2021年11月4日木曜日

2021年11月7日(日) 説教(自宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝もございます。)

降誕節前第7主日礼拝

-永眠者記念礼拝-

時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂

 

説教=「キリストとともに、天使たちとともに」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』12章18~27節

讃美=310(1,3), 496(1,2), 540.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 泉北ニュータウン教会の名簿によりますと、42名の永眠者がおられます。さらに98名の関係者がその名を連ねておられます。コロナ禍の中にあるわたしたちは、2020年は5名、2021年を迎えて2名の兄弟姉妹ならびに1名の牧者を天に送りました。永眠者記念礼拝と呼ばれるこの日、わたしたちはともに確かめたい事柄があります。それは、今日招かれたわたしたちには死が終わりではないという聖書の言葉とともに、わたしたちの生涯は出会いから成り立つ、ということです。出会いとは人の目からすれば偶発的な事件として起きます。誰もが自分の思い通りに人生を設計するなどできず、絶えず道を逸れていく苦みを味わいます。けれどもたまたま起こりうる出会いが神の招きによるものであり、神の愛のわざによるものだとすれば、わたしたちはどうすればよいのでしょうか。
 実はこのような出会いは、聖書の物語の根幹をなすといってよいものです。『旧約聖書』は死後の世界については殆ど描かず、逝去した人の身体またはしるしは神の国が訪れるまで眠っているという理解に立ちます。ギリシア文化の影響を受けたキリスト教の世界では、確かに死後の世界が描かれますが、あくまでそれはこの世で絶対的な尺度となりがちな富や権力を、人が囚われる必要のない「変わりゆくもの」として論じるために用います。世に生きていたときの悪事を償うために苦しみを受ける場所、また邪悪な魂を封印するための場所としては描かれません。そのような死後の描写は聖書には一切ありません。むしろ聖書にあって天の国、すなわち神の国は先ほど申しましたようにわたしたちの世に訪れるのであり、そのときにはわたしたちの心根から嘆きや悲しみが全て取り除かれ、破れを抱えたわたしたち自らも召された方々ともども新たにされて復活するとのメッセージがあります。十字架での苦しみと死に勝利し復活したイエス・キリストの姿には、天の国が訪れたときのわたしたちの姿もまた重ねられるのです。
 このような理解を踏まえて本日の聖書の箇所に触れますと、古代ユダヤ教の中には復活を否定する者もいたと記されているのには興味深いところがあります。この時代は一口にユダヤ教と申しましても多様な流れがあり、ことサドカイ派と呼ばれていた人々には『旧約聖書』の始めの五つの書物、『律法』のみが依るべき教えの源でした。そこでは復活はそのものとしては描かれず、登場人物は生涯を全うした後に全て葬られていき、物語の幕が下りるという構成になっています。ですからサドカイ派の人々には「復活」が分かっておらず、受け入れる気持ちもありません。なるほどだから、イエス・キリストにこのようなデリカシーを欠いた問い尋ねができるというものです。ある人が結ばれ伴侶となる。その伴侶が夫と死別する。そこには言い尽くし難い慟哭と心痛があるはず。しかしサドカイ派の人々にとってこの話はイエス・キリストをやり込めるための屁理屈でしかありません。イエス・キリストはそのような詭弁を弄する人々にこう答えます。「あなたがたは聖書も神の力も知らないから思い違いをしているのではないか」。そして『出エジプト記』の中で、羊飼いとなったモーセが燃え尽きない柴に導かれて当初予定の道から逸れ、とある山へと分け入り、神と出会う場面に触れて、アブラハムも、イサクも、ヤコブも、世にあって生涯を全うしてなお神とともにおり、生きているのだと語ります。その箇所にあるのが「復活にあってはめとりも嫁ぎもせず、天使のようになる」との教えです。
 泉北ニュータウン教会での礼拝の締めくくりには祝福の祈りを牧師が献げます。そこでは召された兄弟姉妹たちにも重ねて祝福を祈ります。それはわたしたちの礼拝が、すでに逝去され主のもとにおられる方々も、同時にわたしたちとともに礼拝を喜んでくださっていることを確かめるためです。10年前の東日本大震災の折には、被災地で逝去されたはずの方々との再会を証言する方々がいました。また著名なドイツ語文化圏の神学者は、アウシュヴィッツ跡を訪問の折、誰かに語りかけられている気がしてならないと語っています。それらをオカルトの話としてではなく、主の愛の中でなおわたしたちに語りかけ、関わろうとする天使となった人々との対話であり、歴史の息吹として受けとめ直すことはできないでしょうか。出会いは再現不可能な出来事。ですから科学的だとは言えません。けれどもまことに身近なところにあります。それは究極には主のもとで憩う人々との、キリストによる交わりという礼拝のわざに重なります。「死んだ者の神でなく、生きている者の神」。聖書が世の交わりの中で出来事となる今を喜びましょう。