2019年6月30日日曜日

2019年6月30日(日) 説教

ルカによる福音書8章40~42節
「折り重なるキリストの癒し」
説教:稲山聖修牧師

 ユダヤ教のシナゴーグ(会堂)の管理をし、礼拝に責任を負うのが会堂長。会堂長は礼拝全体のコーディネーターでもあり、相応の責任と地位にある。ところで、会堂長ヤイロの娘は死にかけていた。瀕死の具合であった。
この「死にかけている」という言葉は、福音書では人間の限界状況とともに、イエス・キリストとの決定的かつ深い出会いの兆しを示す。けれどもわたしたちには、正直にいえば、このようなところにおかれるのはご免だ。だからこそヤイロはひれ伏し、娘のためにキリストに来て欲しいと願うほかなかった。実はこの話だけで癒しの物語は充分成立するはずなのだ。しかし、今朝の箇所ではヤイロの願いとは異なる、思わぬ事態が起きる。
われ知らず、ヤイロの道中に割り込むようにしてイエス・キリストを求めてきた女性は、12年間出血が止まらない病に苦しめられてきた。いのちを身籠るという、その時代の女性に課せられ、また神の祝福としても受けとめられたわざから、この無名の女性は遠く離れていた。そればかりではない。女性は治療に財産を用いた結果、何もかも失ってしまった。暮しも、愛する人も、そして地位も。ヤイロとは全く異なる暗夜を彷徨うこの女性もまた「死にかけていた」。家族も兄弟も隣人も描かれないこの人は、だからこそイエス・キリストを求めずにはおれなかった。彼女の手がキリストの衣に触れたとき「死にかけていた」女性の歩みが変貌する。出血が直ちに止まる、つまり長患いが治るという出来事が起きる。キリスト自らも「わたしに触れたのは誰か」と問うばかりだ。そしてやがてヤイロの家への歩みを留めてしまう。癒された女性は震えながらも公に自らのライフストーリーを語る。その話の合間にキリストは「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのだ、安心して行きなさい」と祝福する。イエス・キリストが、この女性に「娘よ」と語りかけているところは注目すべきだ。12年間出血に苦しめられてきた女性が、この時代でいうところの「娘」に該当するはずがない。「女よ」という表現が適切なところ。けれども「娘よ」とキリストは語る。この言葉の示すところとは何か。病の中で失った人生の可能性でさえ、無名の女性はキリストから授けられたと考えても過分ではないはずだ。
ただしヤイロにとってこのやりとりは、愛娘のいのちとりとなる時間の浪費。おそらくヤイロは思っただろう。キリストにはこの女性を「見ない振りをして」欲しかったと。先約を入れたのは他でもなくヤイロなのだ。


案の定「お嬢さんは息をひきとった」との報が、自宅からの使者からもたらされる。キリストの「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる」との言葉が虚ろに響いたとしても誰も非難しないはずだ。けれどもイエス・キリストは、ヤイロやわたしたちには隠された仕方で、娘の救いの確かさを語る。「ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる」。「信じる者は救われる」という安易な言葉ではない。実は「ただ信じて、そして救われた娘」のモデルとして、あの無名の女性が立っているのだ。
「イエスはその家に着くと、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、そして娘の父母(すなわちヤイロとその伴侶)のほかには、だれも一緒に入ることをお許しにはならなかった」とある。それはなぜか。12年間苦しみぬいた末に病を癒されたあの女性が癒しを公言したのとは異なり、ヤイロの娘の癒しは秘義とされるからだ。癒しのわざの両義性が際立つ。人々の嘲笑の中、イエス・キリストは娘の手を取り「娘よ、起きなさい」と呼びかける。「娘はその霊が戻って、すぐに起き上がった。イエスは、食べ物を与えるようにと指図をされた」。あり得ないことが起きた。この展開からは、ヤイロの焦燥や焦り、そして苛立ちの中にも神の愛の力、すなわち聖霊の働きが及んだこと、また娘の癒しの十全さには、キリストの十字架の死と復活が重ねられているようにも映る。


律法として尊ばれた旧約聖書『申命記』22章には「同胞の牛また羊が迷っているのを見て、見ない振りをしてはならない。必ず同胞のもとに連れ返さねばならない」との誡めが記される。わたしたちは、いのちや未来と関わる肝心な事柄に「見ない振りをして」ばかりいる。しかし、ヤイロの娘の12年間の生涯は、女性が病で苦しんだ12年でもあるという同時進行の出来事でもある。神の約束は実現する。折り重なるキリストの癒しは、人の思いを越え、隠された神の愛のわざの結晶だ。キリストの「恐れることはない」との言葉を胸に刻みたい。

2019年6月23日日曜日

2019年6月23日(日) 説教

ルカによる福音書14章15~20節
「神の祝宴への招き」
説教:稲山聖修牧師 
 新共同訳聖書には『「大宴会」のたとえ』との小見出しがあるが、実のところ今朝の箇所は14章の冒頭から始まる物語の一場面である。それは安息日にイエス・キリストが食事のためにファリサイ派のある議員の家を訪ねたとの記事だ。安息日にキリストを招いたファリサイ派の議員の真意は、キリストの教えとわざに深い共鳴を覚え、もてなしの意味も兼ねての招待か、あるいは論争の場に誘い込むつもりだったのかは不透明だ。ある者はキリストのわざと言葉に耳を傾け向き合おうとし、ある者はそのさまに咎め立ての材料を見出そうとしていたことだろう。確かに安息日の食卓ではあったとしても、この世的な緊張感をあらゆるところに見て取れる。
 イエス・キリストは、その場にいた水腫を患う人との関わりから「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか」と問う。律法の専門家やファリサイ派はその場で沈黙するばかり。これは実に不思議だ。その患者がファリサイ派の議員の関係者であるかもしれないのに何を恐れているというのだろうか。患者が癒された後も、その問いかけに答えることができなかった律法学者は、その社会的立場に反して実に無力であることを露わにされたようなものだ。次にキリストは「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と神と隣人の前での謙遜を、下座に座った客が上座に招かれるとの譬えを用いて、分かりやすく説く。

 食卓を囲むキリストの譬え話は留まるところを知らない。さらには招いたファリサイ派の議員にも語りかける。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない」。政治家のパーティーが吹き飛ぶような発言ではあるが、キリストが招くようにと語るのは、第一には「貧しい人、身体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人」である。なぜならキリストによれば、この人たちはお返しができない、すなわち宴会の開催者は対価や利益に代わって、招かれた人々に仕えるという一点に集中できるのであるからして、これは神に祝福されたわざであり、神の愛の支配を指し示すわざとなるからである。
さてこのやりとりを聞きながら食事をともにしていた客の一人は譬えの真意を聴きとり、感嘆して「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と語る。これに対するキリストの答え。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、下僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた」。招きの声は確かに響いた。けれども実際に起きたのはどのような事態かといえばドタキャンの連続。その理由には裕福さに溢れた言葉ばかり続く。だからこそ、少し視点を変えれば都合をつけられたのにも拘らず、優先順位を違えてしまう。各々の自己都合のすり合せではなく、主催者の一方的な招きによって宴は催される。その招きに応える態度への呼びかけが、先ほどの下座から上座への招きの譬えと重なって、当時のローマ帝国の市民にも教会にも響いたことだろう。
 それでは宴会の主催者である家の主人はどうしたか。「急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、身体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をこの宴の座に連れてこい」という。さらには「ご主人様、仰せの通りにいたしましたが、まだ席があります」と下僕が申告すると、「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない」。宴の主催者の態度は実に毅然としている。ただし、この箇所で聞き漏らしてはいけないのは、ドタキャンをした人々の列席を拒む家の主人に重ねられた主なる神と、あれやこれやと理由をつけて断った結果、退けられていった人々の関わりは、まだ絶ち切られてはいないという点だ。これこそがわたしたちが聞き漏らしがちで重大な一点だ。主なる神と、退けられていった人々の関係が、イエス・キリストによって執り成される。世の人々が誰が描いたのかも分からない美食を求めるような暮しには、実のところ深い病が隠されていたことが明るみに出される現在、教会の交わりは輝きを増している。神の招きの尊さを疎かにしない、祝宴への出席を呼びかける下僕として、わたしたちは公共性を伴う、尊い役割を授かっているのである。

2019年6月16日日曜日

2019年6月16日(日) 説教

ルカによる福音書10章17~20節
「天に名を刻まれる喜び」
稲山聖修牧師

 本日の聖書の箇所を丹念に味わおうとするのであれば、10章初めに記された、イエス・キリストが72名の無名の弟子を全ての町や村に二人ずつ先に遣わされたとの記事を無視できない。キリストは人としての欠けを補い合うという着想を重んじる。だから決して単独では用いない。しかもその際に10章1~10節では宣教の道筋を弟子に丸投げせず具体的に語っている。
この箇所にあるイエス・キリストの派遣の次第をまとめる。すなわち一切手ずからの財産を持って行くなという禁止命令から始まる。キリストの代理として派遣されるからには、徹底して無力なあり方に留まれとの命令だ。その中で「だれにも挨拶をするな」とは、相応の旅支度をして道行く者に物欲しげなそぶりをみせるなということでもあるだろう。迎え入れてくれる家があれば「この家に平和があるように」、すなわち戦時間平和とは異なるところの神の平和である「シャーローム」との挨拶を交わしなさいとある。迎え入れてくれた家であるからには、キリストの弟子であり、神の愛の証人であることを信頼しているはずだから、家を転々とせずに腰を据えて留まれという。弟子の養いは金銭ではなくて滞在先で提供される食べ物・飲み物。その家を宣教の拠点として、神の愛の力による支配が今まさに近づいているというメッセージを語れ、というのだ。


それでは72人の弟子がキリストに派遣された後に授かった実りとは何か。「72人は喜んで帰ってきて、こう言った。『主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します』」。今朝の聖書箇所では、よく言われる12弟子に較べればかなりの弟子がいて、その弟子たちがすべてキリストの公認のもとで、本来キリストがなすべきわざを行い、その実りに喜んでいる様子がありありと浮かぶ。ただし、少しばかり気になる箇所も描かれる。それは「イエスは言われた。『わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない』」。神との関わりを絶とうとするサタンが、天にいるというのは奇妙だ。本来ならばそこは父なる神のいます場であり、天使のいる場所であるはずなのだ。
思うにその姿には、さまざまな手練手管をもって初代教会を苛み、翻弄したところの世にある権力が重ねられないだろうか。自らの力によって、自らにひれ伏させようとする者が『ルカによる福音書』の記された世にあるローマ帝国にいたとしても、それは少しもおかしくはない。「狼の群れの中に小羊を送るようなものだ」とあるように、弟子はほぼ丸腰といってよい。果たしてどのような力でもって弟子は世の権力を屈服させたというのか。

その一つには、キリストの名によってとことん相手を侮らせるということもあっただろう。丸腰同然の弟子がたったひとつだけ失わなかったのは、イエス・キリストの名であった。イエス・キリストの名のもとに、72人の弟子は、簒奪ではなく献げるわざを、支配ではなく仕えるわざを、威圧や脅迫ではなく「この家に平和がありますように」との挨拶によって、癒しのわざを行ない、神の国の訪れを伝えた。力あるものをとことん侮らせ、かの者たちが恥じ入るところの弱さにこそ、神の愛の力であるところの聖霊が宿ることを実証した。だからこそ、弟子を誡めて「悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろあなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」と語りながらも、21節では「そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれた」とあるように喜びを隠せない。
ローマ帝国の支配を前提にした『ルカによる福音書』は、その支配に内在する屈折や破れから決して目を離そうとはしない。けれどもそのような亀裂の中で丸腰同然で生きていかずにはおれなかった人々を、イエス・キリストは導き出し、御自身が本来なすべき役割を委託し、その実りに喜びを隠さなかった。主なる神のおられるところは、主なる神のおられるところであって、神や隣人、キリストを試みる者たちのいる場所ではないことを、世にあっては丸腰で無名の人々が証明した。天に刻まれる無名の人々の名前は、決して消え去ることはないのだ。

2019年6月9日日曜日

2019年6月9日(日) ペンテコステ・花の日礼拝 説教要旨

使徒言行録2章1~4節
「神さまの愛はいつもアツイ」
稲山聖修牧師


 今日は「子どもの日(花の日)礼拝」であり、また同時に、イエスさまを見送った弟子たちに聖霊がそそがれて、教会の働きが始まったことをお祝いする日でもあります。
 病気で仲間はずれにされていた人の苦しみを癒したり、お腹が空いてクタクタになっている何千人もの人々を感謝の思いで満たしたり、目の見えない人や耳の聞こえない人を見聞きできるようにしながら旅したイエスさまは、逮捕され十字架に架けられて殺されてしまいました。お弟子さんたちは悔しくて仕方なかったもしれませんが、本当は「次は自分が同じ目に遭うのではないか」という思いでびくびくしてばかりいました。でも、イエスさまは葬られたお墓からよみがえって、お弟子さんたちと一緒にお魚を食べてくださったり、同じテーブルについてお話をしてくださったりするうちに、ようやくみんな、安心できるようになりました。


 けれどもイエスさまは、「ぼくはこれから天のお父さんのところに行くから、今度はみんながぼくの生き方や教えたことをどんな人にも伝えるんだよ。また来るからね」と言って、神さまのもとに行ってしまいました。もうお弟子さんのところには、イエスさまはいません。お弟子さんたちは「イエスさまがいなくなってしまった」という不安もありましたが、ひたすらお祈りするよりほかにはありませんでした。

 ある日、同じようにお弟子さんが集まってお祈りを献げていたところ、とっても強い風が吹いてくるような音が聞こえてきました。音はだんだん大きくなってきます。みなさんは強い風の吹く音を聞いたことがありますか。去年にはとっても強い台風がわたしたちの暮らしているところにやってきましたが、とっても怖かったですね。屋根は飛ぶし瓦も飛んでしまいます。やさしいそよ風でも、強く吹くとこんなに力があるのかなとドキドキしました。けれどもお弟子さんたちはこう考えたかもしれませんね。「この風に吹かれたのなら、いったいどこまで行けるのだろう」。
 風の力は人間が作った壁や垣根をかんたんに壊してしまいます。渡り鳥は風の力を用いて世界中の国々へと旅をします。いろいろな壁を越えてことばや食べ物や習慣のちがう人々と会えたのならば、かならずイエスさまから任されたお仕事をしなくては、とお弟子さんの胸はとってもアツくなりました。
 でも、特別に外国のことばを勉強していないお弟子さんたちに、ことばも暮しのようすも違う人へイエスさまのはたらきと教えを伝えることができるのでしょうか。
実は、それができるのです。稲山先生がある外国にいったときのお話です。その国はあまりお金持ちだとはいえない国でした。お店で安いハンバーガーみたいなものをお願いしたのですが、そのときにお財布を落としてしまいました。「ないないない!」と困り果てたのですが、隣にいた人が「ここにあるよ」と笑って渡してくれました。また別の国での話ですが、やっぱり公園で忘れ物をして、「ないないない!」と困っていた人に「これ、忘れていましたよ」と届けたら、とってもよろこんでくれました。困っている人を助けるときに、イエスさまのことばが通じます。それは、その人を大切にするということです。こちらは日本語で話します。相手はその国のことばでお返事をしてくれます。違うはずのことばが通じます。それがとっても嬉しいのです。

 それだけではありません。イエスさまのことばは、ときにはとってもきびしく聞こえることがあります。みんなが赤信号なのに横断歩道を渡ろうとしたら、きっとお母さんは「あぶない!なんてことをするの!」と𠮟るでしょう。それはお母さんがみんなを嫌っているのではなくて、大好きだからきびしくしかるのです。とってもアツイきもちです。人間の世の中では、大切に思わない人には何も声をかけないということもあるかもしれませんが、イエスさまはしらんぷりはしません。やさしいことばも、きびしいことばも、イエスさまはみんなにかけてくださります。イエスさまのお弟子さんも、ようやくそのことに気がついたのかもしれませんね。お弟子さんのからだは、いつのまにかとってもアツくなってきました。お花を咲かす光のような、神さまのアツイきもちをいつもわすれないで、大切にしましょうね。イエスさまが示してくれた、そのアツイ愛の力を、聖霊と呼ぶのです。

2019年6月2日日曜日

2019年 6月2日(日) 説教


マタイによる福音書28章16~20節
「キリストから託された使命」
稲山聖修牧師

『マタイによる福音書』の結びでは、イエス・キリストの昇天の出来事が直接語られはしない。復活したイエス・キリストはこの箇所で弟子や群衆との関わりの中で重要な舞台である「山」に登る。キリストの昇天は描かれないが、世の様々な動きから一線を画するその場で、弟子達に使命を託する。しかしその最中でも、イスカリオテのユダを欠いた11人は、復活のイエス・キリストにひれ伏しはしても「しかし、疑う者もいた」とある。この期に及んでも記される「疑い」とは何を示すのだろう。
 『マタイによる福音書』は、イエス・キリストの教えに重きが置かれるだけでなく、様々な政治力を背景にした権力との対決や向き合いに焦点があたる」。それはクリスマス物語の東方の三人の博士とヘロデ王との対峙の記事、そして王によるキリスト生誕の地ベツレヘムで起きた嬰児虐殺。キリストの埋葬の際にも、イエスを陥れた祭司長と律法学者の一部は、ローマ総督の赦しを得て番兵に墓地を見張らせ封印をさせるまでにいたる。『マタイによる福音書』では、クリスマスの物語にも、イースターの物語にも、政治的な様々な思惑に基づいたさまざまなうごめきが描かれる。祭司長たちはキリストの復活に立ち会った番兵を買収して、復活の出来事を、あたかもなかったかのようにしさえする。


このような世の権力のうごめきを踏まえると「しかし、疑う者もいた」との言葉の意味が次第に明らかになる。つまりこの「疑い」とは単なる弟子の不信仰を象徴しているのではなく、キリストの否定のために押し寄せる世の闇に、なおも怯えている者も11人の弟子にいたことを示している。しかし、復活のイエス・キリストは、そのような怖じ惑いを意に介さず、弟子のもとに近づいてくる。そして「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と語るのだ。
 この宣言の前では弟子の疑いというような不甲斐ない振る舞いは些細な事柄として扱われている。なぜならば、わたしたちが、ではなく、キリストが天地万物一切の権能を父なる神から授かっているからだ。だからたとえ、世の力に対する恐怖や怖じ気づきがあったとしても「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」とキリストは命じる。勘違いしたくないのは、すべての民は「キリストの弟子」になるのであって「わたしたちの弟子」になるのではない、ということだ。教会は徒弟制度のような縦社会の人間関係に飢えている場ではない。わたしたちにできるのは、片意地を張って「立派な人生の教師」として振る舞うよりも、イエス・キリストから決して目を離さないという生活態度に立つことだ。たとえ言葉がその時に聴かれなくても、言葉そのものが人の心の中で芽吹いて根を降ろすのであれば、人生は神の愛の力を受けて必ず開かれる。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。『マタイによる福音書』の結びは『使徒言行録』にある昇天の物語とは異なったキリストのあり方が示される。それはわたしたちの弱さや怖じ気づきに先立ってキリストが伴われるということであり、これこそがクリスマス物語の中で、天使が告げた「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は『神が我々と共におられる』という意味である」というメッセージの完成体である。わたしたちは、この喜びの中を歩むことによって、いのちの力を軽んじ、いのちの光を覆わんとする世の闇に対して打ち勝つのである。イエス・キリストの生涯を通して明らかにされた神の愛。これこそが聖霊として言い表され、わたしたちに今もなお働きかける神の力として理解される。それは単なる感情の高ぶりとは異なる。だから聖霊には、頑ななあり方を打ち砕き、キリストを中心にして変幻自在に姿を変えていく生命力が秘められている。個人の特性に留まらず、国境や文化、言語や時代の異なり、悲しみや絶望さえ軽々と越えていく。キリストから託された使命とは、キリスト自らがお示しになったいのちの指標を基として、その多様性を喜び、かつ楽しんでいくことに他ならない。なぜならそこには主の平安(シャーローム)があるからだ。