2018年10月21日日曜日

2018年10月21日(日) 説教「苦しみ、憤り、微笑むキリスト」稲山聖修牧師

2018年10月21日
説教「苦しみ、憤り、微笑むキリスト」
マタイによる福音書5章1節~12節
稲山聖修牧師

「山上の垂訓」。敵を愛しなさいとの教えと並び、世に広く知られている主イエスの教えだ。その教えを傾聴しながらも、わたしたちは主イエスの言葉に向き合った人々の姿をいつの間にか忘れる。教えの聴き手は、教えの宣べ伝えや病の癒しをきっかけに出会った、時にエルサレムの人々からは異邦の地と蔑まれた地に暮らす人々の群れ。この群れは主イエスの回りに「集った」のではなく「従った」と記される。この文章を踏まえると、名だたる弟子たちには群衆と違いがあるようには思えない。

「心の貧しい人は幸いである。天の国はその人たちのものである。悲しむ人は幸いである。その人たちは慰められる。柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は幸いである。その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は幸いである。その人たちは憐れみを受ける。平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたがより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」。この教えは一般的な常識や道徳の逆を行く。「心の貧しい人」とは謙遜どころか、経済的にも貧困の最中にある人々を指す。但し、世の倣いから落伍し、暮しに汲々とするほかない民は、決して単数形では記されない。キリストから「幸いだ」と示されるとき、困窮にある人々は分かち合いの中に置かれ、神の国のモデルとなる。「悲しむ者」も決して単数形では記されない。慰めによって全人的な支えを必ず受ける。「柔和な人々」、即ち暴力を前にして無力なままの人々にこそ、神は必ず居場所を与える。不正な世のあり方を前にしながら義憤に駆られるほかに道のない人々は、そのような憤りを覚える必要がないところを備えられる。憐れみ深い人々は、その憐れみの故に交わりから絶たれることはなく、心の清い人も、その繊細さ故に苦しみを知ることはない。平和(シャーローム)を実現する人々も幸いと呼ばれ、キリストからの祝福を授かる。世の只中に身を置き、ときにいのちすら奪われていく人々でさえ、神の祝福から決して退けられない。

イエス・キリストは自ら、極貧をを知り、涙を流し、なすすべなく立ち尽くす人々の只中に分け入り、迫害を恐れず神に備えられた道を辿り、痛みを分かち、生きづらさを抱えた人々とともに立ち、平和を喜び、人々に代わって世の不当な暴力を一身に背負われた。主イエスは「悟り」を開いたり、超然とした態度でわたしたちに向き合いはしない。「向き合う」というよりも、「ふとそばにいてくださる」というあり方。山上の垂訓はそのような姿を示す。このような慰めと祝福によって十全に肯定された「大勢の群衆」は、新しい役目を授かる。それは「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」との役割だ。自らを蔑むほかない者が、今や世の光としての輝きに包まれて、キリストの証しを立てるのだ。

 パウロは『ローマの信徒への手紙』12章1~2節で、パウロは「この世に倣うな」と記す。世の倣いを教会の交わりに持ち込んでは自己満足しがちなわたしたちには強烈な教えだ。それでは誰に倣うのか。それは誰に従うのかとの問いかけに等しい。キリストに従う道。この世と深く関わりながら、この世に倣うことなく歩んだのがイエス・キリストだ。その姿をおぼろでありながらも、映し出す群れこそがわたしたちである。病の中にも、悲しみの中にも、キリストはそばに立ち給う。