2024年4月26日金曜日

2024年 4月28日(日) 礼拝 説教

         ー復活節第5主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「イエスはあなたを招いています」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』 15 章 18~26 節
(新約聖書  199  頁).

讃美=  301,512,21-29(Ⅰ.544).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 
【説教要旨】

 本日の『ヨハネによる福音書』では「迫害」という言葉が目立ちます。この福音書の成立は紀元90年ごろとされています。この時期に人々を脅かしたのは皇帝ネロによる迫害でした。それは紀元64年とされていますので、この福音書の成立からすると一世代ほど経ていると申してよいでしょう。ただし、世にある便宜を求めて教会に連なるなどと人々は考えなかったでしょう。むしろそのような便宜を越えた動機に突き動かされなければ、教会の交わりに加わるのは困難であったように思われます。「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから世はあなたがたを憎むのである」。ローマ帝国に迫害されるキリスト教徒の文学や絵画といったものはわたしたちにある種の覚悟と問いかけをもたらします。
 しかし実際に絵画通りのような仕方ですべてのキリスト教徒が社会から抹殺されていったかというと疑問が残ります。その出来事は却ってローマ帝国全体にキリスト教が浸透するきっかけとなり、紀元313年にはコンスタンティヌスという皇帝がキリスト教を公認するにいたります。それと対比されるのが日本におけるところの「隠れキリシタン」迫害といったものでした。遠藤周作氏による『沈黙』は、イタリアの映画監督ベルトリッチによって「ザ・サイレンス」として映画化され、イエズス会の宣教師が長崎奉行による残虐な迫害を前にして自らの使命に疑問をもつという筋書きになっています。映像の中ではこれでもか、これでもかという具合に迫害の凄まじさが時には正視できないほどグロテスクに描かれます。

 とはいえ文学や映像の場合は、遠藤周作の解釈やベルトリッチ監督の理解にかかっているのであり、実際のところはどうだったのかは分かりません。もちろんキリシタンが日本で保護されていた時代もありました。宣教は禁じられてはいても戦国大名自らの信仰は保護されていた時代もあります。大名自らがキリスト教であればその領地の民衆もまた教会の感化を受けます。島原の乱のような重大な武装蜂起が起きなかったならば幕府の弾圧は違ったものになったかもしれません。本日は徳川幕府の時代中期に来日したジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティというイタリア人宣教師に触れます。以前にも触れたことがありましたが、尋問にあたったのは当代瑞一の儒学者新井白石でした。新井白石は儒学者としての立場から復活信仰への理解はもちませんでしたが、シドッティの宣教への姿勢に深く感銘を覚え、尋問はいつしか対話へと変容し、本国への強制送還が最も適切であるとの判断が最善、次策が罪人扱いせず屋敷に幽閉するというものでした。ただその間シドッティは世話役の奉公人に洗礼を授けたことで罪に問われ、46歳で地下牢に没することとなります。二人の奉公人の行方は知れません。

 この名も無き奉公人の生涯がどうなったのかは知られないのですが、わたしたちはこの奉公人のあゆみに関心を向けたいのです。恐らくは文字も読めず、上役の命じるままに迷信じみたキリシタン信仰への恐怖をすり込まれていたはずなのに、いつの間にか感化を受けていたという二人です。身分制度のあった時代に、身分を問わない世界が広がっていました。それが神の言葉の拓いた世界だったというのであれば深く頷くところです。

 現代のわたしたちも様々な誘惑に晒されています。別段それは消費社会だとかレジャーとかといったことではありません。コスト・パフォーマンス、最近では「コスパ」と申します。タイム・パフォーマンス、これは「タイパ」とも呼ばれます。特に新型コロナウイルス以降の世界では、個々人が交わりから切り離され「自己責任」「コスパ」「タイパ」との言葉に誘われ、わたしたちは「待つ」という態度を忘れがちです。「待つ」という態度は見えない実りを確信する、まだ来ない相手の到着を信頼するところから始まります。「誰かのために」という動機づけとともに、その人自らの暮らしを支えていこうという祈りが、教会の深い交わりを育んでまいります。

迫害というものは、時には実に魅惑的に、かつわたしたちの暮らしを快適さに導きながら、わたしたちがイエス・キリストを選んだかのような錯覚をもたらします。実のところは社会の枠から阻害され、誰よりも深く寂しさを知っている者にこそ、イエス・キリストが招きの声をかけてくださるのではないでしょうか。わたしたちが誰かを迫害する者ではなく、痛み苦しむ者と連なるという信仰の原点を、本日の『聖書』の個所は問いかけています。わたしたちがその愚かさのゆえにイエス・キリストに招かれたという事実を胸に刻みたく存じます。

2024年4月17日水曜日

2024年 4月21日(日) 礼拝 説教

         ー復活節第4主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「愛を呼びかける招きに応えて」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』 21 章 15~19 節
(新約聖書  211 頁).

讃美=  21-505(Ⅰ.353),300,21-29(Ⅰ.544).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 炭火のあたたかさと充分に調理され、温められた魚とパンを漁の後にともに囲んだシモン・ペトロは、復活のイエス・キリストから「この人たち以上にわたしを愛しているか」と問われます。ペトロは「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えます。イエスは「わたしの小羊を飼いなさい」と答え、同じ問いをペトロに向け「わたしの羊の世話をしなさい」と答えます。さらに同様のやりとりは三度続き、ペトロはその問いかけに悲しみを覚えながら「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と答えます。イエスの愛は初めの二度は「アガパオー」、最後の言葉には「フィレオー」となる一方、ペトロは初めから終わりまで「フィレオー」でやりとりする他ありません。このように読んでまいりますと同じ「愛」と訳されてもイエス・キリストが呼びかける愛は神の愛、ペトロの愛は友情に示される愛を示す人間的な愛に過ぎないというボタンの掛け違いが指摘される場合もあります。しかし本日は三度目にはイエス・キリストの呼びかけがペトロの立場まで歩み寄り、神の愛が人間愛をつつむような仕方でイエス・キリストがペトロを招き、そしてペトロはその招きの中でイエス・キリストに繋がり、21章18節からの道へと導かれるとも受けとれます。「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、歳をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れていかれる」。もちろんこれは直接にはペトロの生涯を記してはいるものの、特に聖人と呼ばれるような働きをされた方でなくても、この言葉は身も心も人生も思うままに運ばないわたしたちには深く頷くところがあるというものです。ペトロを象徴とした「世」に復活のイエス・キリストがどのように介入されるのかを看て取れます。

 本日は釜ヶ崎で働いた内科医をご紹介します。その人は矢島祥子さんという方です。1975年3月30日にお生まれになったこの方は、群馬大学医学部入学後に日本キリスト教団高崎南教会で洗礼を受け、マザーテレサに会うためにコルカタまで足を運ばれました。研修期間を終えた後には淀川キリスト教病院に内科医として勤務、当時西成区鶴見橋にあった「くろかわ診療所」に転職、後に釜ヶ崎での医療ボランティアに励んでいた最中に行方不明、2009年11月16日に木津川の千本松渡船場でご遺体が発見されます。召されたご年齢は34歳。ただ不思議にも警察はこの事件の捜査を長期にわたり留保し後に自死と見なすのですが遺体には絞殺の際に見られる首の圧迫痕、こぶ等があり、何者かに拉致されて殺害されたとの疑いもあり、ご遺族の訴えにより再捜査が始まります。ただし警察での扱いは現在も不審死扱いのまま。2012年11月には公訴時効が成立するにいたりました。矢島祥子さんの名前を出すのは釜ヶ崎では長らく憚られていました。ご本人もそのような道筋で天に召されるとは決してお望みではなかったことでしょう。個人としての覚悟のみに基づいてはこのような仕方で生涯を全うするのは不可能です。誰かに招かれなければ不可能なあゆみがあります。たとえその招きの糸が切れそうになっていたとしても、矢島医師の眼差しは路上で苦しむその時代の人々に向けられ、そのような人々を食い物にするような者への義憤を覚えておられたことでしょう。そのお気持ちにはわたしたちも共鳴するところです。

 わたしたちは思い定まらぬ人の愛による交わりの中で活かされている者でもあります。他方でその人間的な愛の中に神の愛の介入を見出す瞬間があります。キリストとの出会い。それはわたしたちの兄弟姉妹、また仲間が誰かを大切に思い、あゆみ始めるときでもあります。またあゆみの方向を転換するときでもあります。特定の人々に対する貢献度を評価しその優劣を一律に決めるのではなく、主なる神から授かった唯一の交わりを尊ぶかどうかにかかっています。わたしたちの思いにはさまざまなかたちがあります。しかしいかなるかたちであるにせよ、わたしたちはそのかたちを尊び、招きの糸が切れそうになっているときでも、祈りのうちに、その関わりを忘れずにいるという関係性があります。そのつながりさえあれば、人はどのような言葉を受けたとしても身体が先に動いていくというものです。聖霊の導き、という言葉が決してオカルトでも荒唐無稽でもない証しです。

 教会とのつながりのなかで授かった夢が、なかなか実現しない焦りはみなさんにはないでしょうか。わたしはこの世界に導いてくださった牧師から病床からの電話で「そこが神様から遣わされた教会だ」と涙ながらに語られ、渡辺敏雄牧師からも期せずして同じ言葉を授かりました。同時にご批判やお叱りも受けます。しかし神の約束は世代を超え完成します。幻がその世代で実現しなくとも、聖霊が働き、広がり続ける交わりに感謝します。

2024年4月11日木曜日

2024年 4月14日(日) 礼拝 説教

        ー復活節第3主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「さあ、来て朝の食事をしなさい」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』 21 章 4~14 節
(新約聖書  211 頁).

讃美=  298,21-411,21-29.
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【説教要旨】
 『ヨハネによる福音書』はそれ以外の三大福音書を踏まえた黙想の中で描かれ、そしておもに異邦人社会、より具体的にはギリシア文化圏に属する人々に向けて記されていると言われています。もちろんそこには絵に描いたような古代ギリシア人ばかりではなく、その時代のユダヤ人とは異なる人々、ムーア(アフロアフリカ)系もいればラテン系もいる、ローマの市民もいれば奴隷もいるといった状況があります。だからあえてわざわざ人の子イエスを教師と呼ぶ際には「ラビ」と記し、その上で説明を加えもいたします。

 ただしその時代に主流となったギリシア的な考え方とは、日本の一部の仏教にも似ているかも知れませんが、わたしたちの具体的な身体をなすところの「肉」と、物事を考えたり心情的に捉えたりするところの「霊」を区別する傾向が強く、わたしたちの生活にフィットするかどうか分からない箇所があります。例えば「肉体は衰えていくが存在は変わらない」という話があるとします。「霊魂不滅」という考えもあります。それとしては尊重すべき見方なのかもしれません。しかしわたしたちにはあまりにも非日常過ぎる事柄に映ってしまう場合もあります。あまりにもその時代に適応しすぎるあまり、それが却ってわたしたちには届かないように思えるのです。

 しかし本日の箇所は、そのような『ヨハネによる福音書』全体に流れる物語の進み具合とはかなり異質な、むしろ異物のような印象さえ覚えます。弟子たちのうち、漁師であった者は元の生業へと帰っていきました。そこではついその昔に覚えた興奮めいた人の子イエスへの服従からは冷めた日乗を繰り返すだけでした。人の子イエスとの出会いも言葉もすべてが忘れ去れていく日乗。ティベリアス湖との名は、ローマ帝国皇帝の名。その圧力が一層加わった標であるとも言えます。しかし夜明けとともに岸辺には人の子イエスが姿を現わします。薄明かりの中、ぼんやりとしたその姿からの言葉が響きます。「食べ物があるか」「ありません」「舟の右側に網を打て」。このやりとりは復活したイエス・キリストが霊肉ともなる姿であったと示される箇所です。作業の都合から裸同然のペトロは「主だ」との言葉を聞いて上着をまとって湖に飛びこみます。これもまたペトロに恥じらいを感じさせるほど霊肉ともなるその存在が鮮やかであった証しです。他の弟子たちは大量の魚の網を引いて、舟で戻ってきました。そして岸にあがると「魚とパンを持ってきなさい」との声があり「朝の食事」をキリスト自ら振舞う物語となります。霊と肉を切り離すどこか、冷たいはずの日々のただ中に復活のイエス・キリストは立ち給うだけでなく「朝ご飯を食べなさい」と勧めてくださるのです。未明から早朝に及ぶ労働に冷えた身体を温もりにつつむイエス・キリスト、漁師という決してその時代には尊敬されはしなかった労働を十字架での出来事の後にも受けとめてくださるイエス・キリスト、不漁に終るかもしれなかった未明の働きに声をかけて漁師をリードしたイエス・キリストの姿がそこにありました。復活のキリストは弟子の全生活を祝福されたのです。

 弟子たちは人の子イエスが十字架で殺害され、その弾圧が自らにも及ぶのではないかという恐怖心に駆られて逃げていきました。しかし復活のイエス・キリストは事ここに至って、そのような弟子たちの態度をも肯定し、祝福されたのではないでしょうか。学校教育で個性的な生徒が虐めに遭うという話を聞きます。親とても自分の子が虐められているのかどうか気が気ではありません。人の群れには必ずこのような現象が起きるものです。このような虐めに際して幼少期に「立ち向かいなさい」とか「あなたにも問題がある」といった無節操な言葉ばかりが垂れ流されては苦しみ、心ならずも自死に及んだこどもたちも、もちろん大人も数知れません。けれどもイエス・キリストは、逃れの道を辿った弟子たちに、炭火を起こし朝の食事を備えてくださっています。それは逃れの道の肯定でもあり、そこにはこれまでの道とは異なる別の道を歩む力が秘められています。

 わたしたちもまた、新しい道をあゆむ時を迎えつつあります。コロナ禍明けの中で変貌した教会生活があります。教会の交わりからもたらされた「たけしろみんなの食堂」の活動も活発です。その働きは教会と重なりながら異なる質の輪でもあるからこそ盛況を迎えています。先週には「交わりの会」が行なわれ年齢を超えた交わりを育む機会を時間にかぎりがありながらも楽しむ時を備えられました。他方でイースター礼拝の後に行なった祝会で未だにクラスターの発生絶えずとの報告も聞き及ぶところです。今回の礼拝の後には定期教会総会を行ないます。いずれにしても温かな炭火と魚とパンのぬくもりをどのような新来会者の方々にも提供しうる交わりが育まれますよう祈ります。

2024年4月4日木曜日

2024年 4月7日(日) 礼拝 説教

        ー復活節第2主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「イエスの傷とあなたの傷を重ねて」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』 20 章 24~31 節
(新約聖書  210 頁).

讃美=  21-504,247,21-29.
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【説教要旨】
 英語に「IF」という言葉があります。日本語の文脈によっては「もしも~だったら、もしも~であれば」と訳される場合もあります。「あのときこうしておけばよかった」「あのときああしておけばよかった」という呟き。少年期や青年期であれば「あんたはいつもタラレバ」だねえと笑える話もあるでしょう。

 しかしこれが甚大な自然災害の被災者の方々や戦争の被害者、交通事故の被害者となれば笑えないどころか、一生消えない問いとしてことある毎に浮かんでやまない言葉となるでしょう。もしあのとき家族を逃がした後に消防団の呼び出しに応じていたら。もしもあのときに勤労奉仕にこどもを急かせていなかったら、もしもあのタイミングでブレーキを踏んでいさえすれば。福島県の浜通り南相馬市には相馬焼という焼き物がありましたが、その土はすべて放射性物質となったがために多くの窯元が廃業、元旦の能登半島の震災でも輪島塗の建物が崩壊し立ち直れなくなった工房が限りなくあります。

 『ヨハネによる福音書』で描かれるトマスの物語は、そのような深い「タラレバ」にあふれている箇所です。トマスはラザロとマルタ、そしてマリアの暮らすベタニアに人の子イエスが進もうとされたときに、動揺する弟子の中で「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」とまで仲間を鼓舞した人物です。ですからただ単に「疑い迷うトマス」ではありませんでした。しかしその熱い気持ちゆえにこそ、トマスはイエスの十字架での死に深く傷ついてしまうのです。古代ユダヤ教でも、現代のユダヤ教でも、救い主が十字架に釘打たれて処刑され、そして葬られるなどという事態はあってはなりません。もしそのようなことがあるならば、その時代の理解では人の子イエスは救い主ではなかったこととなります。死刑囚に連座する者として身柄を束縛されるよりも、その深い挫折と絶望にトマスは襲われていたのではなかったかと考えます。足の萎えた物乞いを立ちあがらせたわざはいったい何だったのか。盲人の目を開いたあのわざは何だったのか。五つのパンと二匹の魚で五千を超える人々を満たした祈りはどこへ行ったのか。十字架で処刑され、埋葬されるなどあってたまるかという深い傷を負っていたに違いありません。だからこそ他の弟子よりもトマスには時が必要だったのかもしれません。「一二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった」。それだけ傷が深かったとも読みとれる箇所です。「そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指に釘跡を入れてみなければ、また、この手を脇腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」。トマスにとって、イエスの手に打ち付けられた釘の跡、とどめを刺し、その生死を確かめるための槍の傷跡は、自らに打ち込まれた釘であり、槍の穂先でもあったように思えてなりません。わたしたちはこのような絶望に覆われたことがあったでしょうか。青いはずの空が鉛色に垂れ込めるような悲しみに覆われることがあったでしょうか。ひたすら日の当たらないところに閉じこもっていたいと思い詰めたことがあったでしょうか。しかし、復活されたイエス・キリストは、人が設けた全ての閉じこもりの鍵と扉を突き抜けてトマスの前に姿を現わします。「あなたがたに平和があるように」。口語訳では「安かれ」と訳される箇所です。外部から押し迫る弾圧のもたらす恐怖からの解放としても受けとめられますが、むしろ「あなたがたのすべての深い傷は癒された」実りとしての平安として受けとめてもよいでしょう。なぜなら弟子たちの一人として、十字架の出来事の傍観者ではなかったからです。全員がこの出来事の当事者であり、とりわけトマスの傷は深い者がありました。そのトマスにイエス・キリストは語りかけます。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。復活されたイエス・キリストは、この箇所でまたひとつの奇跡を起こしました。それは自暴自棄になっていたはずのトマスに自らの傷をふれさせることにより、トマス自らが抱えたところの、そのままでは癒しようのない傷を癒し、喜びに変えたというわざです。トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と答えます。トマスは傷の癒しを超えて新たに道を拓く力をイエス・キリストから授かったばかりか、主がともにいるとの確信を授かったのです。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と後の世のキリスト者、とりわけ生きづらさにあるキリスト者に向けて復活のキリストは語りかけます。「もしもキリストが復活されたなら」ではなく「すでにキリストは甦られた」のです。全ての絶望の終わりと、新しい光の道がそこにはあります。

2024年3月29日金曜日

2024年 3月31日(日) 礼拝 説教

      ー復活節第1主日礼拝ー

 ―イースター礼拝―

時間:10時30分~



説教=「復活のイエス・キリストと出会う」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』 20章11~17節
(新約聖書  192頁).

讃美=  146 (1.3.4), 265 (1.3),讃美ファイル3(1.2), 21-29.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

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【説教要旨】
 福音書の物語の中には、人の子イエスの筆頭弟子シモン・ペトロを始めとした弟子による「メシア告白」が記されます。それはイエス・キリストが対話の中で「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問うた折、ペトロが「あなたは、メシアです」と告白する場面で、人の子イエスは口外しないよう弟子たちを戒めるという具合で進んでまいります。しかしこの物語が記されている福音書三部作、つまりマルコ、マタイ、ルカによる福音書では、いずれにしてもこの告白はキリストが受ける苦難と十字架への道を前にして脆くも崩れ去っていきます。イエス・キリストが語る十字架と死、そして葬りと復活の出来事のうち、復活がどのような出来事であるのか分からず、結局はキリストの受難を目の当たりにしてある者は逃げ去り、ある者は無罪を訴えながらも深い後悔の中で自らを死に追いやります。どのように整った「信仰告白」を行なったところで、それがイエス・キリストの十字架の出来事と関わり、十字架を深く見つめていなければ歪みや欠けのあるものとなります。

 そのような弟子に比較しますと本日の箇所でのマリアの態度は実に素直です。「マリアは墓の外に立って泣いていた」とあります。そのわけは、墓地にあるイエスの埋葬場所で、遺体が姿を消してしまい、人の子イエスの亡骸が取り去られ、どこに置かれているか分からないからだと天使に答えるところにあります。マリアには墓が空になっている様子は信仰上の問いかけでも何でもなく、遺体が失くなりただただ悲しいというその事柄に尽きます。実にその場にわたしたちがいたとしても変わらない、大切な人のいのちだけではなく身体までも失った者の素直な反応です。そのようなマリアの後ろから復活したイエスは問いかけます。「婦人よ、なぜ泣いているのか、だれを捜しているのか」。マリアは復活したイエスだと気づかないまま「あなたがたあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」。マリアには十字架に架けられたイエスの身体が、死刑囚の身体でもあると忘れませんでした。もし墓地の管理人がそのことを知っており、何らかの仕方で遺体まで辱めるのであれば「わたしが引き取る」とまで申します。その時代の女性には見られない、極めて強い宣言であり態度です。自分はこの処刑された死刑囚の身内であると宣言するに等しい行為です。

 そのようなマリアの決意を知ってか、復活したイエスは「マリア」と声をかけます。その人だと気づいたマリアは「ラボニ」「先生!」と思わず叫ぶほかありませんでした。しかし不思議なことに復活したイエス・キリストは次のように語ります。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」。これはどういうことでしょうか。復活したイエス・キリストは、自らに気づいたマリアに対して底意地悪く殊更深い問いかけをしたのでしょうか。

 決してそうではないと、わたしはこの箇所を受けとめます。それは、これまでマリアとともにいた人の子イエスの「これまでの姿」と、これから人々が仰ぐところの、死にうち勝った復活のイエス・キリストの「これからの姿」は全く異なるというところ、つまり、死に勝利し復活したところのイエス・キリストは、身体に十字架で受けた傷を刻みながらも、怯える弟子たちと一層深い交わりを育んだ後に、父なる神のもとに上るとされるからです。今や人の子イエスは、人間として人々の傷みに寄添い、その時代人の数にも入れられなった人々とともに食卓を囲み、素性や特性すら多様なこどもたちを抱いて一人ずつ祝福されたその愛情が、今やわたしたちには見えない神の愛を証ししてきたと、神の愛の統治が直ちにわたしたちのもとに訪れるその日まで、父なる神のもとで証しし続けてまいります。その神の愛のもとにわたしたちはつつまれています。

 時は流れます。これまでのわたしたちとこれからのわたしたちは当然ながら異なります。あえて「変わらないなあ」と久しぶりの再会を喜ぶのも、時計の針が二度と元には戻らない厳粛さを知ればこそ、です。だからこそ、イエス・キリストはマリアに伝えます。「わたしの兄弟のところへ行ってこう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたのいのちである方、また、わたしの神であり、あなたがたの神であるところへわたしは上る』と」。マリアは素直に弟子のもとに出かけ、「わたしは主を見た」と語り、託された言葉を語ったとあります。

 力のありなしによって関係性が歪められ、傷つきいのちさえ粗末にされる世は、福音書の時代もわたしたちの時代も変わるところはありません。十字架のイエスを見つめつつ復活のキリストに従いながらこれからも神の愛を証ししていきましょう。喜び、祈り、主なる神に感謝を献げるあゆみが少しずつわたしたちを変えていきます。




2024年3月21日木曜日

2024年 3月24日(日) 礼拝 説教

      ー受難節第6主日礼拝ー

 ―棕櫚の主日礼拝―

時間:10時30分~



説教=「濡れ衣を破る復活の兆し」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』18章 33 ~ 40 節
(新約聖書  192頁).

讃美=  讃美ファイル 5,21-298,271B,21-27.
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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 イスカリオテのユダから大祭司の下役へ、大祭司の下役から大祭司へ、大祭司からピラトへと引き渡されたイエス・キリスト。誰からも罪に定められなかったからこそ、このようにたらい回しにされていき、本日の箇所にいたります。イエス・キリストの十字架にいたるまでの道は、確かに苦難の道であります。しかしその苦難は運命や定めといったものではなくて、地球規模の視点からすれば神の救いの約束の実現、わたしたち「赦された罪人」の実に偏狭な眼差しからすれば思いも寄らないほど残酷な出会いと仕打ちから生じた痛みです。大祭司アンナスのもとに連れていかれたイエスはその口の利き方が横柄だと下役から平手打ちの辱めを受けます。

「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか」とこの状況下にあってなおその時代の裁判の正当な手順に、自らの逮捕が沿っていないと語ります。この救い主の示される神の愛の真実さは、却って人の子イエスを罪に定めようとする側の分裂を明らかにします。
  
  すなわち本日の箇所の直前にはイエスをカイアファのところから総督ピラトのもとに連れていく人々は「自分では官邸に入らなかった」とあります。なぜでしょうか。それは異邦人であるピラトと接触することで、安息日に汚れてしまうことを恐れたからです。「汚れないで過越の食事を済ませるためであった」とある通りです。この箇所の直前にあるのが大祭司の下役と総督ピラトとの押し問答で「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」との言葉ですがこれは偽りで、人の子イエスには『律法』による過ちが一切見いだせず結論ありきの裁判、もっといえばお互いがお互いを功利的に利用しようとする歯車に人の子イエスが架けられようとしている様子が描かれているのです。人の子イエスとピラトとの対話は、人の子イエスが無罪であることを却って明らかにいたします。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか」。「わたしの国は、この世には属していない」。人の子イエスの語る神の愛による統治は、世にある政治に縛られるものではないとはっきり語ります。裏を返せば、ローマ帝国との競合関係にはないとの意味となり、十字架刑の適応外になります。ピラトはこのような仕方で救い主の処刑を望む者に陥れられたと知ります。ですからピラトには、イエス・キリストとの問答は計り知れないほどの恐怖となったことでしょう。ローマ帝国の代官が裁きを誤って騒動を起こせば皇帝から罰せられるからです。恐怖に基づく交わり、またお互いを利用しようとする交わりはこのように解体されバラバラにされてまいります。なぜなら互いに尊敬の念がまるでないからです。「真理とは何か」と問いかけるのがピラトにできる限りの言葉でした。

 その後のピラトの対応は、イエス・キリストとの間になるべく責任が生じないように行動することでした。つまり過越の祭の慣例に則して、集まった群衆に死刑囚の恩赦を申し出ます。しかし少なくともピラトはこう語っているのです。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない」。これは事実上総督としての責任を丸投げにする、職務放棄のわざです。その結果、まことに恣意的に集められた民衆によって十字架刑が決定されてしまいます。相手への尊敬を欠いた神なき交わりが何をもたらすのか、キリストの苦難はその事実をあぶり出すにいたりました。

 年度末を迎え、知る限りではありますが人と人との関わりが絶たれていく現状に悲しみを覚える機会も増えてまいります。ことのほか喫緊では職員自ら密なるチームワークで臨まなければなし得ないはずの教育や保育、福祉の現場にも組織の拡大と儲けを第一とした、人を人とも扱わない管理者の態度が目立ちます。そしていつも濡れ衣を着せられるのは現場で当事者とともに涙と喜びをともにしてきた職員であったり、あるいは働き手であったりという具合です。相手を尊ぶ交わりが、そうでない暴力によって引き裂かれていく不条理がそこにはあります。そのような組織の中では、異議を唱える者には排除の刃が向けられます。しかしわたしたちの交わり、そしてわたしたちの連なる働きの場はそうであってはならず、またそうなるならば必ず神の愛の力が臨むことでしょう。神は正しい者のかたわらにいるだけでありません。人間は正しさを振りかざして弱い者を虐げられもするからです。主なる神は虐げられた者の側に立つ者、「弁護する者」であり、それは人がこしらえあげた濡れ衣を引き裂き、新しい道を必ず備えます。イエス・キリストの苦難は、そのような濡れ衣と枷を万人の知るところとし、そして人々に自らの苦しみと引き換えに解放の力を注ぎ込みます。イエス・キリストとともにある交わりには、お互いに頼りとしながら、かけがえのない特性を喜び、痛みをともにしタラントを活かす道が備えられています。

2024年3月14日木曜日

2024年 3月17日(日) 礼拝 説教

     ー受難節第5主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「一粒の麦が地に落ちるとき」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』12章20~26節
(新約聖書  192頁).

讃美=  243,21-466,21-27.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

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【説教要旨】
 『旧約聖書』が成立する遙か前、紀元前ではおよそ一万年新石器時代、人類に贈られた穀物は野生の麦であったと申します。最初はその麦を採取し、石ですり潰して種のないパンを作っては食していましたが、次第に畑を耕しそこに水をひき、農耕という仕方で麦の栽培を人工的に行なうようになりました。貨幣のない時代、収穫された穀物の量によって都市の力は決定づけられました。羊などの家畜と異なり、穀物は長期の保存と備蓄に耐えたからです。そこではどれほどの麦が収穫できるかという「量」を競い合うこととなり、歳代で一粒の麦から七十粒近くが収穫できたとのこと。ローマ帝国の世では一粒あたり五粒の収穫だったことを考えると驚異的でした。人の子イエスの時代に近づくにあたり一粒あたりの収穫は低下し、身近ながらも貴重な食糧として扱われました。

 そのように殆どの人々が「量」に注目するところの穀物のはずですが、『ヨハネによる福音書』のイエス・キリストの眼差しは異なります。収穫量に嬉々とする人々の中、他ならぬ「一粒の麦」の行方に目を注ぎながら、ギリシア人に福音の教えを説くのです。ギリシア人でもユダヤ人でもその日の食糧を確保するためには相応しい汗を流す、または時間を献げなくてはなりません。民の文化の垣根を超える対話の土台として「一粒の麦」を用いた譬え話は、人の子イエスに会いたいと切に願うギリシア人にも深く響いたことでしょう。

 すでにイエスはエルサレムの城壁の外で暮らす人々に迎えられ、聖なる都と謳われる都市へと入りました。暮らす人々は城壁の外の村人たちとは暮らしの水準は全く異なります。一粒の麦の行く末を凝視するのは貧しさに喘ぐ貧農であったことでしょう。袋に入った麦は備蓄できますが、一度蒔いてしまえば元には戻せません。その先がどうなるかは神に委ねる他はなく、未来にどのような収穫が待つのかは誰にも分からないのです。後もう少しというところで日照りに見舞われたり、病害虫におかされたりというリスクは変わりません。イエス・キリストは神に委ねて歩むその生き方を、一粒の麦に重ねます。

 近現代の日本では、人生はその人個人の自己責任のもと、その人自らに「所有」され、そして死によって完結するものだと見なされてきました。「その人がどのように生きようとそれはその人の自由だ」との言葉は現在七十歳代を超える人々の間でも一定の共通認識となっています。しかしそのような理解は本当のところ正しいのでしょうか。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」とは、より具体的に言えば「一粒の麦は蒔かなければそのまま、しかしもしあなたの手元を離れて蒔かれたのであれば多くの実りを授かる」とも解釈できます。そうなると25節以下の「自分のいのちを愛する者」とは「自分のいのちに執着する者」となり、「自分のいのちを憎む者」とは「自らの執着を一旦放念し、主なる神に委ねられる者」という理解も可能です。同じような譬え話は「タラントンの譬え話」としても描かれますが、要するに人生の自己決定権を表向き制約することにより「誰がために用いられたのか」という道筋へとわたしたちを招き、人生の質をより豊かなものとする道を、イエス・キリストは説いていることにもなります。

 イエス・キリストの十字架への苦難の道は、そのような「誰がために用いられたのか」という道筋の中で、最も人々から遠ざけられる生き方でもあります。人の子イエス自ら「苦い杯をとりのけてください」と呼んだ生涯です。しかしそのゲツセマネでの祈りの中で、その葛藤の中から「御心に適うことが行なわれますように」と委ねきれた人でもありました。イエス・キリストの人生は、わたしたちが目指すところの「自己実現」からは最も遠いところにあります。

 「どのように生きようとそれはその人の自由」という考え方が行き先を見失った結果、わたしたちは仕えるべき人々やテーマといったものを見失うにいたりました。その結果、外見上は豊かであっても行なわれる育児放棄や介護放棄、さらには自己自身の生き方の放棄といった事態が生じるにいたりました。そのような事件を「よくあることとして受けとめる」のか、それとも「深く胸を痛める」のかという分岐点にわたしたちは常に立たされています。イエス・キリストはどのような土地であっても種籾としての麦を撒くことを呼びかけ続けます。いのちを物心両面にわたって支えるいのちの結晶としての麦。その麦をどのように用いるのかによって、わたしたちの交わりの行方が定まります。復活によって裏づけられる、決して無駄には終らない生き方がそこにあるように思えてなりません。一粒の麦を粗末にせず、主なる神に委ねていくあゆみを、キリストの苦難は切り拓きます。

2024年3月7日木曜日

2024年 3月10日(日) 礼拝 説教

      ー受難節第4主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「非効率の中に潜むいのちの希望の光」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』12章1~8節
(新約聖書  191頁).

讃美=  511,21-309,21-27.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

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【説教要旨】
  コロナ禍以降に急速に進んだIT社会。今や国際会議ですらリモート技術で行なわれ、電子通貨も普及を見せ、スマートフォンと銀行の口座が直結されて買い物もできるようになりました。天井からぶら下げたザルにあるお金で会計を済ませた時代とは全く異なり、実にスマートな精算システムが導入されて久しいところ。20世紀なら宇宙船に搭載するレベルのIT技術が、名刺入れほどの大きさの「携帯電話」には凝縮されています。仮想現実システムも生成型AI(人工知能)も身近になりました。

 しかしIT技術がどのように発達したとしても再現も通信もできない感覚があります。それは触覚と味覚と嗅覚です。五感のうち視聴覚はデジタル化できても、それ以外の感覚は再現できないままです。

 本日の場面では人の子イエスがマルタとマリアの姉妹のうち、妹マリアからナルドの香油で足を拭われるという場面です。『マルコによる福音書』と『マタイによる福音書』では頭であり、香油を注ぐ女性の振る舞いに憤慨するのは『マルコによる福音書』の場合は「そこにいた人の何人か」、『マタイによる福音書』では「弟子たち」となります。いずれにしても人の子イエスに近しい人物がそこにおり女性に憤慨したとの理解は変わりません。『ヨハネによる福音書』でこの場面は口を挟む人物が「イスカリオテのユダ」とされるところにその重点もまた置かれています。

 この箇所でイスカリオテのユダは目利きとしての才能を発揮しています。それは注がれたこの香油の値打ちを「三百デナリオン」と瞬時に見抜いている態度から分かります。しかし人の子イエスは「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それをとって置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない」。最初に記されたとされる『マルコによる福音書』では「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか」との呟きさえ聞こえます。しかし果たして、イエス・キリストとの関わりの中で無駄なものなどあるというのでしょうか。わたしたちは神から様々な賜物をイエス・キリストとの関わりの中で発見します。そのどれ一つとして「無駄なもの」などありません。人の子イエスはすでに十字架への歩みを始めています。十字架刑で処刑された者は一般には弔われず、野晒しにされました。処刑場は鳥獣の餌としてあたりに骨が転がっていたところから「ゴルゴダ(されこうべ:元来は仏教でお骨を『舎利』と呼んだ語から『舎利頭』と記される)」と呼ばれていました。しかしそのような人々のただ中から、自らの社会的立場をなげうちその遺体をひきとったアリマタヤのヨセフが描かれます。救い主イエス・キリストのドラマは死によって決して終りません。

 思うにイスカリオテのユダは今を生きるわたしたちと同じ課題を抱えていたのではないでしょうか。それはすべてを効率的に考え、無駄なく対応するという姿勢です。ひょっとしたら注がれた香油に表現される経済価値を、イエス・キリストの道とはかけ離れた自分本位の善意で用いようとしたのかも知れません。しかしこの姿勢にイスカリオテのユダの課題があったのであり、わたしたちの課題も重なります。それはわたしたちが神なき善意の中で争い、神なき善意の中で人を苦しめ、神なき善意の中で傲慢になるというあり方です。世にあるあらゆる差別や排除も戦争も殆どが善意の名の下で行なわれます。それが神のもとから略奪された善悪の知識の実であることに誰も気づかないのです。便利さの美名に隠れる効率性に選別と排除が隠されている現実を、わたしたちはそのようなものだと知りつつ、神との関わりの中で受けとめなくてはなりません。あくまでもすべては授かるものであって、わが意のままに操作できるものではないのです。

 イエス・キリストはゲツセマネという場所で身柄を拘束される前に苦しみの中で祈りを献げました。それは『マルコによる福音書』では「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取除けてください」との祈りでした。しかしそのような苦しみの中で「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行なわれますように」と続けます。イエス・キリストを包んだナルドの香油は、暗闇の中でそのような苦しみに喘ぐ人の子イエスの姿を、いのちの光のなかでわたしたちに示します。わたしたちの味わう不条理さがあるとするならば、イエス・キリストがすでにわたしたちに成り代わって神のご計画のもとにわたしたちを引き戻してくださります。それは冷たい運命などという歯車ではなく、どのようないのちにも分かちあわれ、備えられる希望の光でもあります。わたしのものは「わたしのもの」、あなたの時間も「わたしのもの」という独占欲で占められているのではなく、わたしのもの・わたしたちのものはすでに主なる神に献げられている世界でもあります。

2024年3月1日金曜日

2024年 3月3日(日) 礼拝 説教

     ー受難節第3主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「一二人の弟子の一人であるユダ」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』6章60~71節
(新約聖書  177頁).

讃美=  258,21-575,21-27.
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【説教要旨】
 多くの弟子が離れ去る中で「あなたがたも離れて行きたいか」と問われる中、人の子イエスのもとに残ったのは一二人の弟子でした。『使徒言行録』を参考にいたしますと、この時点で一二弟子とはペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダ、そしてイスカリオテのユダであるとされます。しかしとりわけイスカリオテのユダはその中でも異彩を放っています。「裏切り者」「悪魔」というラベリングが福音書の解釈に限らず『聖書』のテキスト自体にも明かだからです。教会の交わりはおろか世のキリスト教文化圏でも「あなたはユダみたいな人ですね」などと言うならばたちまち険悪な雰囲気になります。キリスト教の価値観と葛藤し続けた近代日本文学の歴史の中で太宰治は『駆込訴へ』という作品を「裏切り者イスカリオテのユダの独白」という構成で著わしています。

 しかしながら福音書を先入観に基づいてではなく、丁寧に読み解いてまいりますとまた別のユダの姿が現われます。『マタイによる福音書』27章1~5節では全ての弟子が恐怖のあまり身を隠す中「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と人の子イエスをローマ総督ピラトのもとに送った裁判の誤りと人の子イエスの無罪を証言します。また、イスカリオテのユダが自ら命を絶った態度をその罪深さに数える人もおります。『聖書』全体を見渡して自ら命を絶つ者としてはユダの他にヘブライ統一王国の初代王サウルがおります。このサウル王もユダもその死に方によって罪深さが際立たせられるところはありません。自死が罪だとは『聖書』では規定されてはいません。むしろ後の教会が世俗権力と一体化する中で過酷な労働を強いられた農奴や奴隷を確保するための「方便」としての教説に源があると理解した方がより適切かと存じます。

 それでは『聖書』はイスカリオテのユダを「裏切り」だと説く根拠は何でしょうか。これは渡辺敏雄牧師との読書会で知ったことですが「裏切る」とは本来ギリシア語では「パラドゥーナイ」とされ、「裏切る」よりもインパクトの弱い「引き渡す・委ねる」が適切な訳であるとのことでした。さらにはイスカリオテのユダには他の弟子にはない人の子イエスへの近さをもっていることが、祭司長とその下役らへの合図である「接吻」から分かります。他の弟子に人の子イエスとの挨拶で接吻を用いた人物はおりません。イスカリオテのユダの特徴を福音書の受難物語の中で整理しますと次のようになります。①人の子イエスは、弟子と使徒のうちの一人によって、使徒の中から祭司長たちに引き渡されました。これはイスカリオテのユダによる「引き渡し」に始まります。②イスカリオテのユダはイエスを祭司長たちに引き渡し、祭司長たちはイエスを総督ピラトという異邦人へと引き渡します。そしてピラトは人の子イエスを十字架へと引き渡します。③イスカリオテのユダの「引き渡し」は最初かつ最小の局面ですが、連続する「引き渡し」全体のわざの最初という意味ではユダの行為は決定的です。この三点を踏まえますと、イスカリオテのユダはイエスの十字架での死と復活にいたる道筋の途上で、たまたまそこに居合わせたような人物ではなく、神の領域に属するイエス・キリストとこの世、十二使徒とこの世との関係に深く負い目のある者とされたことが分かります。『ヨハネによる福音書』で人の子イエスから悪魔呼ばわりされたイスカリオテのユダですが、イエス・キリストの十字架と死、そして復活の道に関わる弟子としてはペトロ以上に個性的であると捉えられます。それではイスカリオテのユダもまた神の愛につつまれ、救われたのかどうか。この問いが気になりますが、それは神の国の訪れを見なければ何とも言えません。その「沈黙」が『聖書』を様々な決めつけや自分勝手な利用から遠ざけるためには重要だと言えます。しかし後の『使徒言行録』で応急措置的な対応の後に出現し、姿を消す使徒マティアに代わって活躍した使徒パウロの異邦人伝道に賭けた情熱を踏まえるならば、パウロが律法学者であったころに名乗っていたサウロという名とユダは決して無関係ではありません。律法学者サウロはユダ以上に罪深い者でした。同時に『旧約聖書』のサウル王も神の恵みのもとで神との関わりを見失い、その弱さと罪深さによって却って神の栄光を世に顕した者として名を刻まれています。

「一二使徒の一人」として他の使徒の「罪による連帯責任」を負ったイスカリオテのユダ。そこに働いた神の秘められた計画は、パウロは救い主イエス・キリストの復活を語り、それは文化の垣根を越えた異邦人伝道へとつながり、世界へと広がりました。幾度も蔑まれてきたイスカリオテのユダもまた、神に用いられた使徒の一人であった事実を深く胸に留めましょう。その記憶の反復がキリストとの関係というわたしたちの信仰を確かにします。


2024年2月22日木曜日

2024年 2月25日(日) 礼拝 説教

    ー受難節第2主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「もっと素直になれる生き方」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』9章35~41節
(新約聖書  186頁).

讃美=  90,21-463,21-29.
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【説教要旨】
 人の子イエスの生涯の描写の仕方がよく似ている『マルコによる福音書』『マタイによる福音書』『ルカによる福音書』を「共観福音書」、救い主の生涯の理解に共通点が多いことからそのように呼ばれます。「共なる理解」という意味で「観察」の「観」を用います。この三部の福音書に描かれる奇跡物語の特徴とは、病に苦しんでいる人がおり、その人を人の子イエスが癒し、癒された人はその喜びを他の人々に伝えていくという、シンプルさにあります。どうしようもない苦難にある人がおり、イエス・キリストと出会い、その苦難が癒され、喜びに溢れる、という物語の展開はもはや王道も呼ぶべき順序を備えています。たとえその場で律法学者がイエス・キリストの振る舞いを咎め立てしたところで、議論はイエスとの間で行なわれ、癒された人そのものや家族によからぬ事態が及ぶという道筋は概して浮かんでまいりません。

 しかしながら『ヨハネによる福音書』の場合、人の子イエスが癒しのわざを行ないますと、癒された人はともかく、癒された側の家族や係累にはさまざまな動揺がもたらされます。それは律法学者の追求が癒しを受けた人のみならず親族にも及ぶことに原因があり、癒された者も喜びにつつまれるというよりも深い戸惑いをくぐり抜け、ようやく病の回復を喜ぶにいたるという具合です。エルサレムにあるベトザタの池のほとりにいた三十八年もの間病に苦しんでいた人物の箇所にも言えますが、本日の『聖書』の記事はそもそも弟子が通りすがりに「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」という実に浅薄な問いかけを人の子イエスに発したところから始まりました。「神のわざがこの人に現われるためだ」と答えた後にイエスは、地面に唾をし土をこね、その人の目に塗り、盲人が「シロアムの池に行って洗いなさい」との言葉に従ったところで見えるようになったとの物語に発端があります。この癒されたはずの盲人はその後ファリサイ派のもとに連れていかれ、家族にも追及の手が及びます。両親は「本人に尋ねてくれ、もう大人だから」というばかりで、自分とは関わりのない話だと言わんばかりの態度です。目を開かれた人は、イエス・キリストとの出会いによって単純に幸せになるどころか、世の中の見なくても済んだところを見つめなくてはならなくなり、遂には「あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずだ」と答えた理由によって「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようとするのか」と会堂から追い出されます。みなさん、想像してみてください。何らかの強制力により礼拝堂から排除される身となることを。礼拝共同体からの排除は生活共同体からの排除を意味します。

 このようにして目を開かれた人は、盲人であった時に味わった様々な苦労に劣らず、様々な事柄を「見なくてはならなくなり」、追放されていくという憂き目を味わう羽目に陥りました。家族も生活のし辛さへの恐怖からこの人を見捨ててしまいました。世間的には、もともと盲人であったこの人は、イエス・キリストに目を開かれることによってすべてを失ってしまった愚かな人であるとも言えるでしょう。しかしただ一点、そのような一般論と次元を画するのは、イエス・キリストとの関わりが人々の愚かさの中で際立ち、研ぎ澄まされたところにあります。その意味では目を癒されながらも排除されたこの人は、実に素直な関わりを、多くの揺らぎと複雑な環境の中でイエス・キリストとの間に授かったと言えるでしょう。

 「そんなことを言うけれども」とわたしたちは誰かに訴えたくなるときがあります。説教に耳を傾けるときばかりではなく『聖書』を味わうときにも、日々の暮らしの中でも。けれども、そのようなこだわりの底が抜けたときに気づくイエス・キリストの出会いがあるのではないでしょうか。イエス・キリストとの出会いが、喜びどころか却ってわたしたちの足枷となる場合、わたしたちは暮らしやあり方を、わたしたちを必要とする何者かの眼差しから顧みる祈りを献げてみましょう。わたしたちがこの場に集うその背後にはさまざまな理由があるに違いありません。けれどもその理由一つひとつに神の愛が隠されていたとするならば、わたしたちは自分が駄目だ、自分はこうなのだと己を枠にはめる必要はなくなり、もっと身近なところにある課題、例えば身体の具合を確かめるといった事柄に気づかされます、それこそわたしたちが各々の重荷を主に委ねて、もっと素直になれる生き方ではないでしょうか。主なる神に素直な生き方とは、必ずイエス・キリストに繋がる生き方でもあります。

 暮らしの思い煩いの中で、キリストへの素直さを尊びつつ、新しく各々大切なライフステージを始めましょう。

2024年2月16日金曜日

2024年 2月18日(日) 礼拝 説教

    ー受難節第1主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「分かちあう生き方を授かったイエス」 
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』4 章 1 ~ 11 節
(新約聖書  4頁).

讃美=  519,21-306,21-29.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

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【説教要旨】
 受難節を迎えて、わたしたちが開く『聖書』は『マタイによる福音書』の「荒れ野での誘惑」での記事です。洗礼者ヨハネとともにいるなかで神の愛である聖霊を注がれたイエスは文字通りキリストとしてのあゆみを始めます。その最中、初めに出会うのは弟子でも苦しむ人々でもなく「サタナス」または「ディアボロス」と呼ばれる悪魔からの試みです。そして荒れ野であたかもイエスにつきまとう悪魔の言葉は、奇しくもわたしたちの日々の暮らしに深く根付いているところに背筋が冷たくなります。クリスマス物語に始まる福音書だけに書き記されているところからも、その時代の教会の一般的な課題として避けて通れなかった課題を見ることができるというものです。言葉によって誘惑するところからしても何ら超常的な存在では無いことが分かります。

 悪魔がイエスに向けたのは、まず「食」に関わる誘惑。極限まで空腹を覚えたイエスに悪魔は「石をパンになるよう命じたらどうか」と勧めます。翻訳の妙か「石をパンに変えてみろ」とは言わない遠回しの言葉がイエスの首をじわじわと絞めていくように映ります。人の子イエスは自らの言葉ではなく、『旧約聖書』の言葉を用いて悪魔に向きあいます。則ち『申命記』8章3節を「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つひとつの言葉で生きる」です。まだつきまといを止めない悪魔はイエスをエルサレムの神殿の屋根の端に立たせて『詩編』91編11~12節を引用して「飛び降りたらどうだ」と勧めます。悪魔は『聖書』を用いて自説の正当化だけでなく、人の子イエスに神を試させようとします。『聖書』の言葉を用いた自説の正当化はカルト宗教や国家首脳の国民向けテレビ演説にもよく見られる危険な振る舞いです。しかしわたしたちはこの「試みる」という重大性を見逃しがちです。なぜ重大なのかと言えば、それは神を疑うことを勧めており、わたしたちの日々にも充分あり得るところだからです。人の子イエスはこの試みそのものを『申命記』6章16節の引用で打ち砕きます。度重なる『聖書』の言葉の引用合戦にイエスはまさしく首の皮一枚で勝利していきます。

 そして遂に悪魔は「非常に高い山」に連れていき「世の全ての国々とその繁栄ぶり」を見せて「自分にひれ伏せ、そうすればお前はこの繁栄全てを思いのままに操り、自分の望み通りの人生を過ごすことができる」と語りかけます。『旧約聖書』ではサウル・ダビデ・ソロモンという名君をヘブライ人は王として立てたと書き記します。しかし王の晩年はいずれもこの誘惑から袂を分かつことはできませんでした。それでは人の子イエスはどのように向きあったというのでしょうか。『申命記』6章13節を引用して「ただ主に仕えよ」と語るのです。

 ところで、わたしたちはこの箇所でイエスが悪魔の誘惑一つひとつに向きあう場面ばかりに気をとられがちになるのですが、物語全体を見渡しますと、悪魔が人の子イエスに向かって囁く言葉一つひとつには、実は全く「分かちあう」「「出会う」「交わる」といった、この物語の後にイエスに出会った人々の味わう喜びが一切合切欠けている特徴に気づきます。先ほども申しましたがイエス・キリストも首の皮一枚で悪魔の誘惑に辛うじて打ち勝ちました。なぜ「辛うじて」打ち勝ったといえるのでしょうか。それは人の子イエスは、自ら決して望んでこの荒れ野の苦難を味わったわけではないからです。確かに『マタイによる福音書』では「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」とあります。しかし他方で『ルカによる福音書』では「“霊”によって引き回され」と記されています。人の子イエスは修行によって魂のステイタスをあげるために荒れ野に赴いたのでなく、神の霊に導かれ、自ら思いも寄らない仕方で荒れ野へと押し出されていく姿がそこにはあります。イエス・キリスト自らにもこの状況は人としては予測不可能であったことでしょう。そうでなければ「誘惑」など成立しないからです。しかしイエス・キリストには神の愛の力である「聖霊」がともにおり、主なる神もまたともにおられました。だからこそ、悪魔の誘惑の軸となる「独占」「独り占め」「私物化」から自由となり、世にある自らの生涯をも人々とともに分かちあう道を選んだのです。

 分刻みで進む現代では時に「不器用な生き方」「損な生き方」に映る「分かちあう生き方」。しかしイエス・キリストはその生涯を貫いて「分かちあい」をわたしたちに示し、苦しみを受ける中で神の愛が世にあってどのようなかたちをとるかをお示しになりました。わたしたちのためにその身を引き裂かれたイエス・キリストの姿を偲ぶ季節、主なる神がわたしたちと無数の誘惑との間に立ちはだかり、祝福してくださっているその愛に感謝しましょう。「分かちあう生き方」を、キリストを通して授かる態度こそ神の愛の何よりの証しです。

2024年2月8日木曜日

2024年 2月11日(日) 礼拝 説教

    ー降誕節第7主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「神の力はあなたを元気にする」 
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』 6 章 5~15 節
(新約聖書  174頁).

讃美= 191,Ⅱ-41,21-29.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

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【説教要旨】
 本日は「建国記念の日」「紀元節」「信教の自由を守る日」と様々な呼び方がされる一日となります。天皇制と向きあってきた教会では様々な集会が行なわれる日になりますが、当事者としての視点だけでなく、運動そのものを客観視する必要も、多様性を重んじる今日の観点からは求められます。激しい論争の陰で歴史に埋もれた人々の声はかすかではありますが、消えることなく今も響いています。

 かつてベストセラーとなった小説に山崎豊子の『不毛地帯』という作品がありました。文庫版冒頭の一冊は主人公のシベリア抑留をめぐるドラマでした。寒気団に覆われたシベリア地方一帯に草は殆ど生えません。針葉樹林にラーゲリがあります。重機のオイルも凍てつく中、人力で鶴嘴を振るい、鉄道敷設や炭鉱労働を強いられた人々の遺骨は返還されていません。意に反して天に召された人々は緑一面の野の中で大の字になり、さんさんと陽の光を浴び、鳥のさえずりと花の香りにつつまれる夢を幾度も見たに違いありません。
 本日わたしたちが注目するのは「イエスは、人々を『座らせなさい』と言われた。そこには草がたくさん生えていた」。との一節です。この一節がなくても物語全体の意味内容は概ね通じます。調べたところ「五千人の人々が満たされる物語」で「草」との言葉を刻むのは本日の福音書の他には『マタイによる福音書』だけでした。その点を踏まえますと「草」には人々が夢見た、また憧れた生活が示されているようです。

 福音書や『旧約聖書』の『詩編』で「草」とは特に「羊」または「羊飼い」との関わりの中で多く記されます。羊にとって一面に広がる緑。一年の中でも長くはない季節にある緑は新鮮な食料となり、流れる小川は羊たちの身も心も健やかにします。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることはない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる」とある通りです。ツンドラまではいかなくとも、砂塵舞う荒れ地を通り過ぎて、オアシスや牧草地に導かれた羊たちは、ともに喜びながら何の警戒もなく草を食みます。神の備え給う祝福と恵みの中で羊たちはいのちを存分に養い、元気になるのです。

 それだけではありません。『創世記』の「天地創造物語」で神は「地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう」とあります。「弱肉強食」の妄想に捕らわれ、食物連鎖のみを受け入れる者には意味不明に聞こえるでしょうが、この箇所で書き手は「神はもともとすべてのいのちが血を流さずに生きる世界」を創造されたとの願い、また、血の犠牲の上にいのちが成立つという世界を超越する場所を神はもともと備えていたとの理解に立っています。「殺生を遠ざける」とは仏教に限らず、時に醜悪な人間模様も隠さず描く『旧約聖書』にさえ記録されます。万物のルーツに関わる表現として「青草」が用いられるのです。

 『旧約聖書』との深い関わりを示す、緑あふれる場所に人の子イエスの声が響き、集まった人々はそこに腰を下ろします。純真無垢な思いから少年が献げた大麦のパン五つと二匹の魚は、辛うじて飢えを癒やせる焼き菓子の塊と二枚の干物に過ぎませんでした。しかし少年は持てるすべてをイエス・キリストに委ねました。自分が空腹になることを顧みずにキリストに献げたのです。キリストはその献げものを「何の役にも立たない」と蔑みあしらうのではなく、少年の眼差しの中で神に感謝の祈りを献げ、人々に分け与えた、とあります。少年が何も隠さずに献げたその態度もまたキリストに祝福され、青草の野に座る五千人の人々に広がっていきます。もはや人々は自らの食事を隠すこともなく、それまで見知らなかった人々と交わりを深め、お互いに気遣う間柄を育んでまいります。「人々が満腹したとき」とは「人々が満たされたとき」とも訳せる箇所です。たとえ病に罹患した人々や、貧困に苦しむ人々がそこにいたとしても、すぐ隣の人々から同じように食を授かったことでしょう。

 食に事欠く人々が敢えて罪を犯し、「人に関心を寄せられ、見守られている」と刑務所生活を喜んでいるとの報道に打ちのめされるわたしたちが元気を回復するのは、このような『聖書』の御言葉によるところ、またその御言葉に基づく交わりによります。それはどのような壁をも越えていきます。この交わりの前には、いかなる武装も必要ありません。人々が満ち足りるとき、そこには神の平和が訪れる、それは武器には拠らない平和であるとの中村哲医師の声を思い出します。神の力はお互いを大切にする愛です。その愛は過激派にさえ銃を降ろさせ、諍いを収めさせます。青草の原広がる、神の備え給う大地に、わたしたちは我知らずして立っていると感謝したいと願います。そして少しでも多くの人々に、その元気を分かち合いたいと祈り求めてまいりましょう。

2024年2月1日木曜日

2024年 2月4日(日) 礼拝 説教

    ー降誕節第6主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「主イエスはあなたの逃れの場」 
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』 5章1~14節
(新約聖書  171頁).

讃美= 122,21-508,21-29.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
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【説教要旨】
 自分や家族が重篤な疾病に罹患いたしますと、多額の金銭を集めてでも高額治療さえ受けたいとわたしたちは願います。それはわたしたちのいのちが自分だけのものではないと知っているからです。一般的な医療に基づく治療では困難な場合でも、漢方やその他の民間療法があれば家族のために生きる執念を燃やすというあり方もわたしたちにはあります。自らの病でなくても、わが子や家族の場合であればなおさら世界のどこへ行っても治療に専念させてあげたいと思うのが自然でありましょう。

 しかし本日描かれる箇所で登場する足の萎えた人には、そのように「何とかしたい」と願う人はいなかった模様です。まことに辛いことではありますが、この人は身体に障碍を負っているだけでなく、孤独の身でもありました。「エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で『ベトザタ』と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、身体の麻痺した人などが大勢横たわっていた」。38年もの間、この不自由な人を顧みる人はいなかったと、この人自らの言葉が示しています。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りていくのです」。この人は、単に身体が動かないだけなく、人々から忘れ去られた人でもありました。障碍を抱えているだけでなく、孤独の身でありました。ただ幸いであったのは、「良くなりたいのか」という人の子イエスの問いかけを無視しはしなかったところです。完全に諦めていたのであれば、このような問いに耳を閉ざし、心さえも閉ざしてしまうものです。ですがこの名もない男性は、イエス・キリストからの問いかけに、間接的な仕方であるせよ、意志表示をしたのです。

 「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」。すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした、とあります。実際に歩きだしたという事柄以上に、38年間の沈黙が破られ、この足萎えの人を深く顧みる人として、人の子イエスがそのそばにおられたことが何よりも嬉しかったのです。しかしその喜びは、瞬く間に周囲の人々に打ち消されます。この人が歩き出した様の喜びをともにするどころか、咎め立てをするのです。その咎め立てをする人々はこう言います。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは律法では赦されていない」。癒された人は憤りとともにこう語ります。「わたしを癒してくださった方が『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」。咎め立てる人々は口々に「それは誰だ」「それは誰だ」と問い詰めるのです。

 しばらく時が経ち、幸いにも再会した折に人の子イエスは次のように語ります。あえて感謝の言葉など求めません。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない」。この箇所で人の子イエスが指摘した「罪」とはいったい何なのでしょうか。障碍の原因を本人の罪か、または両親の罪かと弟子が問い尋ねる場面は確かに描かれましたが、イエス・キリストはそのような特性が「神のわざがその人に現われるため」であると、当時としては実に画期的な解釈を行なっています。ですからこの人の病が罪であったとは見なしていないはずです。何が罪かと言われるならば、それは癒しを受けたこの人が、安息日に癒しを受けた事実を喜ばない人々に対して論争を続けたところにあるのではないでしょうか。喜びをともにしてくれる人であればいざ知らず、咎め立てをする人々に半ば憎しみをもって論じ合うなどイエス・キリストに癒された喜びを最も損なうものです。このような交わりから離れるようにと伝えているようです。あのエデンで生きる幸せの秘密を、神では無い者にうっかりうち明けた人間のような真似はよせ、と伝えているのです。

 残念なことにこの癒された人は後に、その恐怖からか身体を癒したのはイエスだと伝え、それにより迫害を受けるにいたりました。しかしこのようなことも人の子イエスには織り込み済みであったはずです。なぜなら「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」とあるからです。イエス・キリストは、ただ神の愛をよりどころとして、どのような人もモデルとせずに黙々と癒しのわざを続けておられた様子が窺えるのが本日の箇所です。今朝の説教のタイトルは「主イエスはあなたの逃れの場」としました。それはイエス・キリストはこのような仕方でわたしたち一人ひとりを孤独にせず、過ちを問わず痛みを問いかけ、癒してくださるからです。孤独になったとき、追い詰められたとき、わたしたちはイエス・キリストの問いに答え、その懐に飛びこみましょう。この誰からも無視されていた人のように訴えを聞くキリストがそばにいる喜びがあります。

2024年1月26日金曜日

2024年 1月28日(日) 礼拝 説教

    ー降誕節第5主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「心配するな、わたしはともにいる」 
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』 8章21~26節
(新約聖書  181頁).

讃美= 122,21-402,541.
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動画は2種類
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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 世にあってわたしたちが誰か、また何かと関わる場合、そこには必ず名前が生じます。その関わりが深ければ深いほど、その名は忘れがたいものとなります。最近、置き去り虐待という言葉がメディアで用いられるようになりました。現在ではこどもを放置して大人がその家を出てしまい行方を告げなかったとき、気づいた者が連絡すれば虐待として警察案件で扱われることになります。おそらくその場合、こどもは親の名を叫び続けながらあちこち探し続けたことであり、どのような年齢になろうともその人には癒しがたい傷になるに違いありません。

 本日の『ヨハネによる福音書』の箇所では、わたしたちから観た『旧約聖書』の研究を軸とするファリサイ派を筆頭としたユダヤの民衆を相手に「わたしは去って行く」と語りかけます。「あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない」。しかしイエスの語りかける相手は大人であってなおかつ独りではありません。だから却ってイエスの言葉に不安と疑問を覚えます。「『わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない』と言っているが、自殺でもするつもりだろうか」。そもそも『ヨハネによる福音書』は、天地創造の神を悪と見なし、また肉体をも苦しみの源として嫌悪し禁欲を無目的に勧め、『旧約聖書』に描かれた神の歴史や被造物の意味を認めないヘレニズム・グノーシス思想に影響された人々にまずは向けられていました。この態度がイエスは救い主であると認めないその時代のユダヤ教徒以上に教会を蝕み始めたのです。実のところ人の子イエスはまずユダヤの民衆からそのように誤解を受けます。今日で言えば社会を否定し続けるカルトのようだと誤解を受けるのです。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、この世に属していない。だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬこととなると、わたしは言ったのである」。人の子イエスの言葉は、言葉尻をとればこのギリシア思想にいたるギリギリの線を突いていきます。問題は「上」が何であり、「下」が何を示すのかというところです。「下」が「世」であるならば「上」とは何となるのでしょうか。

 それが「わたしはある」との言葉です。もっと日本語の日常に則するならば「わたしはいる」となります。これこそ人の子イエスに詰め寄る人々が思い出すべき『出エジプト記』に記された神の名です。神話の神々には名はありますが、それはその神話の世界に限定されます。他方でギリシアの哲学者の神には名はありません。当時のヘレニズム・グノーシス哲学で分解された『聖書』の場合、『新約聖書』と『旧約聖書』の神は別物だとされます。しかしイエス・キリストが語る神は、名をもち、わたしたちを愛する神です。モーセを遊牧民の婿から古代エジプトで苦しむ奴隷を解放する役目に召し出した神の名は「わたしはいる」でした。五度もその重責から逃れようとし、うろたえるモーセに「わたしは必ずあなたと共にいる」と語りかけた神、暗殺者に追いかけられ死を願った預言者エリヤに食事を提供した神こそ「わたしはいる」と語りかける神でした。この宣言によって多くのユダヤの民衆が惑わされずにイエスを救い主として信じるにいたります。

 親を見失い泣き叫ぶこどもに「泣くな」と怒鳴りつけるような暴力をわたしたちは目にいたしますと、わたしたちもまた「こんなことがあってよいのか」と義憤に駆られ、達観とは正反対の思いに駆られます。それは子を失った親にも、家族を失い自分一人だけ責め続けるご高齢の方々を観るにつけ同じ思いを抱きます。しかし主なる神はその度ごとに悲しむ者に手を差し伸べ、わたしたちの抱く構想を絶えず新たにしながら、自らの計画を明らかにされます。多くのボランティアが能登半島の報せをわたしたちに伝えています。他方で逃れてきた人々が他の地域に移住する可能性もあります。わたしたちも29年前の阪神・淡路大震災の当事者でした。神が備える出会いに準備をしながら、互いに名を呼び合う交わりをさらに育みましょう。キリストを通してわたしたちに呼びかける神にはかけがえのない名があります。わたしたちはその神に名を呼ばれています。「心配するな、わたしはともにいる」と招く神に背を押されて新しいあゆみを始めましょう。


2024年1月18日木曜日

2024年 1月21日(日) 礼拝 説教

    ー降誕節第4主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「主なる神の平安に満ちて」 
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』 2章1~11節
(新約聖書  165頁).

讃美= 217,21-224,541.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 ガリラヤのカナでの婚礼の宴に招かれた人の子イエスと弟子、そして母マリア。他の福音書には見られない、宣教活動に入ったイエスが弟子とともにではなく母親と同伴して披露宴に招かれるという珍しい場面を『ヨハネによる福音書』は描きます。婚礼の席ですから笑い声が聞こえ、人の子イエスもその笑い声に連なっていたことでしょう。ところでこの時代の宴のスタイルは今日の目にするものに較べて実に長期にわたりました。概ね10日ほどかかり、その中には新郎が『律法の書』を朗読したり、新婦が新郎とともに罪の悔い改めのために断食をしたりする日まで設けられます。いずれにしても厳粛な礼拝によって二人の関係が裏づけられ、タイトなスケジュールの後の宴ですからなおのこと喜びに溢れていたことでしょう。

 ところがこの宴で予想しなかったハプニングが生じます。宴に用いるぶどう酒が足りなくなってしまったのです。これはあくまでも主催者たる長老たちから委託された世話役の役目ですから、新郎・新婦には責任ではありませんし、ましてや人の子イエスと母マリアが出しゃばる必要もありません。しかしざわつく宴の席で母マリアはイエスに「ぶどう酒がなくなったよ」と伝えます。この箇所で興味深いのはイエスが母マリアに決して従順であったわけではなく、翻訳では「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」と口答えするところにあります。このような不自然な日本語を用いるより「お母さん、それはわたしと関係ないでしょう。この場は救い主として働くタイミングではありませんよ」と受けとめたほうがよいかもしれません。しかしイエスのそのような申し出とは無関係に母マリアは「この人が何か申しつけたら、そのとおりにしてください」と勝手に申しつけてしまいます。1メトレテスは39リットル、それが六つあったのですから相当な分量です。その容積の水瓶にイエスが水を入れるように申しつけます。総量で234リットル。一斗樽で概ね十三樽というかなりの分量です。この物語がわたしたちに訴える事柄とは何でしょうか。

 まず、イエス・キリストは人々の悲しみの席にも喜びの席にも人知れずおられるという指摘です。この箇所をして初代教父たちは「イエスは笑ったか」という問いを真剣に論じました。その議論そのものが現代のわたしたちには微笑ましいのですが、その時代には救い主の権威をめぐる問題として真剣に話し合われたのです。宴席で水をぶどう酒に変えるよう無茶振りされたイエスがもし笑いを知らない人であれば、この場所で敢えてこのようなわざを行ないはしなかったでしょう。次に、キリストを通して明らかにされる神の出来事は、キリスト自らはわたしたちの身近なところに宿りながらも、わたしたちは気づかないという点です。ぶどう酒を味わう人は、それがキリストのなさったわざだとは誰も気づきません。わたしたちは気づかずにキリストの恵みに預かっているとの理解がこの箇所から解き明かすことができます。そして婚宴の席に招かれたすべての人々は、世話役もバックヤードで働く人々も含めて、かぐわしいぶどう酒の香りにつつまれるという物語です。

 わたしたちとイエス・キリストは、実はこのような香りによって結ばれています。わたしたちの日常は決してこのような晴れがましい婚宴の席を楽しむようなものばかりではありません。汗につつまれ、土埃にまみれながらわたしたちは生きています。さらに言えば、そのような装いとは程遠い暮らしに置かれるときもあります。しかしわたしたちはわれ知らずしてキリストの香りを帯びるだけでなく、天に召された方々と世にある復活を通して再会するその時に、キリストの花嫁としての芳しさにつつまれるのです。それは滅びにいたる臭気とは全く異なっています。このようなメッセージを届けられたその時代の奴隷たちは、農民たちは、神の備え給う「非日常」をどれほど喜んだことでしょうか。イエス・キリストが人々に伝え、また証しされようとした主の安息とはこのようなものではなかったかと思うのです。キリストのユーモアと香りの中で育まれる交わり。それはわたしたちの思いがけないところで育まれ、喜ばしい潤いとなります。時が来れば、わたしたちもキリストが設け給う宴席の中で深い平安を授けられ、悲しみの中にも喜びと新しい出会いを備えられるのです。その平安に満たされて新しい一週間を始めましょう。

2024年1月10日水曜日

2024年 1月14日(日) 礼拝 説教

   ー降誕節第3主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「来なさい、そうすれば分かる」 
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』 1章35~42節
(新約聖書  164頁).

讃美=121,21-13(1~5),541.
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動画は2種類
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

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【説教要旨】
 『ヨハネによる福音書』は、他の福音書に較べてその成立が十年ほど遅いというお話は前回の説教で触れました。そのような特徴を考えますと『ヨハネによる福音書』の書き手集団は、『新約聖書』にある福音書の他の「三部作」をすでに知っており、執筆の際に黙想とともに新しい福音書の執筆に着手したようです。その意味ではイエスの人としての歴史性というよりも「神の子キリスト」という超越的な理解が強調され、それに伴って物語に登場する人々の設定に手が加えられてもいます。

 本日の箇所ではガリラヤ湖で漁師であったはずのシモン・ペトロの兄弟アンデレが洗礼者ヨハネの弟子の一人として描かれています。わたしたちはこの設定の改変に驚くのですが、同時にそこにはやはり『ヨハネによる福音書』の書き手集団の伝えたかった事柄があったはずです。

 以前にも申しましたとおり、洗礼者ヨハネは、例えばファリサイ派と同じように古代ユダヤ教の集りであるエッセネ派というグループと深い関わりがあるとされています。エッセネ派とは荒れ野で『聖書』の研鑽に励み、生活共同体を作り、水によるきよめに重点を置いて暮らす人々として知られています。そしてその集りは同時に、都市や村落ではその生存が危ぶまれていたこどもたちの受け皿として働き、様々な特性をもつこどもたちがそこで育ち、群れの維持や運営に責任を担いうるこどもたちが次世代の舵取りとして研鑽に励んだと言われています。血のつながりに拠らず、洗礼者ヨハネの弟子の一人であったとされるアンデレがまず他の弟子とともにイエス・キリストに従い、そしてアンデレが兄弟であるシモン・ペトロに声をかけて弟子として従うという物語が描かれます。わたしたちのよく知るガリラヤ湖の湖畔の物語はこの箇所では描かれません。「来なさい、そうすれば分かる」との言葉が本日の記事には轟きます。

 さて始めからイエス・キリストを「見なさい、神の小羊だ」と名指しすることのできた洗礼者ヨハネでしたが、果たして他の福音書でその姿勢は一貫していたでしょうか。実のところそのような毅然とした態度が揺らぐ箇所があります。それは『マタイによる福音書』11章に記されています。この箇所で、洗礼者ヨハネはヘロデ大王の息子ヘロデ・アンティパスを批判したかどで身柄を拘束され投獄されています。その悶々とした中で、イエス・キリストの教えと行いを耳にして自分の弟子を送り問わせます。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」。洗礼者ヨハネの姿は、本日のまことに毅然とした姿と、このように獄中生活を過ごす中で本当にイエスがキリストなのかと問わずにはおれない姿の間で揺れ動いています。この揺れ動きこそ、実は洗礼者ヨハネの姿としては実相に近かったのではないかと考えます。わたしたちの信仰も重なるところがあります。礼拝に招かれ出席するところは教会員の側からすれば暮らしの一面でしかないと言えなくも無いところがあります。そのようなあり方をして「自分の信仰」の是非を問うたところできりがありません。『旧約聖書』『新約聖書』を通じて描かれるのは神に従順である人々やキリストに従う人々の姿はごく限られており、むしろ仮に洗礼者ヨハネであったとしても「イエス様は何者なのか」と問わずにはおれない揺らぎを伴いつつあゆんでいるところが際立ちます。『聖書』には誰一人として超人は登場いたしません。失敗のない成功人生に導く師匠のような人もまたおりません。『聖書』に自己実現のマニュアルを求めるのであるならば、他のビジネス書をわたしはお勧めします。そうではなくて、譬え自らのもとから離れていっても、そのことを「卒業」のような節目として却って喜ぶような、自分の限界を知る人々が違いに支えあう姿に彩られています。本日の『聖書』の箇所で、洗礼者ヨハネはともに歩いていた弟子をすべて人の子イエスのもとに送ります。「イエスは振り返り、彼らが従ってくるのを見て、『何を求めているのか』と言われた。彼らが、『ラビ―<先生>という意味―、どこに泊まっておられるのですか』と言うと、イエスは,『来なさい、そうすれば分かる』と言われた」とあります。揺れる気持ちの中で新たにされる出会いがそこにあります。十の説明よりキリストに従う中で与えられる出来事への気づきを大切にいたしましょう。