2020年6月25日木曜日

2020年6月28日(日) 説教(自宅・在宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝もございます。)

「永遠に渇くことのない水」
 『ヨハネによる福音書』4章6~10節 
説教:稲山聖修牧師

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新型コロナウィルス感染症の報せを聞かない時はない日々が続いています。その中で日常の必須アイテムとして意識するようになったのがマスク、そして石鹸による手洗いやうがいという習慣です。世界中でウイルス感染による死者が増大する中で、こまめに水がふんだんに使えるというところに関しては感謝しなくてはならないと感じています。地球規模の見地からすれば、これは実に稀な生活環境であるといえるでしょう。
ところで焼けるような暑さ、強い日射しの中でイエス・キリストは、一見救い主らしからぬ姿を見せておられます。いつしか洗礼者ヨハネよりも多くの弟子を連れてユダヤを去り、ガリラヤへ行く途中、サマリアを通らなければならなかったイエス・キリストは「旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた」というのです。わたしたちが救い主として仰ぐイエスとは、旅に疲れる救い主でもあります。その「疲れ」とはどのようなものであったのか。「サマリアの女性が水をくみに来た。イエスは『水を飲ませてください』と言われた」。弟子は食べ物を買うために町に行っていたとありますから、名の記されないサマリアの女性にイエスは飲み水を乞うたことになります。イエス・キリストの疲れは渇きとともにあったとなりますが、この場面で心を寄せたいところは、弟子は食べ物を買いに出かけている一方で、サマリアの女性とイエス・キリストの間には、本来であればこれも金銭のやりとりによって手に入れる可能性もあるところの飲み水を贈り、そして受けるという関係が生じつつあったという点であります。ただしイエス・キリストの唐突な申し出に女性は戸惑います。「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませて欲しいと頼むのですか」。サマリアの女性は井戸の傍らに座り込んでいる男性がユダヤ人であるという点以外には何も分かりません。「ユダヤ人はサマリア人とは交際しなかった」とありますが、そこにはユダヤの民から寄せられる蔑みの念がありました。その中でイエス・キリストの眼差しは、決してサマリア人の女性を見下ろすのではなくて、下から女性を仰ぎながら、一連の物語は展開するのです。これは福音書に描かれた女性に対するイエスの態度として注目するべきところです。
女性の驚きにイエスは応えて、あなたが神の賜物を知り水を求めたのが誰かを知っていれば、寧ろあなたの方からその人に頼み、その人はあなたに清らかな水を与えただろうと返事をします。女性は驚き「あなたはわたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか」。図らずも女性は、分断されているはずのユダヤ人とサマリア人共通の信仰の父であるヤコブの名を口にします。乾いた井戸の傍らで不倶戴天の間柄となっていたサマリア人の女性とユダヤ人でもあるイエス・キリストとの間に交わりが生まれます。「井戸の水を飲む者はまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」。女性が言うには「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」。水を巡る利権とは、小さな井戸ひとつだけでも、村単位・部族単位の争いに発展しかねない危うさを抱えています。単なる金銭のやりとりでは片付かない重大な危機をも秘めています。ペシャワール会の中村哲さんが殺害されたのも、現地にこの利権をめぐって快く思わない人々がいたからだとさえ言われているほどです。それほどまでに重大な事柄を引き合いに出しながら、女性とイエス・キリストとの対話の中で長い歴史の中で破壊されていたはずの交わりが、救い主の旅にくたびれた姿を皮切りにして新たにされ、潤いも豊かにされるだけでなく、わたしたちの交わりにもまた決して渇くことのない潤いが備えられるのです。
緊急事態宣言解除が行なわれ一見すると平穏な日常が還ってきたかのようにメディアでは報道されますが、わたしたちは時にその報道を聞く度知る度に渇きを覚えてまいります。どこかにごまかしがあるのではないのか、またはどこかに嘘があるのではないかと報せを聞く度に疑う態度が癖になってしまっているからです。もちろんイエス・キリストという真理に触れているわたしたちには、なおさらこの世を生きていく上では嘘も見えますし、だからこそ神の知恵を祈り求めるのでありますが、だからといってわたしたちはニヒルになるわけにはいきません。また世の中所詮そのようなものだろうと諦めるわけにもまいりません。道端に座り「水を飲ませてください」と呼び求めるイエス・キリストの声をわたしたちはすでに聞いてしまっているからです。家族に多くの不和を抱えていたサマリアの女性はその事実と向き合い、清らかな水をキリストとの関わりの中で授けられたのです。