2022年8月25日木曜日

2022年8月28日(日) 礼拝 説教 (コロナ禍対策により対面式の聖日礼拝は休止させて頂きます)

 ー聖霊降臨節第13主日礼拝 ー

時間:10時30分~

※コロナ禍対策により
しばらくの間会堂を用いずリモート中継礼拝・録画で在宅礼拝を執行します。
状況に変化があれば追って連絡網にてお伝えします。
 

説教=「あなたの祈りは必ず聴かれる」 
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』  10章46~52節
(新約聖書83頁)

讃美=39,234,544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 現在、会議で話し合われた議案なりテーマなりを、組織として意志決定する際に用いるのは「多数決」原理です。概して議会の多数決は、全会一致を理想として議案をはかります。その際には、少数意見が顧みられることは殆どありません。
 それではイエスの時代のエルサレムにあった「最高法院」では事情はいかがなものだったでしょうか。この最高法院は71人の長老から構成され、一人は議長、もう一人は副議長、69人が議員。サンヘドリンとも呼ばれるこの会議体は、ローマ帝国の支配下、ユダヤ教の教えと政治的な判断が同一視されていた時代の組織でしたが、同一視されているからこそ、現在の会議体のあり方を問う場合忘れられがちな視点を含んでいます。それは、最高法院で全会一致の議決となった場合、再び議題を差し戻して審議し直さなくてはならないという手続きです。サンヘドリンが定める全会一致制の問題は、人は神の前に過ちを犯す罪人であるとの理解に根拠があります。罪人が集り全会一致の結論を出せば、その判断はどこか歪みがある。従って審議差し戻しとなります。ですから、議案の審議に際し、少数の意見が結論を点検するという視点があって、初めて決議が定まります。わたしたちが見落としがちな少数意見の尊重という考えが、ローマ帝国の支配下のエルサレムの神殿では具体化されておりました。
 さて本日の『聖書』の箇所をたどりますと、人の子イエスが弟子そして群衆とともに古代都市エリコを出て行こうとしたときに「ティマイの子バルティマイ」という盲人の物乞いが道端に座っていた、とあります。バルティマイのそれまでの日々は人々から蔑まれるのを承知で物乞いを続けるほかない暮らしでした。道端に転がる骸となったところで誰も悲しまないだろうという身の上。絶望的な闇の中にバルティマイは佇んでいたのかもしれません。その彼が、ナザレのイエスの名を聞くと、人が変わったように叫び始めます。悪霊に取り憑かれた男のように「わたしから離れてくれ」というのではなく、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と堂々と叫び始めたというのです。バルティマイにとって人の子イエスは唯一の希望でした。身体の不自由が罪の結果だと言われたこの時代です。その中で「わたしを憐れんでください」と叫ぶバルティマイ。だからこそ多くの人々が咎め立て、黙らせようとします。「非常識だ」「静かにしろ」との罵声が一斉にバルティマイに浴びせられる様子が瞼に浮かぶようです。しかしバルティマイは屈しません。「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と、その声は止みません。この叫びもまた、イエスの名を呼ぶ祈りです。人の子イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われ、人々がバルティマイを呼んで言うには「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」と、この叫びが人々を変え、バルティマイ自らを救いの現場へと招く潮の流れを生みます。バルティマイは上着を脱ぎ捨て躍りあがるという最大限の喜びを全身で表わし、人の子イエスから「何をしてほしいのか」との言葉を引き出します。切実な声が群衆の前で遠慮なく語られます。「先生、目が見えるようになりたいのです」。バルティマイと向き合うイエスは「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と語る中、もう盲人の目は見えるようになり、道を進まれるイエスに従ったとの結びにいたるのです。そして『マルコによる福音書』では、これがエルサレムに入城される前の、イエスの最後の癒しの奇跡の物語となります。バルティマイの心の灯火の芯は燻ってはいても、神がこれを消すことはなかったのです。イエス・キリストは多数決原理に縛られて物事を考えることはありませんでしたし、自らの振る舞いをお決めにはなりませんでした。
 わたしたちの教会や(福)地球の園にも身近な、堺市東区に本部を置く(福)コスモス。7月28日(木)に、グループホームに暮らす、知能と聴覚に障碍のある女性が37,8度の熱を出し、陽性反応が出ました。しかし問い合わせた保健所からは連絡がなく、病院からも患者届が必要だと言われます。定常利用の方々を迎える準備する中でも保健所には連絡がとれず、堺市からも入院先や療養先の指示がありません。当初は一定時間に使える施設の空き部屋を一時的に利用、それ以外の時は患者と職員は車の中に閉じこもります。この酷暑の中です。第六波での療養では8,500万円の損失を抱えたコスモスさんは、自治体たる大阪府の設けた40床ある介護型ケアハウス「ほうせんか」を使えるよう、最悪の状況も想定しながら対応を進めます。障碍者の療養は後回しなのかと呟きながら対応する中、メディアが動きます。大阪府知事に質問すれば「保健所に任せている」との返事だけ。「ほうせんか」では患者を支えるだけの「マンパワーが足りない」との答え。しかし発熱から1日半後の午後9時過ぎて療養施設に入所。堺市長は「検討して実施したい」と言うばかりでしたが、コスモスさんは決して諦めずに「朝日放送」というメディアをフル活用し、時間と戦いながら病床使用に漕ぎつけました。コスモスさんは誰に何と言われようと叫び続けました。その結果、福祉の現場を正面からは見ようとしない政治家でさえも、課題を直視せずにはおれなくしたのです。「わたしを憐れんでください」と福音書の舞台に響いた叫びは、いのちを軽んじる同調圧力や空気を破る神の力に満ちています。病床に主の深い癒しと支えを祈りましょう。


2022年8月20日土曜日

2022年8月21日(日) 礼拝 説教 (コロナ禍対策により対面式の聖日礼拝は休止させて頂きます)

 ー聖霊降臨節第12主日礼拝 ー

時間:10時30分~

※コロナ禍対策により
しばらくの間会堂を用いずリモート中継礼拝・録画で在宅礼拝を執行します。
状況に変化があれば追って連絡網にてお伝えします。
 

説教=「神に育まれたこどもたち」 
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』  10章13~16節
(新約聖書81頁)

讃美=308,461,544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 旭川というと、『塩狩峠』や『氷点』で知られる作家・三浦綾子さんを連想します。しかし今、旭川の町は三浦綾子さんとはまた異なる苦難を生き延びてきた人々を迎えています。その一人、降旗英捷(ふりはたひでかつ)さん。3月19日に成田空港に降り立ったこの方は78歳。心臓を悪くされており薬が欠かせません。南樺太にお生まれになりましたが、ソ連軍が進駐してきたとき内地へ帰国できず家族で抑留を味わい、東欧に育つこととなります。ポーランドでご伴侶と知り合い結婚。西部ウクライナの工業都市ジトーミルに暮らしたことで生活の状況が急変します。郊外の集落は3月4日、ロシア軍の攻撃で破壊され避難、その結果、ワルシャワ経由で来日。きょうだいのいる日本に逃れ、現在はお孫さんとともに旭川の道営住宅で生活されています。生まれ故郷を仰ぐため、かつて稚内と樺太を結んだ連絡船の記念碑の鐘を鳴らし、海峡の向こうに見える生誕の地を眺め「ボージェ・モイ(ああ、神さま)」と呟くことば。英捷さんは日本語を忘れてしまい、今はウクライナ語が生活のことば。「ボージェ・モイ」に78年の生涯が凝縮されます。
 本日の『聖書』の箇所は「イエスに触れていただくために、人々がこどもたちを連れてきた」と始まる、よく知られた箇所です。弟子たちはこの人々を叱ったが、主イエスはこの様子を見て憤り「こどもたちをわたしのところへ連れてきなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」と語り、こどもたちを抱き上げ、手を置いて祝福されたという物語です。しかし何度味わっても胸を震わせられるのは、このこどもたちがどのような育ちや環境、また身体の特性やどのようなことばを話していたのかが一切記されてはいない、というところです。人間扱いされないこどももいたことでしょう。「イエスに触れていただくために」と記されているところを踏まえますと「癒し」を示します。このこどもたちは、何らかの事情を抱えていたようです。つまり「イエスに触れていただく」とは、福音書の文脈では、人々がイエスにこどもたちへの癒しを求めているのではないかとも考えられるのです。病の癒しや、何らかの生きづらさを抱えているこどもたち。幼子は栄養失調や病気にも罹患しやすく、すぐに亡くなったと引揚の経験者は語りました。親御さんの保護があればまだしも、混乱の中で家族とはぐれたこども、親を失ったこどもたちの行方がまだ分からないと嘆く声、逆に親を探すこどもの声が、かの地だけではなくわたしたちの地域でも響いています。たとえ血がつながっていたとしても、虐待されるこどもがいます。その子にとって、無言の家庭は警戒サイレンの鳴る町と同じくらい恐ろしい場所です。見かねた大人に連れてこられたこどもたちが、イエスを囲む群れの中にいたとしてもおかしくありません。弟子のことばはこどもたちを人の子イエスから遠ざけようと強いる暴力となっています。そのような態度を主イエスは一蹴いたします。
 『コリントの信徒への手紙Ⅰ』で使徒パウロは次のように語ります。「幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを捨てた」。確かにわたしたちは、すでに幼子ではありません。だからこそ、どのような拒絶にあってもイエス・キリストの祝福を求めて、こどもたちを連れてくる大人になりたいのです。多くの人生の場数を踏んだところで見えてくる展望は、いつしか智恵となってこどもたちのいのちをイエス・キリストに結んでまいります。わたしたちは幼子ではありません。だからこそ「こどもたちをわたしのところへ連れてきなさい」との招きに応じていくのです。自分のところではなくキリストのところ。それは幼子がやがて味わう困難を耐え忍び、その中から神の智恵を授かり、神の希望に授かるところでもあります。その場こそイエス・キリストに根ざす交わり。神に育まれたこどもたちが招かれる交わりです。
 現在ウクライナでは総動員令が発令され、青壮年期の男性は、原則国外脱出が困難です。ですから降旗さんのようなご高齢の方や女性だけが、状況と事情さえ整えば、国外へと逃れることもあります。降旗さんと孫のウラジスラワさんは旭川市民となり、ともに渡航してきた家族は再び彼の地へと戻っていきました。樺太からおそらくはシベリア経由でウクライナまでたどり着き、抑留生活の中でご両親に育てられ、今はお孫さんに支えられ、よくぞこの逃避行を続けられたものだと溜息をつくほかありません。戦災孤児となるそのギリギリのところで抑留の地が実質的にはウクライナとなり、動乱の中で辛くも生きる道を備えられた人です。「ボージェ・モイ(ああ、神さま)」は決して単なる詠嘆ではなかったはずです。孫のウラジスラワさんは語ります。「戦争は初めてでそれは最も恐ろしいものです。でもおじいさんはさらにひどい状況を生き延びました。おじいさんはわたしたちと自分のために苦境を生き抜き、今回もそうするでしょう。おじいさんはわたしたちを愛してくれています。わたしたちもおじいさんを愛しているのです」。『マタイによる福音書』にあるクリスマス物語では、イエス誕生の物語とともに、ベツレヘムで起きたヘロデ王によるこどもたちの殺害の記事を掲載します。その中でなお、いのちを繋いでいった人々が神の愛を証ししていきます。「こどもたちをわたしのところへ連れてきなさい」。キリストとの交わりの中でいのちそのものが輝く瞬間を尊び、また喜びたいと切に願います。



2022年8月12日金曜日

2022年8月14日(日) 礼拝 説教 (コロナ禍対策により対面式の聖日礼拝は休止させて頂きます)

ー聖霊降臨節第11主日礼拝 ー

時間:10時30分~

※コロナ禍対策により
しばらくの間会堂を用いずリモート中継礼拝・録画で在宅礼拝を執行します。
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説教=「神の愛は涼やかな風となって」 
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』  9章42~50節
(新約聖書80頁)

讃美=301,532,544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
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「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 本日の福音書の記事で人の子イエスが語る救い主への信頼、神への信頼をつまずかせる者は、「大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、斬り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、斬り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩をもちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい」と語ります。教えの最後に「そして、互いに平和に過ごしなさい」とある割には、本日の箇所ではなかなか物騒な、心穏やかにならない、激しい言葉が延々と続きます。さらには死後の世界に属するはずの、地獄の存在にすら言及します。これはもともと古代ギリシアの世界観であり、ヘブライの民の理解には見いだせない考えです。このように、身体の切除を伴う刑罰をイメージさせる言葉を用いながら、「人は皆、火で塩味をつけられる。塩はよいものである」と語りかけ、「互いに平和に過ごしなさい」と語るところの、脅迫じみて響くこの教えは、どのような態度をわたしたちに示しているのでしょうか。実にこの箇所では、字義通りに正典を受けとめる宗教原理主義の国家で執行される刑罰も含みますので、丁寧に解き明さなくてはなりません。
 この箇所の第一の関心事は「つまずき」です。とりわけ、「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者」に始まり、「つまずき」の原因そのもの、または意識してきっかけをもたらす者へ向けられた警告が記されます。人々の不信仰や、単なる特定の行為や人格に向けた非難に終わるのならば、人の子イエスもまた、一部のファリサイ派や律法学者と寸分違わなくなります。しかし注意してみると、人の子イエスの非難は、つまずきをもたらすわざへの激しい怒りとしても理解できます。溺死の理由は他人の信仰をつまずかせたからだ、あるいは身体の欠損や障碍はつまずきをもたらしたそのわざの報いだ、などと人の子イエスは語っていません。むしろそのような因果応報の理屈で人の心を惑わす教えそのものが「つまずき」だと言えます。
 それでは「つまずき」とは何を内容とするのでしょうか。思うにそれは「神と人に希望を置く者の信頼を台無しにする」、また、「キリストを信頼する生き方を妨げたり、嘲笑ったりする」、さらには「身命を賭してキリストに従おうとする者のあり方や生き方を挫いたり、茶化したりする」といったわざであるとも言えるでしょう。そうなりますと、『マルコによる福音書』とは異なる、『マタイによる福音書』や『ルカによる福音書』の記事で、荒れ野での四十日間、イエスを三度誘惑する悪魔の振舞いが視界に入ってまいります。すなわち、自分の飢えだけを満たすために石をパンに変え、これが人生の目的の全てだと思わせて分かちあいを否定し独り占めする態度。次には『聖書』の言葉を引用しつつ神を試す体裁をとりながら、その実態は神を疑わせる弄び。そして多くの犠牲や抑圧が隠されているのにも拘わらず、諸国の繁栄ばかりに注意を惹かせて、思うままにその富を操る中で縛りあげられる生き方。残念なことに、現代では国家も含めた公の組織でさえこのような妄想に囚われ、人の心を荒廃させ、時には『聖書』を用いて戦争さえも正当化します。「地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない」。古代のギリシア文化に根ざす地獄とは『マルコによる福音書』の場合、死後の世界ではなく、この世における現実の「焼けつくような痛みと苦しみ」に満ちています。
 ただしイエス・キリストは、そのような灼熱の世にあっても大切な塩は消えず、同時に、潤いに満ちた神の平和こそ、あらゆるつまずきに優ると語ります。そしてつまずきの実質的な内容となる妄想にとりつかれたわたしたちにとって桁違いの「つまずき」である十字架での死と復活を通して、人間が作り出す破れと限界に満ちた平和ではなく、何人にも損なわれない神の平和にあって過ごす安らぎを勧めます。そこには涼やかな風としてそよぐ神の愛の働きがあります。神の愛への信頼が世界を変えていくのです。
 核戦争の脅威がこれほど高まった時代はないと言われる今、わたしたちの暮らしにはさまざまな不安に満ちています。いつコロナの災いは収まるのか。いつ戦争は終わりを告げるのか。いつこどもたちは安心して遊びと学びに専念できるのか、と。しかしとりわけ広島や長崎で深い火傷や手や足や目を失って、なおも人として懸命に生きてこられた方々が、今、次世代に平和のバトンを渡そうとしています。非常勤先の大学での授業の最中、その浅薄な内容への学生の抗議への反省として広島を訪れ、祈念碑に水を献げた旅を思い出します。多くのこころない言葉やつまずきに勝利した人々は今、記録映像からメッセージを語りかけています。「平和を実現する人々は幸いである。その人は神のこと呼ばれる」。毀誉褒貶に囚われず、キリストとともにあゆみましょう。


2022年8月5日金曜日

2022年8月7日(日) 礼拝 説教 (コロナ禍対策により対面式の聖日礼拝は休止させて頂きます)

  ー聖霊降臨節第10主日礼拝 ー

―平和聖日―

時間:10時30分~

※コロナ禍対策により
しばらくの間会堂を用いずリモート中継礼拝・録画で在宅礼拝を執行します。
状況に変化があれば追って連絡網にてお伝えします。
 

説教=「身体ひとつの痛みが癒される喜び」 
稲山聖修牧師

聖書=『コリントの信徒への手紙Ⅰ』 12章14~26節
(新約聖書316頁)

讃美=496,531,544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
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【説教要旨】
 久しぶりにお刺身を食べて急にお腹が痛くなったらアニサキス症を疑う。アニサキスは線虫という生き物に分類され、天然の鯖や鯵、鰯や鰹、鱈や鮭、鮃やイカを始めとしたほぼ全ての海洋生物の体内におり、事前に冷凍されたり充分に加熱処理されたりしてはいない場合に人体、とくに消化器系の臓器にダメージを与えます。それではこのアニサキスに寄生された魚は苦しむのでしょうか。おそらく苦しむことはないだろうとの考えが現在主流を占めている、とのことですが、質問したのは当時6歳の女の子。父親がアニサキス症に罹って病院へ行ったのだが、魚の場合、アニサキスが体内にいたら苦しくないのかという素朴な気持ちから出た問いかけです。ラジオ番組での専門家の答えではアニサキスはもともとクジラやイルカの腸に数十万と暮らしており、その卵はイルカの糞に入っており、糞を栄養源として食べたプランクトンを、その次に魚が食べ、その体内でアニサキスが育ちます。この道筋を踏まえると、その魚をクジラやイルカが再び食べるのであれば、もとの宿主の体内に戻って、全体としては循環していくはずです。ただこれが人体に入ってしまうとアニサキスは拒絶反応を起こし、胃腸を食い破って逃げようとするのだそうです。
  本日は平和聖日。今日では内視鏡で除去できる寄生虫も、今から77年前までは容易く駆除ないし治療できなかったはずです。アジア・太平洋戦争では日本軍民あわせて310万人以上の死者を出し、軍隊に限っても戦死者ではなく戦病死者が7割を越えていたという異常な数値を出しています。戦場という過酷な環境で体力が消耗し、アメーバ赤痢などの病に罹患し斃れていく兵士。それこそ身体の免疫が一切通じない地域へ従軍し病死・餓死した人々は数知れなかったことでしょう。そして戦後の困窮に身をやつすほかなかったのが戦没者遺族や戦災孤児。こちらにもまた慢性的な飢餓状態の中で斃れる無数の人々がいました。
  本日の『聖書』の箇所は『コリントの信徒への手紙Ⅰ』。先週は『コリントの信徒への手紙Ⅱ』をお話ししましたが、いわゆる「コリント問題」として揺れていたのがこの都市にある初代教会の交わりでした。数ある課題のひとつには、ギリシア都市コリントに入り、キリストの証しを立てた使徒各々を担ぎあげるという分派活動が行われ、その結果教会の交わりが分断される事態です。「あなたがたはめいめい、『わたしはパウロにつく』、『わたしはアポロに』、『わたしはケファに』、『わたしはキリストに』などと言い合っているとのことです。キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか」と使徒パウロはコリントの教会の人々を諫めます。なぜでしょうか。それは、教会がイエス・キリストの名を疎かにしていきますと、キリストを通して明らかにされた神の恵みもまた疎んじられてしまうからです。神の恵みを疎んじた教会はもはや、教会の名に値しない「烏合の衆」に陥り、人々は互いに異なった特性を受容できなくなり、裁きあうという事態に陥ります。これは、コリントの教会にはまことに致命的な状況でした。なぜなら、コリントの都市人口60万人のうち、40万人は奴隷であり、その奴隷の中にもさまざまな処遇の格差が設けられていたと考えられるからです。コリントの人口20万人の繁栄が絢爛豪華になるほどに、40万の奴隷への抑圧は激しさを増していきます。そのような人々が教会に集うのです。キリストによる一致があればこその教会の交わりですが、その一致の消滅は、混乱と争い、そして分断につながります。牧師も含めキリストから離れた教会は、いつしかこの世の寄生虫と成り果て、権力に阿ったとしても居直ります。
  ところで人の交わりの分断と争いを鎮めるためにローマ帝国は軍事力を用いました。しかし教会の場合、本来その道は禁じ手です。病の源として蔑まれるアニサキスでさえ、神の備えた被造物本来の交わりの中にあれば、数ある尊いいのちの一つとして宿主を別の病原体から守る役目を担うのかもしれません。しかしその交わりから切り離されてしまえば、兵士や民間人の最大の死因となった病原体同様、人体に害を及ぼします。破れを身にも心にも負っているわたしたちです。わたしたちが隣人との関わりを蝕むのではなく、神の交わりを世に証しし、地域や家庭に仕えようとするならば、全ての権限をキリストにお委ねしなくてはなりません。だからこそパウロは、教会の交わりをキリストの身体に重ね、連なる人々の特性を、人体を構成する無数の部分に喩え、互いに敬うようにと語りかけたのではないでしょうか。世にあって蔑まれる人々がいたとしても、教会にあってはキリストとつながって各々が尊ばれます。そして世にあって神に仕えるわざは、世にも格差や蔑みから解放される喜びをもたらします。そしてそのわざがどれほど小さくても、神の愛の証しする輝きとなり、伝道となります。それは神の愛の先取りでもあります。いのちの痛みへの敏感さ。共に苦しむ繊細さ。世の全ての痛みは、その痛みを伴う愛の中でのみ癒されるのです。
わたしたちは今、アニサキス症以上に猛威を振るうコロナ禍の只中にいます。そしてウクライナの紛争や台湾海峡の緊張の中にもいます。だからこそわたしたちには、二度と戦争や飢餓の苦しみを繰り返すことなく、キリストに立ち帰る態度が問われます。