2018年12月9日日曜日

2018年12月9日(日) 説教「聖書の言葉の実現」 稲山聖修牧師

2018年12月9日
「聖書の言葉の実現」
ルカによる福音書4章16節~21節
説教:稲山聖修牧師


 故郷ナザレでの主イエス・キリストの物語は何ともほろ苦い。『ルカによる福音書』の場合では、主イエスが一人ナザレに身を寄せ、普段通り安息日に会堂に入り聖書を朗読しようとしてお立ちになる。手渡されたのは『イザヤ書』の巻物。『イザヤ書』は預言者イザヤのわざをめぐる物語だ。
 主イエスが目を留めた『イザヤ書』の箇所は、61章2~3節と言われる。今朝の箇所でイエス・キリストが目を留めた箇所と、テキスト本来の箇所との決定的な違いは、主イエスの言葉には「報復」という言葉がないところ。これは実に決定的だ。なぜなら、「書き記された神の言葉」としての聖書の言葉が実現した以上、同害復讐法に根ざすところの考え方から全ての民は解放されることになるからだ。当初人々は主イエスをほめ讃える。その声の中で主イエスの出自が述べられる。「この人はヨセフの子ではないか」。マルコやマタイの場合では「マリアの息子」・「母親はマリア」とされるが、『ルカによる福音書』の場合は手が加えられる。つまり家族としてはとりたてて課題のない家族の出身であるとして描かれる。


 ところで、語り手の話が自分に迫らなければ、人は距離を置いて誉め讃えることができる。 他方、聖書の言葉の実現が、人や世のあり方に変化をもたらしたり、社会に大きな変革を求める場合、自ずと雑多なわだかまりや敵意が出てくる。「カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれと言うに違いない」と始まる主イエスの言葉に、会堂に集う人々の表情は次第に険しくなる。そして「預言者は、自分の故郷では歓迎されない」との言葉に続く旧約聖書の預言者エリヤとエリシャの物語に基づくところの、救いは、律法に定められたイスラエルの民からではなく、イスラエルの民の外部、すなわち異邦人から及ぶものなのだとの話にいたると、人々は皆憤慨し、イエスを町の外に追い出して山の崖まで連れて行き、突き落とそうとしたとさえ、『ルカによる福音書』には記される。


 それにしても「聖書の言葉の実現」が、会堂に集まった人々に喜びや慰めではなくて、憤慨や怒りや殺意さえもたらしてしまうのは皮肉だ。なぜこんなことが起きたのか。それは聖書の言葉の実現としての御子の受肉、すなわちイエス・キリストの誕生と生涯が、多くの人々の目からは隠されているという意味で、秘義であったからではなかろうか。この秘義が露わにされ、啓示されるという出来事を指し示す使命が、クリスマスの物語には託されてはいなかったかと思うのである。


もっとも初期に記された福音書である『マルコによる福音書』にはクリスマス物語は記されない。おそらくそれはまだイエス・キリストの「人の子」としての働きが、まだ人々の心に深く、熱を帯びて刻まれていたからではなかったか。そして、後の世に記された福音書では、なぜクリスマスの物語が記されていった事情としては、教会のわざの中で、イエス・キリストの教えとわざが、教会の交わりの現実から隠されてしまうこともあったからだ、と受けとめることもできるだろう。成立が最もわたしたちの時代に近いとされる『ヨハネによる福音書』において、「聖書の言葉の実現」とは次のように記される。それは「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」。物語としての特性がそぎ落とされた、スリムな言葉だとも言えよう。けれどもこの言葉に示される出来事がどれだけ多くの、名も無き人々に喜びをもたらしたのかといえば、わたしたちはさらに深く、繰り返し聖書の言葉を味わう必要がある。聖書の言葉の実現を喜び、その実現への喜びを通して、世の様々な変化や激動の時代に向き合いたい。この待降節、救い主イエス・キリストの誕生を待ち望みながら。