-聖霊降臨節第22主日礼拝-
信徒伝道週間時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
【説教要旨】
新型感染症が社会に及ぼした影響は計り知れませんが、その中でも特筆すべきはわたしたちの働き方、就労形態や動機づけを変容させてしまったところにあります。従来では勤務先で残業をすること自体に特別手当が出て、暮らしの支えにもなりましたが、現代ではむしろ残業は当番制にはなってはいるものの、なるべくしないほうが望ましいと見なされます。すでに感染症の流行以前に「働き方改革」として知られる前提があったのですが、コロナ禍によってこの変化にさらに拍車がかかります。すなわちリモートワークという働き方です。組織そのものには最小限必要な人員は配置されます。しかしそれ以外はコンピューターを通して行われる業務形態です。会議があっても、よほど外部に漏洩してはいけない秘密事項の場合を除いて、義業セミナーや打ち合わせは出張しなくてもモニター越しに行われ、会社としても出張費を節約できます。祈祷会でも『教団新報』やその他の情報を見ますと、礼拝だけでなく祈祷会や聖書研究会をズームというソフトを用いて行う教会も増えてきました。事の是非はさておき、そのような仕方でコロナ禍の集会を継続しているという話も耳にいたします。
そのように就労形態や就労モチベーションが流動化してきた現代におきまして、本日の10人のおとめの譬え話には考えさせられます。はす読みいたしますと眼差しは小見出しの影響受けて女性の立ち振る舞いに向きがちです。10人のうちの5人は愚かで5人は賢かったというわけです。婚宴を控えて訪れる花婿を迎えるためです。花婿の到着が遅れて10人はみな眠ってしまったところ、あろうことか真夜中に花婿は到着し、おとめたちは起きて油を整えようとします。油を充分にもっていた、賢いと形容されるおとめたちは婚宴の席に招かれ、愚かとされたおとめたちは油を分けてもらえず「わたしはお前たちを知らない」とまで言われる始末です。そして「だから目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」と譬え話は終わるのですが、この箇所は実にミステリアスです。というのも、眠り込んでしまったのは10人のおとめのうち愚かな5人だけでなく、賢いとされる5人も等しく眠り込んでいるからです。そして問題の諸元は、油を用意していたかどうかではなくて、花婿の到着が遅れた、分かりやすくいえば花婿の遅刻に問題があるのです。本来ならば花婿が被るべき痛みというものを、5人のおとめたちがとばっちりとして食らってしまっているようにも思えます。愚かなおとめではなく、賢いおとめのようになりましょうというメッセージになりがちですが、果たしてそれは正しかったかと問い返さずにはおれません。
注意したいのは事前の言いつけに従っていたのは「愚かなおとめ」たちの方だったということ。当時油は貴重ですから必要以上の分量を持ち歩くのは本来なら御法度で非常識。その意味でいえば「愚かなおとめ」のほうが命じた通りに役目を果たすという点で模範的であり、「愚か」か「賢い」かという評価はあくまで結果論に過ぎません。むしろ「賢い」とされたおとめたちは、真夜中のハプニングが起きる前には好奇の目に晒されたのではないでしょうか。「そこまでしなくてもよい」と主人に言われたかも知れません。けれども少しばかりの油を余分に手元に置いていました。何かあったときのためにという備えは周囲には理解されませんでしたが、この油は彼女たちには何かあったときに自由を保障するための「宝物」であったのです。油を余分に手元においていたおとめたちは誰に言われるまでもなく神さまとの関わりの中で授かった自らのセンスや判断を大事にしました。それが後に柔軟性となり花開いたと言えます。
それでは主人の言いつけを頑なに守ったものの、花婿が遅れてくるというハプニングに対応しきれなかったおとめたちは婚礼の席から閉め出された後どのような扱いを受けたというのでしょうか。もちろんこの箇所には神の備え給う終末の時が人間の願い通りには訪れなかったという終末遅延の問題が隠されていると考えられますが、それ以上にわたしたちは婚宴の席から閉め出された女性に、あのゲツセマネの園でキリストが苦しみもだえながら祈りを献げていたときに眠り込んでしまったペトロとゼベダイの子の二人の弟子を重ねます。今日の聖書の箇所で肝心なのは「明かりをつけていなさい」「油を備えておきなさい」ではなく「目を覚ましていなさい」との言葉です。もし弟子に神の力が及ぶならば、愚かなおとめに神の力が及ばないと誰が断言できるでしょうか。「わたしは愚かなおとめだから」と自分を勝手に決めつけず、主イエスにすべてを委ねてまいりましょう。閉ざされた扉を主は開けてくださります。