2018年6月24日日曜日

2018年6月24日(日) 説教「人の正義の虚しさ、神の義の喜び」 稲山聖修牧師

2018年6月24日
ローマの信徒への手紙9章4~5節
マルコによる福音書 6章14節~29節
「人の正義の虚しさ、神の義の喜び」
稲山聖修牧師

クリスマス物語で描かれるヘロデ王の息子にあたる、ヘロデ・アンティパス。権力者として登り詰めるほど、猜疑心の虜になっていく人。そのような猜疑心に包まれていたのがヘロデの一族だった。対するは洗礼者ヨハネ。この両者の緊張関係は「戦い」という図で理解すべきではない。ヘロデと洗礼者ヨハネが何を表わすのかという問いが必要になる。洗礼者ヨハネは救い主の訪れを告げ、イエス・キリストは名もない人々に神の国の訪れを伝え、証しを立てた。
 アンティパスに洗礼者ヨハネの名を思い起させたのはイエス・キリストの名であった。その名が響く度毎に、ヘロデ王は恐れおののかざるを得なかった。「わたしが首を刎ねたあのヨハネが、生き返ったのだ」。17節からは『マルコによる福音書』の書き手によるところの、ヘロデ・アンティパスを虜にした恐怖のわけが記される。「実はヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻へロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた」。富と繁栄を追い求めて崩壊していく家族の姿がこの箇所には記される。

 洗礼者ヨハネは預言者として実直に王に語りかけた。「自分の兄弟の妻と結婚することは律法では赦されていない」。この誡めを語るヨハネの目にはアンティパスの抱えた破れがくっきりと映っていた。「そこでへロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである」。洗礼者ヨハネとへロディアの間で揺れるアンティパス。この揺れ動く振り子はどこにたどり着いたのか。宴会の中、へロディアの娘が踊る。その娘に「欲しいものがあれば何でも願い出なさい。お前にやろう」。「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と立てた誓い。伴侶のへロディアは娘にこう言わせる。「洗礼者ヨハネの首を」。「王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また、客の手前、少女の願いを退けたくはなかった」。これが洗礼者ヨハネの首を刎ねる理由だ。あまりにも萎縮し、惨めな理由。
 それではわたしたちはアンティパスを笑えるというのか。人の姿しか目に映らないならば、わたしたちはアンティパスと似たもの同士に違いない。他方で洗礼者ヨハネは、牢獄にありながら、なおも希望の中で生涯を全うした。その目には、まごうことなく救い主の姿があったのだ。洗礼ヨハネは、アンティパスと対立など一切してはいなかった。両者は各々全く異なる別の土俵に立っている。ヨハネが立つのはイエス・キリストが照らし出した、神の愛という光に照らし出された舞台である。「彼らはイスラエルの民。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのもの。先祖たちも彼らのもの、肉によればキリストも彼らから出た。キリストは万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン」。パウロはそのように語る。アーメンという言葉は、ヘブライ語のエメット(真理)に由来する言葉だ。アブラハムの神の真理を受けとめるには、神に謙るところから始まる。そしてそれは隣人に謙ることをも意味する。イエス・キリストがおられるから、わたしたちは己を誇ることなく、隣人を受容するというアンティパスとは別の扉が開かれる。先の見えないこの時代、わたしたちには聖書の御言葉が与えられている。それは、神の愛の力によって心ときめくときに神の言葉となる、大切なともしびなのだ。このともしびこそが、わたしたちの行く手を照らす光なのである。

2018年6月17日日曜日

2018年6月17日(日) 説教「強いられた旅の中でそそがれる神の力」 稲山聖修牧師

2018年6月17日
ローマの信徒への手紙9章1~3節
マルコによる福音書6章1節~13節
「強いられた旅の中でそそがれる神の力」

稲山聖修牧師
  イエス・キリストの里帰り。村人にとってイエスはマリアの家の家業の跡取りであり、さして敬う相手でもない。キリストはシナゴーグでその教えを語ったものの、村人は次々と声をあげる。それはイエス・キリストの教えの内容についてではない。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった智恵と、その手で行われるこのような奇跡は一体何か。この人は大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは一緒にここで住んでいるではないか」。村人は、イエスの幼い頃を知るからこそ詮索を始める。次の言葉からは村人のあまりにも下世話な関心を見てとれる。「この人は大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは一緒にここで住んで居るではないか」。家業が大工であり、学者の育つ環境の出ではなく、父親の知らない家の育ちのはずなのに、という妬みがある。このような詮索好きな村人を、物語の書き手は突き放す。「このように、人々はイエスに躓いた」。
 続くキリストの言葉も辛辣だ。「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」。なぜナザレの村人は、キリストの教えと証しに無頓着だったのか。それはキリストが何を語っても「あのマリアの倅のイエスの語っていることだ」とヴェールにくるみ、自分を変えようとはしない姿勢に理由がある。信仰が他者に開かれた態度を伴うわざとして理解されるなら、キリストが驚いた人々の不信仰さとは、イエス・キリストとの交わりに伴う変化を拒み続ける態度にあったのではないか。新たな世代との交わりにおいてわたしたちが変化を拒むならば、その態度は不信仰だとキリストに見なされるにちがいない。
 続く箇所では、ナザレで相手にされなかったイエス・キリストが、他の村々を巡回して教え、神の愛の証しを立てる様子が描かれる。キリストが直接伝道に関わるのではなく、弟子にその働きを委託する。主イエスは、一期一会の出会いを大切にし、金銭以上に尊い主なる神を信頼することによって、聖霊に託されたわざを成し遂げるために弟子たちを世に押し出す。この旅は次の厳しさをも併せ持つ。それは「あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい」。これはキリストが実際にナザレの村人に対して行ったわざであり毅然とした態度表明である。イエス・キリストに従う道は、決して物わかりのよい従順な姿勢を促すのではない。キリストと弟子の伝道の旅とは、結果としては故郷からの追放という苦い思いをともなう、強いられた旅でもあった。しかしその結末は「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教をした。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」との実りに繋がっていた。パウロは語る。「わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから話され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています」。本来ならメシアの使信に最も敏感なはずのイスラエルの民が、キリストのメッセージに耳を貸さない反応を示すことへの嘆きである。「足の裏の誇りを払い落とす」という態度はパウロのいう深い悲しみと無縁ではない。
 激動の時代にあって、わたしたち各々の暮らしだけでなく、教会もまた強いられた旅へと向かうこともあるだろう。安住の地は、わたしたちの後ろにあるものではなく前方にある。それは全ての涙が拭われる、神が支配し給う国である。「御国を来たらせ給え」との祈りは、聖書の文面から広がり、わたしたちと、例えばわたしたちの祖母・祖父の味わった難民のような、住まいや将来の展望の定まらない人々をともにつなぐ。さらには身近なところで一際暮らしに不安を覚えながら日々を生きる方々とをつなぐ。それはともに強いられた旅を歩む者に注がれる神の力による。嘆き節はわたしたちには似合わない。恵みが増し加わる旅路をキリストを仰ぎつつ、ともに進んでいこうではないか。

2018年6月10日日曜日

2018年6月10日(日) 花の日・こどもの日礼拝 説教「せかいのこどもはおともだち」 稲山聖修牧師

2018年6月10日
ルカによる福音書10章33節~37節
「せかいのこどもはおともだち」
子どもの日(花の日)礼拝メッセージ
稲山聖修牧師
 
 聖書の世界には今ものこる街の名前が多く記されています。新約聖書ではエルサレムという街の名前が一番有名かもしれません。イエスさまがおられたときには、この街は高いかべに囲まれていました。泉北ニュータウン教会の天井よりも高いかべです。かべは誰が作るのかといえば、おとなです。どのような考えで作るのかといえば、もともとは大事な家族や財産を守るためでしたが、そのうちかべの外側に暮らす人々を見下すようになってしまいました。かべに守られてくらすわたしたちはふつうの暮し、けれどもかべの外側で暮らす人々は話も通じない貧しい人々ばかり。だからかべの内側には入ってきてほしくない、というぐあいです。
 けれどもこどもたちはかべにできたひび割れや隙間から見える外の世界に胸がどきどきして仕方ありません。かべの向こうから入ってきた人々にも、おとなの注意はどこへやら、「どこから来たの」「何しに来たの」と興味津々です。
 今日は特別に先生のお婆ちゃんのお話をします。お婆ちゃんは今生きていたら100歳以上になりますが、80歳で天国に召されました。そのお婆ちゃんが小学生だったころのお話です。お婆ちゃんはこどものころ中国に住んでいたことがあって、通学路にある中国人のおじさんが作ったチェンピンという、今でいうクレープに黒蜜をかけたものを、ともだちと食べたくて仕方ありませんでした。けれどもお母さんから、中国の人が作った食べ物なんて食べたら病気になるからやめなさいと言われて何度も叱られたそうです。けれどもある日、こっそり貯めたお小遣いでともだちと、少し勇気を出してチェンピンを買って食べました。そのおいしいことといったら言葉にできないほどだったそうです。けれども先生が大学生のころに作ってみたら、実はそれほどおいしくはありませんでした。なぜだろうと考えたのですが、きっと「病気になるから食べてはいけません」という言いつけを破って、中国人のおじさんとお話をしながら食べたから、黒蜜味のチェンピンがとてもおいしかったのかな、と思ったものでした。こどもはおとなのかべをくずす天才です。
 今日の聖書の箇所では、旅の途中で強盗に襲われ、お財布も身に着けていたもの全てをとられてしまった旅人のお話が書かれています。旅人はエルサレムからやってきた人のようです。けれども道行くエルサレムの祭司やレビ人といった偉い人たちは、道に倒れたままの旅人を助けるどころか、近寄ろうともしません。旅人がどの街から来た人なのか分からなかったからもしれませんね。その旅人を助けたのは、エルサレムに暮らす人々が「あの人たちとお話ししたり、おともだちになってはいけませんよ」と言っていた、サマリア人の旅人でした。エルサレムの人々は、サマリア人を見下していたのです。けれどもこのサマリア人は、道に倒れた旅人のけがを手当てするだけでなく、宿屋へ連れていってお医者さんに診てもらうだけのお金も渡していきました。実は今日のお話、イエスさまが「たいせつな人って誰のこと?」と質問した学者さんに答えたお話です。
 今、世界では、高いかべで家族がばらばらに暮らさなければならなかったり、お互いに憎み合ったりするようなしくみをおとなが作って、大勢の人たちが苦しんだり悲しんだりしています。けれどもそんなかべは、こわれるに決まっています。こどもたちの力はおとなよりも強いのです。その力を、神さまはみなさんにプレゼントしてくださっています。こころのかべをイエス様に壊してもらって、学校や毎日の暮しの中で、世界中の人々とおともだちになれたら神さまもきっと喜びます。

2018年6月3日日曜日

2018年6月3日(日) 説教「来たる者も去りゆく者も神の恵みにつつまれて」 稲山聖修牧師

2018年6月3日
ローマの信徒への手紙8章37~39節
ヨハネによる福音書4章22節~30節
説教「来たる者も去りゆく者も神の恵みにつつまれて」

稲山聖修牧師

 『ヨハネによる福音書』が描かれた大変動の時代。すでにエルサレムの神殿はローマ帝国への反乱が失敗し、焼失した。ユダヤ教徒は帝国への反乱者としての烙印を押され、遠ざけられていく。その中、去りゆく立場に置かれた人々として、3章22節以降に記された洗礼者ヨハネとその弟子が描かれる。イエス・キリストの働きをめぐってヨハネの弟子たちに混乱が生じる。3章26節「彼らはヨハネのもとに来て言った。ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています」。主イエスの振る舞いは、厚意を寄せていた人々にも戸惑いを与えていた。ではヨハネは自分の弟子の思いをどのように受けとめたか。「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えなければならない」。洗礼者ヨハネは「あの方は栄え、わたしは衰えなければならない」と語る。ヨハネの姿は黄昏の色に染まる山並みの荘厳な姿に重なる。


 洗礼者ヨハネは私心からも名誉欲からも自由だ。その姿に、ユダヤ人が遠ざけられた時代に記された福音書に注ぎ込まれた、神の愛の力によるところの勇気を見る。その勇気は、4章22節のサマリアの女性に向けた主イエス・キリストの言葉にも明らかだ。すなわち「あなたがたは知らない者を礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ」。「救いはユダヤ人から来る」との言葉が、異邦人であるサマリア人の女性へ向けた言葉であるとして堂々と記される。これはイエス・キリストの救いを解き明かす上では、旧約聖書が不可欠なことを示す。その上に立って、主イエスは語る。「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ」。今がその時だ。神の支配は暴力による世の権力の支配を覆すにはまだ全うされていない。しかし、父なる神に招かれた礼拝が、神の支配を先どる仕方で行われ、集うものに祝福が注がれる。「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」。この神の愛の力によってサマリアの女性は救い主の訪れを知らせる。洗礼者ヨハネがその役目を終え、イエス・キリストがメシアとして働く中で、サマリアの女性もその教えを積極的に宣べ伝える。来る者の世界と去りゆく者の世界がイエス・キリストを通じて見事につながるのだ。パウロは語る。「どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」。

 泉北ニュータウン教会の礼拝は、他の教会の礼拝にはない特色を備えている。時には変わった教会だ、普通の教会ではそんなことはしないとの呟きの声を承知で選んだ道だ。それは齢を重ねた兄弟姉妹も、子育て世代の兄弟姉妹も、様々な特質と可能性を備えたこどもたちも、ともに礼拝に連なる讃美の輪を重んじる姿勢である。ガラスで隔てられた部屋に若い夫婦が置かれるわけではなく、齢を重ねた方々が懐かしさに浸るだけでもない。わたしたちは礼拝を通して、神の支配というビジョンをを共にしている。それこそ教会の他ならない強み。この交わりの真ん中にはイエス・キリストが立っている。「今がそのときである」。神さまの恵みの中で、わたしたちは笑い、涙し、支え合いながら、困難な世にあって備えられた光の道を歩む。主なる神を讃え、一週間を始めたい。