2021年12月30日木曜日

2022年1月2日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝もございます。)

-降誕節第2主日礼拝-
時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂

説教=「神の御子の親離れ」
稲山聖修牧師

聖書=「ルカによる福音書」2章41~52節
(新約聖書104ページ)

讃美=121, 122, 544.

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 今年は泉北ニュータウン教会から牧師がお招きを受けて7年を全うする年。7年とは子育ての最中にある保護者の方々からすればまことに濃密な時です。生まれたばかりの赤ちゃんは誰もが生きるか死ぬかの瀬戸際。そんな嬰児がやがてしっかりと自己表現をするようになります。さて出迎えの必要な、ランドセルを背負ったお子さんが、7年経てば今度はぐっとしっかりしたように見えてまいります。自分の世界をもってきたかなと思う反面、その振る舞いに戸惑いもいたします。本日の聖書の箇所は、波乱に満ちたその誕生から12年を経た、イエス・キリストをめぐる物語。今朝の箇所は、その時代には半ば大人と見なされる年齢に達した息子、もう若くはなくなった母マリア、そして息子とは血が繋がらないながら、神の導きに従いを流してきた父ヨセフ、家族の肖像を描いた最後の物語です。
 家族は毎年ナザレから、過越祭の折にはエルサレムに上り、神殿での祈りを決して忘れませんでした。先祖が味わったエジプトでの奴隷解放の物語に耳を傾け、アブラハムの神に祈りを献げ、献げものを納めて過ごしてまいりました。祭りの期間が終わって帰路についたときにハプニングが起きます。それは息子がエルサレムに留まる一方で、父母はそれに気づかず一日分の道を行ってしまったのです。確かにイエスはわたしたちと一緒だったはずだとの騒ぎと、あらぬ事に巻き込まれてはいないかとの不安が両親の胸に湧いてまいります。過越祭への参加は家族単位に留まらず、一族総出で行うものでした。探し回る両親。しかし息子は見つからない。マリアとヨセフでさえ、息子の姿を見失う時がまさに訪れたのです。息子の居場所を尋ねながら、一族を先に家路へと急がせ、エルサレムへと戻ってきた両親。三日を経てその両親の眼に飛びこんできたのは、境内で居並ぶ学者たちの真ん中に座り、話に耳を傾けながら問いを発する息子イエスの姿です。まるで教員からの質疑に決して動じない学生のように、律法学者の問いに対して平然と受け答えするその姿は、これまでこどもだと思ってきた有様とは全く異なっていました。イエス・キリストは大工の子であって、聖職者の子でも学者の子でもないはずです。「聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた」。この三日間、少年イエスはどこで寝泊まりしていたのでしょうか。ひょっとしたらこの学者たちが宿を貸していたのかも知れません。空白の三日間を経て、マリアとヨセフは息子の姿の変貌に向き合わずにはおれませんでした。
 「なぜこんなことを。見なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」。思わず口を突いて出た、母マリアの言葉は、いわゆる聖母マリアのそれとは全く異なります。お集まりのみなさまも、関わっているところのお子さんが突然姿を消したとなれば、それはただ事では済まされなくなります。警察に捜索願を出すかもしれません。三日間行方不明ですからメディアでも大々的に報道されるかも知れません。いずれにしてもこれは家族には大事件。しかしイエスは飄々と答えます。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」。この返事の中でいう「父」とは、もはやヨセフその人から離れて、父なる神を示しています。確かに両親にはこの言葉の意味は分からなかったものの、母親の胸には深く残ってまいります。神の御子の親離れが始まったときであり、わたしたちもまたそのような体験をいずれは味わいます。親の思惑通りにはいかない子の振る舞いや生き方は、時に親たるその人に大きな戸惑いを引き起こします。しかし本日の箇所はこう結ぶのです。「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」。少年イエスを愛するのはもはや係累だけには留まりません。神と人、すなわちイエス・キリストは神とどのような立場の人からも愛を注がれ続けたこととなります。
 『マルコによる福音書』3章では、大勢の人が、イエスの周りに座る中、イエスの母と兄弟たちが外に立ち、人をやってイエスを呼ばせ「ご覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らせるや、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、人々を見回しながら「見なさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と答えるイエス・キリストの姿が描かれます。教会もまた、アブラハムの神への深い信頼をともにしながら、子離れ・親離れが成長の鍵となる時がまいります。歳月とはカレンダーで数える数ばかりを意味しません。まさに「この瞬間」という時が訪れます。2022年。泉北ニュータウン教会に神の愛の介入であるところの瞬間が訪れるときだと確信します。失敗を許さないというのではなく、失敗を互いに赦しあい、養いとなる経験へと高めていくありかたが求められます。新たな年に主の豊かな祝福を祈ります。