2021年12月23日木曜日

2021年12月26日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝もございます。)

-降誕節第1主日礼拝-

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂

 

説教=「真理はあなたたちを自由にする」
稲山聖修牧師

聖書=「マタイによる福音書」2章1~12節
(新約聖書2ページ)

讃美=119, 111(1,3,4), 545.

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 ローマ帝国の支配のもと、ヘロデ王が事実上は委任統治という仕方で力を振るったユダヤの地。自らの伴侶と母、その息子たちを殺害しながらこの地位に上り詰めたのがこの人物でした。自分がその立場に就くためには、家族すら信頼しない猜疑心の強い男であると同時に、その子孫はことあるごとに福音書、そして『使徒言行録』の中に姿を見せては消えていきます。例えば。ヘロデ大王の死後ユダヤを支配した『マタイによる福音書』2章22節に登場するアルケラオス、またその兄弟にして洗礼者ヨハネの首を刎ねたアンティパス、『使徒言行録』12章で教会の迫害に手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺害し、ペトロの生命にまで手をつけようとした孫のヘロデ・アグリッパ1世。そしてさらにその息子ヘロデ・アグリッパ2世は『使徒言行録』26章でパウロの弁明を聞くこととなります。日本的な物言いをすれば、浅からぬ繋がりがイエス・キリストとヘロデ一族にはありますが、そのような身内さえも陥れて痛みを感じない野心のもと、東の方から訪れた三人の博士による問い、すなわち「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」との言葉は、ヘロデ王に唯々諾々として従う者として描かれるエルサレムの人々を不安に陥れるには充分な力を秘めていました。内輪であれば暴力と抑圧により反対勢力の封じ込めは容易かったことでしょう。しかし東方から星の光に導かれて訪れた三人の博士たちはいわば外部の者・部外者・よそ者であり、そして三人という人数からすれば、その眼にはヘロデ王のとりまきとは異なる客観的な視点が授けられ、輝いています。権謀術策を弄して手に入れた地位の虚しさと申しますものは、内部の者にはなかなかに指摘しづらくはありますが、三人の博士からすれば、大王と称する者の地位の偽りは明らか。澄み渡る眼を心に宿した三人の博士たちにはこう映ったことでしょう。則ち「かのものはユダヤ人の王ではない」という歴然とした事実であり、その言葉はヘロデ大王には耳を塞ぎたくなる、戦慄が走る響きとなった、ということです。であるからには次に打つ手とは、王位を脅かすその者をどのように捕らえるかという手はずを整えるほかありません。「王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれるかを問い質した」。東方の博士の指摘が、このように聖書の箇所に裏付けられた結果として、ヘロデ王は表立ってではなく、ひそかに東方の博士を集めて星の現われた時期を確かめさせ「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と欺き、いわばヘロデ大王の「工作員」として利用しようと試みます。自分の野心と権力を守るためには何でも利用してきた生き方がこの箇所では明らかになります。
 しかしこのような謀略によってイエス・キリストの誕生が踏みにじられるはずもありません。黄金・乳香・没薬を手にした博士たちは、おそらくは祖国での全てのポストを擲ち、そして家財一切をこの旅とこの宝へと変えて、飼い葉桶の主であるイエス・キリストのもとに参じたはずです。そして神はそのような三人の博士たちをヘロデ王に利用させないために「ヘロデのところへ帰るな」、つまり「もうヘロデ王と関わりを持たなくてよろしい」と宣言され、困難ではありながら、喜びに満ちた道筋を開拓するにいたりました。来る道が輝く星に導かれた道であるならば、帰る道は飼い葉桶のキリストの示された、神の愛に導かれた道です。いわばこれは最も初期に描かれたところの、キリスト者の自由を描いた物語です。それはヘロデ大王のように、自ら好き放題に振る舞おうとするあまり、却って猜疑心の沼へとはまり込み、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下のこどもたちを虐殺していく狂気へと囚われるような人間性を放棄し、関係性を全て絶っていく孤独な歩みとは全く異なる次元の道です。たとえ聖書に姿をしばしば現したとしても、ヘロデ王の係累の振る舞いはまことにおどろおどろしくあります。三人の博士の道は全くの別物です。まさにキリストにあって自由であり、やがて救い主として目覚めた主イエスに出会った人々、癒やされた人々、そしてその罪を贖われた人々の喜びと軽やかさにあふれています。虐殺されたこどもたちを悲しむ母親の叫び声すらも神の愛に触れ、十字架の苦難を示す真理へと変えられてまいります。その尊いいのち一つひとつを、主なる神はすべてにわたり存じておられます。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」。『ヨハネによる福音書』8章32節の言葉です。東方の博士の触れた真理は、今なおわたしたちのそばにあると、2021年最後の礼拝にあって確めてまいりましょう。