2021年12月30日木曜日

2022年1月2日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝もございます。)

-降誕節第2主日礼拝-
時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂

説教=「神の御子の親離れ」
稲山聖修牧師

聖書=「ルカによる福音書」2章41~52節
(新約聖書104ページ)

讃美=121, 122, 544.

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 今年は泉北ニュータウン教会から牧師がお招きを受けて7年を全うする年。7年とは子育ての最中にある保護者の方々からすればまことに濃密な時です。生まれたばかりの赤ちゃんは誰もが生きるか死ぬかの瀬戸際。そんな嬰児がやがてしっかりと自己表現をするようになります。さて出迎えの必要な、ランドセルを背負ったお子さんが、7年経てば今度はぐっとしっかりしたように見えてまいります。自分の世界をもってきたかなと思う反面、その振る舞いに戸惑いもいたします。本日の聖書の箇所は、波乱に満ちたその誕生から12年を経た、イエス・キリストをめぐる物語。今朝の箇所は、その時代には半ば大人と見なされる年齢に達した息子、もう若くはなくなった母マリア、そして息子とは血が繋がらないながら、神の導きに従いを流してきた父ヨセフ、家族の肖像を描いた最後の物語です。
 家族は毎年ナザレから、過越祭の折にはエルサレムに上り、神殿での祈りを決して忘れませんでした。先祖が味わったエジプトでの奴隷解放の物語に耳を傾け、アブラハムの神に祈りを献げ、献げものを納めて過ごしてまいりました。祭りの期間が終わって帰路についたときにハプニングが起きます。それは息子がエルサレムに留まる一方で、父母はそれに気づかず一日分の道を行ってしまったのです。確かにイエスはわたしたちと一緒だったはずだとの騒ぎと、あらぬ事に巻き込まれてはいないかとの不安が両親の胸に湧いてまいります。過越祭への参加は家族単位に留まらず、一族総出で行うものでした。探し回る両親。しかし息子は見つからない。マリアとヨセフでさえ、息子の姿を見失う時がまさに訪れたのです。息子の居場所を尋ねながら、一族を先に家路へと急がせ、エルサレムへと戻ってきた両親。三日を経てその両親の眼に飛びこんできたのは、境内で居並ぶ学者たちの真ん中に座り、話に耳を傾けながら問いを発する息子イエスの姿です。まるで教員からの質疑に決して動じない学生のように、律法学者の問いに対して平然と受け答えするその姿は、これまでこどもだと思ってきた有様とは全く異なっていました。イエス・キリストは大工の子であって、聖職者の子でも学者の子でもないはずです。「聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた」。この三日間、少年イエスはどこで寝泊まりしていたのでしょうか。ひょっとしたらこの学者たちが宿を貸していたのかも知れません。空白の三日間を経て、マリアとヨセフは息子の姿の変貌に向き合わずにはおれませんでした。
 「なぜこんなことを。見なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」。思わず口を突いて出た、母マリアの言葉は、いわゆる聖母マリアのそれとは全く異なります。お集まりのみなさまも、関わっているところのお子さんが突然姿を消したとなれば、それはただ事では済まされなくなります。警察に捜索願を出すかもしれません。三日間行方不明ですからメディアでも大々的に報道されるかも知れません。いずれにしてもこれは家族には大事件。しかしイエスは飄々と答えます。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」。この返事の中でいう「父」とは、もはやヨセフその人から離れて、父なる神を示しています。確かに両親にはこの言葉の意味は分からなかったものの、母親の胸には深く残ってまいります。神の御子の親離れが始まったときであり、わたしたちもまたそのような体験をいずれは味わいます。親の思惑通りにはいかない子の振る舞いや生き方は、時に親たるその人に大きな戸惑いを引き起こします。しかし本日の箇所はこう結ぶのです。「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」。少年イエスを愛するのはもはや係累だけには留まりません。神と人、すなわちイエス・キリストは神とどのような立場の人からも愛を注がれ続けたこととなります。
 『マルコによる福音書』3章では、大勢の人が、イエスの周りに座る中、イエスの母と兄弟たちが外に立ち、人をやってイエスを呼ばせ「ご覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らせるや、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、人々を見回しながら「見なさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と答えるイエス・キリストの姿が描かれます。教会もまた、アブラハムの神への深い信頼をともにしながら、子離れ・親離れが成長の鍵となる時がまいります。歳月とはカレンダーで数える数ばかりを意味しません。まさに「この瞬間」という時が訪れます。2022年。泉北ニュータウン教会に神の愛の介入であるところの瞬間が訪れるときだと確信します。失敗を許さないというのではなく、失敗を互いに赦しあい、養いとなる経験へと高めていくありかたが求められます。新たな年に主の豊かな祝福を祈ります。

2021年12月23日木曜日

2021年12月26日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝もございます。)

-降誕節第1主日礼拝-

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂

 

説教=「真理はあなたたちを自由にする」
稲山聖修牧師

聖書=「マタイによる福音書」2章1~12節
(新約聖書2ページ)

讃美=119, 111(1,3,4), 545.

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
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方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 ローマ帝国の支配のもと、ヘロデ王が事実上は委任統治という仕方で力を振るったユダヤの地。自らの伴侶と母、その息子たちを殺害しながらこの地位に上り詰めたのがこの人物でした。自分がその立場に就くためには、家族すら信頼しない猜疑心の強い男であると同時に、その子孫はことあるごとに福音書、そして『使徒言行録』の中に姿を見せては消えていきます。例えば。ヘロデ大王の死後ユダヤを支配した『マタイによる福音書』2章22節に登場するアルケラオス、またその兄弟にして洗礼者ヨハネの首を刎ねたアンティパス、『使徒言行録』12章で教会の迫害に手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺害し、ペトロの生命にまで手をつけようとした孫のヘロデ・アグリッパ1世。そしてさらにその息子ヘロデ・アグリッパ2世は『使徒言行録』26章でパウロの弁明を聞くこととなります。日本的な物言いをすれば、浅からぬ繋がりがイエス・キリストとヘロデ一族にはありますが、そのような身内さえも陥れて痛みを感じない野心のもと、東の方から訪れた三人の博士による問い、すなわち「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」との言葉は、ヘロデ王に唯々諾々として従う者として描かれるエルサレムの人々を不安に陥れるには充分な力を秘めていました。内輪であれば暴力と抑圧により反対勢力の封じ込めは容易かったことでしょう。しかし東方から星の光に導かれて訪れた三人の博士たちはいわば外部の者・部外者・よそ者であり、そして三人という人数からすれば、その眼にはヘロデ王のとりまきとは異なる客観的な視点が授けられ、輝いています。権謀術策を弄して手に入れた地位の虚しさと申しますものは、内部の者にはなかなかに指摘しづらくはありますが、三人の博士からすれば、大王と称する者の地位の偽りは明らか。澄み渡る眼を心に宿した三人の博士たちにはこう映ったことでしょう。則ち「かのものはユダヤ人の王ではない」という歴然とした事実であり、その言葉はヘロデ大王には耳を塞ぎたくなる、戦慄が走る響きとなった、ということです。であるからには次に打つ手とは、王位を脅かすその者をどのように捕らえるかという手はずを整えるほかありません。「王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれるかを問い質した」。東方の博士の指摘が、このように聖書の箇所に裏付けられた結果として、ヘロデ王は表立ってではなく、ひそかに東方の博士を集めて星の現われた時期を確かめさせ「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と欺き、いわばヘロデ大王の「工作員」として利用しようと試みます。自分の野心と権力を守るためには何でも利用してきた生き方がこの箇所では明らかになります。
 しかしこのような謀略によってイエス・キリストの誕生が踏みにじられるはずもありません。黄金・乳香・没薬を手にした博士たちは、おそらくは祖国での全てのポストを擲ち、そして家財一切をこの旅とこの宝へと変えて、飼い葉桶の主であるイエス・キリストのもとに参じたはずです。そして神はそのような三人の博士たちをヘロデ王に利用させないために「ヘロデのところへ帰るな」、つまり「もうヘロデ王と関わりを持たなくてよろしい」と宣言され、困難ではありながら、喜びに満ちた道筋を開拓するにいたりました。来る道が輝く星に導かれた道であるならば、帰る道は飼い葉桶のキリストの示された、神の愛に導かれた道です。いわばこれは最も初期に描かれたところの、キリスト者の自由を描いた物語です。それはヘロデ大王のように、自ら好き放題に振る舞おうとするあまり、却って猜疑心の沼へとはまり込み、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下のこどもたちを虐殺していく狂気へと囚われるような人間性を放棄し、関係性を全て絶っていく孤独な歩みとは全く異なる次元の道です。たとえ聖書に姿をしばしば現したとしても、ヘロデ王の係累の振る舞いはまことにおどろおどろしくあります。三人の博士の道は全くの別物です。まさにキリストにあって自由であり、やがて救い主として目覚めた主イエスに出会った人々、癒やされた人々、そしてその罪を贖われた人々の喜びと軽やかさにあふれています。虐殺されたこどもたちを悲しむ母親の叫び声すらも神の愛に触れ、十字架の苦難を示す真理へと変えられてまいります。その尊いいのち一つひとつを、主なる神はすべてにわたり存じておられます。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」。『ヨハネによる福音書』8章32節の言葉です。東方の博士の触れた真理は、今なおわたしたちのそばにあると、2021年最後の礼拝にあって確めてまいりましょう。

2021年12月14日火曜日

2021年12月19日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝もございます。)

降誕前第1主日礼拝
-クリスマス礼拝-

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂

 

説教=「いのちの光輝くクリスマス」
稲山聖修牧師

聖書=ルカによる福音書 1章39~56節
(新共同訳 新約100ページ)

讃美=103, 107, 109.

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


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【説教要旨】
 聖書の言葉は、記された時代から残る公文書上の記録ではなく、公文書には記録されるはずもなかった人々の眼差しに則して、救い主の誕生を描いてまいります。聖書はわたしたちの手元にありますから、神の言葉はわたしたちの近くにあると申せましょう。普段、わたしたちはその言葉にどれほど真摯に向き合っていることでしょうか。
 本日のテキストは、マリアが天使ガブリエルから祝福され、御子イエス・キリストを身に宿すことを知り、男性と関係せずに身ごもることに戸惑いながらも、その出来事を受け入れていく経緯を描いてまいります。その出来事は、もし人生設計という考えがあったとするならば、その計画そのものを放棄させるほかないものです。もしも今の時代、わたしたちの親しいところの女性が同じ事情のもとに置かれたとするならば、祝福など到底できはしないでしょう。社会や人間の常識は、たとえいのちを宿すという崇高な出来事であったとしても、一定の秩序を踏まえなくては、たちまち排除の対象となります。いのちよりも秩序が優先され、規格の外にはみ出す事態があれば眉をひそめ、非常識であるとの罵声を浴びせて排除します。しかしマリアは天使ガブリエルの祝福を決して拒否しませんでした。他の誰に認められようとそうでなかろうと、マリアは厳かに、そして堂々と「お言葉どおり、この身になりますように」と応えます。その告白自体が神への深い信頼に基づいています。それは揺るぎのないものです。その後マリアは親類のエリサベトのもとを訪れユダの町へとまいります。胎に宿ったいのちがおどる中、聖霊、すなわち神の愛の力によってエリサベトは「あなたは女性の中で祝福された人。授かったいのちも祝福されている。主が仰せになったことは必ず実現する。これを信じた人は何と幸いなことか」と声高らかに伝えます。排除されるはずのいのちが神の豊かな祝福にあるという、クリスマスの原点がこの福音書の序章には流れています。『ルカによる福音書』は、イエス・キリストの系図に先んじ、規格外の事情でいのちを授かった女性が社会全般から排除されていった中で、世に言えばエリサベトの高齢の妊娠、そしてマリアの許嫁ヨセフとは異なるところでの身ごもりをまことに豊かに祝福します。イエス・キリストがわたしたちにもたらす平安を先駆けて書き記すのです。そして続くマリアの賛歌では、主の祝福につつまれた女性の大胆で力強い歌が献げらます。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜び讃えます」。マリアは祭司ではありません。しかし本来はエルサレムの大祭司が献げてもおかしくない言葉でもって主なる神を讃美します。「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者というでしょう」。マリアの暮らした時代、古代ユダヤ教の世界では法廷での発言権は女性には一切与えられていませんでした。「身分の低いはしため」とは、字面通りにとれば女奴隷を示しますのでなおさらです。この一節をマリアの謙遜の表現と見なすのは後の世、教会がローマ帝国に認められてからとなりますからマリアの歌はそれまで人々を縛ってきた世の縄目から解き放つという意味でも、存分に大胆かつ過激です。なぜか。それは、身分・経済の格差が大きく転換する時が神の力により、まさに訪れると説くからです。この繰り返しが「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ…」と続く歌に連なります。54節から56節ではイスラエルの民に根ざしたイエス・キリストの救いが異邦人に及ぶと強調されて終わります。
 この一大事件の報せを前にして『ルカによる福音書』が献呈された役人テオフィロは何を感じたことでしょう。そして人生設計を幾度もいくたびも練り直しながら生きるわたしたちは、その節目をどのように迎えることでしょう。わたしたちはその度ごとに、宿に泊まる人々が遠ざけたであろう家畜小屋で初声をあげ、そして飼葉桶で眠る御子イエス・キリストの前に跪きたいのです。地球規模の大転換が今まさに起ころうとしています。しかしその巨大な渦巻きの中にいるわたしたちは、果たして何が起こるというのか知るよしもなく、全体像を推し量ることさえできません。さまざまな心配事や思惑の中でわたしたちの心の眼は霞んでいるのです。だからこそ、わたしたちはマリアの賛歌、マグニフィカトを何度も口ずさみたいのであり、口ずさめる場所を整えていきたいのです。それはイエス・キリストの飼い葉桶を整えるわざに重なります。そして今・この時代に世に遣わされたいのちの光、イエス・キリストの光につつまれる喜びをともしましょう。そしてその交わりを広める証しのわざの原点に立ちましょう。キリスト教の、そして教会の基本は、苦難と復活のキリストの誕生を祝うところに根ざします。メリークリスマス!

2021年12月9日木曜日

2021年12月12日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝もございます。)

降誕前第2主日礼拝
ー待降節(アドベント)第3主日礼拝ー

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂

 

説教=「隠された神の愛が花咲くとき」
稲山聖修牧師

聖書=「マルコによる福音書」1章1~8節

讃美=讃美歌第二編112,96,545.

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 「神の子イエス・キリストの福音の初め(Αρκη του ευαγγελιου Ιησου Χριστου)。わたしたちは、この短い一文を聴き、深い地響きを感じずにはおれません。歴史的にいえば、そして人の目からすれば僅か30年の生涯を全うしたと呼ばれる男。かつて『イエスという男』また『わたしのイエス』という著作がベストセラーとなりました。
 しかし『イエスという男』また『わたしのイエス』というタイトルで主イエスの理解が留まるのだとするならば、わたしたちは毎年にわたりイエス・キリストの誕生をクリスマスとして祝う必要はありません。せいぜいエアーメールの記念切手や紙幣の肖像として採用されるに留まるだけになることでしょう。
 わたしたちが待降節におきましてクリスマスの出来事をなにゆえに待ち望むのかと申しあげれば、それは一重に人の子イエスが神の子であり救い主であるところのキリストだからであります。だからこそ、『マタイによる福音書』ではアブラハム以降の系図の果てに主イエスの誕生が描かれますが、その系図には多くの重荷を抱えた人々の姿が描かれてまいります。タマルはユダと結ばれるために遊女に身をやつさなくてはなりませんでしたし、ルツはイスラエルの民と幾度も干戈を交えたモアブ人の末裔でした。そしてダビデ王の伴侶はバト・シェバとの名があるのにも拘わらず、ウリヤの妻という表記によってダビデ王の不倫の犠牲者としてごまかされずに記録されます。そして『マタイによる福音書』の系図は主イエスの父ヨセフにまでいたりますが、福音書の理解ではマリアは聖霊によって身籠もったとの理解に立つため、ヨセフとイエスの間には血のつながりはないとの立場をはっきり示します。しかしそれでもヨセフは姦通罪の疑惑を受けるマリアを受け入れ、ヘロデ王の追っ手から逃れるために一家まるごと難民となってエジプトへと逃れ、そしてナザレへと住まいを定める中で姿を消していきます。その只中で、系図に記された人々もマリアもヨセフも、イエス・キリストに救いを仰ぎ見、その実現を体験した人々でした。アブラハムの裔、『旧約聖書』との関わり、イスラエルの民の時間軸を中心にして描かれます。
 そして『ルカによる福音書』では本日描かれる箇所でイエスに水による洗礼を授けるところの洗礼者ヨハネの誕生が並行して描かれます。驚くべきことにヨハネの母エリザベトはマリアの親戚だという設定です。そして聖霊の姿が天使ガブリエルの姿となります。ガブリエルの祝福に応じるマリアの賛歌は「マグニフィカト」と呼ばれ、「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の高い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める物を空腹のまま追い返されます」と時に圧制を敷く者には激しく響きます。この福音書の宛先は「テオフィロ閣下」という、ローマ帝国の身分の高い役人とされる人物ですが、救い主はどこに生まれたのか、というところで、ローマ皇帝の勅令のもと住民登録をしに故郷へと慌ただしく旅する夫婦、しかもその身にいのちを宿しながらも旅をせざるを得ないところにまで追い詰められた母親。嬰児は飼葉桶を寝床とします。さらにローマ帝国からは人の数に入れられなかった羊飼いに始まり、漁師や徴税人、病人や身分の低い女性たちとの豊かな交わりを描きます。ローマ帝国全土に響き渡る神の救いの出来事の震源地はベツレヘムの飼葉桶であったという物語となってまいります。全世界的な広がりをもつ救い主の誕生が描かれ、その働きはやがて使徒たちへと受け継がれます。
 このようなマルコ、マタイ、ルカによる福音書の記事を踏まえて、わたしたちは『ヨハネによる福音書』へと進むのです。すなわち「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た」。この「わたしたちの間に宿られた」という言葉は『旧約聖書』でアブラハムやモーセが用いる天幕が張られる様をイメージしています。天幕とはテント。テントは堀を巡らせ、高い壁を幾重にも設けた外敵への構えを見せる城のようなものではありません。遊牧民には暮らしの場であり、訪れる旅人をもてなし、粗末ながらも温かな汁物や粥、質素な寝床を提供するところです。かつて天幕で家族を授かり、暮らしに明け暮らしていたところのアブラハムの裔が、客向けに整えられた宿屋ではなくベツレヘムの飼葉桶に寝かされたのは決して偶然ではありませんでした。隠された神の愛が花咲き交わりが育まれるのは、そのような場所でした。今年のアドベントとクリスマスの街は、コロナ禍の小休止に伴って、予想に反して賑わい豊かになるかもしれません。しかし群衆は、喧噪では満たされない分断の悲しみや寂しさに溢れているようです。祝祭の度に起きる事件がその証しです。隠された神の愛の香りを身にまといつつ過ごしましょう。

2021年12月1日水曜日

2021年12月5日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝もございます。)

降誕前第3主日礼拝
-待降節(アドベント)第2主日礼拝-

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂


説教=「神の福音と人の戒め」
稲山聖修牧師

聖書=「マルコによる福音書」7章1~13節
(新共同訳 新約聖書74ページ)

讃美=95(1,4,5), 98, 545.

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
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「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 待降節第2主日にあたり、わたしたちは改めて世のただ中で主イエスの誕生を待ち望む暮らしの大切さを身につまされています。新型コロナウイルスの新たな株が国内に入ってくる中で準警戒態勢に各々の暮らしが沿おうとするところ、かつて味わった福音書の同じ箇所も異なった響きをもって迫ります。2021年度で本日の箇所を扱うのは二度目。かつて歴史上何度も悪疫が流行する中でユダヤ教徒たちがその疫病を乗り切ってきた知恵というものが本日の箇所には記されていると申しました。キリスト教の修道会と並んでユダヤ教徒が生き延びてきた背景には「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからではないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることはたくさんある」という十戒を始めとした613の誡めを習慣とする知恵があります。そして今日の聖書箇所では、ファリサイ派の人々がイエスの弟子の中に、手を洗わずに食事をする者の姿を見つけて「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」と問う者がいたという場面が描かれます。もちろんわたしたちも今・この時代に手を洗わずに食事をする人の姿を見たらぎょっとするかもしれません。それは科学的知見に基づいて感染リスクが高まるという意識が共有されているからです。しかし福音書の世界では、人々の前で手を洗うというわざは、そのものとしては科学的知見以上に人間の本質を規定してしまうような意味合いをもっていました。それは親御さんが出先から帰宅したお子さんに「手を洗いなさい」というのとは訳が違います。手を洗うわざは律法に定めらている誡めですから、人によれば人格の否定や肯定につながる大きな意味合いをもってまいります。深く立ち入るならば、他の聖書の箇所におきましても、イエス・キリストの目の前で手を洗った人物がいます。『マタイによる福音書』27章24節では、ユダヤ地方を皇帝の代官として治めていた総督ピラトが、十字架刑をイエスにするかバラバにするかとの民衆の騒ぎを前にして、手を洗うという態度に出ています。ピラトはユダヤ人ではありません。ただこの所作は明らかに、これら一連の事態とは、わたしは無関係だとの意志表示です。ファリサイ派の手洗いも、確かに感染症から彼らを守ったという副産物はもたらしてはいますが、当時としては伝承されていたところの人格の規定です。手を洗わなければ病気になるから注意しなさいという善意ではなくて、わたしとあなたとは関わりのない間柄ですよ、なぜならあなたは性根から汚れているからです、という態度。だから主イエスは次のように「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている』。あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」。このイエス・キリストの言葉の前に、わたしたちは立っています。コロナ禍の中で迎える二年目のアドベントとクリスマス。この期間わたしたちは物心両面にわたり大きく影響を受け、混乱と失望の社会に佇んでいます。感染症対策そのものへの経験値はあがったかもしれません。しかし教会がこれまでよってきたところの倣いやわざといったものには、多かれ少なかれ変更を余儀なくされました。いつになったらマスクなしで讃美ができるのか、いつになったらかつての集会ができるのか、それは神のみがご存じではありますが、この新型感染症の騒動そのものもまた神の御旨の中で起きているのであれば、わたしたちは多くの事柄に気づかされています。教会では12月25日には失業され、住む家を失くした方々への配食を予定しています。その場合、炊き出しに並ぶ失業者の方々の姿を思い浮かべます。けれども同時に、本来は権利であるはずの生活保護の受給が「施し」だというのマスメディアによる刷り込みの結果、貧しさのゆえに心を病み、列をなすことすら能わずという方々もこの堺市の南区にもおられるのです。わたしたちは呼び鈴を押し、白米をそのような方々にお届けできるでしょうか。そのように問いかけられた収穫感謝の日でもありました。飼葉桶に生まれたイエス・キリストの周りには、そのような人々が喜びにつつまれてその誕生を祝っています。宴たけなわなピラトやヘロデとは対極的な世界が開かれています。生き方の価値のありなしを決めつけない交わりが育まれています。戒めは人ではなく神のもの。神の戒めは神の福音の器。神の福音は神の戒めを満たす全ての内容だとの言葉が浮かびます。神の福音は言い伝えと化した倣いを新たにします。イエス・キリストは世の闇に勝利したのです。