2022年1月6日木曜日

2022年1月9日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝もございます。)

-降誕節第3主日礼拝-
時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂



説教=「あなたはわたしの愛する子」
稲山聖修牧師

聖書=「マルコによる福音書」1章9~11節

讃美=291, 495(1,2,4), 544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」。これまでわたしたちはクリスマス物語を味わってまいりました。本日からはいよいよイエス・キリストの公の生涯、「公生涯」の物語が始まります。公生涯とは、少年イエスが成長し、まさしくイエス・キリストとして教えと生きざまを通して救い主の何たるかを世に現わし、神に備えられた、名もない人々と交わりを深め、その時代の権力者から憎まれ、苦難を受け、そして十字架と復活によって完成する歩みです。そしてその歩みは『新約聖書』に納められたどの福音書にもはっきり記されています。
 さて、イエスの公生涯の始まりにあって実に深い関係を見せるのが洗礼者ヨハネです。彼の行う洗礼は『新共同訳聖書』の編纂にあたり他のプロテスタント諸教派への配慮から「バプテスマ」ともルビが振られています。しかしわたしたちが気をつけたいのは、この箇所で洗礼を授かりイエスは自らキリスト教徒になった、という誤解に留まらず、洗礼者ヨハネはその時代のユダヤ教の世界で行われていた清めの洗礼を授けるに留まったという点です。「水による清めの洗礼」を理解するには『福音書』には直接描かれないながらも、洗礼者ヨハネ、そして人の子イエスにも深い影響を与えた「エッセネ派」にも一定の理解を示す必要があります。
歴史家ヨセフスによれば、エッセネ派はエルサレムの神殿を信仰の根拠とした立場にではなく、エルサレム市街の外部や荒れ野に信仰共同体を設けて『律法』の研鑽に励んでいました。そればかりでなく、洗礼者ヨハネのように水による「清め」を重んじ、富を軽蔑し、財産を共有制にしていたと申します。またエッセネ派は他のことは長老の命令なしには行わないが「人を助けること」と「憐れみを施すこと」だけは自分の裁量でできるだけでなく、乞い願われれば助けを必要とする者を助け、貧しい者に食べ物を渡すことは徹底して自主的に行ない、まだ素直で教えやすいうちに他人の子を引き取り、親族の者と見なして自らの習慣を伝えていくところにあります。他にも特徴は多々ありますが、本日は「人を助けること」「こどもを引き取ること」に関心を寄せていきます。なぜかと申しますと、その時代の神殿に暮らしていた、ヘロデ王とも面識のある人々全てが次から次へと、ギリシアの都市国家スパルタのように心身壮健なこどもばかりを授かっていたはずはないからです。スパルタでは生まれながらに軍隊の戦力に値しないこどもは城壁の外に捨てられていきました。この特徴を踏まえますと、エッセネ派がエルサレムの外部に暮らしていたという指摘は実に重要です。エルサレムの城壁の外に諸般の事情で置き去りにされたこどもたちを引き取っていたと考えられるからです。身体の特性や生まれの事情により捨て子として扱われた孤児たちがどのように生きていったのかを考えますと、エッセネ派またはこのエッセネ派と繋がりのある集団が救いの手を差し伸べる用意のあった可能性は大きいのです。まさしくエッセネ派に属する人々は、長老に教えられたという経験と並んで、この時代の都市文明の中でまことに軽く扱われるいのちを目の当たりにしたことでしょう。そのような小さないのちを粗末に扱っていく力こそが、自分たちの習慣以上に汚れており、だからこそ洗礼者ヨハネはヨルダン川の岸辺で清めの洗礼を授けていたのではないでしょうか。
それではなぜそこに人の子イエスが加わって自ら洗礼を授かったのかといえば、これからイエス・キリストが赴くところが、まさしく力を絶対視する権力という汚れに満ちたところであり、その罪深い人々の歪みを担うべく、自らもそのような歪んだ社会と深く関わりながら救い主としてのわざを振るい、神の愛のわざを証しし、自らの苦難そしていのちと引き換えにしながら、数のうちに入れられなかった人々、人々から唾を吐きかけられていた人々、排除されていた人々と交わりを深められ、病を癒やされたからです。実は洗礼者ヨハネから授かった「清めの洗礼」とは、唾を吐きかけられた人々が「自分は汚れている」という強いられた呪縛から解放し、神への讃美への道を整えるための備えであったとの見方もできます。だからこそこの箇所で神の声が響くのです。「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降ってくるのを、ご覧になった。すると『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』との声が、天から聞こえた」。霊とは神の愛の力です。人には決して囚われない風の力を意味します。イエス・キリストに触れた者は、世にある様々な呪縛、妬みや苛立ちからも解放され、自由なあり方を備えられます。「あなたはわたしの愛する子」。主なる神にある自由に触れた者の、権利や義務も超えた喜びがこの一節には溢れています。