2020年7月10日金曜日

2020年7月12日(日) 説教・動画(自宅・在宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝も行われます。)

「真の統治者イエス・キリスト」
『ヨハネによる福音書』4章46~50節
説教:稲山聖修牧師

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社会情勢が逼迫したり、あるいは自然災害や疫病などの危機が人々の暮しを苛んだりしておりますと、たとえ自主独立を重んじる人々でさえ、頼るべき象徴を求めるようになります。権力者の神格化や個人崇拝がもたらす悲劇にわたしたちは常々心を痛めておりますが、民主主義を標榜し個人主義を重んじる国でも人々は象徴を求めます。
それでは新約聖書が描く世界となりますと誰がそのような象徴的な役割を担っていたのでしょうか。確かに政治権力の最高峰に立っていたのはローマ皇帝でありましたが、その支配に滞りが生じた場合の保険として、支配地ではかつての王の係累を担ぎ出し、その支配を強めながら民衆の反感を一身に担わせる巧みな政策が行なわれていた模様です。民衆の反感が民自らの象徴に向かうことによって、ローマ帝国は人々を分裂させ支配を一層強めるという政策が行なわれていました。紛争があれば治安部隊を派遣して監視する口実を得られます。洗礼者ヨハネの首を刎ねた領主ヘロデ・アンティパスはクリスマス物語に登場するヘロデ王の息子。その人柄はさておき、ヘロデ・アンティパスもまたローマ帝国の支配の中で、いつでも交換のできる象徴としての役目を与えられていたとも言えるでしょう。
ですから今朝の聖書の箇所で描かれるローマ帝国の軍隊が常駐する町・カファルナウムに「王の役人」がいたとしても、決して不思議な話ではありません。『ルカによる福音書』ではローマ軍の百人隊長の僕にでさえイエス・キリストは癒しのわざを行ない、隊長の任を担う将校に「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と語った舞台となる町。その町にいたと記される「王の役人」です。ヘロデ王の係累のもとで働いていたところで、カファルナウムに暮らせば領主ヘロデの立場の危うさも聞こえます。権力者は保身に汲々とするもの。そのもとで働いていたであろう「王の役人」。息子が病に罹患し、瀕死の状態にあったと申します。イエスのもとを訪ねるのは役人の身の上にとっては実に危ういことであったと思われますから、おそらくは自分の主人である王には何も言わず、役人はイエスのもとを訪ねたのではないでしょうか。
領主ヘロデは洗礼者ヨハネの首を刎ねただけでなく、十字架への歩み、その裁判の中で多くの世の権力者にたらい回しにされ、引き渡されていく中でただ沈黙するイエス・キリストを侮辱して総督ピラトのもとに送り返した人物でもあります。しかしながらそのもとで働く人々、例えばヘロデの執事の伴侶であるヨハナという女性は、実に献身的にイエスに仕え、復活の出来事の場に居合わせてもいます。危うい一線を超えているのです。イエス・キリストの救いのわざと申しますのは、世にあって属する組織や国など様々な分断の壁を問うことなく臨んでまいります。それは本日の箇所でも何ら変わりません。「あなたがたは、しるしや不思議なわざを見なければ決して信じない」。「主よ、こどもが死なないうちに、おいでください」。イエス・キリストと、助けを乞う役人の対話は当初は決して噛み合いません。しかしキリストは息子のために危うい一線を超えた役人の言葉を聞き逃しませんでした。「主よ」。本来ならばこの言葉は、この時代の世においては領主ヘロデを超えて、皇帝を呼ばわる場合にのみ用いられるはずです。けれどもローマ皇帝も領主ヘロデも、役人の息子のいのちを救う権限をもってはいません。その意味ではわが子との関わりの中で役人の新しい歩みが始まった瞬間が描かれているとも言えます。わが子のいのちを病から救いあげてくださる方こそが主であり、その主こそがイエスであると意図せずして役人は告白しているのです。分断や憎しみを超える鍵がこの物語には隠されています。「帰りなさい。あなたの息子は生きる」。実に強い口調です。翌日家路を急ぐ役人のもとに使いの僕がやってまいります。「あなたの息子は生きる」とイエス・キリストが宣言したときに、息子のいのちは峠を越し、持ち直してしまった。そして、役人も家族もこぞって思わず口走った「主よ」という言葉を受け入れたのです。そこにはもはやヘロデの役人の姿はなく、一人の父親が家族とともにいたのです。役人の真の姿が露わにされた瞬間です。イエス・キリストの眼差しは、危うい一線を超えて助けを求めた役人が、世にある立場をすべてキリストに委ねたように、徹頭徹尾外に向けられています。その眼差しは、計り知れない力をもついのちを授ける父なる神に向けられています。いのちを絶つ仕業はどの為政者にもできます。隠蔽や数値の改竄もどの為政者にもできます。けれども危うい一線を超えて、憎しみや恐れの壁を越えて、いのちを活かすわざが行えるのはイエス・キリストだけです。真の統治者の姿があります。助けてくれとの切なる思いとともに、キリストを全面的に信頼する中で授かる知恵によって、混迷の時代に進むべき道、何をすればよいのかとの問いかけに相応しい道を授かりたいと願います。