2021年12月9日木曜日

2021年12月12日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝もございます。)

降誕前第2主日礼拝
ー待降節(アドベント)第3主日礼拝ー

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂

 

説教=「隠された神の愛が花咲くとき」
稲山聖修牧師

聖書=「マルコによる福音書」1章1~8節

讃美=讃美歌第二編112,96,545.

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 「神の子イエス・キリストの福音の初め(Αρκη του ευαγγελιου Ιησου Χριστου)。わたしたちは、この短い一文を聴き、深い地響きを感じずにはおれません。歴史的にいえば、そして人の目からすれば僅か30年の生涯を全うしたと呼ばれる男。かつて『イエスという男』また『わたしのイエス』という著作がベストセラーとなりました。
 しかし『イエスという男』また『わたしのイエス』というタイトルで主イエスの理解が留まるのだとするならば、わたしたちは毎年にわたりイエス・キリストの誕生をクリスマスとして祝う必要はありません。せいぜいエアーメールの記念切手や紙幣の肖像として採用されるに留まるだけになることでしょう。
 わたしたちが待降節におきましてクリスマスの出来事をなにゆえに待ち望むのかと申しあげれば、それは一重に人の子イエスが神の子であり救い主であるところのキリストだからであります。だからこそ、『マタイによる福音書』ではアブラハム以降の系図の果てに主イエスの誕生が描かれますが、その系図には多くの重荷を抱えた人々の姿が描かれてまいります。タマルはユダと結ばれるために遊女に身をやつさなくてはなりませんでしたし、ルツはイスラエルの民と幾度も干戈を交えたモアブ人の末裔でした。そしてダビデ王の伴侶はバト・シェバとの名があるのにも拘わらず、ウリヤの妻という表記によってダビデ王の不倫の犠牲者としてごまかされずに記録されます。そして『マタイによる福音書』の系図は主イエスの父ヨセフにまでいたりますが、福音書の理解ではマリアは聖霊によって身籠もったとの理解に立つため、ヨセフとイエスの間には血のつながりはないとの立場をはっきり示します。しかしそれでもヨセフは姦通罪の疑惑を受けるマリアを受け入れ、ヘロデ王の追っ手から逃れるために一家まるごと難民となってエジプトへと逃れ、そしてナザレへと住まいを定める中で姿を消していきます。その只中で、系図に記された人々もマリアもヨセフも、イエス・キリストに救いを仰ぎ見、その実現を体験した人々でした。アブラハムの裔、『旧約聖書』との関わり、イスラエルの民の時間軸を中心にして描かれます。
 そして『ルカによる福音書』では本日描かれる箇所でイエスに水による洗礼を授けるところの洗礼者ヨハネの誕生が並行して描かれます。驚くべきことにヨハネの母エリザベトはマリアの親戚だという設定です。そして聖霊の姿が天使ガブリエルの姿となります。ガブリエルの祝福に応じるマリアの賛歌は「マグニフィカト」と呼ばれ、「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の高い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める物を空腹のまま追い返されます」と時に圧制を敷く者には激しく響きます。この福音書の宛先は「テオフィロ閣下」という、ローマ帝国の身分の高い役人とされる人物ですが、救い主はどこに生まれたのか、というところで、ローマ皇帝の勅令のもと住民登録をしに故郷へと慌ただしく旅する夫婦、しかもその身にいのちを宿しながらも旅をせざるを得ないところにまで追い詰められた母親。嬰児は飼葉桶を寝床とします。さらにローマ帝国からは人の数に入れられなかった羊飼いに始まり、漁師や徴税人、病人や身分の低い女性たちとの豊かな交わりを描きます。ローマ帝国全土に響き渡る神の救いの出来事の震源地はベツレヘムの飼葉桶であったという物語となってまいります。全世界的な広がりをもつ救い主の誕生が描かれ、その働きはやがて使徒たちへと受け継がれます。
 このようなマルコ、マタイ、ルカによる福音書の記事を踏まえて、わたしたちは『ヨハネによる福音書』へと進むのです。すなわち「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た」。この「わたしたちの間に宿られた」という言葉は『旧約聖書』でアブラハムやモーセが用いる天幕が張られる様をイメージしています。天幕とはテント。テントは堀を巡らせ、高い壁を幾重にも設けた外敵への構えを見せる城のようなものではありません。遊牧民には暮らしの場であり、訪れる旅人をもてなし、粗末ながらも温かな汁物や粥、質素な寝床を提供するところです。かつて天幕で家族を授かり、暮らしに明け暮らしていたところのアブラハムの裔が、客向けに整えられた宿屋ではなくベツレヘムの飼葉桶に寝かされたのは決して偶然ではありませんでした。隠された神の愛が花咲き交わりが育まれるのは、そのような場所でした。今年のアドベントとクリスマスの街は、コロナ禍の小休止に伴って、予想に反して賑わい豊かになるかもしれません。しかし群衆は、喧噪では満たされない分断の悲しみや寂しさに溢れているようです。祝祭の度に起きる事件がその証しです。隠された神の愛の香りを身にまといつつ過ごしましょう。