2020年7月4日土曜日

2020年7月5日(日) 説教(自宅・在宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝もございます。)

「目をあげて畑を見なさい」
 『ヨハネによる福音書』4章31~38節
説教:稲山聖修牧師
説教動画は「こちら」をクリック、またはタップしてください。

 教会への往復に、わたしは泉北高速鉄道の泉ヶ丘駅を利用しています。スーパーだけでなく駅の改札口付近にはATMもあり、ドラッグストアもありコンビニもありで少なくとも不便ではない環境が整えられており、たまに少々割高ながら文房具や電池、暑い時には業務用のアイスボックスなどを眺めもいたします。ところで、先日少々ショッキングな品物を見つけました。朝食がパン食である方にはお馴染みのメーカーにアヲハタというブランドがあります。この会社からイチゴをそのまま凍らせた「季節限定フローズンストロベリー」という商品を見つけたのです。第一印象としては何だろうと怪訝に思うほかありませんでした。と申しますのもイチゴは実に柔らかく繊細なフルーツでもあり、そのままいただく以外にはジャム以外に加工する術を概ね持ちません。イチゴミルクやイチゴジュースといった商品に入っているのはイチゴ風味のフレーバーを用いていることとなります。すっきりしない思いを抱えておりましたら、なるほどと感じ入る報道に触れました。それは本来ならばイチゴ狩りが行えず、イチゴが食べごろになっては廃棄せずにはおれないという「何のために丹精を込めてイチゴを育ててきたのか」と自問自答する農家のため息でありました。申すまでもなく緊急事態宣言下の期間です。人が集まれば三密の環境ができてしまい、小学校や家族連れの予約がキャンセルになる。しかもイチゴはインターネットでの販売にはそのままの仕方では堪えられません。となれば保存のためには凍らせるしかないのですが、解凍すれば味が損なわれてしまうのでこれも商品になりません。ではそれならばという苦肉の策が先ほどのフローズンストロベリーにいたったのだろうと気づかされました。農家も会社も生き延びるのに必死な時代であります。
 今朝の聖書の箇所では「食事」と「刈り入れ」との言葉をイエス・キリストはセットで用いています。「その間に弟子たちが『ラビ、食事をどうぞ』と勧めると、イエスは、『わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある』と言われた。弟子達は、『だれかが食べ物を持ってきたのだろうか』と互いに言った。イエスは言われた。『わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、そのわざを成し遂げることである。あなたがたは『刈り入れまでまだ四ヶ月もある』と言っているではないか』」。「食事」と「刈り入れ」がセットであるということは、キリストは目の前にあるパンがどのような段取りを経て身体の養いになる道筋を見据えながら言葉を紡いでいるとも読取れます。そしてその「刈り入れ」の前提として畑があり土作りがあり、必要に応じて水路を切り拓き灌漑を行なうというところにまで思いは及んでいたことでありましょう。それら一連の作業では、一つひとつの働きが一期一会のタイミングを必要としています。「刈り入れまでまだ四ヶ月もある」というならば、その時に刈り入れなければ麦が発芽して粉にするには使い物にならなくなってしまいます。これは重大なことです。続けてイエス・キリストが語るのは「わたしは言っておく。目をあげて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、ともに喜ぶのである』」とあるように「永遠の命に至る実」であり、「種を蒔く人も刈る人もともに喜ぶ」とあります。「永遠の命に至る実」とは『創世記』で「エデンの園」にあった善悪の知識の木と並んでそびえていた木にある、本来は人が触れてはいけないはずの実なのですが、その実は決して唯一のものではなく、麦の実りのように畑を埋め尽くしており「その種を蒔く人も刈る人もともに喜ぶ」とあるのです。福音書に記されているように、洗礼者ヨハネが伝えたのが神の審判であるならば、イエス・キリスト自らが宣べ伝えているのは「永遠の命を分かち合う喜び」であります。しかもキリストは、本来はユダヤの民と一緒に天を仰ぐなどあり得なかったサマリア人の土地でこの言葉を語っているというところに注目したいところ。なぜなら恩讐を超えたその実りが「イエス・キリストを世に遣わした神の御心を行ない、そのわざをなしとげる」わざでもあるというからです。わたしたちもすでに、自分では労苦することなく授かった実りを授かりながら日々を過ごしています。日常の事々もそうであり、おそらくこれからやってくるであろう新型コロナウイルスの流行の第二波にあったとしても、わたしたちも、そして教会も刈り入れのための報酬を必ず備えられるに違いありません。先週の日曜日には大切な教会員の告別式をみなさまの祈りの中で執り行うことができました。100年というご生涯は順風満帆な事柄ばかりではなかったはずです。けれどもその中で過ごされた歳月だからこその歩みを見せつけられた思いがいたしました。苦しいとき、辛いとき、イエス・キリストの示す畑を見あげて、喜びにあふれたいと願います。