神学校日礼拝
時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
【説教要旨】
新型感染症が病として人命に脅威をもたらしているだけでなく、観光業・外食産業だけでなく第一次産業、そして海外から部品を輸入する第三次産業、すなわち製造業にすら深刻な影響を及ぼしていることは説教壇で分かち合うまでもありません。あらゆる面で景気が停滞する中で、とりわけWebの世界ではホームページを開きますと、様々なコマーシャルが乱舞いたします。その中でも「人工知能が株価を予想してあなたに変わって投資してくれる」という冷静に考えれば虫のよすぎる、しかし経済的に追い詰められ、金融関係に何の知識もないごく普通の人々であれば、思わず飛びついていくであろうその作りには巧妙なところがあります。逆に言えばわたしたちの暮らしは、たとえコンピューターが駆使できるようになったとしても決して楽観視できないところにあるといえます。
本日の『マタイによる福音書』の箇所はローマ帝国の支配に伴って今日に劣らず社会に大変化が生じていた背景の中、凝り固まった一部のファリサイ派・古代ユダヤ教の律法学者が、行政での実権をもっているヘロデ派の者ともに人の子イエスに問い尋ねるという場面です。「ところで、どう思いでしょうか。お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか。適っていないでしょうか」。主イエスを陥れようとの悪意に満ちたこの質問。内容は二者択一の仕組み。「皇帝に税金を納めるのは律法に適っているか」。ここでいう『律法』とはまさしくその時代の『聖書』の一部を示します。『律法』に適うといえば、意地の悪い問いを発する悪意に満ちた人々のあり方を認めることになり、律法に適っていないといえば、ローマ帝国への謀反の心と帝国の庇護を受けているその時代のユダヤ教の否定へとつながる、すなわち逃げ場のない質問だと思ったからこそ、ヘロデ党の人々をも同伴させたのでしょう。
イエス・キリストはこの質問に次のように答えます。「税金に納めるお金を見せなさい」。実はこの場面で主イエスを陥れようと企んだ人々が持っていたお金は「デナリオン銀貨」であって、エルサレムの神殿に献げる金銭ではありせんでした。デナリオン銀貨にはローマ皇帝とその名前が刻まれているのですが、これは偶像であるとしてエルサレムの神殿に納める場合には一度同額の納税用の貨幣に両替しなくてはならないのです。謀には手抜かりがありました。主イエスはこの事実を踏まえて「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返せ」と切り返します。このように人の子イエスはその時代のお金の問題にも実に聡明であったのですが、さらに聖書の言葉に聴いてまいりますと当時の人々の苦しみが聞こえるようです。すなわちイエス・キリストを問い詰めようとした人々のとりだした通貨はデナリオン銀貨でした。つまりユダヤの民独自の通貨はもはや力を失い、その地域の経済はローマ帝国の「胸三寸」やその行く末と一蓮托生だと言うほかなかった、ということです。これは各々の地域がそれぞれの持ち味を発揮するというのではなく、ローマ帝国の経済が倒れれば世界も崩壊することを意味しています。その中で「神のものは神に返せ」というわざは何を示しているというのでしょうか。聖書に聴き従うならば次のように言えるのではないでしょうか。
どのような世にあってもお金では何ともできないものがあります。それはわたしたちのいのちであり身体です。暮らしの中にもお金ではどうにもならないものがあります。大切な人との関わりや時間です。人生そのものです。わたちたちの暮らしを囲む自然、いきもののいのち、水や空気。そのような被造物のわざを讃える歌や藝術、そして文化。いのちの基盤となるものはお金では代えられません。『ルカによる福音書』21章には居並ぶ金持ちたちが献金する中で、貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を献げる場面が描かれます。1レプトンは1デナリオンの128分の1。その時代の額としては金持ちには及ぶべくもないのですが、イエス・キリストはこの女性をして「この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである」と表しており、そのように訳されています。もっといえば、生活全てを献げたのだとも言えます。すなわち私心なく暮らし全てを神の愛に委ね、神の公共性に招かれ応えたこととなります。その先には神の愛による、誰もこの女性を蔑まない交わりが備えられています。大切ないのちがお金の査定を受ける世の中は歪んでいます。まさに罪深い。けれども神に献げる生き方は、すべてを神の恵みとして授かり続ける歩みだとも言えるのです。わたしたちのいのちも神の公共性とともにあります。「人は独りでいるのはよくない」との言葉は「神ともにいます」の真実を逆説的に示します。神からの賜物としていのちを尊ぶことは、他人の人生をともに喜ぶことです。