2021年11月25日木曜日

2021年11月28日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝もございます。)

待降節第1主日礼拝

-アドベント第1主日礼拝-

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂



説教=「神の言葉はとこしえに立つ」
稲山聖修牧師

聖書=「マルコによる福音書」13章 21~37節

讃美=174(1,2), 94, 540.

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 待降節第1主日を迎えるにあたり、福音書の言葉に耳を傾けるとき、わたしたちは折に触れて聖書の言葉は何と難しいことだろうと溜息をつくかもしれません。辛いとき、苦しいときに励ましてくれる言葉がそこにあればまだしも、字義通りにいうとどうしてこんなに難しいのか、または却って塞ぎこんでしまうような言葉に戸惑うばかりという場合もあります。聖書を「分かろう」とするほど、込み入った内容にうろたえるばかりで、聖書の扉を閉めてしまうのです。そんなときにわたしたちに求められるのは、聖書の分かる箇所を読んだり聴いたりするだけでなく、聖書で分からない箇所とはいったいどこなのかを確かめ、その箇所を大切にしながら祈るというものです。
 本日の聖書の箇所にしても、いったいどのようなわけで待降節の始まりがこの箇所になったのか分からないと仰せになる方がいてもおかしくはありません。「偽メシアに気をつけるように」との箇所に始まり、その時代のキリスト教徒が待望していた、世の諸々の力に対する神の愛の勝利、そしていちじくの木のたとえに始まり、世の終わりの訪れ、すなわち神の愛によるこの世の支配に絶えず目を覚ましているようにとの言葉。わたしたちにはどうにも分かりづらいと考え込んでしまいます。そんなにクリスマスは受け入れ難い出来事だったのだろうかと。
 少なくとも、救い主の誕生の時を古代ユダヤ教の人々は待ち焦がれ、そして初代教会の人々は神の愛の勝利としての世の終わりを待ち望んでいたのは確かでした。その時代の支配者の圧制からの解放、そして教会が生まれてなお続く迫害と世の不平等による苦しみ。人々が破滅的な世の終わりではなく神の愛につつまれてそのような世が平安につつまれるという発想は、今なお画期的であり、驚くべき出来事だと言えるでしょう。救い主の誕生により、人々にはどれほど世が混沌としたとしても人としてあゆむ道筋が見えてきた。そしてそのゴールを通して、また新しい歴史が始まる。その全てはイエス・キリストにかかっているという柱が、組織としての教会だけでなく、教会に連なる全ての人々を支えてきたと言えます。始まりがあるから終わりがある。天地の創造があり、イエス・キリストの誕生があり、その生涯があり、十字架と復活があり、そして神の愛が全世界に平安をもたらすときに、先だってわたしたちのもとに来られるという理解。「選ばれた人たち」と呼ばれる人々は、決して何かの条件を満たしたことでそうなるというのではありません。むしろ神以外の何者にも選ばれなかった人々だと解釈してよいでしょう。それはイエス・キリストがどのような人々と出会い、クリスマスの夜、家畜小屋にどのような人々が集まったかを思い浮かべればお分かりかと存じます。だからこそわたしたちは、救い主の訪れを「焦って手元に引き寄せよう」とするのではなく「仰ぎつつ待ち望む」のです。
 しかしながらいつの世にも人はそのような焦りを抱くあまり、人は時代の英雄や著名な教育者、教会の指導者や高名な作家を救い主のように奉ってきました。そんな馬鹿なと後の世には思えたとしても、時代によって特別な人物をただただ素晴しいと礼賛する場合があります。時には巧みな話術や独特な雰囲気で熱狂的に尊敬される牧師、福祉に理解のある政治家。確かに無理からぬことかもしれません。しかしイエス・キリストなしのキリスト教とは、たとえ諸国の民がその基にしようと試みても、もはやキリスト教とは呼べないカルト宗教と化してしまいます。
 「神の言葉はとこしえに立つ」とは、旧約聖書『イザヤ書』40章8節に記されますが、新約聖書『ペトロの手紙Ⅰ』1章24~25節にも記されるだけでなく、わが世の春を謳歌しようとしていた、ヘロデ王を始めとしたエルサレムの富裕層の動揺の震源地となった幼子イエス・キリストの誕生によって響き渡る言葉であり、わたしたちが憧れたりしがみついたりする世の力のメッキを剥がす言葉です。わたしたちとともにいてくださるのは、そのような「ともにいてくださるクリスマスの主」です。世の闇のなかで独りマリアが身籠もったクリスマスの主、ローマ皇帝が引き起こした世界規模の混乱の中で故郷の誰からも顧みられず、宿を閉め出されたクリスマスの主、ヘロデ王の嫉妬が引き起こした幼児たちの虐殺の中から救い出され、逃れていったクリスマスの主、聖職者の息子としてではなく大工の息子として育ったクリスマスの主です。聖書の物語の中でモーセとイエスが決定的に異なるのはこの一点です。飼葉桶の嬰児は、神の前に本来メッキを剥がされる人々が味わうはずの苦しみを受けながら世に救いをもたらしました。
コロナ禍という混乱の中だからこそ、わたしたちはベツレヘムへと導く光に導かれて待降節を過ごしたく存じます。





2021年11月18日木曜日

2021年11月21日(日) 収穫感謝日・謝恩日礼拝 説教(自宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝もございます。)

-収穫感謝日・謝恩日礼拝-

降誕前第5主日礼拝

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂

説教=「今・この時、天に宝を積む」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』10章17~22節

讃美=503(1,3節), 391(1,3節), 540.

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


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【説教要旨】

 世界の企業のトップランキングの会社名が日本の会社で占められ、世の景気が爛熟期を迎えたバブル時代といえば、何を思い起こされるでしょうか。いずれにせよ浮かれた雰囲気に満ちていたような気がします。この雰囲気に矛盾を感じた若者は、禁欲的な修行で知られる新宗教に居場所を見つけようとします。その中で有名になったものにオウム真理教がありました。高学歴で生真面目な若者がこぞって教祖の話に耳を傾け、出家という名の家出をし、富士山麓の村に設けた施設に身を委ねるにいたりました。ことの次第はあえて申しませんが、数多の犠牲者をもたらした地下鉄サリン事件の実行犯として処刑された者の中には、わたしの五年上の高校の先輩も含まれていました。

 あらためてこのような影をも併せもつところの物質的な豊かさの中で世を敵視して大きな罪を犯して逮捕され、処刑されていった者たちは本来は何をすべきであったのかと、今なお犠牲者がおられる中で考えずにはおれません。

 本日の箇所では「たくさんの財産をもっていた」ところの人物が描かれてまいります。初対面のイエス・キリストに唐突に走り寄り、ひざまずいて尋ねるところを観ますと、人の子イエスにそれなりの敬意を払っていたことでしょう。しかしその質問は内容の割にはあまりにも唐突です。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。財産をもっていたこの人は「何を悟ればよいか」とは言っておりません。「何をすればよいのか」と、なすべき行ないや立ち振る舞いについて問うています。返す人の子イエスの答えとは、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟を、あなたは知っているはずだ」というもの。主イエスの答えは「モーセの十戒」であり、その時代のユダヤ教徒であれば常識として誰もが知っている掟です。この答えに「たくさんの財産をもっている」この人はこう答えます。「先生、そういうことはみな、こどもの時から守ってきました」。初対面の人物、しかも尊敬する相手への言葉としては、少し幼い気がいたします。モーセの「十戒」の誡めのもつ重さと難しさを視野に入れずに素朴に答えられるのであれば、さほど人生経験を積んできたとは思えません。その意味で「富める若者」との理解が定着したのでしょう。主イエスは資産家の若者に「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それからわたしに従いなさい」。イエス・キリストのこの言葉から、若者はただの資産家であったとは断定できないと考えられます。「たくさんの財産」。金銀だけでなく家もあり土地もあり、その時代のことですからたくさんの使用人がおり、奴隷もあり、ローマ帝国の人々とのつながりもあり、家族に恵まれていたかもしれません。福音書の中で主イエスに救いを求めに来た徴税人や病人とは全く異質の世界に暮らしていたことでしょう。このような経緯を踏まえるならば、主イエスは財産を売り払っての出家を決して促してはいません。むしろ「あなたが今、独り占めしているその豊かさは、本当のところ誰のために用いるのか」との覚悟を求めているように思えるのです。あなたのもつ豊かさを、あなた以上に必要としている人には、その豊かさはまさしく天に積まれた宝として計り知れないほどの値打ちをもつから、まずそれを献げてきなさいと語っているように思えます。そしてそれは献げる者自らには字義通り天に積まれた宝となります。現代ですら、小腹を満たすためのおにぎり一つが、ある人には一日の食事となる場合すらあります。それが深い関わりを互いにもたらします。そのような分かちあいへと踏み出す勇気を持てなかった若者は、悲しみながら立ち去ったとありますが、イエス・キリストは「慈しんで」とあるように、決して彼を見捨てておりません。若者が肩を落とし見捨てられたと思い込んでいたとしても、主イエスの愛なる眼差しは、絶えずその人に注がれています。

 経済バブルの崩壊から三十年。幾度もの経済的な危機を経て暮らしは「専業主婦・終身雇用制」から「共働き・ダブルインカム」が主流となりました。多くの試練を経て、障碍をも含めた多様性・こどもたちの多様性が少しずつ理解され、受け入れらていく途上にあります。社会も教会に集う人も五十年前とは確実に変化しています。かつて豊かさを楽しんだ若者たちは責任世代となり、物質的な豊かさに代わる人生の実りを見出そうとしています。そのような中で授けられた日ごとの実りを神に献げ、隣人と分かちあい、キリストの愛のうちに喜び過ごす日々をわたしたちは今・この時に与えられています。上辺の豊かさではごまかせなかった貧しささえも、わたしたちは分かちあい、新しい多様性と豊かさへとつなぐ祈りがあります。その実りを収穫感謝の祈りとして、神に献げていきたいと願います。


2021年11月10日水曜日

2021年11月14日(日) 幼児祝福式礼拝 説教(自宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝もございます。)

-降誕前第6主日礼拝-

時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
 

説教=「破壊に打ち克ついのちの声」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』13章3~11節
(新約聖書88ページ)

讃美=171(1,3節), 465(1,3節), 467, 540.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 理由は充分に解明されないながらも、感染爆発という状況から次第に遠のいていく中で、現在問われているのは、医療従事者のバーンアウト、燃え尽き症候群の問題だと言われます。新型感染症罹患者とウイルスに感染はしないものの、救急搬送を受けて運び込まれてくる患者との板挟みになって苦しみ、離職していく看護師の姿。労働対価という仕方でその仕事が評価を受けたとしても、仕事そのものへの充実感や使命感というよりは虚脱感や無力感に苛まれていく若者たちは後を絶ちません。患者さんを懸命になって支えた方々が、今度は新たな別の病に罹患するさまを、なぜ世の人は顧みようとしないのかとある種の謎すら覚えます。おそらくは周囲の評価とは別に深く自尊心が損なわれていくような場面、例えばあの人を支えられなかった、この人を支えられなかったという悲しみが慢性化してしまったのかもしれません。その悲しみは深く自らを傷つけるという行為にすら及ぶ場合もあります。
 『マルコによる福音書』の舞台となったユダヤもまた、様々な悲しみに満ちていました。ローマ帝国という世界帝国の支配のもとで、数百年にわたり異邦人の支配を受けてきたイスラエルの民には、自らへの絶望が深まるほど、今置かれているこの惨めな状況、つまり絶えず支配される側にあるという悲しみに向き合うために、世の終わりという思いを抱くにいたります。イエス・キリストが説いた神の国とは似て非なる世の終わりの理解がそこにはあります。すなわちアブラハムの神が先祖たちにそうしたように、自分たちをも解放してくださるとの願いです。ときにその願いは支配者への抵抗という実力行使を伴なって受け入れられましたが、イエス・キリストが説いた終末とはそのような暴力を越えていくものでした。支配者を打ち倒すという破壊衝動を超えて、すべての被造物が神の愛に包まれ、そこにはイスラエルの民もそれ以外の民をも問わないというありようでした。人の子イエスの癒しのわざも交わりの豊かさもその確信に由来していたと言えるでしょう。もちろん弟子もまたそのような解放を切実に願っていました。だからこそ次のように問うたのでしょう。「そのことはいつ起こるのか、その実現の徴はどのようなものか」と。返すイエス・キリストの言葉は実に冷静です。「人に惑わされないように気をつけなさい」「戦争の騒ぎや噂を聞いても慌てるな。そういうことは起こるに決まっているが世の終わりではない」「地震があり飢饉がある。それらは生みの苦しみの始まりだ」。イエス・キリストはその時代のみならず、今を生きるわたしたちの動揺の源を見抜いています。その上で「それらは生みの苦しみの始まりだ」と滅びの苦しみとは対極にある、新しいいのちとの出会いに重ねて世の混乱を受けとめようとします。もちろん、その時代のみならず、わたしたちもその混乱のただ中に置かれます。「地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれ、わたしのために総督や王の前に立たされて証しをするにいたる」。つまり、少し前で言うところの現世利益、ただちに結果を求める成果主義を中心にする人々からは決して理解されないありかたの中で、神の愛の証しは立てられるということとなります。冒頭の話で言えば、医療従事者を使い捨てていく側に立つのではなく、その生きづらさを分かち合っていく立場に身を置くこととなります。家族を施設に預けたまま悲しみに暮れる人とともに歩むこととなります。それが苦しみを伴いながらも新しく広がる神様の地平に立つということにつながっていくのです。その生きづらさの中で紡がれる言葉、こぼされる涙といったものを、神が忘れるはずがない、なぜならそれは神の愛、すなわち聖霊によるものだからだという理解はまさしく画期的であります。コロナ禍の中にあって新しいいのちを授かり抱きしめた母親がいます。滋賀県の社会福祉施設では「仲間たち」と呼び合う、障がいを抱えた当事者の方々を怖がらせないようにワクチン接種を行ったとのことです。それは決してメディアや週刊誌が報道する出来事ではありませんが、暮らしをめぐる様々な不安を抱えたわたしたちを十全に癒し、励ます報せです。まさにそれは福音です。神の愛を先取りしています。
 「まず福音が宣べ伝えられなければならない」。そのような混沌とした世にあっても、神の愛による証しはいのちの希望を指し示します。わたしたちは真っ暗闇の中で右も左も分からないようなところに置かれているのはありません。それは何よりも、本日祝福を授けられるこどもたちの名前に明らかです。どの名前にもいのちの希望が輝いています。どの瞳にもいのちの光が輝いています。親御さんもお子さんも、今日この日の祝福を決して忘れることはないでしょう。神の前に立つとき、わたしたちは将来を悲観するというあり方から解放されます。それこそ福音の始まりです。

2021年11月4日木曜日

2021年11月7日(日) 説教(自宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝もございます。)

降誕節前第7主日礼拝

-永眠者記念礼拝-

時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂

 

説教=「キリストとともに、天使たちとともに」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』12章18~27節

讃美=310(1,3), 496(1,2), 540.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


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【説教要旨】
 泉北ニュータウン教会の名簿によりますと、42名の永眠者がおられます。さらに98名の関係者がその名を連ねておられます。コロナ禍の中にあるわたしたちは、2020年は5名、2021年を迎えて2名の兄弟姉妹ならびに1名の牧者を天に送りました。永眠者記念礼拝と呼ばれるこの日、わたしたちはともに確かめたい事柄があります。それは、今日招かれたわたしたちには死が終わりではないという聖書の言葉とともに、わたしたちの生涯は出会いから成り立つ、ということです。出会いとは人の目からすれば偶発的な事件として起きます。誰もが自分の思い通りに人生を設計するなどできず、絶えず道を逸れていく苦みを味わいます。けれどもたまたま起こりうる出会いが神の招きによるものであり、神の愛のわざによるものだとすれば、わたしたちはどうすればよいのでしょうか。
 実はこのような出会いは、聖書の物語の根幹をなすといってよいものです。『旧約聖書』は死後の世界については殆ど描かず、逝去した人の身体またはしるしは神の国が訪れるまで眠っているという理解に立ちます。ギリシア文化の影響を受けたキリスト教の世界では、確かに死後の世界が描かれますが、あくまでそれはこの世で絶対的な尺度となりがちな富や権力を、人が囚われる必要のない「変わりゆくもの」として論じるために用います。世に生きていたときの悪事を償うために苦しみを受ける場所、また邪悪な魂を封印するための場所としては描かれません。そのような死後の描写は聖書には一切ありません。むしろ聖書にあって天の国、すなわち神の国は先ほど申しましたようにわたしたちの世に訪れるのであり、そのときにはわたしたちの心根から嘆きや悲しみが全て取り除かれ、破れを抱えたわたしたち自らも召された方々ともども新たにされて復活するとのメッセージがあります。十字架での苦しみと死に勝利し復活したイエス・キリストの姿には、天の国が訪れたときのわたしたちの姿もまた重ねられるのです。
 このような理解を踏まえて本日の聖書の箇所に触れますと、古代ユダヤ教の中には復活を否定する者もいたと記されているのには興味深いところがあります。この時代は一口にユダヤ教と申しましても多様な流れがあり、ことサドカイ派と呼ばれていた人々には『旧約聖書』の始めの五つの書物、『律法』のみが依るべき教えの源でした。そこでは復活はそのものとしては描かれず、登場人物は生涯を全うした後に全て葬られていき、物語の幕が下りるという構成になっています。ですからサドカイ派の人々には「復活」が分かっておらず、受け入れる気持ちもありません。なるほどだから、イエス・キリストにこのようなデリカシーを欠いた問い尋ねができるというものです。ある人が結ばれ伴侶となる。その伴侶が夫と死別する。そこには言い尽くし難い慟哭と心痛があるはず。しかしサドカイ派の人々にとってこの話はイエス・キリストをやり込めるための屁理屈でしかありません。イエス・キリストはそのような詭弁を弄する人々にこう答えます。「あなたがたは聖書も神の力も知らないから思い違いをしているのではないか」。そして『出エジプト記』の中で、羊飼いとなったモーセが燃え尽きない柴に導かれて当初予定の道から逸れ、とある山へと分け入り、神と出会う場面に触れて、アブラハムも、イサクも、ヤコブも、世にあって生涯を全うしてなお神とともにおり、生きているのだと語ります。その箇所にあるのが「復活にあってはめとりも嫁ぎもせず、天使のようになる」との教えです。
 泉北ニュータウン教会での礼拝の締めくくりには祝福の祈りを牧師が献げます。そこでは召された兄弟姉妹たちにも重ねて祝福を祈ります。それはわたしたちの礼拝が、すでに逝去され主のもとにおられる方々も、同時にわたしたちとともに礼拝を喜んでくださっていることを確かめるためです。10年前の東日本大震災の折には、被災地で逝去されたはずの方々との再会を証言する方々がいました。また著名なドイツ語文化圏の神学者は、アウシュヴィッツ跡を訪問の折、誰かに語りかけられている気がしてならないと語っています。それらをオカルトの話としてではなく、主の愛の中でなおわたしたちに語りかけ、関わろうとする天使となった人々との対話であり、歴史の息吹として受けとめ直すことはできないでしょうか。出会いは再現不可能な出来事。ですから科学的だとは言えません。けれどもまことに身近なところにあります。それは究極には主のもとで憩う人々との、キリストによる交わりという礼拝のわざに重なります。「死んだ者の神でなく、生きている者の神」。聖書が世の交わりの中で出来事となる今を喜びましょう。