2024年2月8日木曜日

2024年 2月11日(日) 礼拝 説教

    ー降誕節第7主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「神の力はあなたを元気にする」 
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』 6 章 5~15 節
(新約聖書  174頁).

讃美= 191,Ⅱ-41,21-29.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 
【説教要旨】
 本日は「建国記念の日」「紀元節」「信教の自由を守る日」と様々な呼び方がされる一日となります。天皇制と向きあってきた教会では様々な集会が行なわれる日になりますが、当事者としての視点だけでなく、運動そのものを客観視する必要も、多様性を重んじる今日の観点からは求められます。激しい論争の陰で歴史に埋もれた人々の声はかすかではありますが、消えることなく今も響いています。

 かつてベストセラーとなった小説に山崎豊子の『不毛地帯』という作品がありました。文庫版冒頭の一冊は主人公のシベリア抑留をめぐるドラマでした。寒気団に覆われたシベリア地方一帯に草は殆ど生えません。針葉樹林にラーゲリがあります。重機のオイルも凍てつく中、人力で鶴嘴を振るい、鉄道敷設や炭鉱労働を強いられた人々の遺骨は返還されていません。意に反して天に召された人々は緑一面の野の中で大の字になり、さんさんと陽の光を浴び、鳥のさえずりと花の香りにつつまれる夢を幾度も見たに違いありません。
 本日わたしたちが注目するのは「イエスは、人々を『座らせなさい』と言われた。そこには草がたくさん生えていた」。との一節です。この一節がなくても物語全体の意味内容は概ね通じます。調べたところ「五千人の人々が満たされる物語」で「草」との言葉を刻むのは本日の福音書の他には『マタイによる福音書』だけでした。その点を踏まえますと「草」には人々が夢見た、また憧れた生活が示されているようです。

 福音書や『旧約聖書』の『詩編』で「草」とは特に「羊」または「羊飼い」との関わりの中で多く記されます。羊にとって一面に広がる緑。一年の中でも長くはない季節にある緑は新鮮な食料となり、流れる小川は羊たちの身も心も健やかにします。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることはない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる」とある通りです。ツンドラまではいかなくとも、砂塵舞う荒れ地を通り過ぎて、オアシスや牧草地に導かれた羊たちは、ともに喜びながら何の警戒もなく草を食みます。神の備え給う祝福と恵みの中で羊たちはいのちを存分に養い、元気になるのです。

 それだけではありません。『創世記』の「天地創造物語」で神は「地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう」とあります。「弱肉強食」の妄想に捕らわれ、食物連鎖のみを受け入れる者には意味不明に聞こえるでしょうが、この箇所で書き手は「神はもともとすべてのいのちが血を流さずに生きる世界」を創造されたとの願い、また、血の犠牲の上にいのちが成立つという世界を超越する場所を神はもともと備えていたとの理解に立っています。「殺生を遠ざける」とは仏教に限らず、時に醜悪な人間模様も隠さず描く『旧約聖書』にさえ記録されます。万物のルーツに関わる表現として「青草」が用いられるのです。

 『旧約聖書』との深い関わりを示す、緑あふれる場所に人の子イエスの声が響き、集まった人々はそこに腰を下ろします。純真無垢な思いから少年が献げた大麦のパン五つと二匹の魚は、辛うじて飢えを癒やせる焼き菓子の塊と二枚の干物に過ぎませんでした。しかし少年は持てるすべてをイエス・キリストに委ねました。自分が空腹になることを顧みずにキリストに献げたのです。キリストはその献げものを「何の役にも立たない」と蔑みあしらうのではなく、少年の眼差しの中で神に感謝の祈りを献げ、人々に分け与えた、とあります。少年が何も隠さずに献げたその態度もまたキリストに祝福され、青草の野に座る五千人の人々に広がっていきます。もはや人々は自らの食事を隠すこともなく、それまで見知らなかった人々と交わりを深め、お互いに気遣う間柄を育んでまいります。「人々が満腹したとき」とは「人々が満たされたとき」とも訳せる箇所です。たとえ病に罹患した人々や、貧困に苦しむ人々がそこにいたとしても、すぐ隣の人々から同じように食を授かったことでしょう。

 食に事欠く人々が敢えて罪を犯し、「人に関心を寄せられ、見守られている」と刑務所生活を喜んでいるとの報道に打ちのめされるわたしたちが元気を回復するのは、このような『聖書』の御言葉によるところ、またその御言葉に基づく交わりによります。それはどのような壁をも越えていきます。この交わりの前には、いかなる武装も必要ありません。人々が満ち足りるとき、そこには神の平和が訪れる、それは武器には拠らない平和であるとの中村哲医師の声を思い出します。神の力はお互いを大切にする愛です。その愛は過激派にさえ銃を降ろさせ、諍いを収めさせます。青草の原広がる、神の備え給う大地に、わたしたちは我知らずして立っていると感謝したいと願います。そして少しでも多くの人々に、その元気を分かち合いたいと祈り求めてまいりましょう。