2022年9月29日木曜日

2022年10月2日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です)

ー聖霊降臨節第18主日礼拝 ー

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

説教=「あなたのために食卓を備えるキリスト」 
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』14章10~21節
(新約聖書91頁)

讃美=517,392(1,2,4),544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 火山の噴火に伴う火砕流で、紀元79年に一気に滅んだポンペイ。この町の滅亡はあまりも急であったこと、そして火砕流や溶岩、軽石の特性から、『新約聖書』の舞台となったローマの町の人々の暮らしの痕跡が、今も生々しく残っています。そこには当時の宿屋や洗面所、居酒屋や今でいうところの宴席となる大広間まで鮮やかなモザイク画とともに残っています。発見されたレシピによると、食前には消化を助けるためのムルスム(蜂蜜入りワイン)、大地の糧として穀類、豆、野菜、果実、火の糧として祭壇の肉、肉屋の肉、狩猟の獲物、風の糧として鳥類、鳥の卵、水の糧として魚や甲殻類が出されたと申します。ローマの市民権をさえあれば、庶民でさえも平たいパンや、大麦やエン麦を炊いて、塩やオリーブ油、魚醤で味付けしたオートミール、豚や魚、鳥のゆで肉やハム、ソーセージを当たり前に食べられました。奴隷はこの中には入りませんが、現代のわたしたちの暮らし向きからしても、かなりしっかりした食事を摂っていたと言えます。宴と言えば別段貴族でなくても珍味やお酒が振る舞われたことでしょう。

 そう考えますと、ユダヤ教の「過越の祭」で人々がともにする食事は、極端なまでに質素です。小羊のすねの骨か鶏の脚の骨をカラカラになるまで焼いたもの、苦菜と呼ばれる西洋わさびの葉、苦菜を浸して食べる塩水、デーツとクルミ、レモン汁と粗挽きのナツメグ、肉桂を混ぜて焼いたもの(甘味)、小羊(ゆで卵でも代用可)、野菜、そして種なしパンと赤ワイン。これが概して過越の祭では食せられます。どの食材にも象徴的な意味がありますが、おそらく当時の舌の肥えたローマ市民であれば、祝祭にまでこのような無味乾燥な食事をともにしなくてはならなかったのか理解できなかったことでしょう。祭りといえばご馳走を食べるのが人情ですが、現代のユダヤ教、そして人の子イエスの古代ユダヤ教の世界ではなおのこと方向性が全く異なっていて、自分たちの先祖がかつてどこにいたのか、その苦境を思い出すために食卓を囲むのです。エジプトでの奴隷の暮らしと、その暮らしからの解放を思い出すための食卓です。「臥薪嘗胆」という言葉があります。人生の辛い時期を忘れないために薪を並べたところに横たわり、苦みに満ちた動物の干した肝を舐めるというわざを示します。これは中国の故事から生まれたところの、侮辱的扱いに遭ったことを忘れないための格言で、神によって奴隷の暮らしから解放された喜びと艱難を思い出す態度とは明らかに異なります。

 そのような、富の格差を超えてまで行われる過越の祭の食卓に、人の子イエスを権力者に引き渡そうとするイスカリオテのユダの眼が光ります。過越の食卓をどのように整えたらよいのか、どうすればよいのか分からないといった他の弟子とは全く対照的な態度です。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい」。無名の男性に従うことで、弟子は解放の出来事を祝う宴を設けることができました。おそらくは一二人の弟子以外の名もない弟子、そしてイエスをメシアであると受け入れた人々がいた様子が偲ばれます。しかし食卓の席で、一二人の弟子も、備えを整えた人々も絶句するような言葉を人の子イエスから聴くこととなります。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」。その後弟子の「まさかわたしのことでは」と混乱する様子、パニックに陥る様子が描かれます。実に人間臭い描写です。誰もがキリストとの関わりの中で、自らのあり方に確信が持てていない証拠です。「何を食べようか、何を着ようかと思い煩うな」ではなくて、何を食べていても、何を着ていても、この確信のなさを隠し通せる術がないのです。この箇所で弟子の覚悟の不確かさが明るみに出ました。そして次には「一二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」と、まことに激しい言葉を語ります。この箇所からわたしたちは何を聞き取ろうというのでしょうか。

 わたしたちはこの箇所で群れなす心の闇や惑いにばかり心を奪われているようです。実はイエス・キリストはこの箇所で、弟子各々の心に完結した、「思い」としての信仰の不確かさを露見させました。そしてイスカリオテのユダの謀すらも無力にしてしまっているのです。「裏切り」とは裏切られるはずの者に気づかれない限りにおいて、はじめて決定的になります。始めから裏切りが分かれば裏切りは意味をなさないのです。だからイエス・キリストにはもはやユダがどのような表情をしていたとしても、ともに鉢に食べ物を浸すという至近距離にいたとしても、その裏切りは無意味です。キリストの前に隠し事をするなどという態度は人間には無理なのです。それだけ神の恵みの力は圧倒的なのです。だからわたしたちは安心してキリストが備える食卓に連なるのです。

 理不尽な苦しみや傷みを知りながら、もっとましなことができやしないかと悔しさを噛みしめるわたしたちに、イエス・キリストは自ら備えた食卓で「話しを聴こうじゃないか」と語りかけます。コロナ禍のピークアウトの後に見えてくるさまざまな課題以上に、神はわたしたちの重荷を見抜いています。だからこそキリストが世に遣わされ、重荷をともに担ってくださるのです。

2022年9月22日木曜日

2022年9月25日(日) 礼拝 説教(会堂での対面式の聖日礼拝を再開します。)

  ー聖霊降臨節第17主日礼拝 ー

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

説教=「いつまでも語り継がれる出来事」 
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』14章3~9節
(新約聖書90頁)

讃美=226,164(1,2,4),541.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


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【説教要旨】
  天気予報と新型コロナ感染症関連の報道以外にはマスメディアと関わりのない暮らしをしておりましても、ここ数週間ほどはエリザベス二世が天に召されたことが話題となっているようです。女王は英国国教会、日本では日本聖公会の首長でもあるというところから、国葬という言葉も含めて耳にしました。継承者はチャールズ三世となりますが、英国では実にあけすけに王族の事情に立ち入る報道をします。曰くチャールズ三世の万年筆のインクをめぐる奇行や沿道の黒人との握手の拒否、こどもたちの仲違い、インドからは王冠にあるダイヤモンドの返還を求める声、イギリス連邦内の諸国では共和政体への移行が表明されるなど。世界で最も栄華を極めているはずの家族に際立つ仲違い。大衆メディアの騒ぎであるにせよ、ノーブレスオブリージュと言ってみても、かつてのドイツ皇帝や、ロシア皇帝との姻戚を誇る一族には「わたしのものはわたしのものだ」との声が止まないようです。
  他方で江戸時代の日本。「貧民窟」と軽蔑された長屋におきましては、井戸や調理場も共用だったことから、不衛生なのにも拘わらず相互扶助が実践されていたと申します。病気になっても医者に診せられるお金はありません。川の土手から薬草をとってきて煎じて呑む程度の養生でしたが互いに気遣い宵越しの銭は持たないという気風がありました。知的障碍のあるこどももまた「よたろう」というイメージに結晶し「わたしのものはわたしのもの」との執着に凝り固まった世のあり方を問います。もちろんそのような共同体にも一定の限界があるのは承知の上で申しあげています。
  本日の『聖書』の箇所におきましてはよく知られた「ナルドの香油」の物語が記されます。わたしたちは女性が香油をもって人の子イエスの頭に注いだり、足を拭ったりするという劇的な場面に関心を寄せがち。しかし本日はこの出来事が起きた現場から丹念に読み解いてみましょう。「イエスはベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席についておられた」とあります。本日の箇所はその始めからイエス・キリストなしにはあり得ない舞台設定となっています。そこでは重い皮膚病に罹患した人が、自ら食卓の席を設け、その席にイエスを招き入れています。社会常識からすれば隔離され、このような食卓など設けることなどできなかった人がそこいるのです。このように、神の国のモデルとなる交わりの中で、「ナルドの香油」の出来事は起きます。女性の名は『マタイによる福音書』と本日の『マルコによる福音書』では記されません。素性の分からないこの女性は、給仕役だったかも知れませんが、古代ユダヤ教の世界ではむしろ主人自ら招いた人の世話をする習慣もあります。宴席におきましては舞を舞う踊り子だった可能性もあります。いずれにしても場違いな振る舞いに、『マルコによる福音書』では「そこにいた人の何人か」、『マタイによる福音書』では「弟子たち」が憤慨します。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに」。そして女性を厳しくとがめたというのです。食事の席には瞬時に、一般の月収の額に値する香油の価格を見極める「目利き」もいたようです。一見するとこの言葉はもっともらしく読めるのですが、人々は女性の行為が彼女自らの決断であるところを見落としています。弟子の一人とも思える人物の発言には「お前のものもわたしのものだ」との傲慢さも読みとれるというもので、イエスへの献げものを「もっとましな使い方があるのだ」と呟く執着の表れにも聞こえます。
  しかし人の子イエスは語ります。「するままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない」。貧しい人はいつもあなたがたとともにいるとの言葉。これは『マルコによる福音書』が生まれた時代、そして現在の教会への誡めともなる言葉です。教会の交わりに連なる人々は貧しい人々です。それはわたしたちも変わりません。イエスが眼差しを向けるのはそのような人々です。代々に及ぶ教会に「貧しい人とともにいなさい」と人の子イエスは語ります。それは何によって可能なのでしょうか。「この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるであろう」。香油を注ぐ女性のわざを、イエスは「埋葬の準備」だと意味づけています。則ち、これから待ち受ける不当な捕縛と裁判、弟子の逃亡と十字架にいたる苦しみと死、そして埋葬と復活を通して明らかになる救い主の姿です。人の子イエスはキリストであり、救い主であるとの確信の中で、教会では「貧しい人の交わり」が「わたしのものはわたしのもの」というありかたを越えて育まれ、広まっていきます。イエス・キリストのあゆみへの眼差しと祈りなしには、教会にも格差の問題や神なき豊かさへの憧れが忍び込んできます。イエス・キリストの埋葬では葬儀は行われませんでした。しかしその悼みを越えて復活の出来事がありました。本日の箇所の宴は、主の復活を讃える、喜びを分かちあう宴となりました。この語り継がれる出来事の只中にわたしたちもいるのです。


2022年9月15日木曜日

2022年9月18日(日) 礼拝 説教 (コロナ禍対策により対面式の聖日礼拝は休止させて頂きます)

ー聖霊降臨節第16主日礼拝 ー

時間:10時30分~

※コロナ禍対策により
しばらくの間会堂を用いずリモート中継礼拝・録画で在宅礼拝を執行します。
状況に変化があれば追って連絡網にてお伝えします。
 

説教=「愛には、いつわりがない」 
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』  12章38~44節
(新約聖書88頁)

讃美=357,391,541.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


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方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
  教会で神に献げるわざとしては、祈りと交わり、教会に連なる方々の賜物に応じた奉仕と並んで献金もまた尊いものです。ひと月に額を決めて献げる月定献金、礼拝で献げる礼拝献金、そして日々の暮らしの中で記念すべき出来事や感謝の思いを表すためにささげる特別献金、イースター献金やクリスマス献金、礼拝堂改築や墓地管理などのための指定献金。このように項目を列挙してまいりますと教会とはずいぶんとお金のかかるところだ、との声があってもおかしくはないかもしれません。そもそも献金という言葉が一人歩きしますと最近では詐欺同然に暮らしを破壊させていくカルト宗教の問題などと一緒くたにされがちです。いかに人が経済と無縁ではないとしても、これは教会生活の躓きにもなり得る誤解も招きかねず、そのものとして丁寧な説明が必要です。

  しかしもっと立ち入って考えますと、献金は額の多いか少ないかというよりも、さらに尊い意味合いがあります。言葉を正しく用いると、献金とは「支払う」のではなく、税金のように「納める」のでもなく、あくまでも神の恵みへの応答として喜びの中でそして神様との関わりの中で教会を支えるべく献げ、分かちあうわざです。もちろん決して他者から強要されはいたしません。

  ヨーロッパのように王室や国家から運営費が支給される立場とは異なり、キリスト教の種が蒔かれて150年程度でしかない日本という地にある教会は、まことに逆説的ですがキリスト教文化圏にある教会よりも、使徒が活躍した時代の教会に接近しているのではないでしょうか。だからわたしたちは礼拝で「わたしはあなたがたとともにいる」とのイエス・キリストのメッセージを聴くとともに「どこにいるのか」との神の問いかけにわが身を正すのです。『フィリピの信徒への手紙』の中で使徒パウロは「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました」と論じます。その道筋にあって本日の言葉を味わいましょう。

  本日の『聖書』の箇所、則ち『マルコによる福音書』12章38節以降で、人の子イエスは神殿の境内で大勢の群衆に向けて「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」。『新共同訳聖書』には「律法学者を非難する」との小見出しがあります。しかし本日より前の箇所では、イエスは自らとの受け答えの中で一人の律法学者を論駁するどころか「あなたは神の国から遠くない」と語るところから、十把一絡げで律法学者の問題を扱ってはいません。むしろ名もない群衆が惑わされがちなところを指摘しているようです。さらには「やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする」という箇所を踏まえますと、ともすれば人々にありがたがられていた律法学者もまた、その時代の富裕層に属していたとも言えます。そうなると律法学者も42節の「大勢の金持ち」の仲間入りをします。では次にイエスが示したのは誰だったのでしょうか。人の子イエスは佇む場所を変えて、神社の賽銭箱ならぬ神殿の献金箱の向かいに座ります。「大勢の金持ちがたくさん金を入れていた」とありますが、これは暮らしの中からあり余る富を献げているのに過ぎません。見栄も虚勢もあるでしょう。しかし異彩を放ったのは、富裕層に食い物にされているはずの「一人の貧しいやもめ」でした。このやもめの眼差しはどこに向けられていたのでしょうか。群衆でしょうか。大勢の金持ちでしょうか。献げられるお金そのものでしょうか。そうではありません。眼差しはあくまで神に向けられています。やもめの献げた献金は1クァドランス。これは労働者の日当である1デナリオンの64分の1とされますから日当を8,000円とすると124円ほどとなります。124円で一日を暮らすのは常識的には不可能です。ひょっとしたらこのやもめは住まいを転々とする暮らしを続けていたのかも知れません。しかしイエスは弟子に「あの女性を見なさい、暮らしの余りを献げたのではなく、暮らしのすべてを神に委ねたのだ、それは金持ちには比較にならないほどの献げ物なのだ」と示すのです。やもめの心情は描かれず、ただその振る舞いが記されます。凄みすら覚えます。

  『旧約聖書』の世界では、神への献げものには、聖別された羊や牛が用いられましたが、福音書ではわたしたちの日常と同じく貨幣経済が力を振るっています。その現実の中で、暮らしのすべてを神に委ねたやもめが描かれます。このやもめは暮らしの中でこのように隣人を愛し、慈しんできたのでしょう。まさに貨幣では表わしきれない恵みを感じてきた女性であるとも言えます。イエス・キリストは病を癒した相手に見返りを求めたことは一度もありません。癒された人はその喜びを別の人に伝えていきます。それもまた奉仕だと言えます。献金とは困っている人のために呼びかけはしても保身のために執拗に求めるものではありません。神の国と神の義をまず求めましょう。神の愛に応えるやもめの姿に、キリストはいつわりない神への信頼を見抜き、今も示します。

2022年9月9日金曜日

2022年9月11日(日) 礼拝 説教 (コロナ禍対策により対面式の聖日礼拝は休止させて頂きます)

  ー聖霊降臨節第15主日礼拝 ー

時間:10時30分~

※コロナ禍対策により
しばらくの間会堂を用いずリモート中継礼拝・録画で在宅礼拝を執行します。
状況に変化があれば追って連絡網にてお伝えします。
 

説教=「喜びと苦しみをともにする愛」 
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』  12章28~34節
(新約聖書87頁)

讃美=298(1.2),399,541.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


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【説教要旨】
  小・中学校で「運動会」が行われる季節となりました。わたしは世代として、かなり昔気質な運動会を経験しております。当日の朝は信号弾のような花火が打ちあげられます。そして会場の校庭にはロープが張られ、その外側には敷物に座って保護者がお弁当も一緒にしながら見物。今考えれば、紅白に分かれて相手を倒すという発想に、児童よりも大人が悦に入っていたようでした。それでは身体に障碍があったり、知能に障碍があったりというこどもたちがいたのか。これが記憶にありません。故郷の小学校にはそのような学級はなく、その後転居した東京でも記憶にありません。中学校では「特殊学級」というずいぶんな名称のクラスが設けられていました。その教室の生徒と関わる時間は設けられていません。家族に障碍のある生徒もいたはずなのですが、みな誰にも語りません。思えば当時の教育の現場では、多様性を尊ぶよりも、概して生徒を型にはめるのが好まれていたのかもしれません。集団行動で「勝負事」に臨ませ、それに向かない生徒は協調性がないとされ、決してよい印象をもたれません。
  そのように、何かと人を枠にはめたがる眼差しには、本日の『聖書』の箇所はかなり異様に映るのではないでしょうか。なぜなら、古代ユダヤ教での律法学者、ファリサイ派と呼ばれる人々は、イメージとしては絶えず人の子イエスに論争を挑んできたり、病を癒す行為に文句をつけたりする常習者のように受けとめられがちだからです。わたしたちの集う教会ではあまり聞かない話で幸いなのですが、「あの人はクリスチャンらしくない」「あの教会は教会らしくない」とレッテル張りばかりしている人の態度を「ファリサイ的だ」と呼ぶ場合があります。けれども実際のファリサイ派、律法学者は今でいう『旧約聖書』のテクストを徹底的に読み込み、その解釈が妥当かどうかを論じあい、その態度から民衆からも尊敬されていたと申します。もし問題があるならば、やはりどれほど研鑽を積んだと申しても、人は誰であれ他人を型にはめなければ安心できないという呪縛が露わになった時です。そこには排除があり、虐げがあり、蔑みがあり、傲慢さがあります。それは破れに満ちた人間であれば誰にでもおきることです。
  本日の箇所で描かれる律法学者は、復活をめぐる問答で示された鮮やかな『律法』の解釈に感じ入り、人の子イエスに敬意をもって問い尋ねます。「あらゆる掟の中でどれが第一でしょうか」。イエスが応えるには「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聴け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい』。この二つにまさる掟はほかにない」。『申命記』6章4~5節、『レビ記』19章18節の誡めを、主イエスは活きいきと語るのです。人を貶めるための誡めではなくて、いのちを活かすための誡めをイエスは語ります。第一の誡めは、いわば垂直線。神と人との関係です。第二の誡めは、自らを受け入れるように、隣人を受け入れたことで広がる、水平線のありかた。この垂直線と水平線の重なるところに、イエス・キリストは立っておられます。そしてその言葉は、イエスに尊敬の眼差しを向ける律法学者にも向けられています。イエスやその弟子と律法学者は論争ばかりしていたとの先入観に惑わされるわたしたちの心の壁が崩れ落ちる瞬間であり、なおかつ律法学者に向けては、十字架の苦難の兆しの中で、神の愛を自ら証しされた瞬間でもあります。律法学者は答えます。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています」。イエスはこの律法学者に答えます。「あなたは、神の国から遠くない」。人間が自分の経験を通さなくては理解できない「隣人」という言葉を突破するのが神への愛だとするならば、この律法学者もまた、自分の抱えていた様々な壁や型というものをイエス・キリストによって突破されたといえるでしょう。古代ユダヤ教が定める「隣人」から、それが誰であれ、神の愛が備えた「隣人」へとその意味合いは移ろいます。この変化の中で初めて神が備えたいのちが脈打ち、また「神の国から遠くない」という言葉の中で、この律法学者にもイエス・キリストは同伴者としてともにあゆんでくださるという、全く予想しなかった展望が拓かれます。何が壁だというのでしょうか。何が障碍だというのでしょうか。障碍とは、神を知らない世が定めるところの型を基準としたものであり、神との関わりの中では、前人未踏の可能性が秘められている「いのちの秘義」なのです。
  先日9月6日(火)、泉北ニュータウン教会にも特別伝道集会を始めし、様々な関わりのある「(福)汀会 止揚学園」の創設者・福井達雨先生が、90年のご生涯を全うされました。福井達雨先生の生涯は、自らもまた「あの人は気が変になっている」と呼ばれるのを臆さず、知能に障碍をもったこどもたちを「仲間」と呼び続け、支え続けたその一点に要があります。わたしたちもぜひとも、さまざまな先入観や、弱さへの蔑みから解放されたいと願います。弱さを聖なるものとして神が祝福されているからです。

2022年9月2日金曜日

2022年9月4日(日) 礼拝 説教 (コロナ禍対策により対面式の聖日礼拝は休止させて頂きます)

  ー聖霊降臨節第14主日礼拝 ー

時間:10時30分~

※コロナ禍対策により
しばらくの間会堂を用いずリモート中継礼拝・録画で在宅礼拝を執行します。
状況に変化があれば追って連絡網にてお伝えします。
 

説教=「見捨てられた者が暮らしの中心に」 
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』  12章1~12節
(新約聖書85頁)

讃美=519,522,541.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

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【説教要旨】
  ウクライナ戦争が始まる前の話。欧州をはじめ世界各国で盛りあがったのは「脱・炭素運動」でした。その動きは徐々に具体性を帯び、地球温暖化につながるとされる大気中の二酸化炭素削減のためだとして、2030年代には日本でもガソリン燃料の自動車の新車販売が禁止され、その後に販売される自動車は水素や電気などクリーンエネルギーを燃料とする長期計画が立案されました。この計画はすでに動き出しています。日常で感じている環境の激変や温暖化の原因を化石燃料の消費に求めた上での構想。水素電池を用いれば、あるいは高性能のバッテリーを用いれば安らかに暮らせるというPRがなされています。
  しかしそのPRとは裏腹に、北半球での脱炭素社会を目指す運動が進むほど、環境破壊が酷くなる地域があることも忘れられません。高度なクリーンエネルギーの実現には、レアメタル、特殊で貴重な鉱物資源が不可欠です。その結果、南米であればブラジルやベネズエラ、アフリカであればコンゴといった地域の地下資源が採掘されます。南米の場合は森林を伐採し先住民の暮らしを犠牲にして、コンゴであれば内戦に乗じて、という具合です。その被害は焼畑農業のダメージを凌ぎます。今やアマゾン川はレアメタルの精錬に伴う重金属で汚染され、沿岸で水産資源を用いて暮らす人々が水俣病やイタイイタイ病の害を受けています。地球環境を救うといいながら、開発途上国にしわ寄せがいくというしくみ。このしくみをすべて変えるためには、わたしたちも某かの不便さを分かちあう覚悟が求められます。しかし人間は、なぜか常に楽園を自分の手で作れるものだという錯覚に陥りがちです。
  本日の『聖書』の箇所で記される譬え話では、ぶどう園の自作農が登場します。福音書に限らず『旧約聖書』の物語でも、ぶどうは農作物としては麦に劣らぬ収穫物として尊ばれます。そのまま食べてよし、ドライフルーツにしてよし、果汁を発酵させればぶどう酒となり、それを蒸留させれば香水にすらなり得ます。お酢も作れます。また生い茂るその葉はキャベツのように用いられ、無駄が一切ありません。第一次産業が暮らしのほぼすべてを占めていた時代には加工の仕方によっては巨額の富すら手に入れられるのです。そしてこの自作農である主人は雇用する農夫を全面的に信頼し旅に出ました。時が経ち収穫を得るために第一の僕(しもべ)を遣わしますが、残念ながら農夫はこの僕を袋叩きにし、何も持たせずに帰します。次に遣わされた僕は頭を殴られ侮辱される目に遭わされます。ついには多くの僕が遣わされますが、狼藉を受け、殺害されます。豊かなぶどう園を委ねられた農夫は主人からの信頼に応えるどころか徹底的に反故にするのです。この僕たちの姿には『旧約聖書』の預言者、農夫にはイスラエルの民と連なる諸国の民が重なります。ぶどう畑の主人に遺されたのはたった一人の愛する息子。「わたしの息子ならば敬ってくれるだろう」と主人はわが子をぶどう園に遣わします。しかし農夫は謀をめぐらします。もはやその内容は農夫のそれではなく、犯罪組織の打ち合わせのようにも響きます。「跡取りを殺害しよう。そうすれば相続財産はわれわれのものだ」。物語ではこの息子は殺害されて遺体はぶどう園の外に遺棄されます。何と恐ろしい譬えでしょうか。そしてこの物語は何を示しているというのでしょうか。
  「さて、このぶどう園の主人はどうするだろうか。戻ってきて農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。その時代のユダヤ教の正典であるところの『聖書』にはこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の棄てた石、これが隅の親石となった。これは主がなさったことで、わたしの目には不思議に見える』」。イエスはこの恐ろしい譬え話をこのように結びますが、正直にいえば、この話を聞かされた、祭司長や律法学者、長老以上に、わたしたちは戸惑います。いったいこのまとめは何を意味するのか。大きな飛躍がそこには隠されています。それは、殺害され捨てられたはずの救い主が復活し、新しい交わりの基となるということです。さらには仲間はずれにされ、闇に埋もれ、不条理に苦しみ、そして消されていった人々もまた、キリストを軸とした交わりにつらなり息を吹き返すのです。その枝には、わたしたちの暮らしもつながっています。
  『ヨハネによる福音書』15章5節にはこうあります。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」。イエス・キリストにつらなる者は、時には社会や暮らしの中で無視され、黙殺され、見捨てられた痛みを知る者です。しかしその痛みや弱さを知るからこそ、自らの力に溺れ、幸せを独占しようとするのではなく、絶えず誰かと分けあおうとするのです。もしぶどう園の農夫がこの「分けあう喜び」を知っていたというのであれば、悪政を行った王の手下やマフィアのようにはならなかったことでしょう。そしてそこにわたしたちの希望もまた隠されています。まだまだコロナ禍明けぬ9月。それでもわたしたちは、キリストに連なり、豊かな実りを楽しみ、新たな歩みを起こす、あふれる希望の光の中にいます。わたしたちが忙しさを始め様々な理由を重ねてなかなか顧みようとしないところに、キリストは立っておられます。