2018年10月14日日曜日

2018年10月14日(日) 説教「大きな挫折による新しい目覚め」稲山聖修牧師

2018年10月14日
「大きな挫折による新しい目覚め」
マルコによる福音書14章66節~72節
説教:稲山聖修牧師


「しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない」。破れに満ちた人間が、神に立てる誓いに潜む欺瞞を鋭く抉るキリストの教えがあるのにも拘らず、弟子は軽々に主イエスに誓う。ペトロの場合。『マルコによる福音書』14章29節以降の箇所では「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」とあり、31節の「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と主張する。これは結果としてキリストの前に立てた誓いとなっている。ペトロの誓いが砕かれるさまを、今朝の箇所では実に生々しく描く。
 「ペトロが下の中庭にいたとき、大祭司に仕える女中の一人が来て、ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。<あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた>。しかし、ペトロは打ち消して、<あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない>と言った」。女中の眼差しに、ペトロは堪えられない。雄鶏の声。女中は再び「この人は、あの人たちの仲間です」と言い出す。打ち消すペトロ。居合わせた人々は「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから」と連呼する。キリストとの関わりを拒絶するペトロの言葉から、より鮮やかにその関わりが浮かびあがる。呪いの言葉さえ口にしながらペトロは主イエスを知らないと誓う。キリストとの誓いを破るという存外の誓いを立てるという歪み。その歪みを告発するかのように、再び響く鶏の声。「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」というキリストの言葉を思い出し、ペトロは号泣する。   
 ペトロはイエス・キリストに立てた誓いを破ることを通してのみ、主イエスの教えを全身で受けとめるほかにはなかった。キリストへの誓いを破るわざ。この大きな挫折を、わたしたちはわが身のこととして受けとめきれるだろうのか。しかしながら、キリストを頭と仰ぐ教会の交わりは、この挫折を書き遺した。そこにはペトロを深く包むキリストの愛への確信があった。今朝の箇所には何者をも口を挿むことを赦されない信仰の養いが記されている。過ちによって深く傷つき、その傷を忘れられなくなるペトロの涙。これもまたパウロの記す「イエスの焼き印を身に帯びる」という、身近なところにある神の秘義ではないだろうか。「信仰の継承」とは本質的には教理を刷り込む類のものではない。むしろ立ち直れるかどうかが危ぶまれるほどの挫折を通して初めて与えられる目覚めにある。この目覚めと気づきなしには、わたしたちの信仰は頑ななあり方に留まる他にはないだろう。パウロは『ローマの信徒への手紙』11章25節以降に記す。「兄弟たち、自分を賢い者だとうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです。次のように書いてあるとおりです。<救う方がシオンから来て、ヤコブから不信心を遠ざける。これこそ、わたしが、彼らの罪を取り除くときに、彼らと結ぶわたしの契約である>」。神の契約と人の誓いとは根本的に異なる。救いの契約とは神自らがキリストを通して備えた「いのちの喜び」の約束でもある。多くの交わりと出会いの中で、救い主キリストは、いのちの喜びをわたしたちに贈ってくださった。これこそ、復活の出来事に包まれ、神の愛の力を注がれたペトロの、見違えるような使徒としての働きの原体験ではなかったか。今朝の箇所はわたしたちの高慢さ、あるいは人を裁いたり攻撃するような言動を打ち砕く神の言葉でもある。今朝は神学校日礼拝を行った。常に養いの中にあるわたしたち。この物語を深くふかく受けとめたい。


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