2020年2月23日日曜日

2020年2月23日(日) 特別伝道礼拝 説教

「新しい歌を主に向かって歌え」『詩編』98章1~6節
特別伝道礼拝
説教:稲山聖修牧師
早春音楽伝道礼拝と銘打たれた特別伝道礼拝。初めて教会の礼拝に出席されたみなさまも多いことかと存じます。今朝は聖書と歌。この大切な事柄がどのように関わっているのか、思いを馳せてみます。
わたしたちは手元にあるプログラムなり聖書に記された文字を「読む」という、どちらかと申しますと知的なアプローチを用いようといたしますが、このような道筋と申しますのは、確かにキリスト教を理解する場合、代替不可能な要となるとともに、世界の教会にあっては礼拝のありかたをめぐるところの、ひとつのありかたとして見つめなおすこともできます。本日「合唱団泉北」のみなさまに歌っていただくプログラムには、ローマ・カトリック教会のミサで用いられる歌もございます。日本基督教団に属するわたしどもの教会では、日曜日に設けられる、神を讃える集いと交わりを「礼拝」と申しますが、ローマ・カトリック教会、また同じように長い歴史をもつ東方正教会では「ミサ」と申します。わたしどもの教会の礼拝堂のつくりは実に簡素で時には実際的ですが、カトリック教会の聖堂では入り口に清めの水があって、十字を切ってその場に入ります。そして聖堂内の雰囲気を醸すステンドグラスには、キリストの誕生から十字架への道、そして復活の出来事から初代教会の成立にまで及ぶ道のりが描かれております。さらに礼拝堂正面にある十字架。わたしどもの教会では復活の出来事を告げ知らせるためにシンプルなつくりとなっていますが、概ねカトリック教会の場合には十字架につけられたイエス・キリストの姿がまことにリアルな姿で刻まれています。
なぜそのような違いが生じるかと申しますと、その理由はローマ・カトリック教会では教会員が、まずは土地の繋がりによって定められているところが少なくないところにあります。そこで生まれた赤ちゃんは教会の導きを受けた両親の意志によって、司祭のもとで洗礼を授かります。ご家族の方々が読み書きできようとできまいと、その原則は揺るぎません。つまりキリストの権能を有する権威ある教会のメッセージが伝わることが大切なのであって、そこには文字だけでなく、視覚的・絵画的な表現、荘重なミサの典礼、さらにはそこにミサ曲という仕方で音楽をも豊かに用いて、その教えが宣べ伝えられるにいたります。
しかしながら音楽や歌を軸に考えますと、文字だけに限定されない礼拝を行なうという倣いについては、キリスト教が今日のかたちに定まる前、すなわちイエスが救い主であるとの確信に立つ群れが生まれる前から、今なお救い主を待ち望む古代ユダヤ教においてすでに整えられていたと申します。そこでは近代を経た今日のような仕方で聖書は必ずしも読まれません。母親が乳飲み子を眠りに誘う子守歌のように、聖書は歌うように朗読されます。聴く者には、仮にその意味が詳しく分からないとしても、その声とともに幼いころを思い出し、また家族を想起しながら味わわれてきました。いわばライフストーリーそのものが聖書の言葉によって包まれているのです。ですから、そこでは人々にとって聖書とはまさに「故郷」です。たとえ国破れ山河ありという過酷な状況を味わいながらも、また生まれ育った土地を追われることがあったとしても、人々は何にも増して神を讃え、喜びの中で種々の困難を乗りこえてまいりました。戦争や虐殺、絶滅収容所でさえもその歌声を根絶やしにはできませんでした。
「新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた」と詩人は語ります。「新しい歌」。それは幾世代にもわたってイスラエルの民に歌い継がれてきました。またイスラエルの民に連なる諸々の民にも伝えられていきました。そして全世界のイエス・キリストに連なる群れを励ましてきました。それだけではありません。『詩編』に編まれた「新しい歌」は今朝ここにお集まりになったところのみなさま・わたしたちが耳にし、そして口にするところの歌でもあります。全ての垣根を越えて進む神の愛。その愛につつまれて、平和へと導かれている喜びを、礼拝を通してわたしたちは味わっています。ですからみなさま、勇気とともに各々の祝福された道を歩んでいこうではありませんか。

2020年2月16日日曜日

2020年2月16日(日) 説教

「忘れられた人を見出すキリスト」
『ヨハネによる福音書』5章1~11節
説教:稲山聖修牧師
エルサレムの城壁に設けられた「羊の門」。その近くにあったのが「ベトサダ(オリーブの家、憐れみの家)」。もともとは巡礼者の沐浴のために設けらていたという施設。そこでは病に効き目ある泉に身を浸すことができた。神殿に隣接して療養のためのインフラが設けられていたと記される。
 ところでこの設備は充分に機能していたのか。「ベトサダ」には「五つの回廊」があったという。そして「病気の人」「目の見えない人」「足の不自由な人」「身体の麻痺した人」とあるように、少しでも「健康な人」「目の見える人」「自由に歩ける人」「身体が思い通りに動かせる人」になりたいと願う人であふれていた。もちろんそこに患者は自力でたどり着くことはできない。家族や知り合いがこのような人々を連れてくる。しかしその支援は充分であったか。十全な支援を受けられる人であれば、誰もが湧き出る泉の恩恵にあずかり得た。しかし実のところ支える人がいなければ放置されてしまう残酷な一面もあっただろう。このテキストが訴えるのは、癒しを求める人々の背後にある支えのありやなしや、である。経済上の問いではなく、支えのありやなしや、である。
 本日の箇所で焦点を絞り込まれるのが「ベトサダの回廊で38年間病気で苦しんでいる人」。38年間とは人生そのものに匹敵する時の流れである。その場で病人がどのように糧を繋いできたのかを書き手は記さない。けれども38年間。時の経つに従い、この場に横たわる、いわば寝たきりに近いこの人を支えてきた家族や、知り合いは、一人ずつ姿を消していく。時の流れの冷たさは水の冷たさにも増して、助けを求めて呼ばわってきたその人の声を雑踏の中にかき消していく。誰もが自分のことで精いっぱいだ。そして誰もが自分の家族のことで精いっぱいだ。いつしかこの人に向けられる眼差しも冷たくなっていったことだろう。忘れられた人がそこにいた。
 冷たい回廊に横たわる名もない人にイエス・キリストは声をかけて向き合う。「イエスはその人が横たわっているのを見た」。「見る」というわざは、相手と具体的な関わりをもち、理解しようと努めることでもある。そして「長い間病気であるのを知った」。キリストは改めて本人の意志を確認する。「良くなりたいのか」。病人は次のように答える。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に下りていくのです」。「良くなりたい」とは直ちに返事のできない、38年の間味わってきた辛さが生々しく刻まれる。「良くなりたい」。この病人はどれほどの機会、どれくらいの時間、何度そのように願ったか。しかしシンプルな願いが裏切られ続ける中で明らかになったのは「わたしを池の中に入れてくれる人がいない!」そして「わたしが行くうちに、ほかの人が先に下りていく!」という現実であった。本当は這ってでも泉に入り、健やかになりたい。しかしその人を直視する者はいなかった。『ルカによる福音書』5章17節にある、床に乗せられ、屋根を剥がした穴から吊り下げられた中風の患者は幸いだ!なぜならあの人にはイエス・キリストのもとへ戸板に乗せて運んできた仲間がいたからだ。
 その人に、イエス・キリストが言われるには「起きあがりなさい。床を担いで歩きなさい」。戸板で運び込まれた中風の人もまた「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と語りかけられた。新しい歩みが、キリストから淡々と語られるだけだ。言葉だけなら何でも言える!と、この福音書が読まれたとき、集まった人々は思ったに違いない。けれども次には驚くべき記事がある。「すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした」。
 わたしたちが用いる言葉と福音書の物語で記される言葉の間には大きな活断層が横たわる。それは福音書に記載される言葉には必ず神から責任が問われる仕組みになっているところだ。となれば、イエス・キリスト自ら語られた言葉は、わたしたちの言葉とは全く次元が異なることとなる。その人の病を癒し、一歩を踏み出す傍らには、言葉の責任を徹頭徹尾引受けるイエス・キリストがともにいる。38年の歳月は、イエス・キリストとの出会いの中で決して虚しい歳月には終わらなかった。イエス・キリストにあって齢を重ねることの、神の秘義がこの箇所には記される。それは「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」という言葉が実現するという秘義だ。横たわる病人の呻きも喜びの知らせへと変えられる。主にある感謝の道を今週も歩もう。

2020年2月9日日曜日

2020年2月9日(日) 説教

「キリストの愛につつまれて」
『ヨハネによる福音書』8章21~26節 
説教:稲山聖修牧師

 『ヨハネによる福音書』より概ね10年ほど前に成立した『ルカによる福音書』。そこには12歳を迎えた少年イエスを連れてマリアとヨセフがエルサレムの神殿で感謝の祈りを献げた後、あろうことかイエスを置き去りにして両親が帰途一日の距離をおいて、ようやく息子の不在に気づき、急いでエルサレムにとって返すという箇所。父母は三日かけてようやく神殿の境内で律法学者たちと問答をする少年イエスに再会する。ギャラリーも大勢いる。
 『ヨハネによる福音書』の今朝の箇所は『ルカによる福音書』の当該箇所を踏まえているようにも思える。物語の舞台はルカと同じく神殿の境内。イエス・キリストの語る相手はファリサイ派、すなわち律法学者。ただそこには少年イエスの面影というよりも、緊張の中で律法学者と向き合う救い主の姿がある。「そこで、イエスはまた言われた『わたしは去っていく。あなたたちはわたしを捜すだろう。だがあなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行くところに、あなたたちは来ることはできない』」。ファリサイ派の学者を含めたところのユダヤの民は呟く。「『わたしの行く所に、あなたたちは来ることはできない』と言っているが、自殺でもするつもりだろうか」。ファリサイ派が語る神の救いとはエルサレムの神殿に集う人々に向けられている。律法学者は過越の祭で記念されるエジプト脱出の出来事と、ローマ帝国のくびきからの解放を重ねているのであり、諸民族やユダヤの民にあって、なおも生活共同体からの排除に苦しみ続ける人々は視界に入らない。ユダヤの民の呟きにイエスは答える。「あなたたちは世に属しているが、わたしは世には属してはいない。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」。あなたがたは世に埋もれていく道筋の中で、神との相応しい関わりを見失ったまま生涯を全うするほかないと、キリストは語る。イエス・キリストが過越の祭の中で「わたしはある」と語ったという記述は、キリストが何者なのかをはっきり示す。なぜなら旧約聖書の『出エジプト記』の中で、民の指導者モーセが神の名を問うた際、神自ら返した言葉が「わたしはある、わたしはあるという者だ」とあるからだ。本日の聖書箇所の後に記される28節では「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう」と記される。人々はイエス・キリストを十字架で処刑したそのときに、イエスがキリストであること、世の民全てに姿を現わした「十字架につけられた神」なのだと得心するにいたる。そのように『ヨハネによる福音書』の書き手は記す。
 『ヨハネによる福音書』の福音書の書き手は、わたしたちが旧約聖書を味わう場合でも、また日々の暮しでも決定的な事柄を記す。『出エジプト記』で「わたしはある、わたしはあるという者だ」と語るところの奴隷解放の神は、今やイエス・キリスト自らを神自らの言葉、すなわち神の言葉とする。そうなれば「わたしの行くところに、あなたたちは来ることはできない」という言葉さえ、わたしたちには救いの言葉として響かないだろうか。なぜなら、この言葉は転じて「わたしたちが行くことができないところに、イエス・キリストは歩みを進まれる」との解き明かしも可能だからだ。わたしたちはイエス・キリストが進まれたその足跡をたどる中で、各々の限界を踏み越えていける。それは思慮のない歩み、熱に浮かされた歩みではない。世間の評価がどうであれ、わたしたちはイエス・キリストにあって神の真理の跡をたどるのである。確かにわたしたちはキリストではない。しかしキリストの弟子を見れば、情に流されたり、しがらみに囚われたりという、あらゆる囲いこみのわざから解放されるだけでなく、わたしたちも誰かを縛らずにはおれないという、家族や人間関係にありがちな鎖から解き放たれるという、実に風通しのよい成熟したありかたを伴う祝福を受けるのではないか。「わたしは誰々につく」――聖書では「わたしはパウロに、わたしはアポロにつく」というような閉塞をもたらす殻を破り、教会の交わりそのものも新しい姿を授かるのである。
 少年イエスと、息子を道中で見失ったマリアとヨセフは、そこに新しい家族のありかたを見出したのではなかろうか。やがて少年は「わたしはある」と自ら奴隷解放の神の名を戴くにいたる。キリストの愛につつまれるありかた。それは全ての関わりが、主にある愛のうちに祝福されたありかたを示す。神の吹く風であるところの聖霊がそよぐ、実に風通しのよいありかたが備えられる。代々の教会、また重ねた年齢を問わず、わたしたちは新たにされ続ける。

2020年2月2日日曜日

2020年2月2日(日) 説教

「この神殿を壊してみよ」
『ヨハネによる福音書』2章13~22節
説教:稲山聖修牧師
 イエス・キリストがエルサレムの神殿の境内の両替商や商人を追い払う場面。そして「この神殿を壊してみよ」と迫る箇所。他の福音書ではこの二つの場面の間に祭司長や律法学者、民の指導者の殺意や民衆の騒ぎが描かれるが、『ヨハネによる福音書』ではこの叙述はひとつに圧縮されるだけでなく、福音書のはじめに配置されている。祭司長や律法学者たちや「ユダヤ人」と一括りにされ、キリストに対する殺意よりもむしろ戸惑いが記される。「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」。この配置をもとにすると、次のような書き手の態度が考えられるというものだ。則ち、書き手はキリストに対する人々の反応には関心を寄せず、むしろイエス・キリストの振る舞いそのものを凝視するという並々ならぬ集中だ。
 まず今朝の箇所の前半で描かれるキリストの言動は、そのものとしてはわたしたちには理解しがたい。そこではイエス・キリストは「牛や羊や鳩を売っている者たち」、「座って両替をしている者たち」が直接に無礼を働いているわけでもないのに「イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒した」とあるからだ。「わたしたちはごく当たり前の生業として仕事をしているだけの話。キリストよ、あなたはわたしたちの暮らしを否定するのか」。大騒ぎの境内でそのような声が響いたとしても不思議ではなく、わたしたちもいつの間にかその戸惑いを共有しているのだ。けれどもこの箇所には、どの福音書でも刻まずにはおれないイエス・キリストに啓示された神の愛の激しい一面が表れている。
 例えば、神殿の境内で牛や羊や鳩を「売っている者たち」。これはモーセ五書、則ち『律法(トーラー)』に記されている、神への献げものを販売している屋台や市場のような場所が示されている。神に特別の誓いや贖い、または願いを申し出る者は清い生き物として牛や羊、または山鳩を献げることとなっている。ただし『律法』の誡めには「買って献げなさい」とは記されてはいない。もちろん当時を考えれば牛や羊を連れてエルサレムへ長旅をしたり山鳩をぶら下げて歩いたりなどということは非現実的。だから人々は屋台や市場を利用するのだが、問題は使用される貨幣。ローマ帝国の通貨には皇帝の肖像が刻まれ「偶像」とされることから神殿では別の貨幣に両替しなくてはならない。その際には法外な手数料が要る。山鳩の献げものは本来は貧しい人のために開かれた神と人との関わりを確かめるしるしであるのに、神への祈りを心から献げたいと願う人が煩雑な手続きと手数料によって排除されてしまう。
 この背景としては福音書に描かれる神殿の成り立ちが考えられる。「この神殿は立てるのに四六年もかかったのに」という一文。新約聖書に描かれるエルサレムの神殿を建設したのは、あのヘロデ王であった。彼はローマ帝国を後ろ盾にして民衆の税金と労働力を用い、自らの威光を示そうとしたのだ。その結果、本来はエジプトでの奴隷の家からの解放を祝う「過越しの祭」でさえ、ローマ帝国の支配を正当化しその抑圧のガス抜きとなる。イエス・キリストにしか見抜けなかったねじれと真実が隠されている。だから「わたしの家を商売の家にするな」との叫びが響くのだ。
 続いて「この神殿を壊してみよ」との言葉が記される。キリストが問うのは、神殿が誰のために建てられたのかという問題。ヘロデ王とその支援者には応えられない問いかけでもある。「イエスの言われる神殿とはご自身の体のことだった」という文言を汲むならば、なおさらキリストの復活は誰のためだったのかと問わずにはおれない。
 イエス・キリストが問うた「神殿」とは、『律法』に収められた「ノアの洪水物語」を読むと明らかになるかもしれない。ノアが建て、洪水から逃れるために乗り込んだ「箱舟」をヘブライ語では「テーバー」と記す。これは「神殿」をも同時に示す。混乱の中から逃れようと人々が神に助けを求める場所が神殿本来の役目でもある。復活したキリストを求める人々も同様である。悲しくもエルサレムの神殿はこの働きを喪失していたと『ヨハネによる福音書』の書き手は記す。生き延びたノアは箱舟から出て祭壇を築き、感謝の献げものを神に献げる。それはノアが買い求めたのではない。祭壇には神に助けを求めたノアがたどり着いた平安が表現されている。キリストを通して授けられる平安がそこに重なる。キリスト者が今の時代に示す信仰の証しは、神に向けて「助けて!」と祈ることだ。助けを呼ばわることすらできずに息絶えていく人々の中で、助けを求められる場所を示す使命が、わたしたちには託されている。