2020年5月15日金曜日

2020年5月17日(日) メッセージ(自宅・在宅礼拝用:礼拝堂での礼拝は休止します。)

「勇気を出しなさい。イエスは勝利者だ!」
『ヨハネによる福音書』16章25~33節
メッセージ:稲山聖修牧師

「癒しのわざ」という言葉があります。「癒し」は新型コロナウィルス感染症の流行前から、観光地のPRで盛んに用いられておりましたし、リラクセーションのお店の軒先でも見慣れたものでありました。しかしながらこのところ、そうした消費としての「癒し」の文字は姿を消していきました。そうした身近な事柄を思い出しながら、あらためて新約聖書にある「癒し」を考えますと誰かの犠牲なしには成り立たないと分かります。
『ヨハネによる福音書』の場合、それがたとえ見えない人の目をひらくというわざとして、他の福音書ではキリストの名を広める大きなきっかけになるような出来事であったとしても、人々の間にさまざまな議論の種をまき、ときにはそれまでの人の交わりを分断してしまうところにまで及んでしまうことがあります。福音書の重い皮膚病に罹った人が癒されるというわざ一つとっても、病人の身体に触れることなしには起きることのない話として描かれます。そこまでその人に寄り添えるのかという問いかけを新型コロナウィルスの流行によってなおのこと受けているように思います。
それでは「神が癒す」「神癒」があるのか、と問われれば、わたしたちは口ごもる他に術はありません。なぜならばそこには、癒し以前の問題として、問いかける者が期待する通りの結果のありやなしや問われているようで、首を傾げずにはおれないからです。にも拘らず、わたしたちは「わたしたちの期待とは別に、神の癒しは必ずある」とお話をしたいのです。

19世紀半ばまだ黒船すら日本に訪れないころ、今では先進国と呼ばれる国々にも想像を絶する貧しさがありました。教育や医師といった者の診察を受けられるものは稀だという時代、民衆は今日でいうさまざまな迷信の中で苦しんでいました。同時に大学で神学の学びを深め、その時代としては知的エリートの社交的な場所でもあった教会に赴任しながら、苦しむ人々のもとに歩みを寄せた人がいました。クリーストフ・ブルームハルトという人がその人です。いつも祈りを忘れず、またそのゆえに変わり者として映ったブルームハルトは、住民535名というメットリンゲンという村の教会に赴任します。そこで彼は、ゴットリービンという娘を見出します。血筋ある兄弟姉妹には恵まれていたものの、両親は天に召され、家の中で何者かに取り憑かれたように人格が豹変する性分をもっていました。そのような様子は噂話として流れてくるだけでなく、実際に医師がその様子を見聞することで確かとなります。ついにブルームハルトは、村長と数名の信頼できる教会員とともに何の予告もせずゴットリービンの家を訪問します。その時にも説明できない現象が起きるのですが誰にも手を出す術が見つかりません。その中で必死に、かつて彼を変わり者呼ばわりした働きに着手いたします。住いをその家の近くに借り、ブルームハルトは数人の教会員とともに神にひたすら祈り続けたのであります。そのような祈りが続くほどに、ゴットリービンの身体は激しく痙攣し、それは彼女の家族にも及んでいきます。ついに姉のカタリーナは、ゴットリービンと同じように狂乱状態の中で叫び始めます。それでもブルームハルトは引下がりませんでした。その叫びの中でカタリーナは次第に「イエスは勝利者だ、イエスは勝利者だ」と口にしながら静かになりました。その祈りは人の内面には留まりません。苦しむ者という外部への働きかけを伴いました。イエスは勝利したのです。
しかしこのブルームハルトの働きはいつも好意的に語られず、むしろ激しい批判や非難を新聞から浴びることもありました。そのような中で新しい教会へと赴任することとなります。近代理性には荒唐無稽とも思える聖書に生きることで、ブルームハルトは迷信的なものと戦うことができたと指摘する声もあります。けれども「迷信的なもの」とは何なのかと問われれば、わたしたちも決して他人事だとは言えないのです。
未知のウイルスへの対策が政治的判断という根拠不明な基準で決定されてしまう場合もあります。終熄に向かっているという判断基準は仮定の域の超えません。そのような堪えられそうもない不安の中でキリストは呼びかけます。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。神の希望の炎を燃やしましょう。