2022年2月25日金曜日

2022年2月27日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です)

―降誕節第10主日礼拝―

説教=「黙れ、静まれ」
稲山聖修牧師

聖書=マルコによる福音書 4 章 35~41 節.
(新約聖書 68 頁)

讃美= 300(1.3.5),494(1.3),541.

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】

 「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現われ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない」と始まる『マタイによる福音書』24章の言葉。変異と流行を繰り返す新型コロナウイルスの流行や戦争の報せに足下をすくわれそうになるわたしたちに、深い平安と安心を備える言葉です。しかし同時に、福音書の成立の背景に限らず、人の子イエスが歩まれた世というものが、どれほど名もない人々に過酷であったかを物語る箇所でもあります。ローマ帝国の皇帝を頂点とするところの社会には様々な階層がありました。日々のわざに疲れ、額に刻み込まれた皺、人生の長旅に疲れ、ひび割れた足。聖書の世界に描かれる人々も、描いた人々も、今その物語を味わうわたしたちも、世の荒波に翻弄されるばかりです。

 そのような荒波の中で用いられる船の働きに焦点を当てた作品が『旧約聖書』の物語には概ね二箇所にわたり登場します。第一には現在のイラク周辺にある川沿いの都市国家を、予期せぬ仕方で襲った大洪水を題材にした「洪水物語」、そして第二には箱舟には乗り込めなかった人々の呻きを、嵐を鎮めるために海に投げ込まれる預言者ヨナの祈りを通して代弁する物語でもある『ヨナ書』です。「洪水物語」はもともと『創世記』オリジナルの話ではありません。さらに時をさかのぼる同様の物語が彼の地の古代神話にはよく見られます。概ねその物語の場合、自然災害を「神の怒り」として受けとめていく色合いが濃いものとなっています。「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのをご覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」という言葉が、『旧約聖書』の「洪水物語」の理由としてはっきり記されています。しかし『創世記』の物語では、水もひき、洪水に関する全ての災いが終わり、ノアが箱船から出て祭壇を築き、焼き尽くす献げものを献げた際に、主なる神はこの宥めの香りをかぎながら「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」と再び語ります。つまり他の古代の言い伝えでは神罰として受けとめられるのにも拘わらず『旧約聖書』では「幼いときから悪い思いを抱える人への赦しの物語」へと転換してまいります。その転換をもたらす器として箱船は用いられます。

 本日の福音書の物語では、夕刻に人の子イエスが「向こう岸に渡ろう」と弟子に命じたところから始まります。この時代の一日とは太陽が昇ってから沈むまでとされます。そうなりますと暗夜に湖の只中を進む可能性も含み入れて人の子イエスと弟子の舟は漕ぎ出されてまいります。後に残された名もない人々のさまは描かれませんが、おそらくは家路を急いだことでしょう。天候が急変し、激しい突風が起き、湖は荒れ放題となったわけですから。

 もちろん漁師であった弟子にもこの天候の急変は予測できませんでした。しかしあろうことか、イエス・キリストは、舟の艫の方で枕をして眠っていました。嵐の中、船底で寝ていたのはヨナ。人の子イエスは水を被る小舟の中で眠っていたのです。慌てる弟子がいうには「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」。荒れ狂う波の中で自己への過信を砕かれ、弟子が剥き出しにしたのは、嵐の中でさえ平安の中にいるところのイエスに向けられた憤りともつかない言葉でした。「あなたはわたしたちのうろたえが他人事なのか」との思いが伝わってきます。この言葉を聴き届け、イエス・キリストはやおら立ち上がり「黙れ、静まれ」と仰せになります。これは嵐に向けられた言葉でもあり、また剥き出しになった弟子のうろたえと憤りを諫める言葉でもありました。風がやみ、すっかり凪となった後に「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と弟子に向けた言葉。弟子たちは嵐よりもイエス・キリストを恐れます。「弟子たちは非常に恐れて『いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか』と互いに言った。弟子はイエスの「黙れ、静まれ」という言葉を通して、荒れる湖に翻弄される怖れとともにありながら、まことに畏怖するべき方が誰で、恐れる必要のないものとは何かを水浸しの舟の中で気づかされ、目指す岸辺へと到着します。

 古代イスラエルの民が巻き込まれた戦乱と政治の混乱の只中で記された『旧約聖書』の『イザヤ書』30章15節に「お前たちは、立ち返って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」とあります。ある教会員から「今は祈ることしかできません」と連絡を受けましたが、まさしく祈りとはこの『イザヤ書』の言葉にある通りのわざ。祈りは決して小さな営みではありません。黙して神の智恵と平安を授かる揺るぎない交わりです。


2022年2月18日金曜日

2022年2月20日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝もございます。)

 ―降誕節第9主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂

 


説教=「苦難の中で仰ぐ空、輝く」
稲山聖修牧師

聖書=マルコによる福音書 2章 1~5節.
(新共同訳 新約聖書 63頁)

讃美= 247(1.3),391(1.3),541.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
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【説教要旨】
 1960年~70年代のテレビでよくあった噺に「おかゆ」という作品がありました。長屋の一間が舞台となり、長患いを抱えて寝たきりになっている父親がそこにいます。昔でいう母子家庭だったのでしょうか。母親の姿はそこにはありません。寝たきりの父親の世話をするのはおそらくは一人娘。今で言うヤングケアラーとなります。「おとっつぁんおかゆが出来たわよ」「いつもすまないねえ」というやりとりから噺が始まります。高度経済成長期には、実は家族を支える絆には、少しばかりの煩わしいさも隠し味にできる、深さというものがあったのでしょう。かつてはコメディーとして描き得た世界が、もはや介護や生活保護の問題としては断じて笑い飛ばせないところにも原因があるかもしれません。「いつもすまないねえ」「それは言わない約束でしょう」という関係。実は多くの地域共同体から支えられてきた交わりのごく一角にすぎなかったのでしょうが、それでも、本来ならば公的支援によって充分なケアーを受けて当然の父親が「いつもすまないねえ、俺がこんな身体になっちまって」との負い目を抱えなくてはならなかったところに、素直に「ありがとう」とは言えない切なさが詰まっています。病を抱えたのはその人の責任ではありません。にも拘わらず、わたしたちは療養後には「ご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした」と挨拶を常識にしています。何の因果かはさておき、「負い目」もまた『聖書』では「罪」という表現に含まれてまいります。
 カファルナウムの町は、歴史資料ではローマ軍の駐屯地として栄え、多くの収税所があったところだとされます。確かに人口も多かったことでしょうし、人々の行き交う道も整えられていたことでしょう。しかしだからといって、道行く人々の交わりが常に喜びに包まれていたとは言いがたい。それは、人の子イエスがこの町で多くの癒しのわざを行ったことから分かります。軍隊の駐屯地として急激に繁栄する都市は、生活格差が生じやすく、さらにいえばそれまであった地域共同体が解体されて新たな町作りが行われていると言えるからです。その中で描かれるのが「中風に罹患した人」の物語です。中風は脳溢血などの後遺症で手足が思うように動かせなくなる状態を指します。現代でさえ脳をめぐる疾患は癒やしがたいものがあります。言わんやこの時代では、それこそ民間療法や身体を揉むような素朴な理学療法の他にはなす術がありません。支えてくれる人がいれば、この人は「いつもすまないねえ」と呟くほかありません。わたしたちは誰かを支えよう、助けようとするにあたり、何らかのやり甲斐なり力を感じます。反対に中風の人は「いつもすまないねえ」としか語りようのない哀しみを身体にも心にも湛えていたことでしょう。
 しかしそのような負い目を押して、今日の箇所では地域の人々が寝たきりの男性を助けようと一念発起いたします。身動きのとれない患者を戸板に乗せ、一目人の子イエスにあわせたいとの願いから、道なき道を越えてきました。おびただしい群衆の群れがそこにあり、人々の口からは「あの人はキリストだ」との言葉が漏れ聞こえます。しかし群れなす群衆は戸板を運ぶ4人と患者を通す道を与えません。またキリストがおられるであろう家には入れそうにもありません。そこで四人は日干しレンガの屋根を壊して寝たきりの仲間を吊り下ろすという誰も考えなかった仕方で、寝たきりの仲間にイエスを会わせようというのです。これほどまでに非常識な企てが、救いを求めて人の子イエスに歩みよる人々全てが見出したかは分かりません。家一軒を潰してまで、この四人は仲間を癒していただこうとするのです。家主には災難だったろうというような遠慮はどこにもありません。おそらく戸板の上で空を仰いだ患者も驚いたに違いありません。イエス・キリストはその人を咎め立てせず「わが息子よ、もう負い目を感じる必要はない。あなたを支える四人も、わたしも、あなたの家族なのだ」と語るのです。この「子よ(τεκνον)」との言葉をわたしたちは見逃しがちなのですが「若造・倅・こども」と広い意味を持ちます。イエス・キリストはこの場で、屋根を壊し戸板で吊り下げられている患者の仲間とわたしも家族なのだと語りかけています。もちろんこれは大胆な振る舞いですから、その場にいる人、とくにしきたりに囚われた頑なな律法学者は人の子イエスを非難いたします。しかしイエス・キリストは他ならないこの人の癒しに全力を傾注され、その上で「すまないねえ」から「うれしいなあ」へと戸板に横になる人の思いを変えていったのです。神の愛の注ぎ、聖霊の注ぎがこの箇所にも見いだせます。
 ユダヤ教の書物『タルムード』の言葉に「ひとつのいのちを救う者は世界を救える」とあります。組織論優先ではなく、たった一人の教会員の声に耳を傾けるところから新たな備えを積み重ねたいと願います。輝く空を仰ぐために。


2022年2月10日木曜日

2022年2月13日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝もございます。)

 ―降誕節第8主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂

説教=「湖上で語る、種まく人の物語」
稲山聖修牧師

聖書=マルコによる福音書4章1~9節
(新約聖書67頁)

讃美= 517,504(1.3),541.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


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【説教要旨】
 大阪南部の代表的な祭礼として「だんじり」と「布団太鼓」といったものがあります。だんじりは今や全国的にも知られるようになりましたが「布団太鼓」の認知度は今ひとつかもしれません。黒壇の彫物で飾られた欅作りの地車を綱で大勢の人々が曳き、地車の屋根上で大工方が指示を出します。太鼓と拍子の音が風に乗ってくれば季節の訪れを感じます。他方で布団太鼓は江戸中期、神輿に乗せられた神々が各地を回る最中、その休み所として布団で飾り立てた神輿を用いたのが始まりだとの言い伝えがあります。四方を当時の庶民には貴重な綿布団で囲んだその中央には太鼓があり、「乗り子」と呼ばれる少年たちが乗り込みます。
 このように泉州には非常に近接した地域にありながら人々が曳き綱で走り回る山車のタイプと、肩に担いで掛け声とともに遠浅の海に入る場合もある神輿のタイプが併存しています。これは地域の人々の暮らしのあり方の違いを表していると言われています。山車の場合は農民、神輿の場合は漁村や海運を始めとした海と関わりのある人々。実のところ、農村に暮らす人々と漁村・海運に従事する人々のライフスタイルや価値観はかなり異なっており、場合によってはそれが摩擦や諍いに始まり村落相互の争いにまで発展する場合にもなりました。漁師は嵐が続けば沖へは漕ぎ出せず、副業として畑を耕そうものならば農家と仕事が重なってしまいます。大漁を祝える収穫があるときもあれば、そうでないときもありますが、いずれにしても品物そのものを貯蔵するには手間がかかり、長期に及ぶことは不可能です。雨が降ろうと風が吹こうと田畑を耕さなくてはならない一方で、漁民や船頭は風向きを読みながら船を守り、時には風が収まるのを待つほかない状況にも出くわし、時には農村・漁村の人々の衝突にもつながったと申します。
 本日の聖書の箇所では、福音書に描かれる人々の暮らしと併せてイエス・キリストが何を、そしてどのように語ったのかというその姿が描かれます。漁民も農民も、ローマ帝国を含めた海運を担ういわゆる人足もその場には居合わせていたことでしょう。「おびただしい群衆」。その様子がただ事ではなかったことを福音書は伝えようとします。イエスは湖の民に暮らす民の舟を借り、その上で舟に座って群衆に話しかけられました。「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった」。そして「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた、とあります。この時代の種蒔きは耕作地に無作為に蒔いていく方式だったようです。畝を作って均等に種籾を蒔くための道具があったようにも思えません。名もない農民が汗だくになりながら働く一日を見つめながら、蒔かれた種の行く末を語っています。農家の生活の苦闘の中で蒔かれた種が、決して安定した収益には繋がらないことも示されています。それは漁師が網を下ろしたり、船頭が荒れた湖に舟を漕ぎ出すように、責任と覚悟が問われています。懸命に働く農民。しかしその働きの成果が全て人の思うがままに操作できるものではありません。鳥に食べられたり、日差しに焼かれたり、茨に負けてしまう場合がほとんどです。『マルコによる福音書』には、種が神の言葉であるとの説明があります。神の言葉を聞いても響かない者もいれば、その場限りの気持ちの昂ぶりに留まり暮らしに反映されない者もいる。さまざまな思い煩いにより神の言葉の大切さに思いが届かない者もいる。しかし、その言葉を聞いて受け入れる者がいるという説明。この説明に先立つ先ほどの譬えでは、実りにつながらなかった状況は事細かに描かれますが、育って実を結んだその場所は、実にシンプルに「よい土地」と記されているだけです。それではどのような土地が「よい土地だ」というのでしょうか。それは、鳥が来ないように網を張る人々がおり、土地の石を取除ける人々がおり、痛みを押して茨を取り払う人々のいる場所です。たとえそこに鳥の大群が押し寄せても、石ころばかりが出てきても、茨に覆われた土地であっても、恐れるものは何もない。そこには神の言葉が響き、受け入れられ、豊かに実を結ぶ。そしてそれはあらゆる生活様式、暮らしの様を問わないどころか、互いに反目する人々に和解をもたらします。湖の上から農民の苦闘の実りを語られたイエス・キリスト。救い主の示す神の愛の真骨頂が示されています。神様はわたしたちを「良い土地」に変えてくださるのです。

2022年2月2日水曜日

2022年2月6日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝もございます。)

―降誕節第7主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂

 


説教=「神の愛から問われるありよう」
稲山聖修牧師

聖書=マルコによる福音書4章10~12節. 
(新約67頁)

讃美= 298(1.2),520,541.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


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【説教要旨】
 『聖書』を開きますと、『旧約聖書』ではおもに『律法』、つまり神の戒めとして表現される神との約束を、人の子イエスは群衆に向けて「たとえ」として語っている様子がいたるところに現われます。それは福音書のほとんどの箇所に及ぶと申しあげてよいでしょう。よく知られているたとえとは『マタイによる福音書』5章13節の「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである」があげられます。「あなたがたの光を人々の前に照らしなさい」と言葉が続くのですが、この「あなたがたの光を人々の前に照らしなさい」とだけ言われても、日々の暮らしに追われている人々には何のことか分からないという場合があります。しかし「塩のたとえ」や「ともし火のたとえ」によって、群衆の暮らしの風景に聖書の言葉を重ねて、より分かりやすく、そしてより身近に聖書の教えを説き明かすにいたります。日々の暮らしに窮する状態と隣り合わせの中で暮らしに励む者であれば、誰もが人の子イエスの教えに耳を傾け、そして少なくない数の人々が喜びにあふれたことでしょう。
 けれども、本日の『聖書』の箇所では次のように記されています。「イエスがひとりになられたとき、12人と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである」。神の国は世の全ての悲しみに対する神の愛といのちの勝利であると、わたしたちは絶えず確かめてまいりましたが、実はその言葉だけでも、説明に及ぶという点では語り尽くせない話になります。ですから「たとえ」を用いるわけですが、気になるのは「彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず」という一節です。
 実際のところ、イエス・キリストの教えにちりばめられた「たとえ」とは、何かのために利用したり、他者を見下したり、誇らしげに振りかざしたり、他者をやり込めようとした途端に本来の意味を失います。それだけではありません。単なる文芸批評に留まる言葉として用いた場合でも、それはわたしたちの暮らしには全く響かなくなってまいります。文学は個人の解き明しに留まるからです。もちろん話に関心がない場合は言わずもがな。それはその話に耳を傾けようとする相手への敬意と謙遜、そして愛がなければ無に等しいものとなってしまいます。その意味で言えば、イエス・キリストの教えにあるところの「たとえ」とは、聴き手が独りであるにせよ、集団であるにせよ、鏡のように映し出す力をも秘めています。合衆国大統領は、一般教書演説やしばしば戦争を行う前のテレビ演説で『聖書』から言葉を引用いたします。しかしその中でイエス・キリストのたとえが相応しく用いられているかどうかは疑問です。
 それでは福音書の世界にあっては、名もない群衆として描かれるであろうわたしたちは、何を手がかりとして「たとえ」に耳を傾けていけばよいのでしょうか。それは、本日の『聖書』に記された「神の国の秘密」とわたしたちとの関わりです。それでもまだ難しければ、『ローマの信徒への手紙』12章6節の「イエス・キリストを通して神から備えられた信仰に応じる」と申しあげることもできます。「わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自はお互いに部分なのです。わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、勧める人は勧めに精を出しなさい・・・(以下テキスト)」この「信仰に応じる」という態度こそ、頑張りに満ちた「行ないの法則」が取り除かれた後にある「信仰の法則」です。この信仰の法則を見出し、神様からの賜物で神自らの恵みである信仰に応じ、それが「神の愛から問われるありよう」となって、わたしたちには神の愛によるところの証しとして輝くこととなります。「たとえ」という「鏡」に映った自らの姿は絶えず新たにされていきます。わたしたちは神の愛の中で、そのありかたを問われています。その問いに耳を澄ませ、祈りの中で、コロナ禍の只中でも交わりを育みましょう。主なる神は「燻る灯心を消さず、傷ついた葦を折らない」お方です。