2021年2月26日金曜日

2021年2月28日(日) 説教 (在宅礼拝用です。当日、礼拝堂での礼拝はございません。)

「恐怖と怯えからの解放」  
説教:稲山聖修牧師 

聖書:『マタイによる福音書』12章22~28節 
(新約聖書22頁)

讃美歌:138, 二篇80, 361.

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 目が見えず、口の利けない人。話すことのできない人がいたとするならば、その特性は耳の聞こえないありようを同時に示しています。一般に人は五感を用いて認識しますが、今こそさまざまな支援体制が整いつつあれ、長きにわたり視聴覚の障がいは職業に留まらず様々な暮らしの場面で制約を課せられました。現代であれば何かの手立てを講じることもできたでしょうが、障がいが罪の結果だと見なされたのが聖書で描かれる世界。「呪われた人」「生まれてこなかった方がよかった人」とされる孤独に勝る苦しみはなかったろうと『新約聖書』から聴くのです。

 この絶望のどん底に置かれた人がイエス・キリストとの関係の中でどのようにして変えられていたのかというメッセージひとつとっても、まことに大きな救いの使信として響いたことでしょう。けれども本日の箇所では、本来は中心とされるべきこの出来事よりも、それがどのように人々に伝えられ、評されていったのかが問われてまいります。見えず聞こえず話せない人の癒しの出来事が導入となり始まるこの物語では、まずもって「群衆の驚き」が記され、イスラエルの民の救いのしるしであり、救い主を示す「この人はダビデの子ではないだろうか」と口々に呟く人々の姿とは対照的に、人の子イエスのわざに反発し、わめき立てるファリサイ派の人々は「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った、とあります。
 日本語でいうところの「怨霊」「祟り」とは異なり、『新約聖書』でいうところの悪魔「ディアボロス」や悪霊の頭「ベルゼブル」には、絶えず『旧約聖書』での背景と神との関わりが問われます。ベルゼブルとは広くオリエントで崇拝されていたところの偶像であるがゆえにイスラエルの民から遠ざけられました。ベルゼブルは預言者エリヤの戦ったバアルが下敷きになっています。「蠅の王」ともされますが、そのようなイメージよりも興味深いところは「悪霊の頭」との言葉です。つまりファリサイ派の人々にとって悪霊とは自立し単独で動くことはなく、蠅が餌に群がるように責任の所在を隠したまま獲物に襲いかかり、伝染病に重なる死を媒介するとの理解があったと申せましょう。ところで人は匿名になり、自分の姿を問われなくなった際に最も残酷な姿を露呈します。Webでの炎上騒動がそうであり、様々な場での同調圧力のもとでは、匿名の集団が個性の繊細な人に刃を向けます。おそらくは物語の冒頭に登場した見えず聞こえず話せない人にも、心無い言葉という刃が常に向けられていなかったと誰が否定できるでしょうか。

 しかしそのような無責任な集団の支配は、それこそ蠅の群れがやがてはどこかへと飛び去るように、前向きな力をそそぎ、いのちの可能性を拓くことは決してしないと、イエス・キリストは反論するのです。悪霊は破壊行為におよぶことはあっても、誰かを支え、また救う力はありません。それは絶えず分断と敵対を喜ぶことから「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのならば、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。この箇所で気づかされたところがあります。それは、人の子イエスを陥れようとする人々は、いつも、どこでも複数で行動しその責任を曖昧にするというところです。反対に、イエス・キリストの癒しのわざは、絶えず一人称のもとで行われ、癒される人々を苦しみや恐怖から救い出します。そしてイエス・キリストは、人々を恐怖によって萎縮させる「悪霊」を追い出すのは「神の国」、言い換えれば「神の愛の力による支配」から生じるところの力に他ならない、というのです。

 新型感染症を抑え込む「緊急事態宣言発出」が解除されようとしています。重要なのは、泉北ニュータウン教会が聖日礼拝を休会としたこの期間に、わたしたちが礼拝をめぐって何に気づき、教会の将来を問ううえでどのような支えが必要なのかを話し合うという、その一点です。聖日礼拝の休止は痛みを伴わずにはおれませんでした。主に守られて教会がクラスターにならなかったとしても、です。わたしたちの働きは人の目によるところの正解がない以上、絶えずその後に課題を残します。それがこれからの教会の伸びしろとなります。もっとよりよい道はなかったのか。あるとすればどのような道なのか。聖書の言葉に耳を澄ませ響く言葉を大切にいたしましょう。そして礼拝休止の間に気づかされた、聖書に根ざし、神を讃美する礼拝の尊さと祈りの大切さが照らし出す交わりの回復。見えず、聞こえず、話せなかった人が主に出会い、見えるようになって語り出すという喜びを、涙を流しながらともに喜びたいと願っています。

2021年2月17日水曜日

2021年2月21日(日) 説教 (在宅礼拝用です。当日、礼拝堂での礼拝はございません。)

「キリストの苦しみ、教会の試練」 
説教:稲山聖修牧師
聖書:『マタイによる福音書』4章1~11節 
讃美歌:399, 495, 502. 

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 洗礼者ヨハネとの出会いの後、荒れ野で40日の断食を経てイエス・キリストが出会ったのは、キリスト御自身を試みる者である悪魔、ギリシア語でいうところの「ディアボロス」でした。『マタイによる福音書』『ルカによる福音書』のみに記されるこの物語では、キリストが救い主としての働きの始めに出会ったのが、苦しみ追いつめられた群衆ではなく、様々な罠を仕掛けてくる悪意であったこと、そして同時に『マタイによる福音書』を書き記し後世に伝えた教会もまた、同じ誘惑に晒されており、それは形を変えてはいても現在を生きるわたしたちにも及んでいると考えられます。イエス・キリストとてこの苦しみと試練から決して自由ではなく、翻弄されながら首の皮一枚で凌ぐという緊迫した場面が続きます。

 この場で描かれる誘惑とは概ね三つに分かれます。第一の誘惑は「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」という、いわゆる「食」をめぐる誘惑ともいえる内容ですが、今日にあっては暮しをめぐる誘惑としても理解できるでしょう。新型感染症は病に対する恐怖だけでなくわたしたちの交わりを絶ち、新しい不況の原因ともなっています。その影響の中で業界再編の荒波に放り出される事業体は数知れません。その誘惑のただ中にわたしたちは立っておりますが、さてその中でこのような誘惑に対してわたしたちはどのように応じることでしょうか。

 次に第二の誘惑としては「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることがないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある」。『旧約聖書』『詩編』91編を引用してまで誘惑する者の狙いとは、イエス・キリストを単にたぶらかし、神との関わりを試すだけに留まりません。これは裏返せば神との関わりを疑わせるところにまで行き着きます。そしてこの神を疑わせる誘惑は、食をめぐる誘惑という切羽詰まった試みと、まことに深く関わっているように思います。明日どうなるか分からないという中で誰もが疑心暗鬼となり、大切な隣人との信頼関係にさえひびが入ろうという状況と、あらかじめ先を読んでいたかのようこのタイミングで誘惑する者のずる賢さに長けた巧みさ。こればかりには言葉も出ません。

 この上で誘惑者は決定的な一撃を放とうとします。それはイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せ、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」との言葉です。世のすべての国々とその繁栄は、神との関わりから離れてわたしを拝むなら全てのお前のものだと申します。私有財産制を暮しの原理とするわたしたちはこの誘惑に果たして抗えるでしょうか。さらにはこの誘惑は、幼き日に飢えに苦しみ、青年期に神を見失い、壮年期に財と地位を全て手にしてなお渇く人々の課題と、時を超えて対応してもいるのです。この全ての誘惑に共通する問題とは「分かち合い」を知らないというところです。自分の手から暮しの糧を献げることなく、神との関わりを喪失し、そして目的のために手段を選ばず権力と繁栄を欲しいままにしたいと願うならば、わたしたちも教会も信仰とは名ばかりのものとなり内実の伴わない籾殻となってしまうのです。それは吹く風に虚しく舞うばかりです。これこそわたしたちが、個人としても教会としても迎えつつある危機だと言えるでしょう。コロナ禍の中で誰が近くに住む、幼きころと同じ境遇のこどもたちを思い遣れるか、誰が大地震と豪雪に見舞われた地方・地域に思いを馳せられるのか。神との関わりがもたらす実りは、名誉欲や過剰な承認願望とは異なるはずです。しかし。

 イエス・キリストがこれらの誘惑を絶って超然としていたのであれば、このような物語はそもそも書き記す必要はなかったはずです。裏返せばわたしたちのこの極めて平凡かつ日常の苦しみさえもともにされ、わたしたちも折り重ねることのできる聖書の言葉と祈りと決断に基づいてイエスは打ち勝っていかれます。そしてこの誘惑の物語全体もまた、4章1節に「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、霊に導かれて荒れ野に行かれた」とある通り、神の愛の力を背に受けてこの世へと押し出され、そしてキリストに従う中でさえ避けて通れない道ではありながらも、決して無力ではない!という励ましのメッセージにすらなり得るのです。キリストは誘惑に勝利されたからです。

 福音書で描かれる悪魔とは、絵画で描かれるところの角と翼と尾、鋭い爪の生えた姿で描かれる姿をしてはいません。それは特定の時代のイメージに過ぎません。悪魔とは「分かち合い」の喜びを知らず、虚しい万能感に満ち、人との関わりを絶つところの独り占めに何も呵責を感じることもなく、責任逃れに腐心し、名もない者を踏みつけていくあり方を、聖書を用いてさえ現状肯定するという態度です。わたしたちは、貧しさの中にあるからこそ、喜びと痛みを分かち合える恵みを、凡庸な善に過ぎないと呼ばれても、イエス・キリストに従う中、すでに授かっています。

2021年2月10日水曜日

2021年2月14日(日) 説教メッセージ(在宅礼拝用です。当日、礼拝堂での礼拝はありません。)

降誕節第8主日礼拝

説教:「出会いは逆風の中で」  
稲山聖修牧師

聖書:『マタイによる福音書』14章22~33節  
讃美歌:298, 320, 527.

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 5000人の人々と食事をともにした人の子イエスと弟子たち。とりわけ弟子は言いしれぬ高揚感に満ちていたことでしょう。パン五つと乾し魚二匹しかない中で、主イエスが感謝の祈りを献げると、人々もともに食を分かち合い、そして満たされていくという場に居合わせるだけでなく、その出来事の一端を担ったという驚きと喜びに身体は熱くなっていたことでありましょう。
 しかしイエス・キリストはそのような弟子たちを、大きな試みへと追いやります。イエスは有無を言わせず弟子をガリラヤ湖に浮かぶ小舟に乗り込ませ、対岸へと渡るように命じ、満たされた喜びとともに交わりを育んだ群衆を各々の家へと帰らせ、自らは祈るためにひとり山に登られました。山と湖。実に対照的なところに人の子イエスと弟子はいるのだと気づかされます。人の子イエスが山で何を祈っていたのかは物語には記されていませんが、その祈りは日が沈むまで続きます。祈りの中で一人山の中にたたずむキリストの姿は誰にも知られません。

 人の子イエスが姿を隠される中、弟子だけが乗った舟は混乱の極みにありました。数百メートルもの沖合に流された舟は、逆風に晒され、波に揉まれるほかありません。弟子は恐怖のどん底に叩込まれます。向こう岸にたどり着くどころか今どこにいるのかさえ分かりません。誰がそのようなところにいたいなどと思うでしょうか。パニックにつつまれた弟子。一刻も早く逃げ出したいという願いさえ決して聞き届けられません。寝る間もないまま一晩中波に揉まれる舟、救いを求め続ける弟子。舟に辛うじてしがみついて時の経つのを待つほかありません。逆風の中、弟子は全ての能力を奪い取られてまいります。各々が自分のいのちしか考えず、交わりを絶ち、その本性をあらわにします。そんな弟子には思いも寄りませんでした。イエス・キリストがよもや自分たちを忘れずに祈り続けていたとは。
「夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いてこられるのを見て、『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」。「幽霊」と訳されるのは「ファンタズマ」、ギリシア語では亡霊を示します。今や舟にすがりつく弟子は錯乱状態に陥り、湖の上を歩いてきたイエスが何者なのかすら分かりません。さてこの箇所でわたしたちは戸惑います。「湖の上を歩いてくるなどあり得ないだろう」。実はこの「湖」という言葉さえ明らかになれば、決して理解の難しい箇所ではありません。湖畔に暮らす人々には湖は生活に欠かせない場所ではありますが、ひとたび湖水に溺れてしまえば決して助かりません。イエスが一人祈る場所が山であるところと対比すれば、湖がわたしたちが暮らすところのこの世であるとも理解できます。弟子たちを乗せた舟。それを仮に教会だとするならば、実にこの世の力に弱いありようが際立ってまいります。さてその阿鼻叫喚の舟で別の動きが始まります。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」。祈りの場から混乱の世に戻られたイエス・キリストを見つめて、シモン・ペトロが立ちあがります。世のただ中を歩み、キリストのもとにたどり着こうとする姿があります。しかし彼も強い風に気をとられ、恐怖の中でイエス・キリストから眼差しを逸らして足下をのぞき込むや否や、ずぶずぶと底知れない闇へと沈み込んでまいります。ただここでペトロは恐怖の中で叫ぶのです。「主よ、助けてください!」。この叫びこそ、わたしたちが今の世にあって最も尊ばれるべき声であります。わたしたちは誰かに助けを求めるという態度が「悪いことである」とのしつけや教育を受けて育っています。しかし助けを求めないことで、万策尽きて破滅に追い遣られる人が激増しています。悲しみに満ちた自己否定がそこにあります。けれどもキリストはペトロを咎め立てする前に、その腕をつかんで放しません。これが「安心しなさい、わたしだ、恐れることはない」との言葉に示されるイエス・キリストの働きです。救いを求める叫び声を押し出すためにイエス・キリストが祈っておられたとしても過言ではありません。なぜならこの体験によって、たとえ教会がキリストの姿を見失ったとしても、キリストがわたしたちのために祈ってくださることを確信できるからであります。「わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは自らを決して否定されないからである」。緊急事態宣言のただ中、わたしたちの教会は今、聖日礼拝を休止する事態にあります。かの戦争をくぐり抜けた老舗の会社が次々と店じまいをする中、わたしたちもまた時代の闇と嵐の中で慄くばかり。けれどもイエス・キリストはわたしたちを覚えて祈り、わたしたちの腕をがっしりとつかんで放しません。そしてわたしたちの教会に乗り込んできてくださるのです。出会いは逆風の中で起きます。コロナ禍の中での経験を、後々の宝として分かち合うため祈りましょう。

2021年2月3日水曜日

2021年2月7日(日) 説教(在宅礼拝用です。当日、礼拝堂での礼拝は行われません。)

説教=「主よ、どうかお助けください」
稲山聖修牧師
聖書=『マタイによる福音書』15章21~28節
讃美歌=二編80, 399, 294.
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 イスラエルの民の外から救いを求める声に、イエス・キリストはどのように向き合ったのか。キリスト教文化圏には直接属してはいない東アジアに暮らすわたしたちにとっても本日の箇所は決して他人事ではありません。コロナ禍のもと、もはや課題は感染症への罹患への恐怖に留まらず、さまざまな規制のもとで職を失っていく人々の叫びにも重なります。イスラエルの民の外部から響く助けを求める声に、イエス・キリストがいかに向き合ったのかを考えさせる本日の箇所です。

 本日の箇所でイエス・キリストは、ガリラヤ地方からはかなり離れた、東地中海に面した港町・ティルスとシドンに行かれました。そこで現れたのはその地に生まれたカナンの女性。名の記されない女性に夫がいたのかどうかについては書き手は一切触れません。女手一つで育てた娘は悪霊にひどく苦しめられているという。今日で言うところの、手のつけようのない病に罹患していのちが危ぶまれているという場面です。母親は助けを求めて叫びながらイエスの後をついてまいりますが、弟子の態度は実にそっけないものです。「この女を追い払ってください。叫びながらついてきますので」。これまで多くの癒しのわざを行なってきたイエス・キリスト。そしてそのわざによって広がる交わりに喜びを感じていた弟子は、なぜこうもこの女性を冷たくあしらおうとするのでしょうか。イエス・キリストですらこう言う始末です。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」。自分はイスラエルの民の救い主であって、あなたとは関係がないと言っているようです。あまりにも酷いとさえ思えるこの箇所。わたしたちには思い出す別の箇所があります。それは『マルコによる福音書』7章24節以降にある<シリア・フェニキアの女性の物語>。この箇所でも人の子イエスは、悪霊にとりつかれた娘を「助けてほしい」と願い求めるギリシア人の女性に「まず、こどもたちに十分食べさせなければならない。こどもたちのパンを取って、小犬にやってはいけない」と突き放します。福音書で描かれるイエス・キリストの振る舞いには、やさしく微笑みを浮かべながら人々を支え、癒していく姿ばかりでなく、実に冷淡な姿を垣間見る場合もあります。いったい、書き手はどのような祈りのもと、本日の物語を編み込んだというのでしょうか。

 本日の箇所に戻りますと、女性は「カナンの女性」として記されます。『旧約聖書』をたどりながらこの女性の生い立ちを尋ねますと、その時代のパレスチナ先住民族の歴史に触れずにはおれません。カナンの人々とは『旧約聖書』の物語ではまことに優れた都市文明を誇りながら、イスラエルの民の不倶戴天の敵として絶えずその前に立ちはだかり、神の導きから人々を誘惑する民として描かれてまいりました。ですから世に言う選民思想に立ちますと、好ましくないどころか排除されてもおかしくない人々に仕分けされてまいります。物語に用いられる「小犬」とは具体的には屍肉をあさる、ジャッカルのような山犬を示しながらの蔑みの言葉ですから、女性は人の子イエスと対等であるどころか自らを徹底的に卑下しているのが分かります。しかし別の視点からすれば、娘を思う母親ならではの姿であったかもしれません。その姿が救い主イエス・キリストに授けられた神の愛の力を一層際立たせてまいります。

 もはや恥ずかしげもなく目の前で助けを乞うこの女性は『マルコによる福音書』のギリシア人の女性ほど弁が立たないにしても、その願う姿はあらゆる生い立ちに勝って胸を打ちます。別の福音書では「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」と根負けして語るのに対して、イエス・キリストは本日の箇所で「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」とまことに平安に満ちた言葉とともに、カナンの女性の信仰を祝福します。イエス・キリストの福音は、イスラエルの民とカナン人の間にあった分断の壁を越えて響き、そして働きます。人の子イエスは、イスラエルの民が敵対した相手をも救うメシアです。

 新型コロナウィルス感染症の中で問われているのは、病そのものに罹患して健康を害するリスクだけではありません。感染症に罹患することによる危機感が禍して、誹謗中傷が生じたり、いわゆる風評被害によって倒産するばかりでなく、罹患した人々各々の社会的立場も根こそぎにするような力をもつところにもあります。その意味で言うならば新型感染症は、わたしたちの交わりのありようをも同時に問いかけているような気がしてなりません。隠された分断の中にいたわたしたちの交わりが新たにされるのか否かを、ウイルスは問いかけているのかもしれません。その意味でいえば、わたしたちは苦しみのただ中にいる状況に気づかないだけなのかもしれません。その折に触れて「叫びながらキリストについていった」無名のカナンの女性の背中に、わたしたちもそれぞれの歩みを重ねたいと願います。