時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
稲山聖修牧師
聖書=『マルコによる福音書』13章3~11節
(新約聖書88ページ)
讃美=171(1,3節), 465(1,3節), 467, 540.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
【説教要旨】
理由は充分に解明されないながらも、感染爆発という状況から次第に遠のいていく中で、現在問われているのは、医療従事者のバーンアウト、燃え尽き症候群の問題だと言われます。新型感染症罹患者とウイルスに感染はしないものの、救急搬送を受けて運び込まれてくる患者との板挟みになって苦しみ、離職していく看護師の姿。労働対価という仕方でその仕事が評価を受けたとしても、仕事そのものへの充実感や使命感というよりは虚脱感や無力感に苛まれていく若者たちは後を絶ちません。患者さんを懸命になって支えた方々が、今度は新たな別の病に罹患するさまを、なぜ世の人は顧みようとしないのかとある種の謎すら覚えます。おそらくは周囲の評価とは別に深く自尊心が損なわれていくような場面、例えばあの人を支えられなかった、この人を支えられなかったという悲しみが慢性化してしまったのかもしれません。その悲しみは深く自らを傷つけるという行為にすら及ぶ場合もあります。
『マルコによる福音書』の舞台となったユダヤもまた、様々な悲しみに満ちていました。ローマ帝国という世界帝国の支配のもとで、数百年にわたり異邦人の支配を受けてきたイスラエルの民には、自らへの絶望が深まるほど、今置かれているこの惨めな状況、つまり絶えず支配される側にあるという悲しみに向き合うために、世の終わりという思いを抱くにいたります。イエス・キリストが説いた神の国とは似て非なる世の終わりの理解がそこにはあります。すなわちアブラハムの神が先祖たちにそうしたように、自分たちをも解放してくださるとの願いです。ときにその願いは支配者への抵抗という実力行使を伴なって受け入れられましたが、イエス・キリストが説いた終末とはそのような暴力を越えていくものでした。支配者を打ち倒すという破壊衝動を超えて、すべての被造物が神の愛に包まれ、そこにはイスラエルの民もそれ以外の民をも問わないというありようでした。人の子イエスの癒しのわざも交わりの豊かさもその確信に由来していたと言えるでしょう。もちろん弟子もまたそのような解放を切実に願っていました。だからこそ次のように問うたのでしょう。「そのことはいつ起こるのか、その実現の徴はどのようなものか」と。返すイエス・キリストの言葉は実に冷静です。「人に惑わされないように気をつけなさい」「戦争の騒ぎや噂を聞いても慌てるな。そういうことは起こるに決まっているが世の終わりではない」「地震があり飢饉がある。それらは生みの苦しみの始まりだ」。イエス・キリストはその時代のみならず、今を生きるわたしたちの動揺の源を見抜いています。その上で「それらは生みの苦しみの始まりだ」と滅びの苦しみとは対極にある、新しいいのちとの出会いに重ねて世の混乱を受けとめようとします。もちろん、その時代のみならず、わたしたちもその混乱のただ中に置かれます。「地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれ、わたしのために総督や王の前に立たされて証しをするにいたる」。つまり、少し前で言うところの現世利益、ただちに結果を求める成果主義を中心にする人々からは決して理解されないありかたの中で、神の愛の証しは立てられるということとなります。冒頭の話で言えば、医療従事者を使い捨てていく側に立つのではなく、その生きづらさを分かち合っていく立場に身を置くこととなります。家族を施設に預けたまま悲しみに暮れる人とともに歩むこととなります。それが苦しみを伴いながらも新しく広がる神様の地平に立つということにつながっていくのです。その生きづらさの中で紡がれる言葉、こぼされる涙といったものを、神が忘れるはずがない、なぜならそれは神の愛、すなわち聖霊によるものだからだという理解はまさしく画期的であります。コロナ禍の中にあって新しいいのちを授かり抱きしめた母親がいます。滋賀県の社会福祉施設では「仲間たち」と呼び合う、障がいを抱えた当事者の方々を怖がらせないようにワクチン接種を行ったとのことです。それは決してメディアや週刊誌が報道する出来事ではありませんが、暮らしをめぐる様々な不安を抱えたわたしたちを十全に癒し、励ます報せです。まさにそれは福音です。神の愛を先取りしています。
「まず福音が宣べ伝えられなければならない」。そのような混沌とした世にあっても、神の愛による証しはいのちの希望を指し示します。わたしたちは真っ暗闇の中で右も左も分からないようなところに置かれているのはありません。それは何よりも、本日祝福を授けられるこどもたちの名前に明らかです。どの名前にもいのちの希望が輝いています。どの瞳にもいのちの光が輝いています。親御さんもお子さんも、今日この日の祝福を決して忘れることはないでしょう。神の前に立つとき、わたしたちは将来を悲観するというあり方から解放されます。それこそ福音の始まりです。
『マルコによる福音書』の舞台となったユダヤもまた、様々な悲しみに満ちていました。ローマ帝国という世界帝国の支配のもとで、数百年にわたり異邦人の支配を受けてきたイスラエルの民には、自らへの絶望が深まるほど、今置かれているこの惨めな状況、つまり絶えず支配される側にあるという悲しみに向き合うために、世の終わりという思いを抱くにいたります。イエス・キリストが説いた神の国とは似て非なる世の終わりの理解がそこにはあります。すなわちアブラハムの神が先祖たちにそうしたように、自分たちをも解放してくださるとの願いです。ときにその願いは支配者への抵抗という実力行使を伴なって受け入れられましたが、イエス・キリストが説いた終末とはそのような暴力を越えていくものでした。支配者を打ち倒すという破壊衝動を超えて、すべての被造物が神の愛に包まれ、そこにはイスラエルの民もそれ以外の民をも問わないというありようでした。人の子イエスの癒しのわざも交わりの豊かさもその確信に由来していたと言えるでしょう。もちろん弟子もまたそのような解放を切実に願っていました。だからこそ次のように問うたのでしょう。「そのことはいつ起こるのか、その実現の徴はどのようなものか」と。返すイエス・キリストの言葉は実に冷静です。「人に惑わされないように気をつけなさい」「戦争の騒ぎや噂を聞いても慌てるな。そういうことは起こるに決まっているが世の終わりではない」「地震があり飢饉がある。それらは生みの苦しみの始まりだ」。イエス・キリストはその時代のみならず、今を生きるわたしたちの動揺の源を見抜いています。その上で「それらは生みの苦しみの始まりだ」と滅びの苦しみとは対極にある、新しいいのちとの出会いに重ねて世の混乱を受けとめようとします。もちろん、その時代のみならず、わたしたちもその混乱のただ中に置かれます。「地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれ、わたしのために総督や王の前に立たされて証しをするにいたる」。つまり、少し前で言うところの現世利益、ただちに結果を求める成果主義を中心にする人々からは決して理解されないありかたの中で、神の愛の証しは立てられるということとなります。冒頭の話で言えば、医療従事者を使い捨てていく側に立つのではなく、その生きづらさを分かち合っていく立場に身を置くこととなります。家族を施設に預けたまま悲しみに暮れる人とともに歩むこととなります。それが苦しみを伴いながらも新しく広がる神様の地平に立つということにつながっていくのです。その生きづらさの中で紡がれる言葉、こぼされる涙といったものを、神が忘れるはずがない、なぜならそれは神の愛、すなわち聖霊によるものだからだという理解はまさしく画期的であります。コロナ禍の中にあって新しいいのちを授かり抱きしめた母親がいます。滋賀県の社会福祉施設では「仲間たち」と呼び合う、障がいを抱えた当事者の方々を怖がらせないようにワクチン接種を行ったとのことです。それは決してメディアや週刊誌が報道する出来事ではありませんが、暮らしをめぐる様々な不安を抱えたわたしたちを十全に癒し、励ます報せです。まさにそれは福音です。神の愛を先取りしています。
「まず福音が宣べ伝えられなければならない」。そのような混沌とした世にあっても、神の愛による証しはいのちの希望を指し示します。わたしたちは真っ暗闇の中で右も左も分からないようなところに置かれているのはありません。それは何よりも、本日祝福を授けられるこどもたちの名前に明らかです。どの名前にもいのちの希望が輝いています。どの瞳にもいのちの光が輝いています。親御さんもお子さんも、今日この日の祝福を決して忘れることはないでしょう。神の前に立つとき、わたしたちは将来を悲観するというあり方から解放されます。それこそ福音の始まりです。