2022年1月22日土曜日

2022年1月23日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝もございます。)

―降誕節第5主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂

 



説教=「ナザレのイエス、かまわないでくれ」
稲山聖修牧師

聖書=マルコによる福音書1章21~28節
(新約聖書62ページ)

讃美=308,294,544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 汚れた霊や悪霊に取りつかれるという話。字面だけ辿れば、荒唐無稽かつあり得ないと驚かれる物語ですが、マルコ・マタイ・ルカの三つの福音書では、一度ならず描かれる話です。とくに「ナザレのイエス、かまわないでくれ、我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」と激しく抵抗する汚れた霊や悪霊の場合、人里から隔離された場に閉じ込められている人とともにいる場面が際立つ一方で、それは時には安息日のユダヤ教の会堂、すなわちシナゴーグにも姿を現わしている様子を福音書の書き手は記しています。教会の礼拝堂に重なる場所です。
 ところで、福音書で描かれる「悪霊」とは一体何だろうかとわたしたちは問います。実のところこれは重要な問いかけです。そもそも「霊」という言葉が示すものが何かと問わずには、わたしたちは『聖書』を誤解したりその内容に躓く場合があります。本日の箇所では「汚れた霊」として記され、悪霊とは「ダイモニオン」、さらには「大勢」を意味する「レギオン」という名前まで現われます。しかし『聖書』でいう「霊」とは、本来は人の思惑には縛られない「風」から派生して、神の力や神自らとの関係を示すのだと知れば、「汚れた霊」とは神との歪んだ関わり、あるいは関わりそのものを絶ち、他者を排除しようとすることで自分自身をも受容できなくなる自縄自縛のあり方、キリストとは別のものにひれ伏そうとするありようを示しているようにも思われます。神との歪んだ関わりや他者を排除しようとする自己中心性や頑迷固陋さ。しかしながら不思議にも、時として『聖書』でいう「汚れた霊」や「悪霊」とほぼ同じ内容の言葉をわたしたちは美徳として用いるところがあります。それはとくに受験期や人生の節目に多用される言葉にも重なります。それは意外にも「頑張る」という言葉。宗教思想家のひろさちや氏は「頑張る」の語源は「我を張る」、自分を押し通す、競争し、自分の利益を優先させることが「頑張る」ことだと定義しました。(『東洋経済オンライン』2010年12月22日版)。頑張りがなかなか成果を得られない場合、わたしたちはその責任を人に求めます。あるいは果てはこんなに頑張っているのにと他人のあり方が好き勝手に思えて腹立たしくなり、事情もわきまえずに他人のあり方を縛ろうといたします。謙ることもできないまま、これまで通りのレールに人を押さえつけて乗せていきたいと願う。これがわたしたちの人生を大きく歪ませていきます。そしてそれはユダヤ教のシナゴーグ、会堂でさえ例外ではなかったのです。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」。シナゴーグで叫ぶ汚れた霊に取り憑かれた男をイエス・キリストはお叱りになります。すると汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行ったとあります。汚れた霊に取り憑かれた男は、それまでの態度をキリストによって一度ご破算にされ、砕かれます。注目すべきは、イエス・キリストは罵声を浴びせた男の存在を決して否定しないところです。むしろ神との歪んだ関わりがその人から遠ざかったと申せましょう。
 『創世記』の「天地創造物語」で、アダムは「目が開け、神のように善悪を知る」との誘惑のままに神との約束を破り、取って食べるなと言われた実を口にしてしまいました。「神のように」という言葉は「神とは似て非なる」、すなわち神とは異なるかりそめの善悪の基準に依り頼む態度となり、それはその後の神との対話の中で、ともに暮らすようにと備えられたアダムの最高のパートナーである女性に責任を転嫁する悲しみをもたらします。ともにあゆむあり方が引き裂かれるのです。この『旧約聖書』の悲しみと痛みが、福音書では「汚れた霊」「悪霊」という言葉で反復されます。「わたしは頑張ってきたのだ」という独り言をイエス・キリストはどのように受けとめられるのでしょうか。
 それでは「頑張り」ではないならば、果たしてイエス・キリストはわたしたちに何を求めておられるというのでしょうか。それはキリストに従い、キリストに誠実であり続けるという態度です。神の愛がもたらす喜びであり、そのためにはこれまでの生き方を神にお委ねし、新たに受けとめ直すあり方です。わたしたちは「頑張れ」と言われる代わりに、キリストとともにあゆむ愛と勇気をもとう!と絶えず祈られています。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(『マタイによる福音書』11章28-30節)。イエス・キリストは休ませてあげようと語ります。喜びと感謝の応答を求めています。世にあって頑張りを求められる中、その態度よりもさらに尊いあり方があると聖書に確かめていきましょう。