2020年5月29日金曜日

2020年5月31日(日) メッセージ(自宅・在宅礼拝用です。:礼拝堂での礼拝は休止します。)

「心を騒がせるな。おびえるな。」
『ヨハネによる福音書』14章15~27節
メッセージ:稲山聖修牧師

メッセージ動画は「こちら」に掲載しています。
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「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである」。世の終末を問う人々へ強く応えようとする福音書『マタイによる福音書』には、「ただ、父だけがご存じである」と応じ、初代教会が味わうところのさまざまな混乱、内側には様々な紛争、外から襲うところの迫害には向き合わなくてはならないとの初代教会の決意も窺えます。自分たちの思うようには神の国は訪れないとはっきり主張する『マタイによる福音書』。そこには人々が求める答えには安易には応じまいとする態度が示されているようです。
反対に本日の聖書の箇所にありましては、イエス・キリストの言葉として記された言葉には、読み手を支えようとする優しさを感じます。「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」。イエス・キリストは自らの逮捕と十字架での死が近づいていることを見極め、復活と昇天という仕方で地上の歩みを全うしようとする中で、その後を見通して弟子を勇気づけようとします。それが「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」との言葉です。「弁護者」と呼ぶのは「パラクレートス」として示される聖霊を指しています。神の愛の力はキリストがこの地上から暫く姿を隠す間、キリストを慕う人々を守るのだと高らかに宣言します。その意味では、『ヨハネによる福音書』で描かれるイエス・キリストと申しますのは、他の福音書以上に慈しみ深く臨んでいるようにも思えます。一体なぜだろうかと考えるのですが、『ヨハネによる福音書』の成立時には、実のところ古代ユダヤ教は破壊され、もはやファリサイ派を残すだけとなり、神殿を必要とはしない「ラビ的ユダヤ教」へと姿を変えつつありました。ガリラヤ湖の名前もまた「ティベリアス湖」というローマ皇帝の名称で呼ばれるという状況がありました。エルサレムの神殿はローマ帝国の鎮圧によって焼け落ち廃墟だけが残るというありさまです。ローマ帝国の弾圧の矛先は、今や反旗を翻したユダヤの民にではなく、初代教会そのものに向かいつつありました。それから何年の歳月が経過していたことでしょう。キリストはすでに天に昇られました。もはや地上にはおられません。人は誰に助けを求めたらよいのでしょうか。誰に「わたしは駄目だ」という叫びを聞いてもらえばよいのでしょうか。旧約聖書『ヨナ書』で預言者ヨナが抱えた「死んでしまった方がましだ」との憤りを誰にぶつければよいというのでしょうか。
実はその「誰」とは「弁護者」「パラクレートス」と呼ばれる聖霊だとイエス・キリストは語ります。英語の聖書の場合、この「弁護者」とはわたしたちには実に馴染みの深い言葉で表現されます。それは「カウンセラー」という言葉です。そうは申しましても現代でいう職業上のカウンセラーとはかなり意味内容が異なってまいります。いわゆる臨床心理士ではありません。資格としての弁護士とも少し異なります。話に耳を傾け、本人に悩みの内容を整理させるだけに留まる神の姿ではありません。涙を流してであれ、何も出来ない悔しさを抱えての訴えであれ、必ずお聞き届けくださるカウンセラーです。職業としては決して成立し得ない、わが身を顧みず、心から痛みをともにしてくださるカウンセラーです。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」と『ヘブライ人への手紙』5章7節ありますが、このキリストの役目を担うのが弁護者であるところの聖霊です。イエス・キリストに示された神の愛はわたしたちを見放すことは決してありません。
5月25日(火)付で緊急事態宣言が解除になりました。新型コロナウイルス感染症に罹患し天に召された方々がおられます。また関係者の中には誹謗中傷を受け続けながら、勤務先が倒産してしまい暮しの基盤を失った人々がおられます。ホームレスの人々は住民票がないために定額給付金の給付見込が立ちません。根本的な解決はまだ先の話です。しかしせめて日曜日には礼拝堂を開けておきたい気持ちもあり、また困り果てた訪問者に教会で宿泊いただいたという昔日の記憶もあり、ご自宅で礼拝を献げる方々とともに祈ってまいりました。「心を騒がせるな。おびえるな」との言葉に支えられ、聖霊降臨の出来事を祝いましょう。

2020年5月24日日曜日

2020年5月24日(日) メッセージ動画

本日の礼拝メッセージです。
すでに文書で投稿したものをあらためてお伝えしています。
初めての動画でいたらないところもありますが、
モニター越しにであるにせよ、
みなさまに届けば嬉しく思います。
神様のあふれる祝福を祈ります。
今週も主に委ねて歩みましょう。

動画はこちらのページに掲載しています。
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2020年5月21日木曜日

2020年5月24日(日) メッセージ(自宅・在宅礼拝用:礼拝堂での礼拝は休止します)

「川のせせらぎの音につつまれて」
『ヨハネによる福音書』7章32~39節
メッセージ:稲山聖修牧師
学生時代の最も楽しく、そして生々しい記憶のひとつに北アルプス縦走があります。友人からの突然の電話を断り切れずも胸躍らせ、上高地から西岳に向かいそこから槍ヶ岳を目指すルートを選びました。本来ならばどうということのないコースなのですが登山道に迷い、本来二時間で済む経路から外れて五時間を要することとなりました。正規のルートから外れ岩場を滑落しては傷だらけになって登り、ようやく西岳頂上に到着。山頂で水筒を空にしたわたしたちは山小屋で、決して安価ではない飲料水を飲みました。持参したレモンもかじりましたが水はおろか普段は酸っぱくて顔をしかめるような果物でさえ甘く感じたのを覚えています。
 本日の聖書の箇所で『ヨハネによる福音書』の書き手がスポットライトをあてるのは、イエスと対峙して論戦を挑むファリサイ派の律法学者ではなく、また政治力を握っていた祭司長でもありません。その命令に従って動く下役という名の下級兵士であります。いうまでもなくこの兵士はイエスを身柄拘束をその目的にしていますが、自分の意志で自分たちの行動を決定する立場にはありません。その点では数が多かろうと少なかろうと、横のつながりと申しますのは実に希薄で、あくまで上からの命令なしには動けない人々です。
 本来ならば場合によればいのちすら奪いかねないようなこの人々に、イエス・キリストは呼びかけます。「今しばらく、わたしはあなたがたと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない」。実はこの言葉、最後の晩餐の席でイスカリオテのユダが退席した後、弟子にも語りかけたものとほぼ同じ言葉でもあります。けれども問われるべきはこの言葉が書き記されている物語の状況であり、弟子たちへの言葉が下級の兵士への呼びかけであるとともに、イエス・キリストが祭司長たちの命令によって遣わされている下役の姿に、自らが神から世に遣わされているさまを重ねているというところです。この福音書が訴えているのは、イエス・キリストは下役たちと同じように命令を受けているけれども、それは自分の身柄を捕らえにきた人々にさえ「わたしはあなたたがたと共にいる」と語りかけている態度であり、そして下役たちはあまりにも唐突に思えるその言葉を前にして狼狽えるほかはなすすべを知らなかった、という点です。あたかもそれは、取り替えの効く組織の中の一部品として乾ききっていた心に、神に活かされる人としての潤いが戻るという出来事が今まさに起ころうとしているのを前にしてさえ、その出来事を受け入れることが難しいという物語でもあり、また同時にイエス・キリストの働きかけが、たとえ祭司長らの下役、すなわち一切の自由を放棄して、愛や良心という言葉すら彼方の話でしかないような人々にも向けられていたというメッセージでもあります。この物語に、神の愛がわたしたちにどのように関わり続けているのかを垣間見ることができるというものです。
「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人のから生きた水が川となって流れ出るようになる」。この「だれでも」という言葉は、イエス・キリスト自らに剣を向ける人々をもつつみこんでいました。イエス・キリストと関わりをもつのならば、それが何をきっかけにしたとしても必ず神の愛に触れていくということ。つまり自分自身が主体的に人生の歩みを進めていくばかりでなく、さまざまなしがらみの中で身動きがとれなくなっていたとしても、必ず神の力を授かって、その人本来の生き方を、新しい仕方で備えられるのです。アンチ・エイジングという言葉が示すところの、齢を重ねることが潤いをなくすなどという話は聖書にはどこにも記してはいません。むしろ総じて若々しいと言われている年齢であったとしても、そのありかたが頑なであれば、その潤い豊かな泉を見出すことは難しいと記しているようでもあります。涼やかな川のせせらぎにその手を浸すことができるのは、キリストの弟子であろうと祭司の下役でも変わりません。今朝の箇所ではそのような社会的な分断が克服されているのだ、とも言えます。新型コロナウイルスの流行は様々な社会の分断を露わにしています。教会はそのような分断を乗りこえていく交わりを生み出し育むというわざを可能にする場でもあります。少しずつ着実に、新しい体制を整えてまいりましょう。

2020年5月15日金曜日

2020年5月17日(日) メッセージ(自宅・在宅礼拝用:礼拝堂での礼拝は休止します。)

「勇気を出しなさい。イエスは勝利者だ!」
『ヨハネによる福音書』16章25~33節
メッセージ:稲山聖修牧師

「癒しのわざ」という言葉があります。「癒し」は新型コロナウィルス感染症の流行前から、観光地のPRで盛んに用いられておりましたし、リラクセーションのお店の軒先でも見慣れたものでありました。しかしながらこのところ、そうした消費としての「癒し」の文字は姿を消していきました。そうした身近な事柄を思い出しながら、あらためて新約聖書にある「癒し」を考えますと誰かの犠牲なしには成り立たないと分かります。
『ヨハネによる福音書』の場合、それがたとえ見えない人の目をひらくというわざとして、他の福音書ではキリストの名を広める大きなきっかけになるような出来事であったとしても、人々の間にさまざまな議論の種をまき、ときにはそれまでの人の交わりを分断してしまうところにまで及んでしまうことがあります。福音書の重い皮膚病に罹った人が癒されるというわざ一つとっても、病人の身体に触れることなしには起きることのない話として描かれます。そこまでその人に寄り添えるのかという問いかけを新型コロナウィルスの流行によってなおのこと受けているように思います。
それでは「神が癒す」「神癒」があるのか、と問われれば、わたしたちは口ごもる他に術はありません。なぜならばそこには、癒し以前の問題として、問いかける者が期待する通りの結果のありやなしや問われているようで、首を傾げずにはおれないからです。にも拘らず、わたしたちは「わたしたちの期待とは別に、神の癒しは必ずある」とお話をしたいのです。

19世紀半ばまだ黒船すら日本に訪れないころ、今では先進国と呼ばれる国々にも想像を絶する貧しさがありました。教育や医師といった者の診察を受けられるものは稀だという時代、民衆は今日でいうさまざまな迷信の中で苦しんでいました。同時に大学で神学の学びを深め、その時代としては知的エリートの社交的な場所でもあった教会に赴任しながら、苦しむ人々のもとに歩みを寄せた人がいました。クリーストフ・ブルームハルトという人がその人です。いつも祈りを忘れず、またそのゆえに変わり者として映ったブルームハルトは、住民535名というメットリンゲンという村の教会に赴任します。そこで彼は、ゴットリービンという娘を見出します。血筋ある兄弟姉妹には恵まれていたものの、両親は天に召され、家の中で何者かに取り憑かれたように人格が豹変する性分をもっていました。そのような様子は噂話として流れてくるだけでなく、実際に医師がその様子を見聞することで確かとなります。ついにブルームハルトは、村長と数名の信頼できる教会員とともに何の予告もせずゴットリービンの家を訪問します。その時にも説明できない現象が起きるのですが誰にも手を出す術が見つかりません。その中で必死に、かつて彼を変わり者呼ばわりした働きに着手いたします。住いをその家の近くに借り、ブルームハルトは数人の教会員とともに神にひたすら祈り続けたのであります。そのような祈りが続くほどに、ゴットリービンの身体は激しく痙攣し、それは彼女の家族にも及んでいきます。ついに姉のカタリーナは、ゴットリービンと同じように狂乱状態の中で叫び始めます。それでもブルームハルトは引下がりませんでした。その叫びの中でカタリーナは次第に「イエスは勝利者だ、イエスは勝利者だ」と口にしながら静かになりました。その祈りは人の内面には留まりません。苦しむ者という外部への働きかけを伴いました。イエスは勝利したのです。
しかしこのブルームハルトの働きはいつも好意的に語られず、むしろ激しい批判や非難を新聞から浴びることもありました。そのような中で新しい教会へと赴任することとなります。近代理性には荒唐無稽とも思える聖書に生きることで、ブルームハルトは迷信的なものと戦うことができたと指摘する声もあります。けれども「迷信的なもの」とは何なのかと問われれば、わたしたちも決して他人事だとは言えないのです。
未知のウイルスへの対策が政治的判断という根拠不明な基準で決定されてしまう場合もあります。終熄に向かっているという判断基準は仮定の域の超えません。そのような堪えられそうもない不安の中でキリストは呼びかけます。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。神の希望の炎を燃やしましょう。

2020年5月8日金曜日

2020年5月10日(日) メッセージ(自宅・在宅礼拝用です。礼拝堂での礼拝は休止します)

「神の愛は折れても折れない」
『ヨハネによる福音書』15章18~27節
メッセージ:稲山聖修牧師


「言(ことば)は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」。『ヨハネによる福音書』1章ではこのように記されます。今朝の箇所とともに『ヨハネによる福音書』では、「世」と神の言(ことば)であるイエス・キリストとの緊張関係と、世の態度に勝る神の愛が記されておりますが、事はそう簡単ではない模様です。
「世」と訳されるギリシア語は「コスモス」です。お花の名前のようですが、ギリシア語では「混沌」(カオス)とは対極にあるところの秩序ある世を意味します。今朝の箇所ではわたしたちの属する「世の倣い」と考えてみてもよいでしょう。もしわたしたちがキリストとの出会いを尊ぶのであれば「コスモスがあなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい」とあります。「混沌ではなく、秩序ある世がキリストを憎んでいた」と語るのです。これはどうしたことでしょうか。
 なにがしかの仕方で、わたしたちはそれぞれ世に遣わされて持ち場での働きに勤しみますが、聖書ではキリストなしでの「秩序ある世」をもほのめかします。そのような意味での秩序ある世とはどのような社会なのかを考えてみましょう。確かに整然とした秩序でその社会は緻密な時計のように動くことでしょう。その動きを少しでも妨げる存在は許容せず排除します。つまり人間にとって様々な問題が潜むのは、混沌(カオス)だけでなく人の目には正しく秩序づけられたかのように見える秩序ある世(コスモス)もさして変わらないというのです。


 難しそうに思える聖書の言葉ですが、身近なところに重ねれば、なるほどと得心せずにはおれない事例があります。新型コロナウィルス感染症に対する対応をめぐって様々な対応が自治体や国から要請が出されました。その中には要請に従わない遊興施設としてパチンコ店がクローズアップされました。放送される編集動画では身勝手なコメントを続ける利用者の姿が映し出されていましたが、他方そのようなパチンコ店でアルバイトをしながら非正規公務員を続ける女性がいます。その人は週5日30時間、DV専門の相談員として勤務します。117,023円が公務員としての月収。娘さんとの二人の暮らしを続けておられます。また公立学校でも任期あり非正規公務員ながらクラス担任を任される教員、10年のキャリアがありながら手取16万円の月収で児童相談所に勤務する臨床心理士がいます。どの働きも尊くかつ人命への責任を伴うものですが権力者は格差により分断をもたらして、わたしたちが見ている秩序(コスモス)に亀裂を生じさせます。わたしたちの理解するコスモスは、いつのまにかどこか歪んだり偏りのある秩序となり、それは得てして自分の感情や不安によっていびつさを帯びていることに気づきません。新型コロナウィルスの感染は確かに避けなくてはなりませんが、同時に新型コロナウイルスの流行があばいた社会や人間の闇もまた劣らず根深いものがあります。その闇の中で損なわれるいのちもあります。秩序ある世(コスモス)と思い込んでいた世界は実はコスモスではなかったのです。
 そのような中で荒ぶる人々の誤解や暴力をわたしたちはどのように解きほぐしていけばよいのでしょうか。イエス・キリストは人心の荒廃した世にあって、決して超人的な力を発揮して諸問題を解決した英雄ではありませんでした。むしろ別の人々が浴びるはずの罵声を一身に浴びながら苦難の歩みを辿り、十字架で処刑され、そして復活した救い主でした。キリストは十字架に架けられてそのいのちを折りとられましたが、その傷口からはいのちの光があふれ出て「神の愛に満ちた世(コスモス)」を全身でお示しになりました。
 キリストに従うことは「世に憎まれることだ」とイエス・キリストは自ら語ります。だからこそわたしたちは敢えて「折れること」を恐れてはなりません。唯々諾々と不正に従うのではなく、イエス・キリストにあって「折れながら」、苦しむ人々との交わりを深めるのです。「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなっていく灯心を消すことはない」。『イザヤ書』42章に記されたメシアの働きに耳を傾ける時を、わたしたちは与えられています。大切な人々を思い起しながら一週間を歩み始めたいと願います。