2020年7月31日金曜日

2020年8月2日(日) 礼拝メッセージ(自宅・在宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝も行われます。)

「神の平和の実現」
『ヨハネによる福音書』6章24~27節
説教:稲山聖修牧師
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新型コロナウイルスが原因となり、社会のあちこちで想像しなかった変化が生じていることに、わたしたちは無関心ではおれない日々が続いています。可能な限り感染機会を避けるためにリモートワークがあちこちで奨励され、スマートフォンやタブレットパソコンがより身近な家電になっています。時差出勤が勧められた結果、ラッシュアワーも時間としては長続きしなくなりました。大学では対面授業よりもオンライン講義が主流となり、動画と資料を作成しては大学のパソコン上の窓口に張りつけるという作業が夏休みまで続きました。一度も担当学生の顔を見ないままで果たして講義と呼べるのかとの疑問を抱えながらも、多くの支えと励ましの中で乗りきることができました。
けれどもどうしても対面式でなければできない仕事もあります。医療や福祉が筆頭にあげられるでしょうし、教育でもあくまで当座をしのぐ手段としてリモートワークが勧められるのであって、それで万事問題なしというわけにはまいりません。あくまでも柔軟な対応が求められます。一度決めたからといって絶対に変更ができないというありかたは、状況が二転三転する現状には相応しくありません。なぜなら「一度決めたから二度と変更ができないという硬直したありかた」がもたらす悲惨な結果をわたしたちは75年前に見せつけられているからであります。
アジア・太平洋戦争に従軍した親族の一人に、わたしの場合は母方の祖母の弟、すなわち大叔父にあたる人物がおります。学徒出陣で出征するにいたったその人は戦争中・敗戦直後には秘匿されていたのですが、復員した仲間の報せによって、現在のミャンマーで「中国を支援するイギリス軍を撃退する」とのインパール作戦に従軍、戦死したと分かりました。インパール作戦は2000メートル級の険しい山岳地帯を重火器を抱えたまま登り降りして大河を渡り、食糧は重火器の運搬に用いた家畜とするという杜撰な内容でした。日本軍の補給線は伸びきり、弾薬も食糧も届きません。要するに作戦は初めから破綻していたのですが、将官クラスの軍人を大本営構成員の門閥で固めたため、誰も問題点を指摘せず、作戦中止を進言する者もいません。天皇の前で責任が問われるからです。下級将校や下士官・兵は満足な飲み水さえも与えられない中で飢えと悪疫で斃れていきます。雨期を迎えたジャングルの水には様々な雑菌に汚染されているからです。将官クラスの軍人は部下を見棄て状況視察の名の下に戦線を離脱します「一度決めたので絶対に変更は不可能な命令」。その中で大叔父も落命していったと思うと悔しくて仕方ありません。
祖母の話によれば、無教会主義の集会との関わりで大叔父は聖書をよく読んでいたと申します。カファルナウムという当時のユダヤの民からすれば異邦人の土地で、わたしたちと同じように日々の暮しに振り回されがちな名もない群衆に「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べものである」との箇所の意味を問われたことがあったとはっきり記憶していました。補給線の絶たれた敗残兵の中には戦場から落伍してその土地の人々のもとに落ちのび、助けてもらったお礼にその土地に住みついて、復員を諦める代わりにそこで家庭をもち、一生をかけて村への恩返しに尽くした未帰還兵が近年まで存命され、苦労されながらも家族に恵まれて生涯を全うしたとの話も少なからず聞きます。極限の中で生きる喜びに目覚めて余命を繋いだ人々もいたという話に大叔父の姿を重ねました。いのちは補充の効くものではありませんし、逝去された方々をも主なる神は決して忘れません。教会はそのような惨い歴史を聖書に重ねて受け入れながら、いのちの事柄に深く関わりをもつ交わりを育んでまいります。前線にいたるまでのその道は、戦死者や餓死者の骨で溢れ、白骨街道と呼ばれていましたが、そのような死の谷にうち捨てられた亡骸に神の霊が注がれるとき、それらの人々は復活するとの物語がすでに旧約聖書の『エゼキエル書』には記されています。雨期の長雨と高い湿度の中で軍刀や銃の部品が錆びていく中で、兵士が最後まで手放さなかったのは飯盒であったと申します。今の世にあってもひもじさを抱えているご家族のあることを一層身に詰まされている中で、絶えず移り変わる世のあり方に柔軟に応えていくことこそが、イエス・キリストの愛の力によって視野を広げられたわたしたちに求められているのではないでしょうか。責任を問われることを恐れて何もしなかったり、批判に耳を塞いで頑なになるよりも、飢えに苦しむ人が憧れた、豊かに実った麦や稲穂のように、神の前に頭を垂れつつ、今迎えている各々の困難な状況、涙とともに吠えるしかない事情に向けて柔軟に対応することこそ、世の全ての命令に先んじるイエス・キリストの約束です。それは復活の光に照らされた喜びの約束であり、永遠の命にいたる糧の約束であり、次の戦に怯えることのない、シャロームに包まれた平安なのです。風聞に惑わされず、国を超えた交わりと連帯の中で神の平和を証ししましょう。

2020年7月24日金曜日

2020年7月26日(日) 礼拝メッセージ(自宅・在宅礼拝用です。当日、礼拝堂での礼拝もございます。)

「荒波を踏み越えるキリスト」
『ヨハネによる福音書』6章16~21節 
説教:稲山聖修牧師

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朝令暮改という言葉は、イエス・キリストが世に遣わされる180年から150年ほど前、農民の労働に苦しむ中、さらに命令が一定せず振り回される様子を訴えた古代中国の故事に源をもつとされます。今もわたしたちは二転三転する行政の指針を受けては不安の渦の中で科学的には全く根拠のない偏見や思い込みを被り消耗しているようです。豪雨の中で水害や土砂災害だけでなく衛生面での問題を乗りこえられず廃業に追い込まれた店舗や会社もまた数知れません。新型コロナウィルス感染症の行方は2011年に起きた震災と同じように状況が見極められないままでいます。嵐の中におかれた舟は雨雲が過ぎるのを何の希望もなくただ待つほかにないというのでしょうか。
 本日の聖書の箇所はイエス・キリストが湖を歩くという字義通りにとれば荒唐無稽でありながら、しかし丹念に辿ってまいりますと決して侮れないメッセージを聴きとれる箇所です。イエス・キリストが湖の上を歩くという話。これはCGなどで画像を描くほど聖書が言わんとするところから遠ざかってしまうところでもあり、またそれは浅瀬を歩いてきたというような尤もらしい説明でも同じような混乱を招く箇所でもあります。ただ実に興味深いのは、イエス・キリストの十字架の死と復活の出来事からおよそ40年を経て成立した『マルコによる福音書』、旧約聖書に記された預言の成就を描くためにその10年後に成立した『マタイによる福音書』、さらにその10年後に他の福音書を踏まえながらも、ギリシア語文化圏としてのローマ帝国による支配領域を視野に収めてイエス・キリストの救いの出来事をより巧みな表現でもって描いた『ヨハネによる福音書』という、それぞれ異なる課題に向き合っていたはずの異なる状況の教会で、一定の編集が行なわれながら一貫して掲載されてきた理由には、教会が決して疎かにできないメッセージが隠されているからに他ならないでしょう。三つの福音書に共通するのは、イエス・キリストが5,000人の群衆にパンと魚を分けあった物語の後であるというところ、そしてパンと魚を分けあった物語が大勢の群衆が登場する物語であるのに対して、イエス・キリストが湖の上を歩いたという物語では群衆は一旦舞台から退き、十二弟子との関わりの中で編まれているという点です。つまりイエスとその弟子、そこにはシモン・ペトロもイスカリオテのユダも含めて、キリストとの実に近い関係者を踏まえた上での話となっているのです。概して大勢の人々を喜びで満たした後には、言い尽くしがたいほどの充実感や喜びが余韻となって残るのが人間というものでありますが、イエス・キリストは自らの弟子がその余韻に浸る暇を与えません。事件は同じ日の夕方に起きます。当時の一日は日の出から日没までであり、夜は人間が本来活動する時間ではありません。それは闇の時間です。その闇の中で弟子はイエスのいないまま舟に乗り込むや否や「強い風が吹いて、湖は荒れ始めた」というのです。実際にガリラヤ湖で季節風が吹くときには小さなボートなど転覆するような勢いの波が舟を襲います。これがあらかじめ予測できていたならば、漁師を生業にしていた弟子もいますから舟を漕ぎ出しはしなかったはずですが後悔先に立たず。30スタディオンは概ね5,5キロメートル。今さら後戻りはできません。その中でイエス・キリストは荒波をものともせずに舟に近づいてまいります。
湖畔に暮らす人々には湖とは暮しとは切り離せない場所でした。しかし波に溺れてしまえば自力では決して助かる見込はないことも知っています。人々は荒れ狂う湖に世を重ね、舟をノアの箱舟の物語になぞらえて救いの場として教会を描きました。しかし今朝の物語に則するならば簡単にはこの世の波風は決して治まりません。その点では決して楽観的ではありません。福音書が記される途半ばの教会の礼拝はカタコーム、すなわち地下にある墓地を用いて行なわれていました。なぜならローマ帝国は公認しない結社を決して放置しなかったからです。しかしそのような世にあって、イエス・キリストは教会を世の深みの中に沈むままには決してされません。弟子一人ひとりは5,000人の群衆を五つのパンと二匹の魚で満たした、今日でいう「成功体験」からも自由にされて、目指す地に着いたのです。
世の嵐にあるとき、わたしたちは過去の成功体験にがんじがらめにされ、却って身動きがとれなくなる場合があります。思いますに、もしあの成功体験に囚われていたならば、弟子たちはイエス・キリストとの関わりを果たして保ち得たのでしょうか。「わたしに向かって『主よ、主よ』という者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行なう者だけが入るのである」(マタイ7章21節)。荒波のただ中で、イエス・キリストはわたしたちに迫ってまいります。闇の中にいてもなお、わたしたちが平安であるようにともにいて、行く手を示すためにであります。闇の中で輝く光を放つ御言葉を、何度も繰り返し味わいつつ、キリストが示す新たな道を求めていきましょう。

2020年7月17日金曜日

2020年7月19日(日) 礼拝メッセージ(自宅、在宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝もございます。)

「選ばれた<棄てられた者>」
『ヨハネによる福音書』5章24~30節 
説教:稲山聖修牧師

動画は、こちらをクリック又はタップしてご覧ください。
 教会がキリストの枝として、そしてともに仕えあう交わりとして礼拝を献げる。単に世にある者の集まりに留まるのではなく、天に召された兄弟姉妹、すなわち神の家族とも仲間とも呼ぶべき方々ともともに礼拝を献げるという理解に立ちますと、イエス・キリストの十字架での死を見つめるわざを避けて通ることはできません。十字架での死。これは同時にわたしたち自らの身体も生涯を全うした際には世にある役目を終えることをも意味しています。先月・今月と教会員・教会員のご家族の訃報が相次ぎましたが、それはわたしたちの生涯に等しく向けられた厳粛な事実であり問いでもあります。ある自治体の斎場では、職員が棺を搬入し釜の扉を閉めますと、家族・近親者に点火ボタンを押すようにと勧められるところがあり、突然の申し出にご遺族が困惑する場面に居合わせました。ご心痛いかばかりかという思いに駆られ、自分がそのボタンを押す役目を申し出て「みなさんいいですか、聖書では肉体はサルクスと申します。これはやがて朽ちていく身体を指しています。けれども、この方が生きておられた、存在されていたという事実は、神がおられる限り決して忘れられることはありません」と語り、指に力を込めました。心に重い塊を抱えて帰宅したのですが、それでもなお、わたしたちもまた復活に定められているとの確信、そして神の愛が世界全体をつつむときにはキリストのみならず、逝去されたあの人この人も、新たにされた姿で再会するとの終末の約束が聖書には記されます。その時に肉体の死が決して生涯の終わりではないと深い確信とともに頷くのです。
 けれども同時にわたしたちは、肉体の死とは異なった、神に棄てられるという意味での滅びを知っています。十二弟子の一人にイスカリオテのユダという人物がいます。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず人間のことを思っている」と𠮟られたシモン・ペトロと同じく、イスカリオテのユダには悪魔が入ったという書き手の言葉が『ヨハネによる福音書』では度々記され、イエスにナルドの香油を注ぐ女性に「その香油を300デナリオン」、すなわち銀貨300枚で売ればよいのにと咎め立てをしながらも、他方で『マタイによる福音書』では銀貨30枚、すなわち香油の十分の一の価格でイエス・キリストを、敵愾心に満ちた祭司長の下役に引き渡すというわざに及んでいます。ユダはイエスに接吻をして挨拶をするというまことに近い距離におりながらも「裏切者」という好ましくないラベルを貼られて今日にいたっています。しかしながら『マタイによる福音書』でイスカリオテのユダが30枚の銀貨を祭司長に返そうとしながら「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」とイエス・キリストが正しい人であったことを証言したその言葉は、『ルカによる福音書』では十字架に架けられたイエス・キリストの傍らで「この人は何も悪いことをしていない」と語るところの、同じく十字架での死を迎えようとしている死刑囚の言葉に重ねられるとの指摘があります。この十字架で交わす死刑囚との交わりが教会の本来の姿だと指摘する人もいます。それでは、イスカリオテのユダは孤独の中で絶命すべきであったと、わたしたちは今なお是が非でも言わねばならないのでしょうか。
 イスカリオテのユダが神に救われたのかどうか。それはわたしたち一人ひとりもまた、自らが救われているのかどうかを究極的には神に委ねなければならず、自分の考えを超えては断定できないところにも重なります。もちろん、文学や藝術でのイメージにも拘わらず、イスカリオテのユダが十二弟子の一人としてイエスとともにいたのは確かです。「裏切る」と言い表された言葉は実は「引き渡す」という意味をもっています。それは使徒パウロがイエスと出会う前にキリスト教徒をエルサレムに「連行」したとの言葉にも重ねられ、そして遂にはパウロ自らの手紙で用いる「言い伝える」との言葉にも重なるところを考えますと、イスカリオテのユダも神に用いられたと頷くほかありません。
それではわたしたちは何を言い伝えるのでしょうか。それは死に対して勝利されたイエス・キリストです。そしてそれは多様でかつささやかな暮しを通して伝えられます。誰が救われるのかと問われるとき、わたしたちは「わが神わが神、なぜわれを見捨て給いし」との十字架のイエスの叫びを聴きます。イエス・キリストは神に棄てられた者と歩みをともにされました。今朝の箇所では「死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である」とイエス・キリストは安息日の癒しのわざを咎める人々に語りました。新型コロナウイルスの報せに狼狽えては思い悩む、破れに満ちたわたしたちではありますが、同時にこの病が世の権力を脅かしているとの事態に思いを馳せますと、暫く延期している聖餐式を重ねる主の晩餐の席に、世の力に弄ばれたように見えるユダも招かれていたとの聖書の記事を思い出します。神に棄てられた者の叫びをともにしたイエス・キリストは、神を見失いかけているわたしたちの痛みも、ともにしています。世にあるわたしたちは、すでにいのちの主であるキリストに「引き渡されて」いるのです。

2020年7月10日金曜日

2020年7月12日(日) 説教・動画(自宅・在宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝も行われます。)

「真の統治者イエス・キリスト」
『ヨハネによる福音書』4章46~50節
説教:稲山聖修牧師

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社会情勢が逼迫したり、あるいは自然災害や疫病などの危機が人々の暮しを苛んだりしておりますと、たとえ自主独立を重んじる人々でさえ、頼るべき象徴を求めるようになります。権力者の神格化や個人崇拝がもたらす悲劇にわたしたちは常々心を痛めておりますが、民主主義を標榜し個人主義を重んじる国でも人々は象徴を求めます。
それでは新約聖書が描く世界となりますと誰がそのような象徴的な役割を担っていたのでしょうか。確かに政治権力の最高峰に立っていたのはローマ皇帝でありましたが、その支配に滞りが生じた場合の保険として、支配地ではかつての王の係累を担ぎ出し、その支配を強めながら民衆の反感を一身に担わせる巧みな政策が行なわれていた模様です。民衆の反感が民自らの象徴に向かうことによって、ローマ帝国は人々を分裂させ支配を一層強めるという政策が行なわれていました。紛争があれば治安部隊を派遣して監視する口実を得られます。洗礼者ヨハネの首を刎ねた領主ヘロデ・アンティパスはクリスマス物語に登場するヘロデ王の息子。その人柄はさておき、ヘロデ・アンティパスもまたローマ帝国の支配の中で、いつでも交換のできる象徴としての役目を与えられていたとも言えるでしょう。
ですから今朝の聖書の箇所で描かれるローマ帝国の軍隊が常駐する町・カファルナウムに「王の役人」がいたとしても、決して不思議な話ではありません。『ルカによる福音書』ではローマ軍の百人隊長の僕にでさえイエス・キリストは癒しのわざを行ない、隊長の任を担う将校に「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と語った舞台となる町。その町にいたと記される「王の役人」です。ヘロデ王の係累のもとで働いていたところで、カファルナウムに暮らせば領主ヘロデの立場の危うさも聞こえます。権力者は保身に汲々とするもの。そのもとで働いていたであろう「王の役人」。息子が病に罹患し、瀕死の状態にあったと申します。イエスのもとを訪ねるのは役人の身の上にとっては実に危ういことであったと思われますから、おそらくは自分の主人である王には何も言わず、役人はイエスのもとを訪ねたのではないでしょうか。
領主ヘロデは洗礼者ヨハネの首を刎ねただけでなく、十字架への歩み、その裁判の中で多くの世の権力者にたらい回しにされ、引き渡されていく中でただ沈黙するイエス・キリストを侮辱して総督ピラトのもとに送り返した人物でもあります。しかしながらそのもとで働く人々、例えばヘロデの執事の伴侶であるヨハナという女性は、実に献身的にイエスに仕え、復活の出来事の場に居合わせてもいます。危うい一線を超えているのです。イエス・キリストの救いのわざと申しますのは、世にあって属する組織や国など様々な分断の壁を問うことなく臨んでまいります。それは本日の箇所でも何ら変わりません。「あなたがたは、しるしや不思議なわざを見なければ決して信じない」。「主よ、こどもが死なないうちに、おいでください」。イエス・キリストと、助けを乞う役人の対話は当初は決して噛み合いません。しかしキリストは息子のために危うい一線を超えた役人の言葉を聞き逃しませんでした。「主よ」。本来ならばこの言葉は、この時代の世においては領主ヘロデを超えて、皇帝を呼ばわる場合にのみ用いられるはずです。けれどもローマ皇帝も領主ヘロデも、役人の息子のいのちを救う権限をもってはいません。その意味ではわが子との関わりの中で役人の新しい歩みが始まった瞬間が描かれているとも言えます。わが子のいのちを病から救いあげてくださる方こそが主であり、その主こそがイエスであると意図せずして役人は告白しているのです。分断や憎しみを超える鍵がこの物語には隠されています。「帰りなさい。あなたの息子は生きる」。実に強い口調です。翌日家路を急ぐ役人のもとに使いの僕がやってまいります。「あなたの息子は生きる」とイエス・キリストが宣言したときに、息子のいのちは峠を越し、持ち直してしまった。そして、役人も家族もこぞって思わず口走った「主よ」という言葉を受け入れたのです。そこにはもはやヘロデの役人の姿はなく、一人の父親が家族とともにいたのです。役人の真の姿が露わにされた瞬間です。イエス・キリストの眼差しは、危うい一線を超えて助けを求めた役人が、世にある立場をすべてキリストに委ねたように、徹頭徹尾外に向けられています。その眼差しは、計り知れない力をもついのちを授ける父なる神に向けられています。いのちを絶つ仕業はどの為政者にもできます。隠蔽や数値の改竄もどの為政者にもできます。けれども危うい一線を超えて、憎しみや恐れの壁を越えて、いのちを活かすわざが行えるのはイエス・キリストだけです。真の統治者の姿があります。助けてくれとの切なる思いとともに、キリストを全面的に信頼する中で授かる知恵によって、混迷の時代に進むべき道、何をすればよいのかとの問いかけに相応しい道を授かりたいと願います。

2020年7月4日土曜日

2020年7月5日(日) 説教(自宅・在宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝もございます。)

「目をあげて畑を見なさい」
 『ヨハネによる福音書』4章31~38節
説教:稲山聖修牧師
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 教会への往復に、わたしは泉北高速鉄道の泉ヶ丘駅を利用しています。スーパーだけでなく駅の改札口付近にはATMもあり、ドラッグストアもありコンビニもありで少なくとも不便ではない環境が整えられており、たまに少々割高ながら文房具や電池、暑い時には業務用のアイスボックスなどを眺めもいたします。ところで、先日少々ショッキングな品物を見つけました。朝食がパン食である方にはお馴染みのメーカーにアヲハタというブランドがあります。この会社からイチゴをそのまま凍らせた「季節限定フローズンストロベリー」という商品を見つけたのです。第一印象としては何だろうと怪訝に思うほかありませんでした。と申しますのもイチゴは実に柔らかく繊細なフルーツでもあり、そのままいただく以外にはジャム以外に加工する術を概ね持ちません。イチゴミルクやイチゴジュースといった商品に入っているのはイチゴ風味のフレーバーを用いていることとなります。すっきりしない思いを抱えておりましたら、なるほどと感じ入る報道に触れました。それは本来ならばイチゴ狩りが行えず、イチゴが食べごろになっては廃棄せずにはおれないという「何のために丹精を込めてイチゴを育ててきたのか」と自問自答する農家のため息でありました。申すまでもなく緊急事態宣言下の期間です。人が集まれば三密の環境ができてしまい、小学校や家族連れの予約がキャンセルになる。しかもイチゴはインターネットでの販売にはそのままの仕方では堪えられません。となれば保存のためには凍らせるしかないのですが、解凍すれば味が損なわれてしまうのでこれも商品になりません。ではそれならばという苦肉の策が先ほどのフローズンストロベリーにいたったのだろうと気づかされました。農家も会社も生き延びるのに必死な時代であります。
 今朝の聖書の箇所では「食事」と「刈り入れ」との言葉をイエス・キリストはセットで用いています。「その間に弟子たちが『ラビ、食事をどうぞ』と勧めると、イエスは、『わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある』と言われた。弟子達は、『だれかが食べ物を持ってきたのだろうか』と互いに言った。イエスは言われた。『わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、そのわざを成し遂げることである。あなたがたは『刈り入れまでまだ四ヶ月もある』と言っているではないか』」。「食事」と「刈り入れ」がセットであるということは、キリストは目の前にあるパンがどのような段取りを経て身体の養いになる道筋を見据えながら言葉を紡いでいるとも読取れます。そしてその「刈り入れ」の前提として畑があり土作りがあり、必要に応じて水路を切り拓き灌漑を行なうというところにまで思いは及んでいたことでありましょう。それら一連の作業では、一つひとつの働きが一期一会のタイミングを必要としています。「刈り入れまでまだ四ヶ月もある」というならば、その時に刈り入れなければ麦が発芽して粉にするには使い物にならなくなってしまいます。これは重大なことです。続けてイエス・キリストが語るのは「わたしは言っておく。目をあげて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、ともに喜ぶのである』」とあるように「永遠の命に至る実」であり、「種を蒔く人も刈る人もともに喜ぶ」とあります。「永遠の命に至る実」とは『創世記』で「エデンの園」にあった善悪の知識の木と並んでそびえていた木にある、本来は人が触れてはいけないはずの実なのですが、その実は決して唯一のものではなく、麦の実りのように畑を埋め尽くしており「その種を蒔く人も刈る人もともに喜ぶ」とあるのです。福音書に記されているように、洗礼者ヨハネが伝えたのが神の審判であるならば、イエス・キリスト自らが宣べ伝えているのは「永遠の命を分かち合う喜び」であります。しかもキリストは、本来はユダヤの民と一緒に天を仰ぐなどあり得なかったサマリア人の土地でこの言葉を語っているというところに注目したいところ。なぜなら恩讐を超えたその実りが「イエス・キリストを世に遣わした神の御心を行ない、そのわざをなしとげる」わざでもあるというからです。わたしたちもすでに、自分では労苦することなく授かった実りを授かりながら日々を過ごしています。日常の事々もそうであり、おそらくこれからやってくるであろう新型コロナウイルスの流行の第二波にあったとしても、わたしたちも、そして教会も刈り入れのための報酬を必ず備えられるに違いありません。先週の日曜日には大切な教会員の告別式をみなさまの祈りの中で執り行うことができました。100年というご生涯は順風満帆な事柄ばかりではなかったはずです。けれどもその中で過ごされた歳月だからこその歩みを見せつけられた思いがいたしました。苦しいとき、辛いとき、イエス・キリストの示す畑を見あげて、喜びにあふれたいと願います。