2019年6月23日日曜日

2019年6月23日(日) 説教

ルカによる福音書14章15~20節
「神の祝宴への招き」
説教:稲山聖修牧師 
 新共同訳聖書には『「大宴会」のたとえ』との小見出しがあるが、実のところ今朝の箇所は14章の冒頭から始まる物語の一場面である。それは安息日にイエス・キリストが食事のためにファリサイ派のある議員の家を訪ねたとの記事だ。安息日にキリストを招いたファリサイ派の議員の真意は、キリストの教えとわざに深い共鳴を覚え、もてなしの意味も兼ねての招待か、あるいは論争の場に誘い込むつもりだったのかは不透明だ。ある者はキリストのわざと言葉に耳を傾け向き合おうとし、ある者はそのさまに咎め立ての材料を見出そうとしていたことだろう。確かに安息日の食卓ではあったとしても、この世的な緊張感をあらゆるところに見て取れる。
 イエス・キリストは、その場にいた水腫を患う人との関わりから「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか」と問う。律法の専門家やファリサイ派はその場で沈黙するばかり。これは実に不思議だ。その患者がファリサイ派の議員の関係者であるかもしれないのに何を恐れているというのだろうか。患者が癒された後も、その問いかけに答えることができなかった律法学者は、その社会的立場に反して実に無力であることを露わにされたようなものだ。次にキリストは「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と神と隣人の前での謙遜を、下座に座った客が上座に招かれるとの譬えを用いて、分かりやすく説く。

 食卓を囲むキリストの譬え話は留まるところを知らない。さらには招いたファリサイ派の議員にも語りかける。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない」。政治家のパーティーが吹き飛ぶような発言ではあるが、キリストが招くようにと語るのは、第一には「貧しい人、身体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人」である。なぜならキリストによれば、この人たちはお返しができない、すなわち宴会の開催者は対価や利益に代わって、招かれた人々に仕えるという一点に集中できるのであるからして、これは神に祝福されたわざであり、神の愛の支配を指し示すわざとなるからである。
さてこのやりとりを聞きながら食事をともにしていた客の一人は譬えの真意を聴きとり、感嘆して「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と語る。これに対するキリストの答え。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、下僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた」。招きの声は確かに響いた。けれども実際に起きたのはどのような事態かといえばドタキャンの連続。その理由には裕福さに溢れた言葉ばかり続く。だからこそ、少し視点を変えれば都合をつけられたのにも拘らず、優先順位を違えてしまう。各々の自己都合のすり合せではなく、主催者の一方的な招きによって宴は催される。その招きに応える態度への呼びかけが、先ほどの下座から上座への招きの譬えと重なって、当時のローマ帝国の市民にも教会にも響いたことだろう。
 それでは宴会の主催者である家の主人はどうしたか。「急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、身体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をこの宴の座に連れてこい」という。さらには「ご主人様、仰せの通りにいたしましたが、まだ席があります」と下僕が申告すると、「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない」。宴の主催者の態度は実に毅然としている。ただし、この箇所で聞き漏らしてはいけないのは、ドタキャンをした人々の列席を拒む家の主人に重ねられた主なる神と、あれやこれやと理由をつけて断った結果、退けられていった人々の関わりは、まだ絶ち切られてはいないという点だ。これこそがわたしたちが聞き漏らしがちで重大な一点だ。主なる神と、退けられていった人々の関係が、イエス・キリストによって執り成される。世の人々が誰が描いたのかも分からない美食を求めるような暮しには、実のところ深い病が隠されていたことが明るみに出される現在、教会の交わりは輝きを増している。神の招きの尊さを疎かにしない、祝宴への出席を呼びかける下僕として、わたしたちは公共性を伴う、尊い役割を授かっているのである。