2021年12月1日水曜日

2021年12月5日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝もございます。)

降誕前第3主日礼拝
-待降節(アドベント)第2主日礼拝-

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂


説教=「神の福音と人の戒め」
稲山聖修牧師

聖書=「マルコによる福音書」7章1~13節
(新共同訳 新約聖書74ページ)

讃美=95(1,4,5), 98, 545.

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 待降節第2主日にあたり、わたしたちは改めて世のただ中で主イエスの誕生を待ち望む暮らしの大切さを身につまされています。新型コロナウイルスの新たな株が国内に入ってくる中で準警戒態勢に各々の暮らしが沿おうとするところ、かつて味わった福音書の同じ箇所も異なった響きをもって迫ります。2021年度で本日の箇所を扱うのは二度目。かつて歴史上何度も悪疫が流行する中でユダヤ教徒たちがその疫病を乗り切ってきた知恵というものが本日の箇所には記されていると申しました。キリスト教の修道会と並んでユダヤ教徒が生き延びてきた背景には「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからではないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることはたくさんある」という十戒を始めとした613の誡めを習慣とする知恵があります。そして今日の聖書箇所では、ファリサイ派の人々がイエスの弟子の中に、手を洗わずに食事をする者の姿を見つけて「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」と問う者がいたという場面が描かれます。もちろんわたしたちも今・この時代に手を洗わずに食事をする人の姿を見たらぎょっとするかもしれません。それは科学的知見に基づいて感染リスクが高まるという意識が共有されているからです。しかし福音書の世界では、人々の前で手を洗うというわざは、そのものとしては科学的知見以上に人間の本質を規定してしまうような意味合いをもっていました。それは親御さんが出先から帰宅したお子さんに「手を洗いなさい」というのとは訳が違います。手を洗うわざは律法に定めらている誡めですから、人によれば人格の否定や肯定につながる大きな意味合いをもってまいります。深く立ち入るならば、他の聖書の箇所におきましても、イエス・キリストの目の前で手を洗った人物がいます。『マタイによる福音書』27章24節では、ユダヤ地方を皇帝の代官として治めていた総督ピラトが、十字架刑をイエスにするかバラバにするかとの民衆の騒ぎを前にして、手を洗うという態度に出ています。ピラトはユダヤ人ではありません。ただこの所作は明らかに、これら一連の事態とは、わたしは無関係だとの意志表示です。ファリサイ派の手洗いも、確かに感染症から彼らを守ったという副産物はもたらしてはいますが、当時としては伝承されていたところの人格の規定です。手を洗わなければ病気になるから注意しなさいという善意ではなくて、わたしとあなたとは関わりのない間柄ですよ、なぜならあなたは性根から汚れているからです、という態度。だから主イエスは次のように「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている』。あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」。このイエス・キリストの言葉の前に、わたしたちは立っています。コロナ禍の中で迎える二年目のアドベントとクリスマス。この期間わたしたちは物心両面にわたり大きく影響を受け、混乱と失望の社会に佇んでいます。感染症対策そのものへの経験値はあがったかもしれません。しかし教会がこれまでよってきたところの倣いやわざといったものには、多かれ少なかれ変更を余儀なくされました。いつになったらマスクなしで讃美ができるのか、いつになったらかつての集会ができるのか、それは神のみがご存じではありますが、この新型感染症の騒動そのものもまた神の御旨の中で起きているのであれば、わたしたちは多くの事柄に気づかされています。教会では12月25日には失業され、住む家を失くした方々への配食を予定しています。その場合、炊き出しに並ぶ失業者の方々の姿を思い浮かべます。けれども同時に、本来は権利であるはずの生活保護の受給が「施し」だというのマスメディアによる刷り込みの結果、貧しさのゆえに心を病み、列をなすことすら能わずという方々もこの堺市の南区にもおられるのです。わたしたちは呼び鈴を押し、白米をそのような方々にお届けできるでしょうか。そのように問いかけられた収穫感謝の日でもありました。飼葉桶に生まれたイエス・キリストの周りには、そのような人々が喜びにつつまれてその誕生を祝っています。宴たけなわなピラトやヘロデとは対極的な世界が開かれています。生き方の価値のありなしを決めつけない交わりが育まれています。戒めは人ではなく神のもの。神の戒めは神の福音の器。神の福音は神の戒めを満たす全ての内容だとの言葉が浮かびます。神の福音は言い伝えと化した倣いを新たにします。イエス・キリストは世の闇に勝利したのです。