2021年10月27日水曜日

2021年10月31日(日) 説教(自宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝もございます。)

 降誕節前第8主日礼拝

-宗教改革記念日礼拝-

時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
 

説教:「わたしたちを養い育む神の愛」
稲山聖修牧師

聖書:「マルコによる福音書」7章14~23節
(新共同訳聖書 新約74ページ)

讃美:85(1,2), 267(1,4), 543.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 新型感染症と一口に申しましても、常に新しい病はそのように呼ばれてまいりました。その中でユダヤの民を感染症から守った倣いがあります。中には今日わたしたちには常識でもある習慣も含みますが、それは「念入りに手を洗ってから食事をする」「市場から帰ってきたときには、身を清めてから食事をする」「杯、鉢、銅の器や寝台を洗う」などによって、その時代の感染症から身を守ってきたこととなります。『旧約聖書』『レビ記』20章7節「自らを清く保ち、聖なる者となりなさい。わたしはあなたたちの神、主だからである」という誡め、そしてそれに準ずる誡めを徹底して守ることで、中世ヨーロッパでは人口を激減させたペストを始めとした流行病を遠ざけることが可能となったのでした。その対応自体は極めて先進的であり、誰からも指を差されるような暮らしではありません。
 しかしこの誡めに課題があるとすれば、それは科学的な根拠に基づき、異邦の民にもぜひ伝えられるべき教えとして勧められたのではなくて、汚れと清めとが神の前に立つその人の本質を決定するものとして理解された点です。同じ倣いに立たない者は単に不衛生だというのではなく、人間として心底から汚れている者だと見なされ、交わりから排除されていくのが当たり前でした。また異邦人の汚れや病人の汚れも、このような倣いを守らないところにあるとされました。つまり病とは宗教上の因果応報の論理で理解されてまいります。本来ならば人間本来の健康を保ち、神の愛の交わりを広めていくはずの『律法』が「道具」と化したときに、その本来果たす目的を失い、分断を正当化する剣となるのは何とも歯がゆいところです。7章6節でイエス・キリストが語るには「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。』あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている」。イエス・キリストは人間の言い伝えよりも、わたしたちがいうところの教会の伝統よりも「神の掟」すなわち『聖書』を上位に置いた上で、群衆を自ら呼び寄せて語ります。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」。これは科学的な根拠に基づいた衛生管理について語っているのではありません。もっと本質的でもっと人の心根に巣喰う課題を指摘しています。薬用石けんで洗っても洗っても決して落ちることのない問題、アルコール消毒をしても決して殺菌できない問題について語っています。弟子たちにはさらに語ります。「すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる」。そして「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い行いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである」。以上の事柄は『律法』の戒めに反する人の思いやわざだけではなく、罪という悲しみに満ちた言葉としてでもなく、「悪」さらには「邪悪さ」だと語っています。そのようなものは深くわたしたちから出て来るもので、自らだけでなく人をも傷つけるものです。今お話をお聞きのみなさまもまた、このような中で深く傷つけられた覚えがあるのではないでしょうか。しかしそれは人間から出てきたものであるがゆえに、全て限界があり長続きせず、時の流れの中で沈没し朽ち果てていくものです。ではそれらの人間から出た悪はわたしたちには何になるというのでしょうか。
 それらの邪悪なものでさえ、すべて悲しみ涙を流す人には「すべて外から人に入るもの」となり、清められて養いとなるというように、イエス・キリストは語っているように思います。どれほど辛い思い出でさえ、同じ思いを人にさせたくないとわたしたちが決意したそのときに、あるいは苦しむ人のために人知れず道備えをし、見守るその中で、キリストに示された神の愛により、わたしたちを深く養うにいたるのです。確かに時の流れは必要です。相応しい支援もまた必要でしょう。けれどもこれらの見守りや支えが、教会に連なる交わりの中で醸されるときに、先ほどイエス・キリストの教えの中で触れた「邪悪なるもの」、本質的な意味での「死に至る病」を癒し、わたしたちを養っていくとは言えないでしょうか。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つひとつの言葉で生きる」。今日は宗教改革記念の日でもあります。あらためてわたしたちの養いがどこにあるのか、『聖書』に祈り求めましょう。