2024年4月26日金曜日

2024年 4月28日(日) 礼拝 説教

         ー復活節第5主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「イエスはあなたを招いています」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』 15 章 18~26 節
(新約聖書  199  頁).

讃美=  301,512,21-29(Ⅰ.544).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 
【説教要旨】

 本日の『ヨハネによる福音書』では「迫害」という言葉が目立ちます。この福音書の成立は紀元90年ごろとされています。この時期に人々を脅かしたのは皇帝ネロによる迫害でした。それは紀元64年とされていますので、この福音書の成立からすると一世代ほど経ていると申してよいでしょう。ただし、世にある便宜を求めて教会に連なるなどと人々は考えなかったでしょう。むしろそのような便宜を越えた動機に突き動かされなければ、教会の交わりに加わるのは困難であったように思われます。「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから世はあなたがたを憎むのである」。ローマ帝国に迫害されるキリスト教徒の文学や絵画といったものはわたしたちにある種の覚悟と問いかけをもたらします。
 しかし実際に絵画通りのような仕方ですべてのキリスト教徒が社会から抹殺されていったかというと疑問が残ります。その出来事は却ってローマ帝国全体にキリスト教が浸透するきっかけとなり、紀元313年にはコンスタンティヌスという皇帝がキリスト教を公認するにいたります。それと対比されるのが日本におけるところの「隠れキリシタン」迫害といったものでした。遠藤周作氏による『沈黙』は、イタリアの映画監督ベルトリッチによって「ザ・サイレンス」として映画化され、イエズス会の宣教師が長崎奉行による残虐な迫害を前にして自らの使命に疑問をもつという筋書きになっています。映像の中ではこれでもか、これでもかという具合に迫害の凄まじさが時には正視できないほどグロテスクに描かれます。

 とはいえ文学や映像の場合は、遠藤周作の解釈やベルトリッチ監督の理解にかかっているのであり、実際のところはどうだったのかは分かりません。もちろんキリシタンが日本で保護されていた時代もありました。宣教は禁じられてはいても戦国大名自らの信仰は保護されていた時代もあります。大名自らがキリスト教であればその領地の民衆もまた教会の感化を受けます。島原の乱のような重大な武装蜂起が起きなかったならば幕府の弾圧は違ったものになったかもしれません。本日は徳川幕府の時代中期に来日したジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティというイタリア人宣教師に触れます。以前にも触れたことがありましたが、尋問にあたったのは当代瑞一の儒学者新井白石でした。新井白石は儒学者としての立場から復活信仰への理解はもちませんでしたが、シドッティの宣教への姿勢に深く感銘を覚え、尋問はいつしか対話へと変容し、本国への強制送還が最も適切であるとの判断が最善、次策が罪人扱いせず屋敷に幽閉するというものでした。ただその間シドッティは世話役の奉公人に洗礼を授けたことで罪に問われ、46歳で地下牢に没することとなります。二人の奉公人の行方は知れません。

 この名も無き奉公人の生涯がどうなったのかは知られないのですが、わたしたちはこの奉公人のあゆみに関心を向けたいのです。恐らくは文字も読めず、上役の命じるままに迷信じみたキリシタン信仰への恐怖をすり込まれていたはずなのに、いつの間にか感化を受けていたという二人です。身分制度のあった時代に、身分を問わない世界が広がっていました。それが神の言葉の拓いた世界だったというのであれば深く頷くところです。

 現代のわたしたちも様々な誘惑に晒されています。別段それは消費社会だとかレジャーとかといったことではありません。コスト・パフォーマンス、最近では「コスパ」と申します。タイム・パフォーマンス、これは「タイパ」とも呼ばれます。特に新型コロナウイルス以降の世界では、個々人が交わりから切り離され「自己責任」「コスパ」「タイパ」との言葉に誘われ、わたしたちは「待つ」という態度を忘れがちです。「待つ」という態度は見えない実りを確信する、まだ来ない相手の到着を信頼するところから始まります。「誰かのために」という動機づけとともに、その人自らの暮らしを支えていこうという祈りが、教会の深い交わりを育んでまいります。

迫害というものは、時には実に魅惑的に、かつわたしたちの暮らしを快適さに導きながら、わたしたちがイエス・キリストを選んだかのような錯覚をもたらします。実のところは社会の枠から阻害され、誰よりも深く寂しさを知っている者にこそ、イエス・キリストが招きの声をかけてくださるのではないでしょうか。わたしたちが誰かを迫害する者ではなく、痛み苦しむ者と連なるという信仰の原点を、本日の『聖書』の個所は問いかけています。わたしたちがその愚かさのゆえにイエス・キリストに招かれたという事実を胸に刻みたく存じます。