2018年9月16日日曜日

2018年9月16日(日) 説教「先立って道を整えるイエス・キリスト」 稲山聖修牧師

2018年9月16日 長寿感謝の日礼拝
「先立って道を整えるイエス・キリスト」
マルコによる福音書14章12節~16節

稲山聖修牧師
  イエス・キリストが何かを備えよと弟子に語る時。それは某かの仕方でイエス・キリストの受難の歩みを暗示する。都エルサレムに入城される場合には「誰も乗ったことのないこどものロバ」を備えるようにと弟子に命じる。メシアはローマ帝国を力で打ち負かすような王の姿を身に纏うのではないという無言のメッセージ。苦役を担うこどものロバがむしろメシアにはふさわしい。小さなロバもまた弟子たちの知らないところで備えられた。弟子にそのわけは隠されたままで。
 今朝の箇所ではいわゆる「主の晩餐」の整えが記される。弟子には、まさか主イエスから「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」と聞くとは予想だにしなかった。晩餐を囲む過越の祭がエジプト脱出の祝いであることは弟子の群れも知っている。しかしその席で代わるがわる「まさかわたしではないでしょう」と言い始めることになるとは。弟子の交わりは、主イエスを囲む過越の祝いの席で疑心暗鬼に襲われ、バラバラにされるという痛ましい事態を迎える。「まさかわたしではないでしょう」、逆にいえば「誰かが主イエスを裏切ろうとしている」という告発のもと、信頼が猜疑の念に呑まれるという、無残な場面への前奏曲が静かに響く。
しかし、である。この交わりの解体という、現代人のあり方にも重なる事態に、もしイエス・キリストの道備えが隠されているならば、わたしたちは何とするのか。一般には隠されているが、わたしたちには備えがあるとの物語が始まる。「除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、『過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意をいたしましょうか』と言った。そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。『都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。<先生が、弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか、と言っています>。すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい』。弟子たちが都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した」。確かに弟子にはまさか互いに「別の者が主イエスを裏切ろうとしている」言い争うとは夢にも思わなかった。これにはわたしたちも、深い悲しみに満ちた破れとして嘆かずにはおれない。人は齢を重ねるほどに、このような悲しみもまた日常の事柄だと受けとめずにはおれない。けれどもその道もまた、キリストの道備えによるものであったと理解するのならば、実はイエス・キリストには、弟子の裏切りは想定内であったばかりか、裏切りを凌ぐいのちの光をもって、新しい信頼関係を再び構築してくださるという確信を授かる。イエス・キリストの十字架の出来事によって、弟子は万能感や誇らしげな思いを砕かれ、その浅はかさから解放される。弟子の絆の解体という悲しみを吹き飛ばす十字架での出来事、そしてバラバラになった弟子を再び集める、葬りを貫いた復活の出来事。パウロが『ローマの信徒の手紙』10章21節で「わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた、と言っています」と語るとおり、弟子に先立って道を整えるイエス・キリストのわざは、十字架を前に絶望せずにはおれなかった民をやわらかく、あたたかく包み込む。どれだけ齢を重ねたかというデータより、主イエスの愛に包まれる喜びを経てきた証しを言祝ぎたい。長寿感謝の礼拝を迎えた。手に刻まれた皺は、数値でははかれないキリストの愛に支えられて歩んできたしるしである。そのしるしの示す喜びを、わたしたちもともにしたい。


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2018年9月9日日曜日

2018年9月9日(日) 説教「語る者と聴く者の信頼あふれる交わり」 稲山聖修牧師

2018年9月9日
説教「語る者と聴く者の信頼あふれる交わり」
マルコによる福音書14章3節~9節
稲山聖修牧師


 「イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席についておられたとき、一人の女性が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた」。この箇所からすると、この女性はさぞや裕福な階層に属しているように思い込みがちだ。けれども福音書の書き手はこの女性の出身には関心を抱かない。女性が富裕層に属するのか、それとも果たして女性の奴隷であり、たまたま主人の言いつけで買い求めた品を主イエスに献げたのかは分からない。しかしこの女性に何らかのわけがあり、主イエスのもとを訪ねていたのは疑いがない。なぜならば舞台は「重い皮膚病の人シモン」の家だからだ。
 かつての聖書では「重い皮膚病」は「らい病」として訳されていた。議論はあろうが、あらゆる交わりから絶たれてなお、福音書のイエス・キリストの癒しの物語に、実際に「らい病」であるハンセン病に罹患した方々が深く感銘を受けて光を見出した事実は色褪せない。家族からも「初めから存在しなかった人」として交わりを絶たれていたシモン。この場でなぜ女性がイエス・キリストを訪ねたのだろう。イエス・キリストとの交わりはシモンとの交わりを包む。単なる気まぐれや興味本位だけでは、この交わりに加わるにはあまりにも生活に抱え込むリスクが大きい。世にある交わりを捨てる覚悟でこの女性は主イエスを訪ねた。尋常でない決意と勇気がその態度にはある。
  しかし、である。その場にいた人々は、女性のわざを讃えるどころか、こぞって憤慨し、非難し始める。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は300デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに」。日当にあたる1デナリオンを8,000円換算すると香油の見積もりは240万円にはなる。興味深いのは、シモンの家に集っていた者の中には、当時の香油相場でのナルドの香油の価格を知っている者がいたことだ。そう考えれば、咎め立ては香油そのものの値打ちを評価しているように思えるが、実際は大問題を抱えている。
 それは、香油の値打ちを値踏みしてはいても、イエス・キリストとそれまで排除の苦しみにあったシモンとの出会いと交わり、そしてキリスト御自身の苦難の歩みを心に刻むわざには無関心な態度だ。香油を注いだ女性の想定外のわざは、救い主が十字架にかけられるという、これもまた当時としてはメシアの想定外の歩みと深くつながるしるしになっている。「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときによいことをしてやれる」。この役目は香油を注いだ女性にではなく、そのわざに憤慨するその場に居合わせた人々に向けられる。もちろん、弟子達もそこにいる。女性の振る舞いを激しく咎め立てをする以上、貧しい人への支援は「あなたがた」に託された当然の役目となる。これはイエス・キリストの事実上の命令だ。

 初代教会の人々でさえ、教会が立ちもし倒れもする軸が何なのか、そしてどこに根を降ろすべきなのかを、香油の金額に象徴される事柄に囚われて見失うこともあった。『ローマの信徒への手紙』10章17節でパウロは「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まります」と語る。まことの信頼は、御言葉にしっかりと根を下ろした交わりから始まる。その礎は教会にあっては端的に「礼拝」となる。生きるほろ苦さはイエス・キリストを道とする神との出会いへとつながる。繰り返しその源を確かめながらいのちの喜びを一層深く噛みしめるわざ。たとえこの世の嵐、暮しの嵐の只中にあったとしても、なおもわたしたちは、あのシモンの家にあふれた、キリストの香り、ナルドの香油の香りを身にまとって、暮しの場へと遣わされるのである。

説教要旨中に掲載した植物の写真は、
教会がある「こひつじ保育園」で撮影したものです。

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2018年9月2日日曜日

2018年9月2日(日) 説教「献げて授かるわざに導かれて」 稲山聖修牧師

2018年9月2日
「献げて授かるわざに導かれて」
ローマの信徒への手紙10章14~15節
マルコによる福音書12章38節~54節
稲山聖修牧師


本日の聖書の箇所で、イエス・キリストが群衆に語る言葉としては、まずは次のようなものがある。「律法学者に気をつけなさい」。よくよく考えると不思議な言葉だ。なぜならば、律法学者とはその時代の名のある人々からは広く尊敬を集めていたからだ。なぜ主イエスはかように語ったのか。博識な学者たちに欠けがあるのだとすれば、誰のために学んでいるのかという使命感だったのかもしれない。使命感を忘れた学識は、いきおい権力欲や名誉欲と深く結びつく。イエスの分析は律法学者が置かれた経済状況にまで及ぶ。「やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする」。貧しい寡婦から献げられた糧に感謝もせず、その痛みに寄り添おうともしないという鋭い指摘。人々はこの教えにより、律法学者を個人崇拝のように敬う態度から、アブラハムの神そのものへと頭(こうべ)をあげる信仰へと導かれたのではなかったか。
この箇所の後にイエス・キリストが示すのは、今度は律法学者に食い物にされていたはずの「やもめ」だ。その姿は大勢の経済的に満たされた人々とは対照的に描かれる。神殿に寄進する富裕層の中、ひとり献げものをするやもめ。「ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨2枚、すなわち1クァドランスを入れた」と記される。1クァドランスは125円ほどの金額だ。なぜ主イエスはこの女性に注目するのか。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余っているものの中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである」。すなわち、額としては僅かであるにも拘らず、やもめは財産だけではなく、自分の暮らしを全てアブラハムの神に献げたのだというところに、主イエスの言葉の鋭さがある。支払ったのでも、納めたのでもなく、献げたのである。どのような動機があったのか。どのような負い目がやもめにそうさせたのか。その理由はだれにも分からない。あくまでもやもめだけが知る秘密である。けれどもそのわざにより,貧困層のやもめは、主なる神との関わりの中で自らのいのちを受け取り直したのだ。そのことを主イエスは見逃さなかった。
『マタイによる福音書』の16章26節に記された主イエスの教えには「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」とある。「手に入れる」ということと「授かる」ということは、似ているようで実は全く異なる。「手に入れる」ことは自分のものにすることだが、「授かる」とは贈ってくださった相手との畏敬に満ちた関係が鮮やかに映し出されているからだ。何よりも大切なのはこの命綱なのだと、イエス・キリストは語る。「信じたことのない方を、どうして呼び求められよう」とパウロは語る。この命綱に目覚めたとき、人はあらゆる欠けや破れや思い遺しを抱きながらも、その破れもまた授かりものとして受けとめることができるようになる。イエス・キリストが十字架の上でわたしたちの受けるべき審判を受けてくださったからこそ、そして復活のいのちの力の中へと巻き込んでくださったからこそ、わたしたちは神の国の何たるかをおぼろげながらに、キリストの復活を通して、そして神の愛の力である聖霊の働きにより確かめられる。その交わりをどのように育んでいくのかが、今、問われている課題でもある。主なる神に献げて授かるわざに導かれて、わたしたちも全てをキリストに委ね、新しい道を授かる者でありたい。


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2018年8月26日日曜日

2018年8月26日(日) 説教「和解の道にいのちの光あふれて」 稲山聖修牧師

2018年8月26日
「和解の道にいのちの光あふれて」
ローマの信徒への手紙10章10~13節
マルコによる福音書12章28節~34節

稲山聖修牧師
エルサレム入城後の、とある律法学者とイエス・キリストとの対話。そこには論争や主イエスの揚げ足取りの雰囲気を微塵も感じない。サドカイ派との論争を聞いた律法学者がイエスの前に立つ。「彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。『あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか』」。「立派にお答えになったのを見て」。これは充分かつ明瞭な答えを聞いたということだ。サドカイ派に反しファリサイ派の律法学者は死人の復活の教えを尊んだ。律法学者の問いかけにイエス・キリストは答える。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である』」。「イスラエルよ、聞け」。ヘブライ語では「シェマー・イスラエル!」。イスラエルの預言者、そしてアブラハムの神の呼びかけが響く。この言葉は、ユダヤ教の民が現在にいたるまで、時と場所を問わず用いてきた言葉だ。そして主イエスが用いるのは『申命記』6章4〜5節。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」。続いて「第二の掟はこれである。『隣人を自分のように愛しなさい』」。これは『レビ記』19章17‐18節。万一わたしたちがこの言葉を軽んじるなら教会はどうなるというのか。おそらく世と時代状況におもねるばかりのあり方しか残らないだろう。要は人を相対化できないあり方しか、教会には残されてはいないこととなる。
 それでは「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉を真摯に受けとめるならば、教会はどうなるのか。隣人を自分のように愛するわざとは、交わりにおける他者への奉仕という具体的なわざも含む。しかし一歩踏み込むと、どのような出来事があったとしてもお互いに相手への恨みつらみを遺さないという態度も伴うのである。仮にどれほど激しい言葉が交わされたとしても、その日が終われば「ノーサイド」。試合を終えたラグビーの選手がそうするように、激しさを翌日には持ち込まない。そのような態度もまた、隣人を愛するわざに入るだろう。それはやがて和解の道へとつながり、わが身を顧みての悔い改めの展望として広がっていく。
「あなたの神である主を愛しなさい」。「隣人を自分のように愛しなさい」。この教えを前にして、律法学者はどのように応えたのか。「律法学者はイエスに言った。『先生、おっしゃる通りです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは本当です。そして、『心を尽くして、知恵を尽くして、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げものやいけにえよりも優れています』」。律法学者はなぜこのように応えることができたのか。『詩編』51編には「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」とある。ユダヤ教の礼拝堂であるシナゴーグで用いられる交読文としても詩編は用いられていた。律法学者はこのように主イエスを讃えたのだった。
この祝福に満ちた関わりをもたらすため、イエス・キリストは和解の主として数多の対立の只中に立ち、わたしたちの交わりに連なるそれぞれの暮らしの中にも立つ。それはキリストの受難と復活、そして続くパウロのわざを包む神の愛の力である聖霊の力により明らかとなる。パウロの語る「すべての人」にはユダヤ人、ギリシア人に留まることのない、底知れない福音のスケールがある。その大きさと深さは、暮らしをキリストに根を下ろすことによってのみ知らされる。わたしたちも、そのようないのちの光にのみこまれているのだ。この確信を大切にし、日毎に養っていきたい。


2018年8月19日日曜日

2018年8月19日(日) 説教「神の平和は時にかなった実を結ぶ」稲山聖修牧師

2018年8月19日
「神の平和は時にかなった実を結ぶ」
ローマの信徒への手紙10章5~8節
マルコによる福音書12章1節~12節

稲山聖修牧師

「ぶどうの木」は聖書の中では様々なたとえに用いられる。それは神の恵みにあふれた果実であるとともに、神との絆を絶たれた人々には欲望の対象ともなった。それは『列王記』21章にある「ナボトのぶどう畑」の箇所にもあるように、旧約聖書では実に多く描かれる。福音書の書き手は、このような物語を決して軽んじることなく、しっかりとイエス・キリストの教えと関連づける。

 「イエスは、たとえで彼らに話し始められた。『ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を得るために、僕を農夫たちのもとに送った』」。主イエスの語ったぶどう園のオーナーのたとえ話。この主人、ぶどう園を開拓する上では実に緻密にプランを築く。
 しかしながらこの主人は、ぶどう園を貸し与えた農夫たちに対して過剰な信頼を寄せているように見える。人事の面ではあまりにも無防備で、ぶどう園の個々の働きだけでなく、運営権まで農夫に委ね旅に出てしまう。その後を辿ると、主人不在の所での農夫たちの貪欲さが細かく描かれる。「収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫のところに送った」。第一の僕は捕まえられて袋叩きにされ、何も持たせられないで帰される。第二の僕は顔を殴られ侮辱される。第三の僕は殺害され、四度目には多くの僕たちを送ったが、殴られたり、殺害される。
しかしこのわきの甘いぶどう畑の主人を父なる神のたとえとして重ねると、この甘さが全く異なる意味合いを帯びる。飢えた獣のような農夫たちに対してさえ、一たび畑を委ねたならば何があっても前言を撤回しない強靭な意志。しかし農夫には、その堅忍不抜の意志の示すところが分からない。「まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った」。手塩にかけて育てた息子をあえて、農夫に遣わすのは、主人としては想像を絶する覚悟がある。農夫はどのように応じたか。「『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外に放り出してしまった」。イザヤ書2章4節には「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」と農夫を平和の象徴として用いるが、イエス・キリストはこの平和の象徴であるはずの「農夫」でさえ、ぶどう園の主人、ぶどう園のオーナーに重ねられた主なる神との関わりを見失うとするならば、暴力に及ぶ狂気を潜めているという解き証しを経て、祭司長や律法学者、長老たちに迫る。
「さて、ぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻ってきて農夫を殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない」。要となるのは、ぶどう園を「ほかの人たちに与える」という一節だ。「ほかの人たち」とは、権力者から退けられていた「その他大勢の人々」に他ならない。時代の捨て石扱いされた人々が、家を建てるにあたって不可欠な土台として用いられる。その頭となるのがイエス・キリストであることに、黙して心に刻むべきである。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」と語るパウロ。キリストと出会い、神との関わりに目覚めたところの、捨て石扱いされた方々の只中にいますキリストに牽引されてきたのが73年間の教会のあゆみ。時に適った実を結ぶ神の平和。わたしたちはそのバトンを渡されている。憂いや嘆きからは何も出てこない。イチジクのような豊かな実りであれ、からし種のような実りであれ、将来は開かれているのだ。神の国を先取る平和は、シャーロームとしてわたしたちに迫るのだ。

2018年8月12日日曜日

2018年8月12日(日) 説教「沈黙しない者の声に宿る神の力」稲山聖修牧師

2018年8月12日
ローマの信徒への手紙10章1~4節
マルコによる福音書10章46節~52節
「沈黙しない者の声に宿る神の力」 

説教:稲山聖修牧師

 身悶えするような苦しみからの叫びに蓋をする。その残酷な振る舞いは、まずは創世記のカインとアベルの物語に示される。アベルは遊牧・牧畜という、家畜の食糧を求めて絶えず移動生活を強いられる人々を象徴すると言われる。それに較べると、カインは地を耕す文明を代表しているとも考えられる。地を耕す文明は収穫物を蓄え富と繁栄を築ける。しかしアベルの場合にはそうはいかない。創世記が伝えようとする神は、虐げられた、弱い者とともにいる神である。そして自覚のない高慢な者をお喜びにはならない方でもある。だからこそ神はアベルの献げものに目を留めるものの、カインの献げものを顧みない。カインは自覚なき高慢な者ゆえにその理由が分からず激しく怒った挙げ句、アベルを殺害するにいたる。アベルの殺害後、神の問いかけにカインは答える。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」。問いかけた神に対して「知るか」と口答えをしているカインは、神の言葉に耳を傾けようとはしない人のありかたを示すようだ。神はこの口答えを受けて答える。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる」。どれほど隠蔽しようとしたところで、土の中から叫ぶ声があるのだと創世記の物語は迫る。
 今朝の福音書の箇所では、バルティマイという盲人の物乞いが描かれる。バルティマイの説明としては、ティマイの息子とあるだけだ。この説明が示すのは『マルコによる福音書』の書き手は、物語の聴き手や読み手を異邦人に絞り込んでいることが考えられる。盲人の物乞いに誰が目をかけ、注意を払うというのか。しかしバルティマイは、イエス・キリストが近づくと知るや、突如物乞いとしての希望を失ったあり方から一転して叫び始める。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」。「憐れむ」という言葉は、わたしたちが普段口にする相手への同情という意味合いを超えている。それは苦しみを分かち合う姿勢を求める叫びであった。一体誰がこの叫びに耳を傾けたというのか。「多くの人々が叱りつけて黙らせようとした」。時に暴力をも辞さず、口を塞ごうとした可能性すら考えられるだろう。けれどもバルティマイは黙らない。あらゆる妨げにも屈することなくキリストとの関わりを求める。主はこの叫びを聞き給うた。「あの男性を呼んできなさい」。喜びに満たされた物乞いは主イエスと語り合う。「何をしてほしいのか」。バルティマイは答える。「先生、目が見えるようになりたいのです」。物乞いは見えるようになり道を進まれるイエスに従った。
 それではバルティマイは何を見るというのか。その目に映るのは、イエス・キリストの受難の歩みだ。バルティマイが求めた憐れみとは、十字架の苦しみにまでいたるキリストの共苦にある。しかしキリストの苦しみは十字架での死によって終わるのではない。復活といういのちの勝利がバルティマイに迫る。「兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています」。パウロは自らのためには祈ろうとはしない。自分の義しさを求め、支配欲や権力欲の虜となった人々の救いのために神に叫ぶことを躊躇しない。御子を世に遣わした主なる神は、悲しみの中で沈黙できない声を軽んじることはない。主イエスが身代わりになって語ってくださるその声には、神自らの力が宿る。それは聖霊の力である。神の前に祈りを断念する態度は、聖書には記されてはいない。わたしたちは、神の愛の力によって背中を押されている。土の中からの叫びが、神の言葉として響くとき、神なき権力と繁栄を求める者はその力を失う。主の平和をともにしよう。

2018年8月5日日曜日

2018年8月5日(日) 平和聖日礼拝 説教「神の平和を語り継ぐ涙と喜び」稲山聖修牧師

2018年8月5日
ローマの信徒への手紙9章30~32節
マルコによる福音書10章13節~16節
「神の平和を語り継ぐ涙と喜び」
平和聖日礼拝説教:稲山聖修牧師

 教会がサロン的な社交場と袂を分かつのは、天に召された方々をも包み込む交わりを築きあげるところにも明らかだ。聖書の伝えるところでは宇宙万物の主なる神は、アブラハムの神として告知される。その御手の中では、逝去された方々も、わたしたちと同じく被造物として召されている。その交わりは、イエス・キリストとの関わりの下で検証されるべき、世に刻まれた歴史を、生きた声として響かせ、わたしたちとの対話を重ねている。吉田満。『戦艦大和ノ最期』の著者であり、大和の生き残りである彼は1960年代、教会で兵士たちが犬死にであったとの声にふれ、おだやかな口調で「そのことは、今度ゆっくりと話しましょう」と答えた。

 「イエスが触れていただくために、人々がこどもたちを連れてきた。弟子たちはこの人々を叱った」。「人々」と訳される言葉は、「群衆」と訳される「オクロス」。芥子粒のような「その他大勢の人々」を示す。名もなき人々の間で「メシア」との評判のあった主イエスのもとに連れてこられたこども。「こどもたち」には所有格がない。親のないこども、世にいう孤児がいたかもしれない。イエスに触れていただく、とは癒しのわざをも意味する。病気のこども、障がいを抱えたこども。弟子にはこどもたちは排除の対象でしかなかった。イエス・キリストは憤る。「こどもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」。イエス・キリストの受難の歩みは、このこどもたちの弱さと痛みを分かちあい、十字架の上での苦しみを頂点とするものでもあった。敗戦後の上野に溢れた戦災孤児。「あいのこ」と呼ばれたこども。引揚の最中落命したこども。被曝孤児。毒殺された障がい児。キリストは、神の国とはこのような者たちのものであると語る。「はっきり言っておく。こどものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」。そして、「こどもたちを抱きあげ、手を置いて祝福された」。癒しを超えて注がれる祝福があった。「では、どういうことになるのか。義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです」。パウロは、なぜイスラエルの民にではなく、まず異邦人に神の選びが臨んだのかを語る。内向きで交わりを欠き、目的化した律法主義的な義。それが暴力を常にはらむところも見抜いているところは鋭い。
 戦艦大和の乗組員は内地の人々だけではない。士官の出身大学には、京城帝国大学、台北帝国大学があった。日系二世で日本国籍を選んだ者もいた。芥子粒扱いの兵士がいた。その思いを背負いながら吉田は戦後、銀行員として歩んだ。「進歩のないものは決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。日本は進歩ということを軽んじすぎた。私的な潔癖や徳義にこだわって、本当の進歩を忘れてきた。敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか。今日目覚めずしていつ救われるか。俺たちはその先導になるのだ」。吉田が戦後に加筆した士官の言葉。戦死・戦病死だけでなく、犠牲となった全ての人々には家族や関係者がいた。敵視され、蔑視され、殺害した相手にも愛する家族がいた。平和聖日に始まる八月。復活のキリストという窓を通して、逝去された人々、苦しみを担い続けた人々との交わりの中、涙を伴う神の平和を語り継ぐわざを感謝とともに喜び、犠牲の上に活かされている者として、各々のあり方を主の前で確かめる月を、今年も迎えた。

2018年7月29日日曜日

2018年7月29日(日) 説教「わたしたちを救う地の塩の役目」 稲山聖修牧師

2018年7月29日
ローマの信徒への手紙9章27~28節
マルコによる福音書9章42節~46節
「わたしたちを救う地の塩の役目」
稲山聖修牧師

 キリストの弟子だという理由で一杯の水を飲ませてくれた者を主イエスは「わたしを信じるこれらの小さな者」と呼ぶ。人に敬われずなおもイエス・キリストと、希望のもとにつながりを持ちながら奉仕に励んだ初代教会の関係者がいた。今朝の箇所で主イエスの誡めの言葉は、神なき世の組織の論理に気をとられていた教会の指導者に向けられる。「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になって命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつかずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない」。主イエスは「地獄(ゲヘナ)」という旧約聖書にはない死後の世界を語る。何とも異様な場面だ。犯罪や戦争の結果もたらされる災いより「小さな者の一人をつまずかせる」わざの方が重大な罪悪なのだ。それでは「小さな者の一人をつまずかせる」という重大な過ちと、わたしたちは袂を分かつことができるのか。
 それは無理なのだ。「人は皆、火で塩味をつけられる」。このような過ちは、そこに居直ることは赦されないが、さりとて避けることもまた実に難しい。この前提に立った上で「人は皆、火で塩味をつけられる」と記した後、次の言葉が続く。「塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味をつけるのか」。「塩はよいものである」とキリストは語る。この教えは分かりづらく、実に飛躍に満ちている。つまずきをもたらす者はゲヘナの炎に落ちるとしながら「人は皆、火で塩味をつけられ」、そして「塩は良いものである」と言葉が続くからである。何が言いたいのだろうかとわたしたちは困惑する。
 おそらく、神の前にあって、キリストを頭として仰ぐ一方で、人の交わりでもある教会は、あまりにも人間的な営みの中で人をつまずかせてしまうという危うさを絶えずはらんでいる。その深い反省があるのだろう。たとえ善意に端を発したとしても、人をつまずかせる過ちは、わたしたちにも確かに身に覚えがある。新しく教会を訪れた人を、わたしたちはどのように迎えているのか。
 パウロは本日の箇所で、誰が神の国につながる選びに属しているのかは、イスラエルの民にも隠されており、人の知るところではないと選びの秘義を語る。教会の働きは「これまで」と「今・この時」そして「これから」という時の中で進む一方で、天地創造と神の国が訪れとの時の間に起きる出会いに「わたしたち」が向き合う道筋を問う。その中間の時の中では、ゲヘナという言葉すら伴いながら誡めを受ける苦い失敗もある。けれどもその過ちは、それに気づきながら涙するわたしたちに、赦しを語りかけるキリストの励ましと決して無縁ではない。それは地の塩・世の光としての役目の発端ともなり得るからだ。「自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい」。教会が自らの過ちから目を背けることなく、祈りの中で胸に手を当てるならば、過ちでさえも宝となり、教会に繋がる交わりから恨みを消し去る神の平和をもたらす。その証しがわたしたちの役目だ。家庭や職場で人知れず証しを立てていく。喜びに満ちた光の道が敷かれている。


2018年7月22日日曜日

2018年7月22日(日) 説教「一杯の水への感謝がもたらす力」稲山聖修牧師

2018年7月22日
ローマの信徒への手紙9章24~26節
マルコによる福音書9章38節~41節
「一杯の水への感謝がもたらす力」

稲山聖修牧師
  弟子のヨハネの耳打ちのような言葉から今朝の聖書箇所は始まる。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないのでやめさせようとしました」。ヨハネの言葉は「誰がいちばん偉いか」という「権威」や「序列」をめぐる弟子の間の議論と無縁ではない。『マルコによる福音書』の書き手は、権力欲や支配欲といった、いつの時代も教会を混乱させてきた課題を弟子の争いや咎め立てに重ねているようでもある。
 ヨハネが非難する相手はイエス・キリストの名を用いて癒しのわざを行っているのであり、非難を受ける筋合いはどこにもない。けれども弟子のヨハネには許しがたい分派活動に映った。「わたしたちに従わないのでやめさせようとしました」。弟子が歯止めをかけようとする理由は「わたしたちに従わない」という点だけで、癒しのわざ自体に問題があるのではない。それにも拘わらず弟子は自らの下に相手を従えようとする。私心に深く根ざした支配欲がむきだしにされている。
 この弟子ヨハネに対してイエス・キリストは語る。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」。キリストが見渡す教会の交わりは、弟子の思いよりもはるかに広い。その広い展望に立つがゆえに、見方によっては実にしたたかな言葉さえ語っている。「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」。かの人々が異なる文化に属していようとも、どのような言語を用いようとも、どのような礼拝様式を伴っていようとも。いろいろ意見があったとしても、わたしたちが礼拝に出席するにあたって、少しでも理解を示してくれる方々がいるならば、たとえ直に教会とのつながりがなくても「味方」であり「サポーター」なのだ。実に心強いではないか。この言葉を伝承として重んじ、福音書に刻んだ信仰の多様性への理解に、わたしたちは学ぶところが大きい。「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」と続けて主イエスは語る。
 このように、宣教や教会のあり方は、わたしたちの自問自答の枠を超えて、より多彩な交わりからの声に耳を澄ませる必要がある。五〇年を重ねようとする泉北ニュータウン教会の交わりは、関わる人々を「内部」から支えてきただけに留まらず、むしろ交わりの「外部」からも支えられてきたのではないだろうか。「外部」から差し出された一杯の水に支えられてきた事実を無視しては、教会のあゆみの正当な検証は難しい。教会に集う人々を包み込む神の愛の包容力は、一杯の水から始まると言っても過言ではない。その水には、苦悩する者の涙が拭われる、神の国の交わりが映し出されている。「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。『あなたたちは、わたしの民でない』と言われたその場所で、彼らは生ける神の子と呼ばれる」とパウロは語る。神の選びは、このように多様性と豊かさに満ちており、わたしたちには気づきもしなかったところから、キリストに従う者を目覚めさせる。「神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からではなく、異邦人の中からも召し出してくださった」。このパウロの言葉をたどることで、わたしたちは、イエス・キリストが示した、実に壮大な展望を分かちあえるのではないだろうか。乾ききったこの時代の中での一杯の水への感謝。混乱と頽廃を極める世にあって、絶望の闇の扉を打ち砕くキリストとの出会いが、すでに教会の内外から開かれている。

2018年7月15日日曜日

2018年7月15日(日) 説教「信仰のないわたしをお助けください」 稲山聖修牧師

2018年7月15日
ローマの信徒への手紙9章19~20節
マルコによる福音書9章14節~29節
「信仰のないわたしをお助けください」
稲山聖修牧師

 本日の聖書の箇所ではイエス・キリストによる癒しの物語が記される。それは盲人の目を開く癒しの物語とはまた異なる。「一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた」。実はこの「一同」という言葉で示されるのはペトロとヤコブ、そしてヨハネの三名だけだ。それは9章の「山上の変容の物語」の続きであるからだ。下山してきた弟子とイエス・キリストは、人々の暮らす世界の只中へと入る。待つのは残りの弟子達と律法学者たちとの議論。そのさまは大勢の群衆の衆目の下にあった。言葉のぶつけ合いを耳にした大勢の群衆からは失望とやり場のない悲しみが窺える。「群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した」。不毛な議論に消耗した群衆が目前の事態を収めてくださるのはキリスト以外に他はないとの、切実な助けの声。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取憑かれて、ものが言えません」。この問いかけの中で、最も苦しんでいた当事者の声が記される。
イエス・キリストが問いかける中、明らかになったのは、第一には、霊に取憑かれた息子を助けて欲しいという父親の叫び。「霊が取憑いている」という新約聖書の表現に基づくならば、その霊を追い出せば問題は解決する。けれども、キリストの問いかけの前に明らかにされた第二の事柄は「この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした」という失意であった。弟子たちと律法学者の不毛な議論の発端はここにある。「本当の当事者が誰なのか、救いを求めている人が誰なのか」。イエス・キリストはこの当事者との関わりが絶たれた、関係断絶の世に対して大いに憤る。「なんと信仰のない時代なのか」。この箇所で「信仰」と呼ばれる事柄を「神との関わりの中で開かれる、大切にしなければならない人との関わり」と読み替えてみる。この憤りは言うまでもなく弟子たちや律法学者、それに大勢の群衆の中にいる野次馬意識の人々にも向けらている。けれども主イエスは憤りを「時代」に向ける。この社会のしくみ全体だ。イエス・キリストの人々に向けている愛は、絶えず忍耐を伴う。破れをそれとして受け入れる痛みの故に。
 イエス・キリストはさらに問う。「このようになったのは、いつごろからか」。答える父親の声に、キリストもまた当事者として耳を傾ける。こうなったのは、幼い頃からだ。今もその最中にいる。霊は息子を殺そうとして、何度も火の中水の中に投げ込んだ。おできになるならば、わたしどもを憐れんでお助けくださいという叫び。イエス・キリストは父親に三たび問う。「『できれば』と言うか。信じる者には、何でもできる」。やり直しの効かない場面でキリストは問いかける。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」。父親として何もできないという深い破れに、イエス・キリストの力があふれんばかりに注がれる。父親は自己救済を求めてはいない。息子の助けを乞う。父親は自分には一切執着せず、涙とともにキリストだけを見つめる。そしてイエス・キリストもまた発作に苦しむ息子を凝視する。父親からキリスト、キリストから長患いを抱えた息子。この眼差しこそが、霊を追い出せなかった弟子たちには欠けていたのではなかろうか。弟子たちが人目をはばかりながら語った「なぜわたしたちはあの霊を追い出せなかったのか」との台詞には、神の国どころか、苦しむ当事者の姿すらも目に入らない、弟子たちの態度が窺える。弟子たちは自分の能力の問題に帰してしまっているのだ。弟子たちの癒しのわざは自己完結のものでしかなく、したがって病を癒すに足る祈りを欠いていた、すなわち神との関わりを欠いていたのではないか。パウロの記す「どうしてわたしをこのように造ったのか」との問いには、自ら与えられた現状に対し、感謝に満ちた関わりを持ち得ない悲しみが記される。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」。諦めを破るいのちの叫びは祈りとなり、イエス・キリストの愛の中でわたしたちを新たにする。だからこそ、わたしたちは悲しむ人とともに破れを担う力を、キリストを通して神から授かるのである。

2018年7月8日日曜日

2018年7月8日(日) 説教「新しい扉は生きづらさの中で開く」 稲山聖修牧師

2018年7月8日
ローマの信徒への手紙9章14~18節
マルコによる福音書8章22節~26節

「新しい扉は生きづらさの中で開く」 
稲山聖修牧師

救い主に期待されたわざとして、目を開く癒しがある。このような神の癒しを受けた者が全て喜びに満ちた暮しへと変えられたわけではない。目が開かれた結果、物語が予定調和のように完結する様子ばかりが、福音書に記されているわけではない。これは、わたしたちが忘れてはいけないメッセージである。本日の聖書の箇所で、見えない人が癒される場所は村の中ではなくて外であり、目が完全に癒されたこの人に「この村に入ってはならない」とイエス・キリストは警鐘を鳴らす。この記事はわたしたちに何を問いかけるのか。
 実はこの物語の拡大版としても説き明かせる物語が『ヨハネによる福音書』に記されている。『ヨハネによる福音書』9章には、生まれながら視力を失っている物乞いと主イエスとの出会いが記される。弟子はこの物乞いを引き合いに出して「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか、それとも、両親ですか」と問答を始める。この箇所はイエス・キリストが「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神のわざがこの人を通して現れるためである」と語る有名な箇所ではある。しかしその後の顛末は実に複雑だ。「シロアム――『遣わされた者』の池に行って洗いなさい」との言葉通り、主イエスの唾でこねられ目に塗られた土を洗い、物乞いは見えるようになった。しかし人々は「目を癒されたこの人を知らない」と口々に語る。癒された物乞いも主イエスを直に見たわけではなく、主イエスを知らないという。この日はユダヤ教の安息日であった。このゆえに物語ではファリサイ派の人々が何が起きたのか調査をしに物乞いに対して詮議をする。この詮議では、この物乞いの両親まで呼び出されるが、両親は「本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう」と突き放してしまう。その理由は「ユダヤ人たちを恐れていたからである」。『ヨハネによる福音書』ではイエス・キリストとの出会いと触れあいが、当事者には喜ばしい出来事をもたらしたとしても、その喜びはキリストとの出会いによって縁を絶たれはしないかという恐怖に圧し潰されてしまう。ファリサイ派の追及が続く中で物乞いは事実を淡々と述べ続ける。「生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」。ファリサイ派の人々はその対応に立腹して彼を外に追い出した。

 目が見えるとは、世の倣いに沈む人々が気づかないで済む事柄、見ないで済む事柄が見えてしまい、その結果として険しい道へと敢えて歩みだすことを厭わない姿勢をもたらす特質としても理解できる。「これまでしたことがない」という言葉が、何もしないことへの理由になるのではなく、キリストに開かれた展望を通して外へと一歩踏み出してチャレンジしていく契機となる道筋でもある。
 聖書では、そのような、前へと進む原動力となる心のデリケートさや感じやすさを、決して病であるとは見なさない。むしろイエス・キリストに開かれた賜物としての眼力として意味づける。新しい扉は生きづらさの中で必ず開く。イエス・キリストがその扉をお開けくださるからだ。これは徹頭徹尾この世の話である。なぜなら、その扉はイエス・キリストを中心とする世の交わりへとつながっているからである。神の国の訪れはその交わりを完全なものにしてくださる。イエス・キリストは孤独や世から「病」と言われる中で苛まれるわたしたちに、そのように語りかけてくださる。

2018年7月1日日曜日

2018年7月1日(日) 説教「転換のときにあらわになるもの」稲山聖修牧師

2018年7月01日
ローマの信徒への手紙9章6~8節
マルコによる福音書 8章14節~21節
説教「転換のときにあらわになるもの」
稲山聖修牧師



 「弟子たちはパンをもってくるのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった」。ことの始まりは弟子の失策。弟子にとっての「パン」とは、字義通りパンそのもの。但し初代教会にとっては、この意味でのパンも疎かにしてはいけない。使徒言行録で「ギリシア語を話すユダヤ人」と「ヘブライ語を話すユダヤ人」との摩擦も日々の食事の分配をめぐる問題に由来した。この現状を踏まえながら、イエス・キリストはパンのもつ「交わり」という面を強調する。食卓を囲む交わり。「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」。それでは「ファリサイ派の人々のパン種」とは何か、そして「ヘロデのパン種」とは何か。『マルコによる福音書』の成立年代とは概ね紀元70年頃であるとされる。主の磔刑は紀元30年頃だという。
「ファリサイ派の人々のパン種」からは、主イエスが十字架で処刑され、復活し昇天してから五十年を前にして、教会の人々の中に戒律主義的に「人を裁く」あるいは「決めつける」だけに留まらず、教会のあゆみの中で新しい声を、伝統を引き合いにして消していく振る舞いが暗示される。
ヘロデのパン種」からは、組織の規模としては弱小であった初代教会が、神なき権力と繁栄の軒下で憩う様子が窺える。この二点が初代教会の成立五十年を前にして福音書の書き手が思い起したイエス・キリストの言葉だった。
「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデ王のパン種によく気をつけなさい」。この問いかけの深刻さは、弟子がこの問いかけにあまりにも鈍感であったところからも推し量ることができる。「まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか」と叱るキリストの声が響く。続く箇所では当該福音書の6章30節にある「五千人に五つのパンを割いた物語」、8章1節より始まる「四千人に七つのパンを裂いた物語」だ。五千人と食を分かち合った話は、パン屑をいれた籠の数が12。イスラエル12部族に示された、ユダヤ教から深く影響を受けていた群れに連なる、名も無い人々に向けられたメッセージだ。それはイスラエルの民を満たす内容だった。他方、四千人と食を分かち合った物語の前にはシリア・フェニキアの女性と主イエスの出会いが記される。四千人と食を分かち合った物語の舞台と背景は、異邦人の住まうところであった。だからこそパン屑を集めた籠は七つ。天地創造のわざにあたって必要とされた日数と同じ数が示される。すなわちこの箇所には、神の創造した、神の生み出された全てのいのちが満たされるとのメッセージが秘められる。五千人の食事の物語も、四千人の食事の物語も、どちらも軽んじられてはならない。
「ところで、神の言葉は決して効力を失ったわけではありません。イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならず、また、アブラハムの子孫だからといって、皆がそのこどもということにはならない」とパウロは語る。神の選びのミステリーが記される。イエス・キリストを主と仰ぐ、イスラエルの民と異邦人の混在した、奴隷とその主人の混在した、あるいは互いに争っていたはずの異邦人の混在した交わりこそ、最も祝福された交わりとして記される。その交わりは開かれているからこそ、絶えず新しい問いかけをわたしたちに投げかける。その問いかけこそが主なる神からの問いかけでもある。泉北ニュータウン教会創立50年を目前に控え、聖書からの問いかけをキリストの招きとして受けとめながら応え、日々新しくされながら、交わりを育んでいきたい。


2018年6月24日日曜日

2018年6月24日(日) 説教「人の正義の虚しさ、神の義の喜び」 稲山聖修牧師

2018年6月24日
ローマの信徒への手紙9章4~5節
マルコによる福音書 6章14節~29節
「人の正義の虚しさ、神の義の喜び」
稲山聖修牧師

クリスマス物語で描かれるヘロデ王の息子にあたる、ヘロデ・アンティパス。権力者として登り詰めるほど、猜疑心の虜になっていく人。そのような猜疑心に包まれていたのがヘロデの一族だった。対するは洗礼者ヨハネ。この両者の緊張関係は「戦い」という図で理解すべきではない。ヘロデと洗礼者ヨハネが何を表わすのかという問いが必要になる。洗礼者ヨハネは救い主の訪れを告げ、イエス・キリストは名もない人々に神の国の訪れを伝え、証しを立てた。
 アンティパスに洗礼者ヨハネの名を思い起させたのはイエス・キリストの名であった。その名が響く度毎に、ヘロデ王は恐れおののかざるを得なかった。「わたしが首を刎ねたあのヨハネが、生き返ったのだ」。17節からは『マルコによる福音書』の書き手によるところの、ヘロデ・アンティパスを虜にした恐怖のわけが記される。「実はヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻へロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた」。富と繁栄を追い求めて崩壊していく家族の姿がこの箇所には記される。

 洗礼者ヨハネは預言者として実直に王に語りかけた。「自分の兄弟の妻と結婚することは律法では赦されていない」。この誡めを語るヨハネの目にはアンティパスの抱えた破れがくっきりと映っていた。「そこでへロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである」。洗礼者ヨハネとへロディアの間で揺れるアンティパス。この揺れ動く振り子はどこにたどり着いたのか。宴会の中、へロディアの娘が踊る。その娘に「欲しいものがあれば何でも願い出なさい。お前にやろう」。「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と立てた誓い。伴侶のへロディアは娘にこう言わせる。「洗礼者ヨハネの首を」。「王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また、客の手前、少女の願いを退けたくはなかった」。これが洗礼者ヨハネの首を刎ねる理由だ。あまりにも萎縮し、惨めな理由。
 それではわたしたちはアンティパスを笑えるというのか。人の姿しか目に映らないならば、わたしたちはアンティパスと似たもの同士に違いない。他方で洗礼者ヨハネは、牢獄にありながら、なおも希望の中で生涯を全うした。その目には、まごうことなく救い主の姿があったのだ。洗礼ヨハネは、アンティパスと対立など一切してはいなかった。両者は各々全く異なる別の土俵に立っている。ヨハネが立つのはイエス・キリストが照らし出した、神の愛という光に照らし出された舞台である。「彼らはイスラエルの民。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのもの。先祖たちも彼らのもの、肉によればキリストも彼らから出た。キリストは万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン」。パウロはそのように語る。アーメンという言葉は、ヘブライ語のエメット(真理)に由来する言葉だ。アブラハムの神の真理を受けとめるには、神に謙るところから始まる。そしてそれは隣人に謙ることをも意味する。イエス・キリストがおられるから、わたしたちは己を誇ることなく、隣人を受容するというアンティパスとは別の扉が開かれる。先の見えないこの時代、わたしたちには聖書の御言葉が与えられている。それは、神の愛の力によって心ときめくときに神の言葉となる、大切なともしびなのだ。このともしびこそが、わたしたちの行く手を照らす光なのである。

2018年6月17日日曜日

2018年6月17日(日) 説教「強いられた旅の中でそそがれる神の力」 稲山聖修牧師

2018年6月17日
ローマの信徒への手紙9章1~3節
マルコによる福音書6章1節~13節
「強いられた旅の中でそそがれる神の力」

稲山聖修牧師
  イエス・キリストの里帰り。村人にとってイエスはマリアの家の家業の跡取りであり、さして敬う相手でもない。キリストはシナゴーグでその教えを語ったものの、村人は次々と声をあげる。それはイエス・キリストの教えの内容についてではない。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった智恵と、その手で行われるこのような奇跡は一体何か。この人は大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは一緒にここで住んでいるではないか」。村人は、イエスの幼い頃を知るからこそ詮索を始める。次の言葉からは村人のあまりにも下世話な関心を見てとれる。「この人は大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは一緒にここで住んで居るではないか」。家業が大工であり、学者の育つ環境の出ではなく、父親の知らない家の育ちのはずなのに、という妬みがある。このような詮索好きな村人を、物語の書き手は突き放す。「このように、人々はイエスに躓いた」。
 続くキリストの言葉も辛辣だ。「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」。なぜナザレの村人は、キリストの教えと証しに無頓着だったのか。それはキリストが何を語っても「あのマリアの倅のイエスの語っていることだ」とヴェールにくるみ、自分を変えようとはしない姿勢に理由がある。信仰が他者に開かれた態度を伴うわざとして理解されるなら、キリストが驚いた人々の不信仰さとは、イエス・キリストとの交わりに伴う変化を拒み続ける態度にあったのではないか。新たな世代との交わりにおいてわたしたちが変化を拒むならば、その態度は不信仰だとキリストに見なされるにちがいない。
 続く箇所では、ナザレで相手にされなかったイエス・キリストが、他の村々を巡回して教え、神の愛の証しを立てる様子が描かれる。キリストが直接伝道に関わるのではなく、弟子にその働きを委託する。主イエスは、一期一会の出会いを大切にし、金銭以上に尊い主なる神を信頼することによって、聖霊に託されたわざを成し遂げるために弟子たちを世に押し出す。この旅は次の厳しさをも併せ持つ。それは「あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい」。これはキリストが実際にナザレの村人に対して行ったわざであり毅然とした態度表明である。イエス・キリストに従う道は、決して物わかりのよい従順な姿勢を促すのではない。キリストと弟子の伝道の旅とは、結果としては故郷からの追放という苦い思いをともなう、強いられた旅でもあった。しかしその結末は「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教をした。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」との実りに繋がっていた。パウロは語る。「わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから話され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています」。本来ならメシアの使信に最も敏感なはずのイスラエルの民が、キリストのメッセージに耳を貸さない反応を示すことへの嘆きである。「足の裏の誇りを払い落とす」という態度はパウロのいう深い悲しみと無縁ではない。
 激動の時代にあって、わたしたち各々の暮らしだけでなく、教会もまた強いられた旅へと向かうこともあるだろう。安住の地は、わたしたちの後ろにあるものではなく前方にある。それは全ての涙が拭われる、神が支配し給う国である。「御国を来たらせ給え」との祈りは、聖書の文面から広がり、わたしたちと、例えばわたしたちの祖母・祖父の味わった難民のような、住まいや将来の展望の定まらない人々をともにつなぐ。さらには身近なところで一際暮らしに不安を覚えながら日々を生きる方々とをつなぐ。それはともに強いられた旅を歩む者に注がれる神の力による。嘆き節はわたしたちには似合わない。恵みが増し加わる旅路をキリストを仰ぎつつ、ともに進んでいこうではないか。