラムはロトに自分の望む道を選ばせる。族長としての権利の一時的な留保である。そして甥ロトとは異なるあゆみを、アブラムは選んだ。この知恵によって、辛うじて骨肉の争いは避けられた。ロトが選んだ道はヨルダン川流域の低地一帯の肥沃な土地。ロトの道は、かの都市国家に通じていた。他方、アブラムは別段ライフスタイルを変えることなく天幕に暮し続けた。
 ところで、貧しさが極まると人は正常な判断ができなくなる。これは快適さの頂点にいても言えるようだ。繁栄の極みにあったソドム。都市の滅びを告げる御使いの言葉に、ロトの家族の対応は決して毅然としたものではない。ロトの伴侶は逃避行の最中、御使いの言葉に反して後ろを振り返り落命する。結局のところ、二人の娘の他には、ロトは家族を失うこととなる。決してハッピーエンドを迎えない、苦味を伴う物語には、神のとの関わりの中で展開するリアリズムがある。

 主イエス・キリストも福音書の書き手も、この物語を知っていたはずだ。「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」。主イエスの今朝の言葉である。けれどもそれは、御使いがロトに求めた決断とは、やや異なるだろう。キリストに従う道は、単なる破滅からの逃避行とは必ずしも一致しないからである。
 「あなたがおいでになるところなら、どこへでも従ってまいります」と語る人にキリストは応える。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕するところもない」。キリストに従う道とは、世の交わりの只中で、世の眼差しとは異なる視点を授かることだ。同時にこれは、世の様々な中傷を恐れないことでもある。彼にその勇気はあっただろうか。
 また「わたしに従いなさい」と呼びかけられた別の人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と返す。もし弔いが本当ならば、この人はこの場に居合わせてはいないはずだ。問題は、弔いを引き合いに出して招きを断ろうとしたところにある。さらに他の人が言うには、「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください」。この人はキリストに従う上で、何か失うものがありはしないかとの恐れから逃れられずにいる。家族との関わりと、イエス・キリストとの関わりを別個に考えている。心定まらず家族に依存してしまっている。主に全幅の信頼をおけない悲しみがある。わたしたちにも決して他人事ではない。


 イエス・キリストに従う道。劇的な変化を直ちにもたらすかと問われれば、必ずしもそうではない場合もある。けれども、「おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に心がけるべきです」との『ローマの信徒への手紙』のパウロの言葉には、キリストを中心とした交わりの中では、単に「足るを知る」だけに留まらず、分かち合いの喜びがあると伝えようとしているメッセージがある。「隣人」という言葉には、血縁・地縁・文化・言語・国籍・世代・性別を超える寛容さが示されている。そこには神から授けられたいのちの鼓動が響く。この交わりこそが「神の国の写し」なのではないだろうか。後ろを振り返らず、キリストを仰ぎながら、感謝の喜びの中で、主にある交わりを広げていきたい。

2018年11月11日日曜日

2018年11月11日(日)幼児祝福式礼拝 説教「このおさなごを見なさい」


 018年11月11日:幼児祝福式礼拝
「このおさなごを見なさい」 ルカによる福音書3章7節~11節 説教:稲山聖修牧師

バプテスマのヨハネという人がいた。荒れ野に暮し、聖書を味わい、らくだの衣を身に纏い、革の帯を締め、いなごと野蜜を糧として生きていた異形の漢。ヨハネに課された役目は何か。それは、神の正義が実現するそのしるしとして、救い主の訪れを人々に告げるためであった。神の正義は何か。それは貧しい人々が不安から解き放たれ、悲しみに暮れる人々が涙を拭われ、あらゆる不公平・不平等がとりはらわれて、人々がみな分かち合いながら暮らすという道筋でもあった。人々はもはやその中では心の痛みを覚えることなく、ひたすら野の花のように素直に生き、他人と自分とを較べず、感謝とともに喜びに包まれるのである。神の国はその結晶だ。

けれども世には様々な暮しがある。豊かな生活を楽しむ人もいれば、貧しさの中で学ぶ機会も得られない人々もいる。誰からも見放されて悲しむあまり、流す涙も失ってしまった人々もいる。善意の言葉に耳を傾けなくなってしまった人もいる。バプテスマのヨハネは人々に呼びかける。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」。ヨハネは心砕かれた人々に、清めの洗礼を授けていく。群衆の中にその時代、人々を導いていた律法学者やエルサレムの神殿で力をほしいままにしたサドカイ派の人々の姿を見出した。律法学者やサドカイ派の人々は、ヨハネから清めの洗礼を受けたところで、その暮しのありようを変えるはずもない。だからこそヨハネの言葉はこだまする。「<我々の父はアブラハムだ>などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧はすでに木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」。名もない群衆は、この厳しい問いかけに戸惑いながらもどうにか応えることができる。「では、どうすればよいのですか」。群衆はなすすべを知らないからこそ、ヨハネに「どうすればよいのか」と問うことが赦されている。その言葉は単純明快で「下着を二枚もっている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」。分かりやすくいえば、財産を独り占めするなということである。徴税人に対しても、お金を人からだまし取るなという。兵士に対しても、略奪せず、定められた手当てに感謝せよと語る。このような人々は人として正気に立ち返り、分かち合いの交わりを育むチャンスを与えられている。この分かち合いにより、人々は貧しさから解放される以上に、自分は一人ではないのだとの平安と和解への道に導かれる。
けれども権力をもち、生活水準が高く、ことさら暮しを変えようとはしない人々は、ヨハネの言葉に耳を貸そうとはしない。けれどもだからといってヨハネは黙ろうともしない。ただ語り続ける。なぜならばその働きは救い主を指し示す一本の指としての働きだからである。
それでは、救い主イエス・キリストは、果たして誰を祝福したというのか。それは群衆の中にいた人々が連れてきたこどもたちである。この子はどのようなこどもたちであったというのか。孤児だったかもしれない。障がいという特性をもったこどもたちだったかもしれない。けれども、こどもたちを連れてきた人々を立ち退かせようとした弟子のさまを、主イエスは深い怒りとともにお叱りになり、語るには「こどもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の正義の実現はこの子たちのなのだ」。このとき、イエス・キリストの眼差しは弟子にも、大人にも向いてはいない。まさしくこどもたちを抱きあげて、その弱さを祝福された。主イエスはこどもたちに、親御さんの言うことをよく聞くようになりなさいと教えたのでもなく、学校に連れて行って勉強させようとしたのでもなく、行儀よくせよと仰せになったのでもない。名前さえ知らないこどもたちを抱きあげて祝福されたのである。どのようなこどもであっても、この祝福から漏れることはない。なぜなら主イエス・キリストは、神の子として世に生まれ、こどもたちの苦しみや子育ての葛藤を、わが身に担う歩みを辿ったからである。ヨハネはキリストを指し示す。キリストはおさなごを祝福し、人々に、神の国の結晶としてお示しになった。「あの方は栄え、わたしは衰えなくてはならない」とヨハネは語った。キリストの栄光は、今や栄えの中にあるこどもたちに向けられている。たとえわたしたちが衰えても、こどもたちへの祝福は永遠なのだ。

2018年11月4日日曜日

2018年11月4日(日) 説教「黄昏は彼方の朝焼け」 稲山聖修牧師

2018年11月4日
「黄昏は彼方の朝焼け」
ヨハネによる福音書11章17節~27節
稲山聖修牧師


何かを描くとき、わたしたちは線をもちいて素描する。しかし実際にはそのような線は存在しない。光と影が織りなす世界を「線」として受けとめはするものの、実は光の反射の度合いに応じて色彩として認識している。身近で親しい々が逝去された場合でも同じようなことがいえる。逝去された方々は、異なる世界へと逝ってしまったかのような悲しみに暮れ、自分でも予想だにしなかった、こみあげる嗚咽に当惑しさえもする。けれども聖書はその悲しみに留まるばかりの生き死にの理解には立たない。
 聖書を突き詰めれば、逝去された方々が主のみもとへ召される場であるところの「天の国」が、実はわたしたちと線引きされた世にあるのではなくて、天国のほうがわたしたちの現実の世の只中に突入してくるという地平が開かれる。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐいとってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」と、『ヨハネの黙示録』21章3~4節に表現されている世界。いのちの光に包まれる中で「逝去された方々の復活」の出来事が理解され、救い主の復活の姿に結晶していく。
 『ヨハネによる福音書』では「いのちの光」が強調される。そのみずみずしい描写が本日の「ラザロの復活」の物語にある。ラザロの病は誰の目から見ても癒しがたいものであった。姉妹たちは、イエスのもとに「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」とのメッセージを伝える。治療が難しいありさまは、イエス・キリストが示す。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」。言葉尻を捉えれば、この病は死に至る病であると主イエスは家族に宣告しているようなものだ。しかし立ちはだかる死の壁が決して絶対ではないことも同時に語る。主の招きに応え、イエス・キリストを通して永遠のいのちに立ち入ることが、わたしたちには開かれている。かくてラザロはその地上の生涯を悲しみの中で終える。「マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた」。その場には、時にキリストを呪い、石を投げようとさえしたユダヤ人の人々もラザロを悼みにきているのだ。敵対関係にある人々が、ラザロの痛みを通し、いのちにいたる深い交わりをともに授かっている。新しいいのちの兆しが暗示されている。それは主イエスが、ラザロの死に悲しむマルタに語る通りだ。「<イエスが、あなたの兄弟は復活する>」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活のときに復活するすることは存じております」といった。マルタも死者の復活を知ってはいるが、それは彼方の出来事に留まったままだ。主イエスはそんなマルタに迫る。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」。マルタは生と死の線引きは、わたしたちの受けとめ方と代わらないのであり、実はその境界線を超えていくキリストが、立ちはだかる死の壁を突破していくとの希望が語られる。いのちの終わりは誰もが避けられない。しかしそれは此方の黄昏と彼方の日の出の「あいだ」に過ぎない、暫定的なものだ。

「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚める時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです」。もしこのパウロの言葉が、すでに眠りについた「永眠者」として刻まれる人々にも向けられていたとするならば。神のいのちの力に導き出されていく歴史として鼓動しながら、イエス・キリストを通してともにおられる逝去者の方々もまた、この礼拝にわたしたちと一緒におられることとなる。「永眠者」の方々は、わたしたちが神の愛に包まれ、喜びの中で生きる「根」となってくださった方々でもある。その根の最もふかいところにはイエス・キリストがおられる。このいのちのつながりを、永眠者記念礼拝の中で、わたしたちは静かに確かめる。

2018年10月28日日曜日

2018年10月28日(日) 説教「成果主義を超えていく道」稲山聖修牧師

2018年10月28日
「成果主義を超えていく道」
ルカによる福音書12章13節~21節
稲山聖修牧師


 ハロウィンは教会ともキリスト教とも本来は何のゆかりもない。けれどもその祭りが行われる時期と教会の暦は無関係ではない。今でいう諸聖人の日。中世の教会では、神とキリストのもとに地上での働きを祝福された諸々の聖人の憩う天国、現世、世の人々がその過ちのゆえに死後に償いを行う煉獄、そして大罪を犯した人々が凍りづけにされる地獄という四層の世界を伝えた。聖人の徳を教会を通して分けてもらい、そして少しでも煉獄での苦しみを短くしようとするクーポン券が献金の領収書の役目も果たしていた。それが贖宥状。死後の世界にまで功徳という成果が竿を差すという考えが常識だったが、実は聖書にはそんな考えはない。この発見が当時の欧州社会のあり方を覆す「宗教改革」につながった。

 成果主義という言葉は2018年現在の世の中でも底知れない不気味さを伴っているが、聖書に記される主イエスはどのような考えに立ったのか。『ルカによる福音書』の箇所では、ある相談事がキリストのもとに持ち込まれる。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」。この申出にキリストは厳しく応じる。「だれがわたしを、あながたの裁判官や調停人に任命したのか」。この相談事をきっかけにする教えは「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物をもっていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」。続く主イエスの譬え。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは<どうしよう。作物をしまっておく場所がない>と思い巡らしたが、やがて言った。<こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と>。しかし神は、<愚かなものよ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか>と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならないものはこの通りだ」。

 「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」と極めて厳重に指摘されるのは、わたしたちが何でも自分だけのものにしたがる傾向を帯びているところ。譬え話はその傾向を分かりやすく表現する。キリストは人間に「自分のものは自分のものなのだ!」と臆面も無く主張するさまを見抜く。そしてそのためにどのような手段も選ばない、血なまぐさい争いの姿を観る。

 それではどうすればよいのか。わたしたちが仮に経済的に富める立場に立つとするならば、続く「野の花・空の鳥の譬え」を真剣に味わいながら、その富を分かち合うわざを誠実に考えることだ。ただしこのわざは貧しい立場にある人のほうが踏み出しやすい世界かもしれない。なぜなら神が備えてくださった宝は、経済的な蓄えに限らず、時間、奉仕、思い、祈り、時には病や悲しみにも隠されているからだ。山上の説教で「貧しい人々は幸いだ」と語り、貧困や悲しみのどん底に置かれている人々に、交わりと分かち合いの豊かさを説いたのはイエス・キリストである。その分かち合いの喜びを、愚かな金持ちが知らなかったとするならば、それこそ不幸というものだ。本来はともにいるはずの畑を耕す労働者や家族の姿は譬え話のどこにも描かれない。成果主義の行き着く果ては、交わりの断絶に尽きる。パウロは『ローマの信徒への手紙』12章15節に記す。「喜ぶ人とともに喜び、泣く人とともに泣きなさい」。いったいこの言葉のどこに成果主義があるというのか。宗教改革者たちは、人はそのわざによって天国に居場所を与えられるという、かの時代の成果主義の壁を破った。イエス・キリストが生涯を通してお示しになったのは、わたしたちが天国へ行くのではなく、天国がわたしたちのもとに来るという出来事だ。その出来事を胸に刻みながら、世の成果主義とは別の道が示されていることを証ししたい。11月からアドベントやクリスマスに向けて、教会のわざはますます豊かになる。みなさまにはお疲れよりも主なる神の平安と喜びが先立つように願ってやみません。

2018年10月21日日曜日

2018年10月21日(日) 説教「苦しみ、憤り、微笑むキリスト」稲山聖修牧師

2018年10月21日
説教「苦しみ、憤り、微笑むキリスト」
マタイによる福音書5章1節~12節
稲山聖修牧師

「山上の垂訓」。敵を愛しなさいとの教えと並び、世に広く知られている主イエスの教えだ。その教えを傾聴しながらも、わたしたちは主イエスの言葉に向き合った人々の姿をいつの間にか忘れる。教えの聴き手は、教えの宣べ伝えや病の癒しをきっかけに出会った、時にエルサレムの人々からは異邦の地と蔑まれた地に暮らす人々の群れ。この群れは主イエスの回りに「集った」のではなく「従った」と記される。この文章を踏まえると、名だたる弟子たちには群衆と違いがあるようには思えない。

「心の貧しい人は幸いである。天の国はその人たちのものである。悲しむ人は幸いである。その人たちは慰められる。柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は幸いである。その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は幸いである。その人たちは憐れみを受ける。平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたがより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」。この教えは一般的な常識や道徳の逆を行く。「心の貧しい人」とは謙遜どころか、経済的にも貧困の最中にある人々を指す。但し、世の倣いから落伍し、暮しに汲々とするほかない民は、決して単数形では記されない。キリストから「幸いだ」と示されるとき、困窮にある人々は分かち合いの中に置かれ、神の国のモデルとなる。「悲しむ者」も決して単数形では記されない。慰めによって全人的な支えを必ず受ける。「柔和な人々」、即ち暴力を前にして無力なままの人々にこそ、神は必ず居場所を与える。不正な世のあり方を前にしながら義憤に駆られるほかに道のない人々は、そのような憤りを覚える必要がないところを備えられる。憐れみ深い人々は、その憐れみの故に交わりから絶たれることはなく、心の清い人も、その繊細さ故に苦しみを知ることはない。平和(シャーローム)を実現する人々も幸いと呼ばれ、キリストからの祝福を授かる。世の只中に身を置き、ときにいのちすら奪われていく人々でさえ、神の祝福から決して退けられない。

イエス・キリストは自ら、極貧をを知り、涙を流し、なすすべなく立ち尽くす人々の只中に分け入り、迫害を恐れず神に備えられた道を辿り、痛みを分かち、生きづらさを抱えた人々とともに立ち、平和を喜び、人々に代わって世の不当な暴力を一身に背負われた。主イエスは「悟り」を開いたり、超然とした態度でわたしたちに向き合いはしない。「向き合う」というよりも、「ふとそばにいてくださる」というあり方。山上の垂訓はそのような姿を示す。このような慰めと祝福によって十全に肯定された「大勢の群衆」は、新しい役目を授かる。それは「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」との役割だ。自らを蔑むほかない者が、今や世の光としての輝きに包まれて、キリストの証しを立てるのだ。

 パウロは『ローマの信徒への手紙』12章1~2節で、パウロは「この世に倣うな」と記す。世の倣いを教会の交わりに持ち込んでは自己満足しがちなわたしたちには強烈な教えだ。それでは誰に倣うのか。それは誰に従うのかとの問いかけに等しい。キリストに従う道。この世と深く関わりながら、この世に倣うことなく歩んだのがイエス・キリストだ。その姿をおぼろでありながらも、映し出す群れこそがわたしたちである。病の中にも、悲しみの中にも、キリストはそばに立ち給う。

2018年10月14日日曜日

2018年10月14日(日) 説教「大きな挫折による新しい目覚め」稲山聖修牧師

2018年10月14日
「大きな挫折による新しい目覚め」
マルコによる福音書14章66節~72節
説教:稲山聖修牧師


「しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない」。破れに満ちた人間が、神に立てる誓いに潜む欺瞞を鋭く抉るキリストの教えがあるのにも拘らず、弟子は軽々に主イエスに誓う。ペトロの場合。『マルコによる福音書』14章29節以降の箇所では「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」とあり、31節の「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と主張する。これは結果としてキリストの前に立てた誓いとなっている。ペトロの誓いが砕かれるさまを、今朝の箇所では実に生々しく描く。
 「ペトロが下の中庭にいたとき、大祭司に仕える女中の一人が来て、ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。<あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた>。しかし、ペトロは打ち消して、<あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない>と言った」。女中の眼差しに、ペトロは堪えられない。雄鶏の声。女中は再び「この人は、あの人たちの仲間です」と言い出す。打ち消すペトロ。居合わせた人々は「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから」と連呼する。キリストとの関わりを拒絶するペトロの言葉から、より鮮やかにその関わりが浮かびあがる。呪いの言葉さえ口にしながらペトロは主イエスを知らないと誓う。キリストとの誓いを破るという存外の誓いを立てるという歪み。その歪みを告発するかのように、再び響く鶏の声。「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」というキリストの言葉を思い出し、ペトロは号泣する。   
 ペトロはイエス・キリストに立てた誓いを破ることを通してのみ、主イエスの教えを全身で受けとめるほかにはなかった。キリストへの誓いを破るわざ。この大きな挫折を、わたしたちはわが身のこととして受けとめきれるだろうのか。しかしながら、キリストを頭と仰ぐ教会の交わりは、この挫折を書き遺した。そこにはペトロを深く包むキリストの愛への確信があった。今朝の箇所には何者をも口を挿むことを赦されない信仰の養いが記されている。過ちによって深く傷つき、その傷を忘れられなくなるペトロの涙。これもまたパウロの記す「イエスの焼き印を身に帯びる」という、身近なところにある神の秘義ではないだろうか。「信仰の継承」とは本質的には教理を刷り込む類のものではない。むしろ立ち直れるかどうかが危ぶまれるほどの挫折を通して初めて与えられる目覚めにある。この目覚めと気づきなしには、わたしたちの信仰は頑ななあり方に留まる他にはないだろう。パウロは『ローマの信徒への手紙』11章25節以降に記す。「兄弟たち、自分を賢い者だとうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです。次のように書いてあるとおりです。<救う方がシオンから来て、ヤコブから不信心を遠ざける。これこそ、わたしが、彼らの罪を取り除くときに、彼らと結ぶわたしの契約である>」。神の契約と人の誓いとは根本的に異なる。救いの契約とは神自らがキリストを通して備えた「いのちの喜び」の約束でもある。多くの交わりと出会いの中で、救い主キリストは、いのちの喜びをわたしたちに贈ってくださった。これこそ、復活の出来事に包まれ、神の愛の力を注がれたペトロの、見違えるような使徒としての働きの原体験ではなかったか。今朝の箇所はわたしたちの高慢さ、あるいは人を裁いたり攻撃するような言動を打ち砕く神の言葉でもある。今朝は神学校日礼拝を行った。常に養いの中にあるわたしたち。この物語を深くふかく受けとめたい。


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2018年10月7日日曜日

2018年10月7日(日) 説教「イエス・キリストの沈黙」稲山聖修牧師

2018年10月7日
「イエス・キリストの沈黙」
マルコによる福音書14章53節~61節
稲山聖修牧師

不当に拘束された上でのイエス・キリストの裁判。この裁判そのものは、果たして正当であったのか。裁判はエルサレムの神殿では行われない。時は夜である。この二つの事柄だけでも裁判の胡散臭さが漂う。『マルコによる福音書』はこの点を見逃さない。「人々は、イエスを大祭司のところへ連れて行った。祭司長、長老、律法学者たちが皆、集まってきた」。衆目を前に憚らない者が夜密かに集まる。これこそがこの裁判のおかしさだ。しかし主イエスの弟子は、恐怖に駆られ徒に逃れてしまった。ペトロはこの場では裁判の不当性の指摘もできず、さりとて関係を断ち切ることもできずという、煮えきらない態度とともに佇んでいる。「遠く離れてイエスに従う」。主イエスの仲間だと指さされるのは恐ろしい。さりとてキリストを見捨てるわけにも行かない。少なくともその仕草からは実に中途半端なペトロを見て取れる。
 この惨めな姿を描いた後、物語の書き手は「祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めたが、得られなかった」と記す。裁判は不当だったのである。最高法院(サンヘドリン)は全員一致の採決を認めない。人による全会一致は必ず過ちを含むというイスラエルの歴史に学んだ伝統が活かされるからだ。その伝統が蔑ろにされるならば、この裁判は不当なのである。偽証は数を集めるほど証言が食い違う。誹謗中傷や心ない言葉を恐れる必要は無い、ということを、囚われの身のイエス・キリストは自ら証しする。
 大祭司は業を煮やし直々に尋問する。「何も答えないのか。この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか」。主イエスは黙ったままだ。イエス・キリストは恫喝に応じない。不正な裁判という同じ土俵には決して立とうとはしないのがキリストの沈黙であり、沈黙という仕方での「戦い」なのだ。「イエスは黙り続けて何もお答えにはならなかった。そこで、大祭司は尋ね<お前はほむべき方の子、メシアなのかと言った>」。イエス・キリストは沈黙を通して、大祭司からも思いがけない信仰告白の言葉を引出す。主導権はイエス・キリストの手中にある。パウロは『ローマの信徒への手紙』11章17節で異邦人キリスト者に語る。「しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接木され、根から豊かに養分を受けるようになったからといって、折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです」。今朝の福音書の箇所は、キリストに向けたあらゆる不利な証言が全て裏目に出るという大祭司の目論見の失敗、真理を前にした世の力の無力さを通して、イエス・キリストのいのちの光が際立つ場面でもある。「古代ユダヤ教の権力者」というオリーブが接木のために折り取られた瞬間だ。本日は世界聖餐日・世界宣教日礼拝である。あらゆる不正の中で、イエス・キリストを宣べ伝え、証しに励む教会があり、働き人がいる。教会の交わりは個人的な交わりを育むだけのものではなくて、キリストを頭にした、世界中に広がる、国境や文化をも超えたネットワークを作りあげる枝である。そのことを忘れずに、数多の自然災害の只中にありながら、なおも真理の証しであるキリストの姿に頭をあげたいと強く願う。

今回の写真は、礼拝堂の他、こひつじ保育園の花壇のお花、保育園児が育てた稲穂、保育園のワタの花(種は福島県から預かったもの)、そして、台風対策で剪定をしたユーカリの木です。



 

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