2021年6月24日木曜日

2021年6月27日(日) 説教(在宅礼拝用です。当日10時半より、聖日礼拝を再開いたします。)

説教:「神の忍耐は英知をもたらす」
稲山聖修牧師
聖書: 『マタイによる福音書』6章24〜34節
(新約聖書10頁)

讃美歌:310(1.2),495(1.3),頌 栄543
可能な方は讃美歌をご用意ください。
ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ中継を致します。


ライブ中継のリンクは、
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「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 竹城台2丁の団地の中を歩いておりますと、夾竹桃をはじめ季節の花が咲いています。過ぐる週、強い香りを放っていたのがクチナシの花。そのかおりに集まる獲物を求めてか、五ミリほどの小さなカマキリのこどもが花びらの上、大人そのままの姿勢で待伏せをしていました。

 本日からわたしたちは聖日礼拝を再開することができました。今後も道筋を見極めなくてはなりませんが、緊張の中で平安を見出すあり方は、わたしたちよりもむしろ、野にある草花や虫を始めとしたいのちのほうがよく知っているかもしれません。確かにコロナウイルスはヒト以外の動物を攻撃することはほぼありません。しかし野にいるいきものは絶えずいのちの危機の中にいながらも、他のいのちを羨まず、今を生きることに全ての気持ちをを集中します。わたしたちは何に気持ちを集中していくのでしょうか。そして誰に思いを向けていくのでしょうか。
 本日の箇所で人の子イエスは、弟子を始めとした群衆に、野の花・空の鳥を示しながら「神の国と神の義を求めなさい」と語りかけます。そうすれば食べ物も衣服もすべて「加えて与えられる」というのです。コロナ禍での経営不振への恐れからか、株による投資のコマーシャルがしきりにホームページに出てまいります。これは労せずして収益をあげるわざであり「加えて与えられる」のではありません。またかつては「出会い系サイト」として日常から遠ざけられた禍々しいアプリケーションソフトと同じものが「マッチングアプリ」として今やお見合いの勧めのように用いられています。コロナ禍の中での不安や孤独、そして貧困につけ込む商法ですが、「出会い」もまた一度きりのもので「与えられる」のであり、決して金銭では買えません。しかし盛んなコマーシャルは需要あってのこと。この二ケ月の不安の中で、心身ともに疲れ歪んできている世相を反映しているようです。

 「誰も、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」とあります。福音書成立以前、歴史的に人の子イエスが宣教活動に勤しんでいた時代にはすでに貨幣経済が充実しており、人々は世に暮らす限りお金のやりとりと無縁ではおれませんでした。そのような日々の暮らしを人の子イエスは責めません。戒められるべきは神とならび称される富、すなわち「マモン」と呼ばれる富を司る偶像への礼拝を指します。野の花も空の鳥もマモンに依らずに生きています。ソロモン王よりかぐわしい一輪の花はマモンとは無縁です。他方でわたしたちは、暮らしが窮するほどにマモンにすがっていこうとします。6月23日(水)、週の半ばに沖縄慰霊の日を迎えましたが、近代日本は、表向きは自然を大切にし「神々」として敬ったといいつつ、マモンに蝕まれた歴史を重ねてきました。「富国強兵」という言葉が戦後も変わらず「高度経済成長」にとって代わられたその行きつく果てには、その時を懸命になって生きた個人の意図とは全く異なる退廃がありました。「数」でなければ礼拝も交わりも計れないというありかたを、無条件に教会に持ち込むわけにはまいりません。しかしこの二ケ月。そのようなあり方が、いのちをリスクにさらすという恐るべき仕方でコロナの禍中に問われたといえましょう。まさに「時の徴」です。この二か月間の忍耐の時、わたしたちは暮らしの根を今の時代に相応しくどこに、そしてどのように降ろすのかと問われてまいりました。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのことはみな加えて与えられる」。気持ちを集中する事柄とは何か。思いを向けるのは誰なのか。それが明らかになれば、マモンに支配される世にあって、マモンに呑まれず「神の国と神の義」を見極める知恵を授かります。その知恵はわたしたちを頑迷固陋さから解き放ちます。牧師個人の考えではなくて『聖書』に記されているのです。『箴言』14章29節には「忍耐によって英知は加わる。短気な者はますます無知になる」とあります。この箇所でいう英知とは何かといえば「神の国と神の義」を各々の暮らしの中で見出す知恵。「短気な者」とは「焦ってばかりいる者」という意味もあります。餌を得るためカマキリのこどもでさえ忍耐できるというのに、わたしたちは幾つになってもできずにいるとはいえないでしょうか。しかしそのようなわたしたちにも、神さまは伸びしろを備えてくださっています。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(『マタイによる福音書』11章28節)。対面式聖日礼拝に渇いた二ケ月。招いてくださる主イエス・キリストを讃えましょう。わたしたちの礼拝を忍耐しつつ待っていたのは、実はイエス・キリストだったのです。

2021年6月18日金曜日

6月20日(日) 礼拝(在宅礼拝となります。ライブ中継を行います。当日礼拝堂での対面礼拝はございません。)

説教:「主にある家族の和解」
稲山聖修牧師

聖書:『マタイによる福音書』5章21~26節
(新共同訳7頁)
讃美歌:399, 300, 543
可能な方は讃美歌をご用意ください。
ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
中継ライブ礼拝を献げます。


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【説教要旨】
 「見よ、兄弟がともに座っている。なんという恵み、なんという喜び」。『旧約聖書』『詩編』133編に記された言葉です。この言葉を白樺派の作家・武者小路実篤は「仲良きことは美しきことかな」との言葉にして受け入れ、用いていました。しかし不思議なことに、先ほどの『詩編』の祈りが礼拝で献げられなければならなかった背後には、血縁ないしは係累での争いが、『旧約聖書』の物語でも、そしてイエスの時代の人々の間でも絶えなかった現実が窺えます。思えば『創世記』に描かれる家族の物語は、決して幸せにあふれた一家に始まりません。天地の創造主なる神の似姿として創造されたはずの人に授けられた兄と弟。畑を耕すとされたカインは、牧畜を営む弟アベルの献げものに神が目を留めたのが赦せず、弟を殺害してしまいます。「罪」という言葉はカインとアベルの物語で初めて登場します。家族の殺害という戦慄する出来事に始まる物語が、ようやく族長物語のアブラハム・イサクを経て、ヤコブとその息子たちの物語にいたり、『創世記』の最後の場面で和解に及びます。続く『出エジプト記』におきましても、神の言葉を預かるモーセに比較するならば、兄アロンはどこか頼りなく、神に逆らう民衆の声を諫めることができません。そして混乱期を経てサウル・ダビデ・ソロモンという三代にわたるヘブライ王国の国王にありましても、とりわけダビデ以降は家族の諍いが神に対する昂ぶりと同時に生じ、国の混乱をもたらしてまいります。
「血は水よりも濃い」がゆえに絶えない争い。だからこそ、その現実のただ中でイエス・キリストは本日の言葉を語ります。「しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい」。「最高法院」とはエルサレムの神殿で招集された議員によって行われる古代ユダヤ教の司法で最高の権限をもつ議会を指します。さらにイエスは「火の地獄」という言葉を、死後の世界にではなくわたしたちが暮らす世に重ねます。だからこそ、神に献げるべき献げものは、絶えず和解の実現とその感謝でなくてはならないとイエス・キリストは語るのです。
 思えば『旧約聖書』の世界では、アブラハムの神と異なる神々を崇める人々でさえ、最初の人アダムとの係累として理解されました。何よりも血縁が重んじられた時代にありましては、係累は争いの火種であると同時に、人々がお互いを滅ぼす一歩手前で立ち止まる、対話の契機ともなり得ました。『ヨシュア記』以降、しばしば神の名による虐殺が命令されるという記事が『旧約聖書』には描かれますが、翻ればその記事は、人は神の名を借りなければ残酷にはなれないことの証しであり、だからこそ全ての神の命令の中で尊ぶべき十戒に「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない」と刻まれているとは言えないでしょうか。
 ときにはイスラエルの民とパレスチナの先住民ならびに異邦人との争いが赤裸々に記される『旧約聖書』。だからこそ人々は救い主の訪れを待ち望み、救い主イエス・キリストの訪れを、喜びとともに讃え、歌い、争いの念を鎮めていったのではないでしょうか。福音書にあってイエス・キリストは、どのような諍いがあろうとも、その諍いを癒してまいりました。「見よ、兄弟がともに座っている。なんという恵み、なんという喜び」。身の回りにある家族の諍いは、和解に向けてのお互いの理解のために実に長い時を必要とする場合もあります。ふとしたきっかけの中で、それまで歩み寄れなかった家族の痛みに、全く異なる場所と全く異なる時間の中で気づかされ「愚かであった」と涙するときもあります。もっと早く事情が分かっていればと流す涙。それは、わたしたちの身近なところで起こる事々だけでなく、民同士の争い、国同士の争いに重なるとは言えないでしょうか。どのような激しい戦があったとしても、その次の世代、そしてさらにその次の世代にあっては、お互いが憎しみの情念から解放されて、神の御前に感謝の備え物を献げられるはずです。涙がこぼれ落ちそうになったら、怒りに震えるその中に置かれたら、わたしたちは天を仰ぎたいと願います。昼は虹、夜は星々を見つめながら、イエス・キリストと出会った人々は「被害者になったからといって、加害者になってよいとの話はない」と思ったに違いありません。他人のせいにせず、加害者が減れば被害者も減るという態度の転換を、神の愛の力は後押ししています。家族の和解はその中で生まれます。祈りましょう。

2021年6月11日金曜日

2021年6月13日(日) 礼拝(在宅礼拝となります。ライブ中継を行います。当日礼拝堂での対面礼拝はございません。)

「よろこびは見知らぬところへ」 
説教:稲山聖修牧師
聖書:『マタイによる福音書』5章13~16節   
(新共同訳6頁)

讃美:247, 321, 543
可能な方は讃美歌をご用意ください。
ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
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礼拝当日、10時30分より
中継ライブ礼拝を献げます。


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【説教要旨】

 あるところに旅人がいました。旅人は商いをなりわいとしており、ロバには負いきれないほどの荷物を背負わせています。忍耐強いロバといえども長い間この荷物を背負って旅するにはむつかしく、足取りもおぼつきません。とうとうロバは橋から川へと落ちてしまいました。けれどもロバは気持ちよさそうに水に漬かっています。ロバの荷物は塩。荷物は水に溶けてしまったのです。これはイソップ童話の「塩を運ぶロバ」の前半部分です。

 そのような日常は『新約聖書』の世界でも、さほど変わらなかったことでしょう。聖書の世界では塩は金と取引されていたとも言われています。ローマ帝国の兵士には塩を買うためにサラリウムという名の手当が支給されていました。海水から塩を作るわざのないところでは、岩塩を掘削する、またはローマ帝国が規制をかけて民間での扱いを禁じ、各々の属州で定めた価格に従っての専売制が実施されていたと考えられます。不可欠なミネラルを合成する術を人々は知りません。しかし本来は塩は全ての人々に開かれた大地の宝。わたしたちの見知らぬ人々を支えていきます。

 塩をめぐる厳しい現実を知りながら、イエスが語る「地の塩」の譬え。これは大地の恵みが誰にも独占されない宝であることを指し示すとともに、管理が実に困難であった当時の塩について語っています。粉上の塩として持ち運ぶのはあまりにもリスクが大きすぎます。硬い岩塩の塊そのままのほうが当時の保存技術を考えるならば便利です。しかしそれが風化したり湿気を吸って劣化するならば「塩気のない塩」にもなり得ます。奴隷であったイソップが示す日常と大差のない世界が描かれます。

 続いて「あなたがたは世の光である」とイエスは語ります。「山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして桝の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである」。塩に続く譬えは「「ともし火」。古代社会で屋内を照らす際にローマ帝国の時代には獣脂のロウソクかランプが用いられていました。ロウソクとランプの区別は当時はっきりしていませんが、家の中のものすべてを照らせるともし火とは尋常ではない輝きです。当時の技術では全く不可能。しかしそれはわたしたちの見知らぬところへも及ぶのです。

 しかし本日の聖書の箇所で重要なのは以上の説明ではなく「地の塩」「世の光」としての働きが誰に呼びかけられているのかというところ。「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」。これは「優等生になりなさい」との訓話ではありません。もともとは病気や患いを癒された、ガリラヤ・デカポリス・エルサレム・ユダヤ・ヨルダン川の向こう岸といった海の者とも山の者とも分からない者すべてをつつむ「大勢の群衆」との言葉。その中からイエスに従った弟子に向けられています。弟子と群衆とは身の上としては何ら変わりがありません。そのような人々に人の子イエスは塩という神が備え給う値、屋内をくまなく照らすともし火となる上質のオイルとしての値を備えているというのです。わたしたちはこの箇所で言う「立派な行いをする人」を「偉い人」と勘違いをしてきたのではないでしょうか。神との関わりを忘れて「誰に語りかけられたのか」を読み飛ばしてしまうのです。形ばかりの立派な行いには得てして闇が隠されています。祈りなき善良さも、他者を深く抑圧し、排除する力へと変わり果てていきます。

 ですから「立派な行い」とは、人々の目を引くわざばかりを示しているのではありません。誰よりもイエス・キリスト自らが、人の目に適う「立派な行い」ばかりをしていたのであれば、十字架で処刑されはしなかったでしょう。この箇所でいうところの「立派な行い」とは、その時代の身分の貴賎や貧富を問わず誰にでも開かれたわざであり、だからこそ言い逃れのできないという意味ではまことに厳しいものです。使徒パウロによれば、それは神の愛から生まれます。そして今のような様々なわだかまりが渦巻く中では「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。『あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる』。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(『ローマの信徒への手紙』12章8~21節)と響きます。わたしたちを取り巻く世界にはやり場のない怒りが渦巻き、些細なことで争いが起きては流れる涙があります。神を讃美する礼拝によって注がれる喜び。山上の垂訓でイエスが祝福した弟子を送り出した群れに連なるわたしたち。地の塩・世の光として祝福された者です。キリストに従う道をあゆみましょう。

2021年6月4日金曜日

2021年6月6日(日) 礼拝(在宅礼拝となります。ライブ中継を行います。当日礼拝堂での対面礼拝はございません。)

「キリストの証し」
説教:稲山聖修
聖書:『使徒言行録』17章22~34節           
(新共同訳248頁)

讃美歌:298, 333, 543
可能な方は讃美歌をご用意ください。
ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】

 『使徒言行録』には神の愛の力である聖霊に押し出された使徒の働きが記されてまいります。その中でもひときわ異彩を放つのがパウロ。血気盛んなファリサイ派の律法学者、すなわちユダヤ教の教えを解き明し、人々に伝えるために研鑽に励んでいた若き日のパウロ、すなわちサウロはその熱心さが昂じてイエスは救い主であるという声の中、喜びにあふれた人々を次々と拘束しては殺害者の手に渡していきました。「救い主はまだ訪れてはいない」とするユダヤ教の立場からすれば、救い主はイエスとしてわたしたちのもとに訪れたと喜ぶ者は「誤った思い込みに心酔する狂信者」としか映りません。サウロと名のっていたころのパウロはためらいを見せずに、身体の特性を問わずに喜びに包まれる人々を、あたかもそれが当然であるかのように人知れない集会所から引きずり出していったのでした。福音書にはイエスに癒やされ、満たされ、交わりを新たにされた人々の名前は全員が必ずしも記されません。「群衆」として歴史にうごめく人々に、いのちの光が宿され喜びにつつまれます。その光あふれる交わりに殺意の闇とともに立ち入ったのが若き日のパウロ。そのようなパウロが「なぜわたしを迫害するのか」とのキリストの声を聞き、神の愛である聖霊が注がれる中、地中海を囲む地域に福音を遍く伝えてまいります。途中さまざまな困難に遭遇するなか、出会う人であう人はパウロの証しするメッセージに目の当たりにし、また耳を傾けては深くそのあり方を問われました。

 『使徒言行録』の物語には共通する道筋が幾つかあります。その一つとして、パウロを始め使徒が赴くところでは必ず混乱が生じるところです。混乱の中、使徒を退けようとする動きもあれば、メッセージに深く感銘を受けてキリストに連なる確信を公にして洗礼を授かるという動きも生まれます。また、使徒が人の目からすれば当初の目的を果たし得ず失敗にしか見えない状況の中で、キリストの交わりに連なる人々も出てまいります。その意味で言えば神の愛の力であるところの聖霊の働きは縦横無尽です。使徒自らにもはかり知れないところで神の愛のわざが及びます。

 本日の聖書の箇所では、パウロが古代ギリシアの都市アテネを訪ねる中で起きた出来事が記されます。ギリシア哲学の源泉となった都市アテネにはその時代、エピクロス派やストア派といった時代を代表する知識人が数多くおりました。書物を読みふけり対話を通じて真理を探究するという、上辺からは浮世離れした人々にも思えますが、彼らを支える労役の殆どは奴隷が担っていました。だからそのような日常が可能でした。パウロはアレオパゴスという公の広場で、そのような人々に訴えます。「アテネの皆さん、あらゆる点であなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます」。パウロの語りかけはアテネの人々の問題を指摘するところからは始めません。あくまでも相手の受容から始めます。人々はパウロの声に耳を傾けながらも、その話が「死者の復活」に及ぶと、ある者はあざ笑い、ある者は「いずれまた聞かせてもらおう」と聞く耳を塞ぎます。「それで、パウロはその場を立ち去った」との場面に限るならば、パウロの証しは失敗したとみることもできましょう。けれどもその中で「彼について行って信仰に入った者」が何人かおり、アレオパゴスの議員ディオニシオ、ダマリスという女性、その他の人々もいたと『使徒言行録』は記します。人々に仕えた奴隷もいたことでしょう。パウロのわざは決して虚しくは終わらなかったのです。

 パウロの生涯をたどりますと、あらためて「キリストの証し」とは一体何だろうかと考えます。世にあって成功すること、願いが叶うこと。身を立て名をあげ、教会のわざに時と労力を費やすこと。「神の恵みによってこのような場に立った」との言葉ばかりを語ることだけが証しであるとわたしたちは勘違いしています。成功体験にすがる、功利主義的な考え方が幅を利かせるならば、わたしたちは聖書に記された神の愛のまことの証しを見失うことでしょう。このような考え方とは正反対のところにキリストの証しはあります。「愛がなければ無に等しい」。それは病の中にあり、失敗の中にあり、争いの中にあり、行き先の見えない現状にいらだち、嘆き悲しみに暮れて肩を落とす中で、なおも神の愛を忘れず、祈りを忘れないのであれば、あらゆることがキリストの証しとなって人々に示されます。パウロはその伝道を実質的には軟禁状態の中で全うしていきますが、若き日に立てたキリスト者を弾圧するという証しの立て方から、自らがキリスト者となり、かつて与えた苦しみをわが身に受けるばかりか、その渦へと入る中、人としての不十分さを抱えつつキリストの証しを立てました。キリストの愛の証しの多様性。この多彩さに目覚める時をわたしたちは迎えています。コロナ禍に限らず、世の新たな局面を迎え、祈りと御言葉の養いを大切にしましょう。