2018年10月28日日曜日

2018年10月28日(日) 説教「成果主義を超えていく道」稲山聖修牧師

2018年10月28日
「成果主義を超えていく道」
ルカによる福音書12章13節~21節
稲山聖修牧師


 ハロウィンは教会ともキリスト教とも本来は何のゆかりもない。けれどもその祭りが行われる時期と教会の暦は無関係ではない。今でいう諸聖人の日。中世の教会では、神とキリストのもとに地上での働きを祝福された諸々の聖人の憩う天国、現世、世の人々がその過ちのゆえに死後に償いを行う煉獄、そして大罪を犯した人々が凍りづけにされる地獄という四層の世界を伝えた。聖人の徳を教会を通して分けてもらい、そして少しでも煉獄での苦しみを短くしようとするクーポン券が献金の領収書の役目も果たしていた。それが贖宥状。死後の世界にまで功徳という成果が竿を差すという考えが常識だったが、実は聖書にはそんな考えはない。この発見が当時の欧州社会のあり方を覆す「宗教改革」につながった。

 成果主義という言葉は2018年現在の世の中でも底知れない不気味さを伴っているが、聖書に記される主イエスはどのような考えに立ったのか。『ルカによる福音書』の箇所では、ある相談事がキリストのもとに持ち込まれる。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」。この申出にキリストは厳しく応じる。「だれがわたしを、あながたの裁判官や調停人に任命したのか」。この相談事をきっかけにする教えは「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物をもっていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」。続く主イエスの譬え。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは<どうしよう。作物をしまっておく場所がない>と思い巡らしたが、やがて言った。<こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と>。しかし神は、<愚かなものよ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか>と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならないものはこの通りだ」。

 「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」と極めて厳重に指摘されるのは、わたしたちが何でも自分だけのものにしたがる傾向を帯びているところ。譬え話はその傾向を分かりやすく表現する。キリストは人間に「自分のものは自分のものなのだ!」と臆面も無く主張するさまを見抜く。そしてそのためにどのような手段も選ばない、血なまぐさい争いの姿を観る。

 それではどうすればよいのか。わたしたちが仮に経済的に富める立場に立つとするならば、続く「野の花・空の鳥の譬え」を真剣に味わいながら、その富を分かち合うわざを誠実に考えることだ。ただしこのわざは貧しい立場にある人のほうが踏み出しやすい世界かもしれない。なぜなら神が備えてくださった宝は、経済的な蓄えに限らず、時間、奉仕、思い、祈り、時には病や悲しみにも隠されているからだ。山上の説教で「貧しい人々は幸いだ」と語り、貧困や悲しみのどん底に置かれている人々に、交わりと分かち合いの豊かさを説いたのはイエス・キリストである。その分かち合いの喜びを、愚かな金持ちが知らなかったとするならば、それこそ不幸というものだ。本来はともにいるはずの畑を耕す労働者や家族の姿は譬え話のどこにも描かれない。成果主義の行き着く果ては、交わりの断絶に尽きる。パウロは『ローマの信徒への手紙』12章15節に記す。「喜ぶ人とともに喜び、泣く人とともに泣きなさい」。いったいこの言葉のどこに成果主義があるというのか。宗教改革者たちは、人はそのわざによって天国に居場所を与えられるという、かの時代の成果主義の壁を破った。イエス・キリストが生涯を通してお示しになったのは、わたしたちが天国へ行くのではなく、天国がわたしたちのもとに来るという出来事だ。その出来事を胸に刻みながら、世の成果主義とは別の道が示されていることを証ししたい。11月からアドベントやクリスマスに向けて、教会のわざはますます豊かになる。みなさまにはお疲れよりも主なる神の平安と喜びが先立つように願ってやみません。