2020年6月19日金曜日

2020年6月21日(日) 説教(自宅・在宅礼拝用です。当日、礼拝堂での礼拝もあります。)

「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」
『ヨハネによる福音書』3章22~30節
説教:稲山聖修牧師

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(現在、泉北ニュータウン教会ホームページでは、従来の文字媒体の説教要旨に加えて、教会のメッセージ動画を視聴出来ます。
体調のすぐれない方や聖日礼拝出席が困難な場合には、教会ホームページを用いての自宅礼拝・在宅礼拝が可能です。どうぞご利用ください。)

【説教要旨】 聖書と救い主との関係を端的に示す絵画として参照される作品に、画家グリューネヴァルトによる『イーゼンハイムの祭壇画』があります。わたしたちがよく知るこの祭壇画とは、それほど高さのない十字架に釘打たれた、鞭の棘も刺さり、茨の冠も痛々しく、皮膚も場所によっては茶色から緑色に変色しているという生々しいキリストの姿と、右手の人差し指だけが異様に長く描かれた洗礼者ヨハネ、そしてその足元で十字架を見あげる小羊が象徴的に描かれているというものです。もともとは16世紀のドイツ語圏にある修道院付属施療院に置かれていました。ところでこの作品は、今日藝術一般で考えられるより、はるかに具体的な目的とともに用いられていました。この絵の置かれた修道院には、麦にとりついた細菌がもたらす毒物による症状に苦しむ患者が収容されていました。十字架のキリストには患者自らの変わり果てた姿を重ね、復活への希望を託すという役目を担っていました。洗礼者ヨハネとイエス・キリストとの関わりはその絵画の中では実に率直かつ濃密に表現されています。
しかし本日の聖書の箇所では、そのような濃密な関わりだけでなく、洗礼者ヨハネの弟子の間に広がった動揺もまた記されています。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しをされたあの人が、洗礼を授けています」。『マルコによる福音書』9章には、ある弟子がイエスに「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」と告げる場面が描かれます。イエス・キリストはこの場面で「やめさせてはならない」と応えるのですが、今日の箇所ではイエス・キリスト自らが洗礼者ヨハネのわざに倣って清めの洗礼を授けているようです。ヨハネの弟子からすればこれは穏やかではありません。「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」と諫められても納得できたでしょうか。
洗礼者ヨハネの弟子とイエス・キリストの弟子を較べますと、ヨハネの弟子はヨハネの生き方や教えに惹かれて主体的にその道に入ったという態度がはっきりしています。それはキリストの弟子のように招きを受けて従った受動性よりは自ら進んでという思いが強いようでもあります。それだけに、洗礼者ヨハネの弟子のわだかまりには相当なものがあったと想像いたします。だからこそ、そのような弟子を諫めるヨハネの言葉「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」との言葉が記されなくてはならなかったのでしょう。「衰えねばならない」。考えてみればこの言葉にはこの弟子だけではなく、わたしたちにもまた、これまた戸惑いを覚える他ない異様な言葉として響くのです。「衰える」というありようは、わたしたちにはマイナスの言葉です。わたしたちの日常は「衰え」を拒絶し、拒否しようとする生活態度から成り立っていると申しても過言ではありません。しかしそうは申しても、時の経過とともに迫る様々な衰えからは決して自由になれません。どうすればよいのでしょうか。
そこで気づかされるのは、わたしたちは神の前に立つときに、主語を見直す必要があるという話なのです。「イエス・キリストを信じるわたしたちはどうするべきなのか」ではなく「イエス・キリストはわたしたちをどこへと招いているのか」と問うのです。そのように問うた時に、わたしたちは神さまとの関わりの中で、初めて自分の足元が見えてくるのではないでしょうか。たとえ昔の通りにはいかないとしても、その場がイエス・キリストの招いたところであれば、そこでわたしたちは精一杯神さまの招きに応えていけるのです。
現在全国の教会は感染症予防を契機として礼拝のありかたを見直しています。わたしたちも例に漏れません。これが自分のスケッチとは異なるとの呟きを生んでいるかもしれません。他方で奉仕を「当番」として担うあり方に疲れていた方には別の意味を持っているかもしれません。わたしたちは今、奉仕そのものの中に喜びを見出してこそ始めて、教会が愛に満ちた証しの場になるのだと主から言われているようです。その中でわたしたちは喜びに満ちてこう語らうことができるのです。「あの方は栄えなければならない」。「あの方」とは、ヨハネの目に映るキリストであり、キリストに隔てなく愛されている、身近で地球規模のわたしたちの隣人です。十字架で衰え息をひきとったイエス・キリストは、葬られて後に復活され、聖霊の働きによって神の愛のわざを伝える力を委ねられました。洗礼者ヨハネの言葉はイエス・キリストに託され、使徒そしてわたしたちに向けられています。神の愛の力により、キリストに招かれた場でいのちの光を見出し、喜びとともに歩む者となりましょう。