2018年11月11日日曜日

2018年11月11日(日)幼児祝福式礼拝 説教「このおさなごを見なさい」


 018年11月11日:幼児祝福式礼拝
「このおさなごを見なさい」 ルカによる福音書3章7節~11節 説教:稲山聖修牧師

バプテスマのヨハネという人がいた。荒れ野に暮し、聖書を味わい、らくだの衣を身に纏い、革の帯を締め、いなごと野蜜を糧として生きていた異形の漢。ヨハネに課された役目は何か。それは、神の正義が実現するそのしるしとして、救い主の訪れを人々に告げるためであった。神の正義は何か。それは貧しい人々が不安から解き放たれ、悲しみに暮れる人々が涙を拭われ、あらゆる不公平・不平等がとりはらわれて、人々がみな分かち合いながら暮らすという道筋でもあった。人々はもはやその中では心の痛みを覚えることなく、ひたすら野の花のように素直に生き、他人と自分とを較べず、感謝とともに喜びに包まれるのである。神の国はその結晶だ。

けれども世には様々な暮しがある。豊かな生活を楽しむ人もいれば、貧しさの中で学ぶ機会も得られない人々もいる。誰からも見放されて悲しむあまり、流す涙も失ってしまった人々もいる。善意の言葉に耳を傾けなくなってしまった人もいる。バプテスマのヨハネは人々に呼びかける。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」。ヨハネは心砕かれた人々に、清めの洗礼を授けていく。群衆の中にその時代、人々を導いていた律法学者やエルサレムの神殿で力をほしいままにしたサドカイ派の人々の姿を見出した。律法学者やサドカイ派の人々は、ヨハネから清めの洗礼を受けたところで、その暮しのありようを変えるはずもない。だからこそヨハネの言葉はこだまする。「<我々の父はアブラハムだ>などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧はすでに木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」。名もない群衆は、この厳しい問いかけに戸惑いながらもどうにか応えることができる。「では、どうすればよいのですか」。群衆はなすすべを知らないからこそ、ヨハネに「どうすればよいのか」と問うことが赦されている。その言葉は単純明快で「下着を二枚もっている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」。分かりやすくいえば、財産を独り占めするなということである。徴税人に対しても、お金を人からだまし取るなという。兵士に対しても、略奪せず、定められた手当てに感謝せよと語る。このような人々は人として正気に立ち返り、分かち合いの交わりを育むチャンスを与えられている。この分かち合いにより、人々は貧しさから解放される以上に、自分は一人ではないのだとの平安と和解への道に導かれる。
けれども権力をもち、生活水準が高く、ことさら暮しを変えようとはしない人々は、ヨハネの言葉に耳を貸そうとはしない。けれどもだからといってヨハネは黙ろうともしない。ただ語り続ける。なぜならばその働きは救い主を指し示す一本の指としての働きだからである。
それでは、救い主イエス・キリストは、果たして誰を祝福したというのか。それは群衆の中にいた人々が連れてきたこどもたちである。この子はどのようなこどもたちであったというのか。孤児だったかもしれない。障がいという特性をもったこどもたちだったかもしれない。けれども、こどもたちを連れてきた人々を立ち退かせようとした弟子のさまを、主イエスは深い怒りとともにお叱りになり、語るには「こどもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の正義の実現はこの子たちのなのだ」。このとき、イエス・キリストの眼差しは弟子にも、大人にも向いてはいない。まさしくこどもたちを抱きあげて、その弱さを祝福された。主イエスはこどもたちに、親御さんの言うことをよく聞くようになりなさいと教えたのでもなく、学校に連れて行って勉強させようとしたのでもなく、行儀よくせよと仰せになったのでもない。名前さえ知らないこどもたちを抱きあげて祝福されたのである。どのようなこどもであっても、この祝福から漏れることはない。なぜなら主イエス・キリストは、神の子として世に生まれ、こどもたちの苦しみや子育ての葛藤を、わが身に担う歩みを辿ったからである。ヨハネはキリストを指し示す。キリストはおさなごを祝福し、人々に、神の国の結晶としてお示しになった。「あの方は栄え、わたしは衰えなくてはならない」とヨハネは語った。キリストの栄光は、今や栄えの中にあるこどもたちに向けられている。たとえわたしたちが衰えても、こどもたちへの祝福は永遠なのだ。