2017年11月19日日曜日

2017年11月19日「いのちの水を求める声に応えて」稲山聖修牧師

聖書箇所:ローマの信徒への手紙5章9~11節、創世記24章9~14節

 年老いた僕は贈物であるラクダ十頭と主人アブラハムから託された宝物を携えての旅を始めた。この僕は、ラクダを町外れの井戸の傍らに休ませて祈ったと創世記に記される。この祈りは「主人アブラハムの神、主よ。どうか今日、わたしを顧みて、主人アブラハムに慈しみを示してください。わたしは今、御覧のように、泉の傍らに立っています。この町に住む人の娘たちが水をくみに来たとき、その一人に、『どうか、水がめを傾けて、飲ませてください』と頼んでみます。その娘が、『どうぞ、お飲みください。ラクダにも飲ませてあげましょう』と答えれば、彼女こそ、あなたがあなたの僕イサクの嫁としてお決めになったものとさせてください。そのことによってわたしは、あなたが主人に慈しみを示されたのを知るでしょう」。この祈りには、老いし身が、やがて交わりから排除されるのも世の倣いだとの覚悟と、その倣いに流されず、一杯のいのちの水を注ぐところ女性こそ、次世代を担う伴侶に相応しいとの願いが祈りとなる。僕とリベカとの出会いが始まる。
泉のほとりで起きた出会いと交わり。それは明らかに神の祝福のもとにある。この出会いの物語は『ヨハネによる福音書』の「サマリアの女性」の記事に重ねられる。主イエスは旅に疲れて、井戸のそばに座っていた。長旅を続けていたアブラハムの僕のように、である。そこにサマリアの女性が水を汲みに来た。主イエスは「水を飲ませてください」と願う。注目すべきは女性がこの申し出に驚くところだ。それはなぜか。「ユダヤ人とサマリア人とは交際しなかったから」と福音書は記す。ユダヤ人とサマリア人の両者はまるで不倶戴天の敵同士のようだ。女性はイエスに応じる。「主よ、あなたはくむ者をお持ちではないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、そのこどもや家畜も、この井戸から水を飲んだのです」。主イエスは語る。「この水を飲む者は誰でもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠のいのちにいたる水が湧き出る」。リベカはイサクと縁戚にあり、かつ異性を知らない女性。他方、サマリアの女性は、5人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではないと主イエスに指摘される。しかしこの女性は、主イエスとの交わりに加えられ、救い主の訪れをサマリア人に伝える役割を授かり、その器として用いられるのだ。
使徒パウロは『ローマの信徒への手紙』5章9節で「それで今や」と語り始める。「わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです」。空回りする自己本位の正義感は、いつしか交わりの破壊と死をもたらす。絶望の渦巻きにあるわたしたちを、主イエスは自らの血によって清めてくださった。「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させて頂いたのですから、和解させて頂いた今は、御子のいのちによって救われるのはなおさらです。それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです」。イエス・キリストの贖いを通した神との関わりを隣人との関わりに重ねるならば、わたしたちは赦しが人のわざによらず、神の恵みのみによることを体感する。
本日は教会のバザー。働き手の不足を憂うる声も聞こえたが、主は必ず時に適った担い手を備え給う。誰がリベカをアブラハムの僕と出会わせたのか。誰がサマリアに、アブラハムの神の祝福が現臨すると考えたというのか。イエス・キリストから目をそらさなければ、必ず道は開かれる。バザーはその追体験ともなる教会のわざ。いのちの泉は神の祝福のもと、全ての人に備えられている。

2017年11月12日日曜日

2017年11月12日「わたしたちをつつむ主イエスの愛」稲山聖修牧師

聖書箇所:マルコによる福音書7章24~30節

ある母娘と主イエスの出会い。娘の姿は殆ど福音書には描かれない。ガリラヤ湖周辺の町から離れ、主イエスは港町ティルスを訪れた。この港湾都市には多くの非ユダヤ人が住まいを構えており、「異邦人の町」でもあった。特にギリシア人にはユダヤの人々は複雑な思いを抱いたという。律法に無知でありながら、政治的には優位に立つ多数派が異邦人。ユダヤ人は異邦人には歪んだ選民意識に凝り固まった人々に映る。両者の亀裂は絶望的なまでに深かったという。
この亀裂を承知の上で母親は主イエスに近づく。娘は「汚れた霊に取憑かれていた」。重篤な病は福音書ではしばしばこのように表現される。主イエスに出会うその前から、この母娘は神に試みを受けていたのかもしれない。試みの中で母親は主イエスのもとに導かれ、そしてひれ伏した。「女はギリシア人で、シリア・フェニキアの生まれであった」。イスラエルの民とは歴史も文化も一切異なるこの女性には夫が見当たらない。母親は一縷の望みを主イエスに託した。
この求めに主イエスは実に冷淡だ。娘を思う一心からすがる母親に向けられたのは「まず、こどもたちに十分食べさせなければならない。こどものパンを取って、小犬にやってはいけない」との言葉。主イエスが言わんとする「こどもたち」とは、表向きには「イスラエルの民」とも理解できる。なぜならイエス・キリストは、旧約聖書の言葉が示す救い主であると再三にわたって福音書では主張されるからである。「小犬」とは蔑みの言葉で「とるにたらない犬」をも示す。ユダヤ教で言う「犬」とは死肉を貪る山犬である。実に残酷な言葉だ。
しかしながら、当時は単に病を癒すだけの祈祷師は、主イエスだけには限らずたむろしていた。暗に主イエスは次のメッセージを向けているようでもある。それは『マタイによる福音書』7章の言葉。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」。単なる祈祷師であれば、娘の治癒を求める母親の前に敢えて立ちはだかろうとはしない。その代わり、癒しは全てその場しのぎである。主イエスが母親に問うのは病の治癒云々よりも一層深く立ち入ったところにある。それは母親の娘に対する思いであり関係だ。「あなたには今、門は閉ざされている。それではどうするのか」。このように問う主イエスに、母親は知恵とともに答える。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、こどものパン屑はいただきます」。母親は主イエスの一見残酷な言葉を受けとめた上で「主よ」と呼びかける。「確かにわたしはとるにたらない犬。けれどもイスラエルの民との関わりの中で、溢れる恵みはわたしたち異邦人にも注がれている」。その言葉には、まさに母ならではの力が秘められる。救い主に向けた言葉そのものが、娘の癒しの成就を示す。「それほど言うなら、よろしい」。意訳すれば「それほど言うのだから、あなたの切なる願いは叶った」。主イエスは母親との関わりの中で、願いの前に立ちはだかってより強め、母にアブラハムの神の力を備え、聞き届ける。わたしたちをつつむ主イエスの愛は、慌ただしさの中では姿を隠しているのかも知れない。しかし「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたくものには開かれる」と、主イエスは今も語りかける。

2017年11月5日日曜日

2017年11月5日「あなたたちは神の力を知らない」稲山聖修牧師

聖書箇所:ルカによる福音書20章27~40節

福音書の書き手は、主イエスとユダヤ教徒との対話に細心の注意を払う。本日の聖書では、サドカイ派とファリサイ派の人々と、主イエスの復活をめぐる問答が記される。『ルカによる福音書』では「復活があることを否定するサドカイ派の人々」とわざわざ記される。サドカイ派は自分たちの用いる聖書に復活否定の根拠を求める。この人々の用いる聖書はモーセ五書のみであり、モーセの葬りをもって『申命記』が幕を下ろすからだ。サドカイ派の人々は死が七度にもわたって襲い、一人遺された女性について語る。女性は伴侶を失う度にその弟と結婚する。これはイエスの時代に伴侶を亡くした者を支えるしくみではあったが、同時にこの例話は、主イエスの教えとわざへの挑戦でもあった。
 主イエスは「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることもなく嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである」と答える。モーセの戒めは、いまだ救われてはいないわたしたちの世でのみ初めて意味を持つ。神の新しい世界では七度も嫁ぐ必要はない。イエスは、わたしたちが天使に等しい者になる。天使のようになると語る。サドカイ派は、天の世界をも、御使いたちをも認めない。
 さらにイエスはサドカイ派に暗に語る。「あなたたちは、自分たちの聖書すら知らない」。サドカイ派も重んじる『出エジプト記』の記事では、モーセと出会った神は自らを「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と名乗る。この物語が「柴」の箇所と呼ばれる。
 アブラハムの神は、活ける関わりの中でそのわざをなし、人々をその名によって呼びかけ、苦しみから解放する。モーセ五書はモーセの葬りで終わるのではなく、アブラハムの神について語っていると、主イエスは指摘する。主イエスはわたしたちに死を見つめよとは語らない。頭をあげよと呼びかけている。アブラハムの神は、一人の名前をもつ人間と自らをひとたび結びつけたならば、二度とその関わりを廃棄しないからだ。
 永眠者の名簿には85名の名が記載される。数ではなく名である。この人たちも神のみもとにあって生きている。この方々とわたしたちが出会う場こそ主イエスの伝え・証しした神の国の希望だ。神の国はわたしたちの世界を包み込む。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神」だからだ。神の国の訪れを先取りしているのが主イエスの世界であり、その教えについて頷くファリサイ派の姿を観る。そこにはまことに巨大な広がりをもつメッセージが響く。「全ての人は、神によって生きているからである」。主イエスの語る神は、死によって絶たれたと思われる大切な人々との関わりにも、いのちの息を吹き込む。恐怖と悲しみのどん底にある死を、主イエスは十字架の上で受けとめてくださった。
イエス・キリストを信頼し、わたしたちが寄り添うとき、神のみもとにあって安らう人々もまた、わたしたちに寄り添ってくださる。主の導きのもと生涯を全うされた方々。この方々は主のもとで今なお活きいきとわたしたちと関わっている。「あなたがたは神の力を知らない」と主イエスがわたしたちに問うならば、その問いは「わたしを信頼しなさい」との神の愛に満ちた思いが込められている。主イエスに悲しみを委ねる時、わたしたちは次世代に何を遺すべきかと希望に満ちた問いかけを主イエスに発しているのに気づかされる。 

2017年10月29日日曜日

2017年10月29日「待ちつつ、仰ぎつつ、望みつつ」稲山聖修牧師

聖書箇所:ローマの信徒への手紙5章1~8節、創世記24章1~8節、詩編130編1~8節

 ハロウィンの祭が賑やかな中、教会が忘れてはいけないのは、宗教改革記念日。ルターのカトリック教会への問題提起が契機とされる。ルターだけが英雄視されるならば、その記念も歪む。例えば100年前。宗教改革400年記念は、第一次世界大戦の最中に行われ、祭はドイツの戦勝祈願にも似たという。420年記念は、ゲルマン民族主義の熱狂的な高揚の中で行われ、歪んだ選民思想の中人々は茶色の服を着て右腕を高く上げた。今日、世界教会の時代にあって宗教改革を覚えて何をすべきかと言えば、ルターの英雄視ではなくて、ルターが民衆の言葉に訳した聖書を繰り返し味わいつつ、神の恵みに応える姿勢を確かめることだろう。
 本日の旧約聖書の箇所は『創世記』24章1節から8節。アブラハムも齢を重ね、老人となった。登場するのはアブラハムの他に、長く歩みをともにした僕(しもべ)。齢を重ねながら、長い人生を神の光の中、己の影と向き合いながらも歩んできた二人。アブラハムは名を記されない僕に語りかける。「手をわたしの腿の間に入れ、天の神、地の神である主にかけて誓いなさい。あなたはわたしの息子の嫁をわたしが今住んでいるカナンの娘から取るのではなく、わたしの一族のいる故郷へ行って、嫁を息子イサクのために連れてくるように」。この誓いには一族の存亡がかかった大事としてイサクの結婚が描かれる。この「許嫁探しの物語」は決して安易な結論を求めない。即ち、「今住んでいるカナンの娘からとるのではない」。カナンの地域にあるような、魅惑的な男性らしさや女性らしさはアブラハムの眼中にはない。何が大切なのか。それはアブラハムの主への深い信頼の言葉から明らかだ。「天の神である主は、お前の行く手に御使いを遣わす」。これがアブラハムの確信だ。老いてなおアブラハムの眼差しは過去にではなく、イサクとの関わりの中で未来に開かれている。これこそイエス・キリストにあって異邦人である私たちにも開かれた、恵みに応えるキリスト者の姿でもある。
 本日の『ローマの信徒への手紙』の箇所は有名な箇所だ。「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」。信仰とはルターの言葉によればキリストへの信頼と深く関わる。個人の所有物ではない。その信頼の中で次の言葉が記される。「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。私たちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。私たちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」。私たちが味わう苦難はただの苦難ではない。イエス・キリストへの信頼の中にあっての苦難だ。狼狽。落涙。閉じこもり。不信や猜疑が私たちを襲う。けれども、イエス・キリストへの信頼が全てに勝る。絶望の只中に置かれ、無力感にうちひしがれていたとしたとしても、イエス・キリストによって開かれた神の愛は、私たちの抱える苦難、すなわち不信、狼狽、猜疑、妬み、疑い、そして絶望を完膚なきまでに打ち砕く。
 詩編130編には、罪人の苦しみが癒され、変容される姿が記される。この詩編は異邦人ルターが繰り返し味わい、神の恵みを信頼する罪人の姿を心に刻んだ古代イスラエルの民の詩でもある。今日宗教改革という言葉がなお意味をもつならば、神の言葉への深い信頼なしにはあり得ない。改革は神の国の訪れの時まで終わらない。「私たちの『内なる人』は日々新たにされていく」(『コリントの信徒への手紙Ⅱ.4章16節』)。待ちつつ、仰ぎつつ、望みつつ、キリストの恵みに包まれて、私たちは神の光の中を歩むのだ!

2017年10月22日日曜日

2017年10月22日「見知らぬ人の厚意への切なる感謝」稲山聖修牧師

聖書箇所:ローマの信徒への手紙4章18~25節、創世記23章10~22節

 科学の道で最先端を行く人は人智を越えた力を感じずにはおれないという。今日の聖書箇所に記されるヘトの人々も常日頃からその意識が強かったと考えられる。この人々は宇宙から飛来した隕鉄を精錬し人類史上初めて鉄器を用いたとされる。今日の箇所から察するに、その目的はより強度のある農具の製造にある。農具は日常品だけに後世には残らない。けれども鉄の農具は農耕の民にはかけがえのない財産だ。ヘトの人々は畏れとともに夜空を仰ぎ、アブラハムと思いをともにしたかも知れない。
 ヘト人エフロンは衆目の前でアブラハムに答える。「どうか、御主人、お聞きください。あの畑は差し上げます。あそこにある洞穴(ほらあな)も差し上げます。わたしの一族が立ち会っているところで、あなたに差し上げますから、早速亡くなられた方を葬ってください」。アブラハムの依頼そのものは唐突であっても、死という出来事を受け入れる心備えは人々には日常であった。「わたしの願いを聞き入れてくださるなら、どうか畑の代金を払わせてください。どうぞ、受け取ってください。そうすれば、亡くなった妻をあそこに葬ってやれます」。この時代に鉄は銀よりも貴重なレアメタルだ。アブラハムが当時はなかった貨幣の代わりに銀の塊を準備する。エフロンは銀で畑を売ろうと思っていない。その銀は何よりも土地売買のためにではなく感謝のしるしである。このしるしにより、アブラハムは堂々とサラの墓地を建て、ヘトの人々は一同そろってアブラハムの誠意に応えて畑を献げることができる。畑を開墾するにかかる手間は想像を絶する。たとえ銀塊でもその汗を量ることはできない。この深い交わりの中で、サラの墓地が建てられる。今やサラの墓はヘトの人々とアブラハム一族のかけがえのない絆の証しともなる。
 しかし時が移ろう中、この絆がほころび、破られるさまを私たちは目撃する。アブラハムの時代よりもはるか後のダビデ王の振る舞いがそれだ。王の権威を私物化し、ダビデが手をかけるのはバト・シェバ。その夫はダビデの忠実な家臣であり、エフロンの末裔ヘト人ウリヤ。ヘブライ人の倣いと戒めによれば、これは明らかにモーセの戒めの違反。醜聞が表沙汰になる前にダビデは策を弄して忠臣を謀殺し隠蔽しようとする。その様を聖書は「ダビデのしたことは主の御心に適わなかった」と記す。神はヘト人ウリヤの側に立つ。そして権力に翻弄される女性の側に立つ。主なる神はダビデの過ちだけでなく、汗水垂らして耕した畑をアブラハムに献げたエフロンの働きを決して忘れてはいない。だからこそ事実として是は是、非は非というわざを、ダビデを始めイスラエルの民に下すのだ。しかしそのわざはイスラエルの民を一重に滅ぼすためであったのか。
その問いを噛みしめながら『ローマの信徒への手紙』を味わえば、実のところ神が何を見ておられ、何をされ、関心を置かれるのかが分る。アブラハムにはダビデのように私物化しようにも私物化できる権力などなかった。アブラハムは家族や近親者の部族を守らなければとの責任、目の前に広がる荒れ野で行く道を見極める判断、そして多くの係争がありながらも一人息子のイサクをサラとの間に授かっただけだ。パウロはサラとの関わりを踏まえて、アブラハムには神から賜わる垂直の力によって諸力の源が備えられていたと記す。私たちに欠けているのはこの垂直の視点なのだ。神の交わりへの招き・人々の間にある垣根を越えていく力は、神のわざへの感謝として、イエス・キリストを通してすでに備えられている。「見知らぬ人への厚意」に頭を垂れたアブラハムの謙遜さ。イスラエルと異邦人の和解、隣人との和解と赦しという宝がそこに秘められている。

2017年10月15日日曜日

2017年10月15日「いのちの根を下ろす」稲山聖修牧師

聖書箇所:ローマの信徒への手紙4章13~17節、創世記23章1~9節

アブラハム物語を辿るとき、サラの生涯が注目されるのは稀だ。「サラの生涯は127年であった。これがサラの生きた年数である。サラは、カナン地方のキルヤト・アルバ、すなわちヘブロンで死んだ。アブラハムは、サラのために胸を打ち、嘆き悲しんだ」。サラに寄せたアブラハムの悲嘆の記事はこの箇所のみ。だからこそこの悲嘆には言葉にできない思いが凝縮される。サラは名を改める前から奇異な存在であった。「サライは赴任の女で、こどもができなかった」と、必要もないのにわざわざ系図に記される通りだ。ハランの町でアブラハムは神の招きを受けたが、エジプトに入ればサラはアブラハムの保身のためにファラオの側女にさせられる。その後なおも正妻ながらこどもを授からない苦しみを味わい続け、女奴隷ハガルをアブラハムのもとに遣わすが、その後ハガルに覚えたのは喜びよりも妬みであった。御使いたちにイサク誕生の予告を受けたときも、老いたサラには自嘲するより他に道がない。その乾いた笑いがイサク誕生による喜びに包まれた後、ハガルの息子イシュマエルとの確執に襲われる。この物語では母親としてイサクを護ろうとする鬼のような姿が露わになる。イサク奉献の物語には母としてのサラの影は薄く、その出来事が終わるや、サラは静かに生涯を終える。
 それでは問う。サラは幸せな人生を辿れたのだろうか。アブラハム以上に身を挺して神の祝福に応えようと苦闘せざるを得なかったのがサラの生涯だった。それを誰より知っていたのがアブラハムであり、だからこそアブラハムは胸を打ち、嘆き、一般の遊牧民とは異なるわざにとりかかる。「アブラハムは遺体の傍らから立ち上がり、ヘトの人々に頼んだ。『わたしは、あなたがたのところに一時滞在する寄留者ですが、あなたがたが所有する墓地を譲ってくださいませんか。亡くなった妻を葬ってやりたいのです』」。アブラハムの振る舞いはサラへの哀惜の念を際立たせ、時を超えた共感をもたらす。さらにはサラの葬りの申し出が、ヘトの人々との交わりを生み出す。サラの逝去と葬りのわざはヘトの人々にも悼みを分かち合うこととなり、異邦人との交わりの種がまかれる。サラの墓前に、いのちの根を下ろした、そして民の壁を越えた交わりが生れる。
 『ローマの信徒への手紙』4章13節には「神がアブラハムやその子孫に世界を受けつがせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされた」とある。16節でパウロは「恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。彼はわたしたちすべての父です」と記す。私たちは聖書に書き記された物語を通して、聖書がそれとしては記されなかった世のアブラハムとサラの歴史を知る。聖書が信仰に不可欠なのは、かの時代の人々を包み込んだ神の恵みの力に思いを馳せ、その歴史を暮らしに刻むためだ。この力は次の言葉に収斂される。「死者にいのちを与え、存在してない者を呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となった」。この箇所にはイエス・キリストの復活を通して私たちに示された神の愛の力が示されている。イエス・キリストの甦りは、イスラエルの民とならび異邦人である私たちにも、いのちの勝利をもたらした。サラもその例外ではない。救い主が私たちの間に命の根を下してくださった出来事。深く感謝したい。

2017年10月8日日曜日

2017年10月8日「人に知られずに備えられる神の道筋」稲山聖修牧師

聖書箇所:ローマの信徒への手紙4章1~12節、創世記22章9~19節

古代ギリシアの都市国家スパルタでは肉体的な健康が何よりも尊ばれた。先天的に戦に向かない特質をもって生れたこどもは城壁の外に捨てられた。このような考えは今日も克服されていない。但し更に昔の遺跡からは、長期にわたり障がいのケアーを受けた形跡のある遺骨が発見されてもいる。今昔いずれの人の暮らしがいのちを重んじているか、あるいは進歩しているかという問いそのものが無意味になりつつある。
ではなぜ神はアブラハムに息子を献げよと命じたのだろうか。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げものはどこにありますか」と父に問うイサク。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」と答える父親。「神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物をとり、息子を屠ろうとした」。父が自分の一人息子を人身御供として神に献げるという実に不条理な場面。実はこのような箇所にこそ、創世記ならではのメッセージが隠されている。「そのとき、天から主の御使いが、『アブラハム、アブラハム』と呼びかけた。彼が『はい』と答えると、御使いは言った。『その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分ったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった』。」。 
神はアブラハムの信仰を弄んだのではない。天地創造の神は、御自身に模って創造された人間に「エデンの園の中心にある木の実は食べてはいけない。食べると死んでしまうから」と語る。「死ぬな」と人に語る神ならば、イサクを人身御供として奪うことはない。さらにイサクの奉献の仕方である「焼き尽くす献げもの」が持つ意味は、本来は神への感謝のしるしとして行われ、喜びをもたらす。イサクが献げられたところで誰が喜ぶだろうか。肝心なのはアブラハムが神以外の何者も命じることのできない命令に応え、それを気持ちの問題ではなく、黙々と態度に示した現場を神は見ていたところだ。神の隠された愛に応じる証しがそこにある。
私たちはアブラハムがイサクを受けとり直したその喜びを、イエス・キリストとの関わりの中で自己点検できているだろうか。『ローマの信徒への手紙』4章でパウロが用いる言葉に「行いによらず」という文言が再三登場するが、それは信仰を字面だけ辿ればよいと語っているわけではない。喜びを伴っているのかどうかが問われる。神の恵みに応じる喜びは、異邦人もユダヤ人も問わないばかりか、先達への敬意を伴いながら、絶えず伝統を乗り越えていく型破りな創造性をも生み出す。証しにも多様性がある。黙々と薪を割るだけでも、病床にあって呻くように祈るだけでも、そこに喜びを待ち望む希望があるならば、備えられた神の道筋がある。
神が備えた信仰の道は、時に隠されている。真っ直ぐな道ばかりではない。その道はあらゆる世界に、あらゆる交わりに開かれているとパウロは語り、それは主イエスの自由で伸びやかな歩みに重ねられる。一人子すら惜しまなかった神の愛を、私たちはそのように受けとめたい。